buried alive (生き埋め日記)

日々の生き延び・魂の暴れを内省的にメモる。twitter→@khufuou2

読書記録●『医療短編小説集』平凡社

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「ときには本屋や図書館でまったく知らない本を何気なく手に取って読むことが大事な気がする」という言葉を聞いて、ほんとうにそうだなと思った。この『医療短編小説集』は大学附属病院の図書室でふと目についたので借りてきたものだ。いまや本を自分で読む前に感想や評判をネット検索するのが習慣になってしまっているが、今回はそういうことをせず巻末の解説を先に読むこともせず作品を前から順番に読み、手書きで簡単な感想文をメモしていった。英語圏のいろんな作家が書いた医療にまつわる短編のアンソロジーだが、だいたい1800年代~1900年代前半ぐらいの時代が舞台となっている。

 

テーマ1. 損なわれた医師

『オールド・ドクター・リヴァーズ』William Carlos Williams

 名医として伝説になったリヴァーズの若いころから晩年を、語り手(おそらく診療所の助手)が回顧している内容。リヴァーズは基本的には優秀かつ働き者、気さくで手術もうまい医師なのだが、多くの矛盾した要素をもっていてその描写がこの作品の要だと思う。医療による人助けに使命感をもっている一方で残酷で粗暴なふるまいをすることもあったり、安い診療代で貧しい患者を積極的に治療する高潔さを持つ一方で自身は重篤なアルコール・薬物依存症にむしばまれている。激務の合間にちょいと注射器を自分の腕に打ったりお酒をあおったりしては、しゃんとした様子で手術をこなす。さすがに年老いてからはそんな無茶なやり方で自身を酷使してきたツケが出てきて、とんでもない大失態を犯したりするのだが人々の間ではリヴァース先生は大ベテランの素晴らしい名医だという評判が確立されているので適当に流されてしまう。

 

『千にひとつの症例』Samuel Bekett

 難しい嚢腫をわずらっている少年ブレイが病院に運び込まれ、外科手術後の経過観察をドクター・ナイが行うことになる。少年ブレイの母親であるミセス・ブレイは面会時間のあいだじゅう息子につきっきりで、とはいっても黙ってベッドのそばにいて息子の顔を見つめるだけである。回診に来る医師と話すこともない。その特異な様子が悪い意味で他の患者や看護婦(※舞台となる時代の背景により看護師ではなく看護婦表記。以降の他の作品においても同様です)の目につくようになり、病院側はミセス・ブレイに面会に来るのは構わないが午前と午後それぞれ一時間ずつにとどめてほしいと言い渡すことになる。彼女はそれにおとなしく従うが、面会時間でない時は建物の外に佇みずっと病室の窓を見上げて過ごすという行動にでる。息子を想うあまりの行動にしても、どうも不可解だ。そのうち、ミセス・ブレイが幼少期のドクター・ナイの乳母を務めていたことが判明し……という感じで話は進むのだが、なんだかつかみどころがなくて不思議な話だった。ドクター・ナイの幼少期のトラウマ、性的暗喩などといった含みがちりばめられているようだが。ミセス・ブレイが息子が病死してしまったあとも病院の外に佇む日課を繰り返すところはちょっと不気味で良かった。意味は分からんけど。ちなみに作者のベケットは『ゴドーを待ちながら』という不条理劇で有名。

 

テーマ2. 医療と暴力

『センパー・イデム』Jack London

 有能ではあるが冷酷で患者を症例としてしか認識せず、自分の名声と実績にしか興味のないビックネル医師が登場する。名前すらもわからない浮浪者が自殺を企て喉をひどく掻き切って瀕死で運ばれてきたが、手術が成功し男は一命をとりとめたというのでビックネル医師は実績がまたひとつ増えたと上機嫌である。センパー・イデムというあだ名が男につけられたが、由来は彼の数少ない所持品である女性の写真にセンパー・イデム、センパー・フィデリス(常に同じであれ、常に忠実であれという意味のラテン語)と書いてあったからだ。センパー・イデムは自分のことを何も話さないので、スラム街の宿で自殺を図ったこと、最下層の労働者っぽい服装に身を包んでいるが手は紳士っぽいことぐらいしかわからない。今となってはとにかく早く病院を立ち去って世間の目から隠れたい一心のようだ。写真の女性についても一切不明。ビックネル医師は自分が手術した傷跡にしか興味がなくセンパー・イデムの身の上や精神状態については無頓着で、退院時の最終診察では「次やるんなら顎の角度をもっとこう上げて切るんだな」と無慈悲なアドバイスをする始末である。しばらく後センパー・イデムが自殺を遂げたというニュースが入り、ビックネル医師はたいした感興もなく「ああアドバイス通りに再チャレンジしたんだね」で終わる。

