[Cinema] シン・エヴァンゲリオン劇場版:書き換えられたセカイの歴史

ニアサー(ド・インパクト)の責任を抱え込みきれず、鬱に逃げ込んで沈黙するシンジ。サバイバーとして、他人に弱みを見せないことを信条としてきたアスカにはそれが許せない。彼女らしくない行為(シンジとレイのために3号機のテストパイロットを志願したこと)で自分が人ではない体になったこと、その自分がいまだにシンジに振り回されていることに、何よりも彼女自身が苛立っている(体の変化で暑いのか、彼女は裸に近い格好で過ごしている ※1)。アスカが黒い綾波のことを「初期ロット」と突き放しているのも、そうやって呼ぶことで、ともすればレイに殴りかかりたい衝動をなんとか押さえつけているかのようだ。そして、無感情だった綾波が、村での「ぽかぽか」体験で学び得た、そのぎこちない感情で接することが、感情を押し殺していたシンジの復帰に手を貸す。鬱から抜け出すには時間がかかるのだ。心の弱さや精神的な症状もまた自分の一部なのだと、当人が自ら受け入れるようになるまで、心のカーテンは開かない。心配するDr.トウジよりも、見守りに徹するケンスケの方がはるかに医者っぽい距離感を保っているのも面白い。これらの鬱をめぐっての描写は、庵野夫妻の体験が活かされていて好感が持てた(※2)。村の人々の生活も生活感があって、師匠である宮崎駿に連れられて行った東北で被災者と接した体験が反映されているように感じられた(※3)。映画の構成上でミッドポイントとなるシンジのリハビリの場面で、「ニアサーも悪いことばかりじゃない」というケンスケの説明が入ることも合わせて考えると、本作前半のストーリーは2011年の大震災によって蒔かれた種から成長したものだと言えそうだ。

 

単独作品として本作を見ると、村で風呂に浸かって文字通り「ぽかぽか」する黒い綾波、司令官カヲル/加持ペアとアスカ/マリペアのツーショット、オールド・ファンに向けた旧作の映像インサート等々、全方向に向けたサービスショットが満載で、トップクリエイターが集結しているので映像面も見事だ。しかし、エヴァという物語は「メカ(兵器)と美少女」で満たされた水槽の中でシンジ君がもがき苦しむ成長物語であったはずだ。それがこれまで何十年も引きずってグダグダしてきたのは(師の宮崎駿に対する庵野がそうであるように)「父親殺し」を完遂できずにきたからに他ならない。従って、シリーズの完結編となる本作では、その「父親殺し」をいかに美しく決めるかが最も重要な評価ポイントになる。だが、庵野はまた逃げたと私は思った。ミサトを親としてクローズアップした直後に、そのミサトに「親は肩を叩くか、殺すかしかない」と語らせてしまうあたりは、いつもの庵野だ。そこはシンジが自ら父親との決別を切り出してシンジの搭乗を拒むミサトを説得する、それがシンジの成長を描くということではないのか?(シンジをエヴァに乗せたことで、父親の葛城博士に続いて世界を破滅の瀬戸際に追い込んでしまった責任を14年間のあいだ引き受けてきたミサトが、シンジの再搭乗をあっさり許してしまうのも脚本的に弱すぎる。ネルフで母親代わりだったミサトがこれではただの親馬鹿になってしまう。シンジが初号機を奪って決意を見せるぐらいの展開がほしかった)。そして、肝心のゲンドウとの対決シーンだが、これは悪ノリがすぎて、序盤からスタッフが地道に積み上げてきたものを台無しにしているように感じた。創造のための破壊とカオスは違うものだ。分身であるシンジを通して、歴史修正主義者の庵野は、ここで水を得た魚のごとく、好きなようにセカイを書き換えていく。シンジのせいでひどい目にあったアスカは、旧劇版とは異なり、綾波タイプと同様シンジに対して好意を持つようプログラムされていたクローン(式波タイプ)に改変されているので、海辺でシンジから欲しかった言葉をかけられると態度が軟化する(シンジの言葉は、DV男が殴った後に女に投げかける優しい嘘と大差ない)。白い綾波は、初号機のなかで髪がぼさぼさに伸びたまま、アスカのように人形を抱きしめて立ちすくむ。どの綾波も自分の言いなりになることを学んだシンジは、しかし、もう綾波に興味はない。長い間、父親の相手をしてくれた礼にちょっと助けてみた、そんな扱い方に見えた。そして、人外化した父親と(夢見てきた)チャンバラごっこをした挙げ句、「ユイはお前の中にいたのか」と、ほとんどボケに近い後悔の言葉を父親に言わせるシンジ。S-DATを返して昔を思い出させるぐらいで、あのゲンドウ君の想いは解消しないと思うけど? こうして、庵野の分身であるシンジが総取りする形で、セカイは急速に閉じていく。気がつけば、シンジはマリとシン生活を始めてさえいる(※4)。そして、唐突な実写シーンへの転換だ。監督の次回作であるシン・ウルトラマンが出てきそうな、あいかわらずの私小説っぷりで、もちろん何の説明もない。昔のエヴァ作品と同じで、「説明すべき時に説明をしない大人にはなるな。それは逃げるのと同じだ」という感想が心をよぎる。難しかろうと、恥ずかしかろうと、説明を試みること。そこから理解のキャッチボールが始まる。まあ、庵野が言いたかったことは、宇多田ヒカルの歌詞が補完してくれたからいいけれど(※5)。こうして映画は終わりを迎えたが、果たしてキャラクター達はこの幕引きに納得しているのだろうか?(※6)