 

『力ずく』William Carlos Williams

 ある夫婦の幼い娘がやっかいな感染症になったというので医師が往診にいくが、幼女は医師を警戒し敵対心むき出しだ。喉の奥を診ようとして噛みつかれてしまう。夫婦の狼狽えぶりと決まりの悪さ、幼女の怒りと拒絶の激しさ、医師が幼女を乱暴におさえつけ金属のへらで無理やり口をこじあけながら「この子のためにこうするしかないんだ」と自分に言い聞かせながらも、強情な幼女に対する憤怒と力ずくで屈服させることの愉悦が入り乱れていく様が生々しく克明に表現されている。

 

『人でなし』Richard Selzer

 疲れから患者に怒った態度をとってしまった同僚をたしなめて別の医師が自身の思い出を語るという形式の作品。語り手の医師は、ある時大けがをした乱暴な酔漢の手当をすることになる。酔漢は医師にも反抗的で罵りながらひどく暴れるのでなかなか治療に取り掛かれない。連日の激務で疲れていた医師ははじめ努力して声掛けをしていたがとうとう業を煮やし、酔漢の耳たぶと診察台を糸で縫い付けてしまい「動くと耳たぶがちぎれるぜ。じっとしなクソ野郎」と吐き捨てて脅すように嘲笑した。酔漢は戦いに敗北した野生動物のようにおとなしくなったが、医師は自身の言動をたちまち後悔した。男があんなに暴れたのは自分の事務的な言葉にひそむ見下しと冷酷さを敏感に感じ取ったからではないのか。あの時に感じた原始的な怒り、自分の冷たい口調と血も涙もない嘲笑、あの男が必死に反抗する様子が数年たったいまでも頭から離れないという。酔漢が黒人であるという記述もあったのだが、これは語り手の医師が内心は酔漢を見下しているという状況を補強していると思われる。今以上に人種差別意識が強い時代だったろうから。

 

テーマ3. 看護

『貧者の看護婦』George Gissing

 満ち溢れる慈愛と献身の精神をもって看護婦を志していたのに、勤務のあまりの過酷さで心身が摩耗し、気が付くと患者に対し粗野かつ残酷にふるまって嗜虐心を満たすまでに心が荒みきっている自分に恐怖し看護婦をやめてしまったという女性の話。

 

アルコール依存症の患者』F. Scott Fitzgerald

 人助けをしたいという思いからアルコール依存症患者の訪問看護を申し出る女性が主人公。こんなひどい言動につきあってられない、もうやめる、いやでも私がこの人を助けてあげないと……という看護婦の心の揺れ、患者と最後までかみ合うことがない思いのやりきれなさが印象的。看護師は自分がやさしく粘り強く尽くしていれば患者は回復するし心も通い合うはずと希望を抱いて世話にあたるのだが、男はアルコールを手に入れることしか考えておらず、愛想よく物分かりがよさそうに聞こえる言動も全てはアルコール欲しさである。この男は結局アルコールがなければ死のうと思っているのだと悟った看護婦の「たしかにちょっと腕をつかまれて捻挫したけどそれはどうでもいい、どうあがいても私があの人を助けるのは無理だとわかってしまったことが辛い」というせりふが印象的。

 

『一口の水』T. K. Brown Ⅲ

 フレッドは自信満々元気いっぱい、体格も立派で性欲も強く女好きといういかにもオスっぽい男である。特に片っ端から女を口説いて付き合うのが好きだった。しかし、軍隊に入ったとき爆弾のせいで四肢がふっとび視力も失い、彼の生活と精神は一変する。まず、アリスという看護婦の献身的な介護っぷりとソルという男性看護師の粗野で嗜虐的な接し方の対比が印象的だがここはまだ話のクライマックスではない。もうあんなサディストから介護されるのは嫌だ!アリスを呼んでくれ!ということになるのだが、案の定フレッドとアリスが恋仲になったあたりから話が不穏になってくる。なんとなく現状に違和感を持ったフレッドがアリスとよくよく話したところ、アリスは男性から抑圧的支配的な仕打ちを受けてきたことで男性性を憎んでいること、フレッドは体が不自由で彼女が好きなように性的オモチャとして支配できるからフレッドと付き合っているのだというとんでもない心の闇をぶちまけられ愕然とする。男として人間としての誇りを守りたいフレッドはままならない体に鞭打って、這いずるようにして病院の外へ逃げ……。という話。江戸川乱歩の『芋虫』を思い出した。あっちはもっとエロと猟奇性を強調した書き方だけど。人が人を看護する時の精神のあり方のほか、男と女の立場についても問題提起されている。

 

テーマ4. 患者

『利己主義、あるいは胸中の蛇―未発表の「心の寓話」より』Nathaniel Hawthorne

 精神的な病み・苦しみを胸中の蛇と暗喩しているところからして寓話的である。ロジーナという女性が救い手で、自分を忘れて他人のことを考えなさいという彼女の言葉が苦しむロデリックの助けとなった。

 

『診断』Edith Wharton

 癌といえば不治の病、という時代の話。癌ではないと主治医に言われた男が床に落ちたカルテを偶然垣間見て「やっぱり僕は癌じゃないか!」と悲嘆にくれるところから始まる。どうせ別の患者のカルテなのに勘違いしたんでしょと即座に思ってしまって、まあそうだったのだがそのラストに至るまでの心理描写の揺らぎが見事で、読み応えあった。自分が癌だと決め込んだせいでそこまで思い入れのない恋人と結婚するくだり、妻とは概ね円満だけど常に微妙な感情のすれ違いが続くこと、のちに別の医者にかかって癌ではないと判明した直後の多幸感がピークでその後の生活は平坦で地味だなぁと思うところ、残りの人生ぱぁっと旅行しまくってボヘミアン的生活を楽しもう!と思うものの次第に旅が嫌になってもとのニューヨークでのアパート生活に戻るところ、癌じゃないと判明する以前の僕とそれ以後の僕は結局同一人物で変わり映えしないんだなと実感するところが面白かった。

 

『端から二番目の樹』E. B. White

 精神科の診察室にて、医師と対峙する患者の心情のあわい、自問自答。他の作品の文が良くも悪くも少し古めかしい印象であるのに比べると、近代的で洗練されている印象を受けた。カウンセリングで医師が発する「あなたの欲しいものは?」「異様な思いにとらわれたことはありますか」という問いが効果的に示されている。「異様な思い」とは一体どのようなものなんだろうか。主人公は本当に不安を退けられたのだろうか。

 

テーマ5. 女性医師

『ホイランドの医者たち』Arthur Conan Doyle

 ある村には1人の男性医師のみがいた。そこへ当時としては珍しい女性医師がやってきて、自身の診療所をひらく。彼女は敏腕かつ優秀な人物であることが判明するが、保守的な性的役割分業観を持つ男性医師はどうしても彼女のことが気にくわない。しかし、協力して難しい手術をこなしたり自身の怪我を治療してもらうといった経緯をへて考えを少しずつ改めていき、彼女に敬意を払うと同時に恋心をも抱くようになる。彼女は「もともと男性と結婚して生きるつもりは無いのです、自身の技能を活かして生きる道を追求したいので」と結婚の申し込みを断り、やがて都会の医学研究所に招聘され村を去る。後には、すっかりやつれた男性医師だけが残された。作者はシャーロック・ホームズで有名なアーサー・コナン・ドイルである。シャーロック・ホームズが男尊女卑な思想を持つキャラクターとして描かれ、しばしば作中で女性は感情的で理性的な考えはできないなどと発言していることを踏まえて読むと一層興味深い。本作品では明らかに男性側が嫉妬の感情をむき出しにして無礼で恥ずかしい態度をとるのに対し、女性側は終始冷静で礼儀正しい態度を崩さないという対比的な書きぶりだからだ。

 

テーマ6. 最期

『ある寓話』Richard Selzer

 瀕死の患者を看取る衰えた老医師。一般的には悲劇的と解釈されがちな一場面だが、その部屋は穏やかで明るい静謐さに満ち溢れており、互いが調和を保っている。

 

テーマ7. 災害

『家族は風のなか』F. Scott Fitzgerald

 ジャニーはかつて優秀な外科医だったが、アルコール依存症ゆえに医療現場の第一線を退きドラッグストアを経営して暮らしている。弟夫婦に懇願され、わだかまりのある乱暴者の甥をしかたなく治療(ゴロツキとの喧嘩で銃弾を撃ち込まれてしまい、重体)していると、間の悪いことに町全体が未曾有の大嵐に巻き込まれる。要所要所で、身寄りがなく子猫と暮らしている少女との対話シーンが挿入される。ジャニーは一念発起して他の医師と協力し怪我をした人々の救助にあたる。甥っ子は結局助からなかったのかな。あまりはっきり明言してなかった気がする。嵐が去り、ジャニーは身寄りのない少女を引き取り、新天地で医師として再出発することを決める。