 

※1:「破」のニアサーのあと、ケンスケの山小屋に身を寄せていたアスカが服など気にしない男女関係になっているようにも見えるが、ケンスケはアスカのことを「式波」と呼んでクローンとして扱っていることから、そういった関係ではなさそうだ(どちらかというと、ケンスケとは淡々とした仕事仲間という感じだろう)。もちろん、裸を見てもピクリともしないシンジに対して、反応するようになるまでこの格好でいてやろうじゃないの、というアスカの開き直りとして捉えてみるのも面白い。また、アスカのDSSチョーカーを見たシンジが嘔吐したのを見て、首にスカーフを巻いてシンジに見せないように気配りしているところにも、突き放しているようでいてシンジを気遣っているアスカの本音が透けて見える

 

※2:庵野秀明とカラー10年の歩みを描いた「おおきなカブ(株)」

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※3:宮崎駿庵野秀明:被災地訪問し一足早くジブリ新作試写

https://mantan-web.jp/article/20110704dog00m200061000c.html

 

※4:本作ではマリのサポートはいよいよ欠かせないものになっている。しかもあのエンディングにするなら、最低限マリの出自やシンジに執着している理由ぐらいは、挿絵の描写程度に留めずに「破」あたりでキチンと描いておくべきだった。ファンの想像に委ねていると言えば聞こえはいいが、これはTV版の時から変わらない庵野の不親切さだ(育児放棄しているゲンドウと何ら変わらない)。しかし、マリは裏切者(イスカリオテ)であると同時に、唯(ユイ)一神の子(シンジ)の伴侶となるマグダラのマリアでもある……というのはまたベタな設定だ。そもそも、ユイ=シンジ=レイの三位一体ってところからだけど。あと、今さらだけどエヴァが消滅するたびに十字架になるの、記号を借りてるだけとはいえ、本当に勘弁してほしかった。まあ、今回はエッフェル塔までぶっ壊しちまうぐらいだからなあ……。なお、「ワンコ君に必要なのは、彼女じゃなくて母親」という台詞から、マリ=聖母マリアと捉えている人もいるようだが、漫画版ラストのユイに対するマリの態度から察するに、マリは母親の代わりではなく、セカイの終末を見届ける同伴者という位置づけだと思う。親代わりはミサトがいたし、再構築されたセカイの28歳のシンジに必要なのは母親でなく彼女だ

※5:宇多田ヒカル「One Last Kiss」

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※6:宇部新川駅にキャラクターが登場しているので、エヴァなんか見てないで現実に戻れ!というメッセージではなく、エヴァのない新しいセカイで(14年間の時を取り戻して28歳の体になった)シンジと、歳を取らない仲間たちによる後日談……といった情景なのだろう。楽しそうに話すレイやカヲル。アスカはあいかわらずベンチでひとりぼっちだ(このセカイに、ケンスケは存在しているのだろうか)

 

関連リンク

『シン・エヴァ劇場版』の高クオリティを実現した、庵野秀明の巧みな経営戦略

 

 

[Cinema] 風立ちぬ宮崎駿の「夢幻」。
★★★★★

寝食を忘れて戦闘機の設計に没頭する二郎。天空を美しく飛翔する夢。結核で命を削られていく菜穂子。床に伏せ、大地に横たわる現実。天空へ羽ばたこうとする者。大地から飛び立つことの出来ぬ者。試作機(七試艦戦)が失敗し、二郎は軽井沢を訪れる。すべてを忘れさせる「魔の山」で、それでも忘れ得ぬ二郎の夢を乗せた紙飛行機は風に乗って「階上」にいた菜穂子のもとへと辿り着く。交錯する二郎の夢と菜穂子の想い。菜穂子はその紙飛行機を「階下」へと投げ返すが、紙飛行機は二郎のもとには帰らず、ドイツ人の「手」のなかで潰れてしまう。

飛行機の設計とは、混沌の中から秩序を構築していく地道な作業に他ならない。生みの苦しみ、その暗闇の中を「手探り」で彷徨っていた二郎にとって、蒲団の中から差し出された菜穂子のか細い「手」がどれほど二郎を前に進ませる力となったことだろう。皇国の浮沈をかけた戦闘機を作るため、かたや死せる病と闘うため、各々が果たすべき責務を負いながら、残された僅かな時間を凛と生きようとした二人の男と女。ガル翼の美しい飛行機(九試単戦)が風に乗ってはじめて大空を舞った時、二郎をこの栄光へと導くために菜穂子がサナトリウムから抜け出して最後の力を与えてくれていたことを、二郎は悟る。


人生や人間社会は、二郎の良きライバル・本庄が口癖にしていたように「矛盾」に満ちている。そうした矛盾、すなわち混沌のなかから美しいものを作り出すためには、美しいものや大事なものも犠牲にせざるを得ないという現実。「子供は分からなくても分からないものに出会うことが必要で、そのうちにわかるようになる」(宮崎駿)。菜穂子が投げ返した紙飛行機と同じように、二郎の送り出した零戦もまた帰っては来なかった。最後の夢のなかで、飛び去った零戦が、失われた命たちが、大きな「ひこうき雲」を作っていく。国は敗れ、武装解除された日本では新たに飛行機を作ることは禁じられた。それでも生かされた者は生きねばならない。戦争は去り、菜穂子との想い出とともに、全ては夢幻の中へと溶けていく。持てるすべての力を出し切ったかのような、美しく、切ないクロージング。これを泣かずして、何に泣けというのか。