 

全体を通しての感想

 テーマがテーマだけに説教されているような気詰まりな読後感になるかなと思ったけど、おもしろく読めた。当時の時代背景や作者たちの暮らしぶりを踏まえて読むとより興味深い。自身が医師や患者の立場だった人もいる。末尾の解説文もたいへんおもしろく、私が思い至らなかった深い読み解きが参考になった。

 

 

 

わからないことが多い

けっこう前に、若者が自殺希望者掲示板で知り合った相手に殺されたみたいな事件が報道されていたような気がする。他殺か自殺かの違いはあれど死にたい人が死ねたのは結果として良かったねと思ったのだが、けしからん事件だとして多くの人が深刻な感じで論じていたのでそれが皆ギャグとして言ってるのか私だけが事件の本質を捉え損ねているのか分からないまま来ていたので、改めて考えてみた。おうおうにして「死にたい」という人は正常な思考ができないほど追い詰められており、その死にたいという願望もよくよく確認すると本当に死にたいのではなく、単に今の辛さから逃げたい気持ちで口にしているだけにすぎないからケアをして生かす方向に仕向けないといけない。殺しが好きな変態がここぞとばかりおびき出して殺すなどもってのほかだ。ということなのだろうか。

好きなSCP財団の報告書(日本支部)

・SCP-013-JP 「ホームビデオの親戚」

SCP-013-JP - SCP財団

家族団欒の様子を記録したホームビデオ(時代を感じる言葉です)の中に出現する、おじいさんのお面をかぶった人型実体に関する報告書。この実体が映り込む映像を見せられた一家は最初こんな人知らない、撮影時こんな人は居なかったと主張しますが、最後まで見終わると一転してこの人は家族ぐるみで仲良くしている親戚なのでホームビデオに映っていても不思議はないと言いだします。全体的にふんわりと不思議な雰囲気を醸し出す作品ですが、最後の補遺の文章を読んだ途端急に背筋が寒くなる落差が良いです。何通りか解釈ができる終わり方だと思います。

 

 

・SCP-1195-JP 「冤罪被害者」

SCP-1195-JP - SCP財団

あるアパートの一室に出現した、天井にはりつく不気味な女性っぽい人型実体についての報告書。そんなの怖いに決まってるよという正統派和風ホラーの趣きある作品ですが、読み進めると別のところに違和感が生じ、読み始めたときには予想できなかった不安と怖さに支配されるのが気持ちいいです。

 

 

・SCP-1283-JP 「踏切のむこう」

SCP-1283-JP - SCP財団

最初に予想していた読後感を見事にひっくり返される報告書。

 

 

・SCP-1302-JP 「廻る。」

SCP-1302-JP - SCP財団

非常にゆっくりと回転する不穏な観覧車についての報告書。各ゴンドラに閉じ込められている人たちの身の上が謎めいていて気になるのと、過去のレポートからゴンドラが地上に着いて扉が開放された時とんでもないことが起きるんだろうなと想像がかきたてられます。そっけない報告書形式のフォーマットが不穏な雰囲気を引き立てている作品です。余談ですがこの作品を読んで“Dies Iræ”(怒りの日)というグレゴリオ聖歌およびクラシック音楽のことを調べるきっかけができました。

 

 

・SCP-1410-JP 「押入れの恐怖」

SCP-1410-JP - SCP財団

とある和室の押入れに入ると何者かの気配を感じるというこれまた正統派和風ホラーといった感じの報告書ですが、臨場感あふれる実験記録と、最後のインタビューで読者の思い込みをうまく利用した仕掛けが施されていてなるほど~と思わされます。

 

 

 

こうしてみると自分はやっぱり怖い作品が好きな傾向があります。ほのぼの系、ギャグ系、難解系、ファンタジー系など色んなテイストの作品が集まっているので色々探すのも楽しいと思います。今回挙げたものには無いですが、凝った仕掛けやびっくりするような画像(時間経過で画像や文が動いたり変化したりなど)が施されている作品もあるので、怖がりの人は情報検索しつつ慎重に閲覧するといいです

好きなSCP財団の報告書(本家)

SCP財団は色んな人が設定を共有して執筆している怪奇創作サイトです。Secure(確保)Contain(収容)Protect(保護)の頭文字をとってSCPとされています。特別好きな作品をメモしようと思います。本家とわざわざ書いたのは、SCP財団は英語圏以外の国にも日本含めいくつか支部があるからです。

 

 

・SCP-096 "シャイガイ"

SCP-096 - SCP財団

自分の顔を見た相手を何が何でも殺そうとしてくる人型実体についての報告書。凶悪な怪物にシャイガイというユーモラスな名付けをしているのと、脱走事件のレポートと研究責任者のインタビューが臨場感あって気に入っているので繰り返し読んでいます。

 

 

・SCP-453 "筋書きのあるナイトクラブ"

SCP-453 - SCP財団

中にいる人全員が特定の台本通りに振る舞ってしまうナイトクラブについての報告書。台本は何通りかあって、ちょっとした痴話喧嘩で怪我人が出る程度の台本から、デフォルトでたくさんの人が死ぬうえに適切な介入をしないと世界が滅びるレベルの事態に発展してしまう台本まであります。

 

 

・SCP-458 "はてしないピザボックス"

SCP-458 - SCP財団

ピザがいっぱい出てきて嬉しい。

 

 

・SCP-701 "吊られた王の悲劇"

SCP-701 - SCP財団

昔から伝わる劇台本についての報告書。これを演じると舞台に不可解な人物が現れるうえに役者たちは本来の筋書きから逸脱した振る舞いをはじめ、最終的には殺し合いをします。暴力性は観客も巻き込み、かろうじて生き残った人々の精神にも持続的な悪影響をもたらします。昔から伝わる創作物を媒介して異常な現象が起こるのが、チェンバースの『黄衣の王』っぽくて怪奇的で気に入っています。

 

 

・SCP-2852"従兄弟のジョニー"

SCP-2852 - SCP財団

洗礼・婚礼・葬儀などのセレモニーに忽然と現れる謎の人型実体についての報告書。彼はセレモニーの参加者全員に「これは親しい親戚のジョニーだ」と思い込ませる力を持ちます。彼が出現したセレモニーは奇妙で残虐で気持ち悪い方向に逸脱しますが、参加者はそれを疑問に思いません。居合わせた参加者のその後を追うと、例外なく一家離散や家庭内暴力や生殖不能などの問題に見舞われているのも不気味です。気持ち悪さが癖になって何度も読んでいる作品です。

 

 

 

・SCP-4666 "冬至祭の男 ユール・マン

SCP-4666 - SCP財団

寒冷な特定の地域でクリスマスシーズンになると子供をさらいにくる人型実体についての報告書です。シンプルでオーソドックスな設定の怪人ですが、何日もかけて標的に接近する描写の不気味さや理不尽な残虐さが強烈な印象をもたらします。お伽話の素朴な雰囲気と怪異の絶妙なバランス、読んでいるとしんしんと冷気がただよってくるような臨場感に惹きつけられる作品です。たぶん、モデルとなっているのは「クランプス」という伝承上の怪物かなと思います。

 

 

面白いと思う作品はもっと色々ありますが私が何回も読み返すほど気に入ってるのはこれぐらいです。SCP財団にはもっとお笑い系の話とか感動系の話とかSF色強めの技巧的な話とか色々あるのですが、こうしてみると自分はおどろおどろしい話が好きなんだなと思いました。次は日本支部の作品で特別好きな報告書のリストを書きたいです。