監督・原作・脚本 宮崎駿, 126mins, 2013。

リンカーン:スピルバーグの憂鬱

★★☆☆☆

ダニエル・デイ・ルイスの迫真の演技に不満のある人は少なかろう。レンブラントの絵画を思わせるカミンスキーの光と影の使い方にも惚れ惚れとさせられる。多彩な顔ぶれの配役も適材適所、実に申し分ない。だが、物語はあまりにも小さい。それはこの映画が南部の奴隷利権をめぐって生じた南北戦争(大農場の綿花栽培のために奴隷制度が必要な南部11州と、工業化と保護貿易を推進したい北部23州による内戦)の全貌を俯瞰するものではなく、奴隷解放のための下院における政治的な駆け引きのみを描いているためだ。アクションやサスペンスによって観客を魅了してきたスピルバーグだが、本作ではその持ち味を抑え、議会政治の言葉の応酬にレンズの焦点を合わせている。これは監督の「成熟」なのだろうか? 本作は当初、南北戦争全体を描く予定だったが、脚本の第一稿では4ヵ月間の話となり、最終的に1ヵ月間の話に短縮されたという。では、スピルバーグは何故このように撮ったのか? 若き日のリンカーンが見たであろう、重い鎖に繋がれた奴隷の長い列の場面からなぜ映画を始めなかったのか。米国史上最多の犠牲者を出したこの内戦で北軍が行った焦土作戦や戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いをなぜ物語の中心に据えて描かなかったのか。想像するに、10年に及ぶ長い脚本作りの過程を経てもスピルバーグが関心を持ち続けることができ、かつ描きたかったものは、政治家リンカーンの中に見出された自分自身の影、すなわち孤独そのものだったのではなかろうか。完成した映画では、議会工作を通じて党内や他党で反対している者を自分の側にいかに取り込むかが語られる。政治家としての本音と支持者に対する建前のはざまで、あるいは個人的な信条と党派の利害の間で揺れ動く議員たち。飴と鞭を使い分け、また限りなくグレーな手法も交えながらリンカーンは悲願の奴隷解放(合衆国憲法修正13条の可決)を成し遂げる。『ジョーズ』や『シンドラーのリスト』など、スピルバーグが過去の作品の中で繰り返し描いてきた「目的を果たすためには敵を取り込むことも辞さない」というユダヤ人的な価値観*1が、ここではリンカーンの唱える主張に重ね合わされ、〈普遍的な正義〉として賛美されている一方で、戦争責任の所在はほとんど描かれない。もちろん、南北戦争の勃発は奴隷解放論者リンカーンの大統領就任が契機となっている。戦場に累々と築かれる死者、焼け野原となった国土。これらの責任の多くはリンカーンに帰するはずだ。しかしスピルバーグはそれを描かない。というより、描くことに興味がないのだ。妻や息子との確執さえも、〈正義の人〉リンカーンの孤独感を強調するための演出上の小道具に留まっている。つまるところ、この映画はスピルバーグが是とする〈政治の教科書〉となるべく企画されたものの、ハリウッドの中でユダヤ系のクリエイターとしてしたたかに戦って現在の地位を築いた監督自身の現在の心情を述懐する作品となってしまったのだと思う。民意(といっても一部の民意だが)を背景に、議会の中で独裁者の如く強権を奮って修正案を通すリンカーンの姿は、ハリウッドに君臨するスピルバーグその人でもある。映画の冒頭で〈ファン=正義の信奉者〉たる兵士たちと接するリンカーンの醒めた反応から滲む孤独は、スピルバーグ自身の孤独といっても良い。


しかし、目を背けたくなるような歴史から意識的に距離を置き、テクニカルな議会工作に焦点を絞った今回の撮り方はやはり好きにはなれない。自国の内戦が欧州のホロコーストよりも身近すぎて正視したくなかったという訳でもあるまい。南北戦争を十全に映像化できる力量と地位を有していながら、スピルバーグが米国の暗い歴史を正面きって描くことを避け、 本作を自身の孤独の投影、あるいは単なる教科書的な物語に落とし込んでしまったことを、私は残念に感じた。

監督スティーヴン・スピルバーグ, 脚本トニー・クシュナー, Lincoln, 150mins, 2012。

*1:本作の脚本はスピルバーグと同じユダヤ系米国人が手がけている

クラウド・アトラス:Movie of discord

★★☆☆☆

ゼロ年代に生まれた原作を映画化した、6つのエピソードから成るクロスジャンル・ムービー。監督の一人であるトム・ティクヴァは自ら「クラウド・アトラス六重奏曲」という曲を書き、約3時間に渡って交差するその物語の中でモティーフを変奏させて作品全体のテーマを浮かび上がらせようしているが、残念ながらその試みはウォシャウスキー姉弟との合作によって失敗しているように感じられた。
およそ合奏曲というものはみな、各プレイヤーの個性を衝突させながらも、曲全体を貫くテーマを奏するために、互いの音色・音律・アーティキュレーションを調和・綜合させていく不断の苦しみなくしては「美しい演奏」の歓喜には到達し得ない。その意味において、この「クラウド・アトラス」はどうだったか? エピソード間のトーンやピッチ、リズムは不調和のまま、映画は安易に「移動する」「逃げる」「戦う」といったシーンや状況の関連性だけで繋ぎ合わされている。そして、物語全体を貫くテーマ(主旋律)となるべき「既存のシステムや価値観からの解放*1」については、原作を再構成したプロットに沿ってただ演出されているだけ、ただ演じられているだけだ。何よりも残念なことは、劇中を通して変奏されていくナイーヴな「クラウド・アトラス六重奏曲」(無名作曲家の6重奏曲が交響曲化されていること自体がそもそも不自然だ)のサウンドが、ティクヴァの思い入れに反し、各エピソードにおいて単なる色付けの映画音楽の域に留まっており、物語全体を支配し、観客の心に響くような強い衝撃性や革新性といったものが感じられなかったことだ。