疑問

昨日読んでのめり込めた本のページをめくってみると既に厭わしい。前に気分良く過ごせた休日の行動をなぞってみてももはや快くない。これさえすれば・これさえあれば間違いなく気が晴れるというものが欲しくてしかたないが、それってもう非合法の強い薬物しか手がないんじゃないだろうか。最近あまりにも憂鬱で孤独な気分だったので、私のことをウザがらずに相手してくれそうな人に来月は私の誕生月だから10月に入ったらオメデトウのポストカードかなにか送ってほしいとメールで頼んだ。すると、もちろんそのつもりだった。というか以前何かでやりとりした折に君の誕生日を知ったからそ知らぬ顔で贈りものをする準備をしていたんだよ。サプライズみたいにしようと思っていたので少し残念(笑)と返信があった。月を指定して誕生日お祝いメッセージを送れなんて、我ながら厚かましくて間抜けなお願いをしたものだ。厚かましくて間抜けなのが私の性質なので仕方ない。ストレートに孤独で淋しいから構ってくれというのが気恥ずかしくてたまたま近くに迫っている誕生日にかこつけて手紙をくれなんて、充分恥ずかしい。不粋なお願いをして悪かった。ここのところあまりにも心細い気分なのでと弁解をすると、それは大変そう。私はそういう時は猫に癒してもらうことにしている。と言われた。私は犬と暮らしているが、犬の存在ですべての憂鬱がふきとんだら苦労していないというか、犬が可愛いことと生きてるのがつらいことはやっぱり独立した別個の事象だと思う。うちにいる動物の顔さえ見れば・子供の顔さえ見れば・家族恋人の顔さえ見ればすべての苦労が吹っ飛ぶなんて極端なことを言っている人はたまにいるが、本気でそう思っているのだろうか。そういう風に自己暗示をかけているんだろうか。

 

夫に誕生日はどう過ごしたいんだ何か欲しいものはあるのかと訊かれて、別に。コンビニで甘いものを爆買いするか、マクドナルドでハンバーガーを3つぐらい食べる。それかひとりでピザを1枚食べる。と答えたら、憐れむような顔をされた。実家の人達も私の誕生日は忘れていることだろう。少なくとも2人は誕生日オメデトウカードをくれるっぽいことがわかったので、よかった。

本と本の繋がり

 いま読んでいる本のことをだらだら書く。

 

 サンデルの『実力も運のうち』を読んでいて、ああ前借りたグレーバーの『ブルシット・ジョブ』をもう一度ちゃんと読みたいなぁと思った。『実力も運のうち』では職業に貴賎なしという綺麗事が言われるものの実際には一目置かれる職業と軽んじられる職業が存在するというということと、職業にもとづく個人の充足感について述べられている箇所があり、『ブルシット・ジョブ』では労働がおうおうにして人の幸福感や充足感を蝕んでしまう構造はどうしてできてしまうのかといったことを論じていたので、この2冊を併読したら現代における職業選択および社会的地位の格差について理解がしやすくなる気がしたからだ。こんな風になにか本を読んでいて、そういえば前読んだ本にこんなことが書いてあったなと思い出せるとうれしい。

 

 それとは別に『中世ヨーロッパ生活誌』を読んでいたらベリー公のいとも豪華な時祷書のことが出てきた。この時祷書は15世紀ごろフランスで作製されたもので一年にわたって行われるキリスト教のお祈り、儀式、農作物の収穫といった行事をきれいな絵画で表現した有名な写本で、表現技術に優れており当時の人々の服装や営みがみてとれることから西洋美術の本や服飾史の本で取り上げられているのをよく見かける。それで、またお目にかかれましたね~と思って嬉しかった。『中世ヨーロッパ生活誌』を読んでいると身分問わずとにかく病気の流行で大変そうなのと、裁判制度が穴だらけだったみたい(たとえば基本訴えたもん勝ちで訴えられた側が頑張って潔白を証明しないといけないシステムとか)なので当時に比べたら今はだいぶ暮らしやすくなったんだろうなというありきたりな感想を持った。中世ヨーロッパで思い出したのだが、まえ本屋で『中世ヨーロッパの武術』という本を見かけて少し流し読みした。図解や技の説明が豊富でたしかに面白いけれどもこんなマニアックな本どういう人が買うんだ?と勝手に心配になってamazonレビューを見たら、ふつうに武術を勉強している人の他にファンタジー小説・漫画などの創作や演劇をやる人が資料として活用していることが分かりなるほどな~と感心した。『西洋護符大全 魔法・呪術・迷信の博物誌』という本を借りた時も面白いけどどういう人が買うんだ?と思いamazonレビューを見たら、中世ヨーロッパを舞台とした漫画だか小説だかをかいていて服飾品や儀式を描写するときの資料として重宝している的なレビューを書いてる人がいた。いま創作の世界では中世ヨーロッパがブームなんでしょうか。

 