これがもし、様々な時代の人生模様を描くというオムニバス的な映画であったなら、『10ミニッツ・オールダー』のような手法、つまり6つのエピソードに対して6人の監督で描くという手法が有効だったろう。しかし、本作のように「輪廻」的な時代を超えた連関を奏でようとする作品において、指揮者たる監督が多いのは果たして正しい選択だったのか? 「システムからの解放」を描くために『マトリックス』のウォシャウスキー姉弟をワーナーが起用する一方で、解放と真逆の耽美性に着地してしまう『パフューム』のティクヴァを共同監督としてプロジェクトに参加させたことが、この作品に不幸な不協和音をもたらしたと思う(もっとも、個人的にはむしろウォシャウスキー姉弟なしの、退廃と文藝の香りで咽せ返りそうな『クラウド・アトラス』の方を観てみたかったが)。

監督・脚本ラナ&ウォシャウスキー, トム・ティクヴァ, 原作デイヴィッド・ミッチェル, Cloud Atlas, 172mins, 2012。

*1:6つのエピソードで、奴隷制度、師弟関係やヘテロセクシャル、巨大利権産業、金と暴力、クローン再利用システム、宗教等々からの解放が描かれている

ゼロ・ダーク・サーティ:映画を殺した者への、映画による復讐

★★☆☆☆

2001年の米国同時多発テロ「9.11」は世界を変えた。TVで流された、ハイジャック機が世界貿易センタービルに突入し、炎上し、そして崩れ落ちる、あの一連の凶暴なリアルタイム映像。世界を牛耳ってきた者に対する強い敵意と反発が突然可視化された「9.11」の出来事は、その映像的衝撃性もあって人々の思考を一気に止めてしまった。「まるで映画のようだ」「信じられない」と絶句する者たち。あまりにも醜悪すぎる現実は奇妙なカタルシスさえ生み、それを生業としてきた商業映画界をも麻痺させてしまう。ハリウッドとアメリカ人がこの衝撃をようやく直視できるようになったのは、同じく凄惨なアイルランドの事件を描いた『ブラディ・サンデー』の監督ポール・グリーングラスを招聘して撮らせたドキュメンタリー・タッチの『ユナイテッド93』以降だったと記憶しているが、それでもすでに「9.11」からは5年の歳月が経過していた。その後、暴力表現に歯止めが利かなくなったハリウッドは『ノー・カントリー』や『ダークナイト』などの作品を生んだものの、どのような大掛かりな虚構もあの「9.11」の衝撃の前では霞んで見えた。そして2011年5月。かつての英国軍の拠点であり、今はパキスタン将校の養成所となっているアボッターバードの地に潜伏していたとされるオサマ・ビン・ラディンが米軍のコマンド部隊に射殺されたというニュースが世界を飛び交った。姿を見せず、人々の記憶の中から忘却されつつあった「9.11」の亡霊が突如として甦り、風化しつつあった歴史はまた息を吹き返した。


米国による復讐劇を描いた本作は、冒頭から「9.11」の生々しい記録音声を流すブラックアウト画面から始まり、あの日の観客に衝撃を思い出させる。この導入部から続く激しいCIAの拷問ルーティンの描写を繰り返すことで、「9.11」の首謀者ビン・ラディンの足取りを掴めない米国政府の焦りをビグローは冷ややかに描いていく。もちろん敵は人間として扱われない。2003年にはブッシュ政権イラク侵攻を行ったが大量破壊兵器は存在せず、CIAへの批判が相次いだ。成果の出ないミッションに疲れ果てた元責任者は現場を去り、ケーキを焼くなど油断の見られた同僚は基地内の警備を解いて爆死する。それらはもちろん現実の証言に即したものだろうが、すべてはビン・ラディンの連絡係を追う主人公マヤの執念を際立たせるために選ばれたドラマ仕立ての要素だ。そして気がつけば、マヤ自身が拷問ルーティンの執行者としてテロリストの敵意を惹き付ける標的となっていた。映画の中盤から後半にかけて、ビグローの過激な演出はエスカレートしていく。連絡係の携帯の電波を捉えるサスペンス的なくだりや、赤い文字(繰り返されるテロによる流血を彷彿とさせる)でボスの部屋のガラスにミッションの遅延状況を毎日書きつけるマヤの苛立ちぶりの描写などは、来るべき暗殺劇のクライマックスを正当化するために観客に次々と配られる甘い飴のようなものだ。言うまでもなく、米軍コマンドSEALSの前で見栄を切ってみせるマヤの姿や、ステルス仕様のブラックホークで敵地に侵入する映像に至っては、見慣れたハリウッド映画以外のなにものでもない。ジェロニモ作戦は決行され、アボッターバードの豪邸内に展開した男たちは「9.11」の首謀者ビン・ラディンとその側近を殺害し、死体袋に詰めて帰還する。正義という名のもとに強行される復讐。行っていることは、テロリストの唱える聖戦と同じ人殺しだ。