 宗教についてはひろさちやの著書が分かりやすいなと思い『仏教と儒教』『面白いほどよくわかる世界の宗教・宗教の世界』を借りたのち購入した。ひろさちやは世界の色んな宗教について解説しているので肩書は宗教家なのかと思っていたが、自分は仏教を勉強している者であって宗教家ではないと語っており、そうなんだと思った。何かを詳しく学ぼうと思ったらおのずと周辺の物事も学ばざるをえなくなるものなんだろう。ある対象を凝視しているあいだはその対象の本質を理解することはできない、という誰かの言葉を思い出した。大貫隆の『グノーシスの神話』は、キリスト教の宗派のなかに厳格な禁欲主義を唱えるものがあるが、あれは現代においてたびたび取り沙汰される反出生主義となにか関連があったりするのかなと思い借りてみた。なんだか私には難しいので、もっと初心者向けのグノーシスとはなにか的な本を探したほうがよさそうだ。

 

 ベストセラーの『スマホ脳』の貸し出しを予約したのが5月のことだが、予約人数が多くて8月下旬のいまようやく順番が回ってきた。まだ拾い読みした程度だがコンパクトにまとまっていて読みやすそうでよかった。別の人が同様のコンセプトで書いた『ネット・バカ』という本があるけれども、あれはもっと情報量が多くて読むのに骨が折れたので『スマホ脳』→『ネット・バカ』の順で読むといいかもしれない。

(補足・質疑応答など)2018年9月町田康の講演

直近に投稿した3つの記事についてだが、2018年9月にあった町田康の講演のことは当時もブログに書こうとした形跡がある。っていうか、途中まで書いて力尽きている。久しぶりに自分で読み返したが、ひとつの出来事をタイミングを大きくずらして記述すると同じ人間が出力する文でもけっこう違いが出るものだとか、気をつけるポイントが変わってるなとか気づけたのでよかった。一概にイベント直後に書いた出来たてほやほやの文が良いとも言えない。長期間寝かせておいたら別の見方を深めることもできるから。

 

 当時の投稿は町田熱が最高潮だったうえにイベント直後に書いたとあって興奮が文に表れており、質問に答えてもらったりサインを貰ったりしたことでもう死んでもいいとかわざわざ太字フォントで書いているが当時の自分に「お前そんなことでいちいち死んでる場合じゃないからな」と声をかけてやりたい。

 

私が質問したのは、『くっすん大黒』『きれぎれ』『けものがれ、俺らの猿と』などで滅茶苦茶な振る舞いをする人間がいっぱい出てくるがああいうキャラクターの人物造形は何を思ってやっているのか?といったことだった。町田の回答は、世界を見るうえで善悪できっぱり分けられる二元論のような考えは自分はしない。悪を自分と違うものとは考えないし、善も自分と違うものとしては考えない。とにかく人の必死さを描くのだ。ということだった。

 

他の質問者が「自分は英語文学の翻訳者になりたいのだが幅広く色んな分野に精通しなければと思うと途方にくれてしまう」と言ったことに対する「全てに精通しようとするのではなく得意分野を見つけて極めればいいし、苦手な分野に苦心・工夫して取り組むことで見える境地もあろう。それはその分野が最初から得意な人では到達できない新たな境地に違いない」という回答がすごくよかった。

 

また別の質問者が「個を超越して書くことが大事と言ってたが、書くのが一個人である以上それは難しいのではないか」と問いかけたのに対して「一度出力された文章は個を離れるものなので、自分の手から自由になった文章を眺められる柔軟な視点を意識しておくとよい。難しいけど」と回答していたのも、なにやら禅問答のようで難しいが面白いと思った。

(おわり)20180922 町田康の講演「文学の面白さ」@NHK文化センターさいたまアリーナ教室

これが最後の話題である。繰り返すが、町田の流暢なトークを聴きながら必死に書き取った乱雑なメモと頼りない記憶をもとに書いているので多少の解釈違い、聞き間違い、思い違いは海容願いたい。

 

4. 古典のテーマにどう取り組むか・犬とか猫の語り口

...町田康は昔の時代を舞台とした創作でも知られている(『告白』『宿屋めぐり』『付喪神』『パンク侍、斬られて候』『ギケイキ』等)し、自身がともに暮らしている犬や猫をテーマにしたエッセイや絵本でも知られている(『スピンク』シリーズ、『猫にかまけて』シリーズ、『猫のエルは』等)。それらの作品の中から『パンク侍、斬られて候』『告白』を特に取りあげて古典にどう取り組むかといったこと、また、犬や猫を語り手に据えた場合の語り口についての考えを述べていた。

 