最後のシーンでマヤは問われる。「このデカイ飛行機(=世界を支配している権力の象徴)を独り占めして、お前はどこへ向かうのか」と。もちろん答えなどない。アメリカはもはやどこにも行けないのだ。ミッションを果たしたマヤの頬を伝う涙は、復讐の連鎖で再び流されるであろう血の涙を予感させる。飛行機の(見えない)衝突で始まった物語は、飛行機の(見えない)離陸でひとまず幕を閉じる。映画を殺した者への、映画による復讐。だが、次の報復がないと、誰に断言できるだろう。

監督キャスリン・ビグロー, 脚本マーク・ボール, Zero Dark Thirty, 160mins, 2012。

人生の特等席

★★★★★

野球選手のことなら、打音で球質の得手不得手まで聞き分けることができる程のエキスパートなのに、いざ自分や家族のこととなると口下手になり、まともなコミュニケーションすらできない男。そんな父に捨てられたというトラウマから、仕事も恋愛もガードが固くなってしまい、なかなか柔軟に相手を受け入れられない娘(本作の原題はそのものズバリ「カーブが苦手」)。長らく疎遠になっていた二人の関係は、父の失明の危機を前にして再び接近する。しかし二人の会話は一向に噛み合ない。お互いにやり取りできる共通の「ボール」を見失っていたのだ。そこに現れたのが、球団に捨てられた元メジャーリーガーだった。彼は父娘の間に割って入り、思いがけず「ボール」の役割を担うようになっていく。ようやくグラウンドで父の直球を打ち返し、ぎこちなくも距離を縮めていく父と娘。しかし二人の間に横たわる暗い過去について父は何も語らない。仕事上の失点もあり、苛立ちが頂点に達した娘は父を追い詰める。甦っていく忌まわしい記憶。開くことはないと諦めかけていた重い過去の扉が突然開き、動揺する娘は父の投じた「ど真ん中のストレート」を今度は打ち返せなかった。そして翌朝。二人の短い旅に終止符が打たれた時、人生は直球勝負だけではないと悟り、多様な生き様(カーブの魅力)にも気がついた娘の人生は大きな転機を迎える。父娘の間に横たわっていた過去は、こうして清算されたのだった。
控えめながらも丁寧な演出でひとつひとつの見せ場を積み上げていく、イーストウッドの愛弟子の確かな演出力。アメリカの伝統が着実に次の世代に継承されている姿を目と耳で味わえる、素晴らしい作品だと思う。

監督ロバート・ロレンツ, Trouble with the Curve, 111mins, 2012。

タイム:ゆっくりと歩くために〜あるいはガタカ2.0〜

★★★★★

21世紀版「ボニー&クライド」であり、21世紀版「ネズミ小僧(小娘)」でもある本作。いかにもSFな設定ありきのストーリーなのだが、やっぱりこの監督はハイセンス。「ガタカ」の海を彷彿とさせるショットもあり、本作でも海は「人工的なシステムの対極の存在」として二人を包み込む。「全力疾走」する生き方をやめられない二人には、おそらくハッピーエンドは来ないだろう。「その時」が来るまで、ただ走り続けて、ただ愛し続けて、ただ与え続ける日々。生きるということはギフト(贈られたもの)だと気がついた二人は、「時」を独り占めして無為にすごす代わりに、全力で走り続ける幸せを選んだのだ。誰かがゆっくりと歩くためには、誰かが走り続けなくてはいけない。所有する時代から、シェアする時代へのシフトをうまく切り取った作品。

監督・脚本アンドリュー・ニコル, In Time, 109 mins, 2011。