まず、大河ドラマへの違和感というものがある、と町田は口火を切った(いま書いてて気づいたがNHK主催の講演で大河ドラマに批判的な発言をしているのが面白い)。大河ドラマを見ていて、「上皇院政を布いたことがきっかけで摂関政治が始まりました」という説明があってそれは短絡的でおかしいんじゃないのかと思ったそうだ。何がおかしいかというと、歴史上の事柄を時系列に並べた結果だけを見て、事後的に語っているところがおかしい。まるで株の運用の結果論じゃないか。結果から逆算して「あんなことをしたアイツはアホだ」などとえらそうに断ずるのは簡単だが、当時の状況や人々の心境にもっとフォーカスするのが大事なのではないか、と語っていた。あとは、見取り図を描くようなことはせず手探りでやっていくのがいいらしい。また、昔の人や犬猫を自分とは違うものだと見なす意識を持ってはいけないとも。

 

えーと、町田康の講演は何度か聴いたことがあるのだが、大抵トークに興が乗り過ぎてスケジュール通りにいかず後半めちゃくちゃ駆け足になってぐずぐずになったり「ごめん、あとはいつか次の機会に話すわ」みたいになったりする。今回も終盤のメモはかなり駆け足感がある。あ、猫をテーマにした文が面白い人として保坂和志の名を挙げている。

パンク侍、斬られて候』は「正しいこと、正しそうなこと、正しさを追求したい人は正しいのか?」といった問いを念頭に書いたそうだ。所謂「正しさ」の嘘臭さ、パンクすなわち権威や伝統を疑うこと、がテーマらしい。

『告白』に関しては、河内音頭の話をしていた。町田は河内音頭も好きなのだが、河内音頭の決まり口上では自分をくさす・痩せ我慢する・身をやつす事と「とはいえ俺ってけっこうすごいかも」みたいな得意の絶頂感を行き来する様式美があって、それをおもしろいと感じているらしい。

 

ほんとはもっと話すことがありそうだったが時間切れとなってしまい、最後にこれだけ言わせて、と言っていたのが

・世界にはフィクションにも現実にもおさまりきらないものがあって、それを書くのが文学の醍醐味

・文章そのものに奉仕するつもりでおれは文章を書く

との言葉だった。

 

おわり

(つづき)20180922 町田康の講演「文学の面白さ」@NHK文化センターさいたまアリーナ教室

2. なぜ書くことが怖かったか

…偉大な作家の素晴らしい小説を読んでしまうと「文章は貴いものだ、自分なんぞが下手な文を書いては畏れ多い」 という感じが出てくると言っていた。良い文章をよく読み込むということは文章が語る言葉に「耳をすます」ことであり、よい文章を読み込んで耳をすますほど自分が何かを書くことへの畏れが高まっていった。良い文章をどんどん読んでいくとして、どのくらい読んだら自分の文章を書けるようになるのかという葛藤を抱えていたことにも触れた。町田がいまいちだと思う文章について、リアルの出来事をパッパッと出力するような同時中継的な文章は面白くないと思うと言っていた。なにかリアルな出来事が自分に降りかかったら、時間をかけてそのことについて考えて嚙みこなして、その出来事がまさに起こったときの自分と今の自分との時間差・落差を書く、それが小説の醍醐味だと。奇想天外な着想は、それに比べたらほんのフレーバーに過ぎない。よく読むということを身につけていない奴の文章はいくらカッコつけてても読めばすぐわかる、ええカッコするな、ろくに読んでいないことがバレるから。とのことだった。

 

3. 文体の話

...純文学とエンタメ小説の違いについて説明していた(注:純文学の定義ってなんですか?いわゆる大衆小説、エンタメ小説との違いはなんですか?という基本的な情報はネット上でいろんな人が解説しているので、それをいくつか読めばいいと思う)。町田康が書く作品のジャンルは純文学だと考えられる。作者の思考を五感(感覚)を通してかみ砕き文章にする。このプロセスが肝要だ。小説を書くなら、文章を単なる意味や情報の伝達手段とみなすのではなく文章そのものが目的であるという文章でないといけない、という発言が印象的だった。

 

つづく。あと一回で終わらせます。

 

20180922 町田康の講演「文学の面白さ」@NHK文化センターさいたまアリーナ教室

 部屋を片付けていたら表題の講演を聴いた時のメモが出てきたので、当時を思い出しつつここに記す。うろ覚えや聞き違いや解釈違いなどあるかもしれないが、怒らないでほしい。

 さいたまスーパーアリーナに来たのは初めてだったが、とても大きな建物だった。有名ミュージシャンが大規模コンサートを開催するときに使われるメインエリアの他に、それよりは小さめの展示ホールとかスタジオとか色々あるみたいだった。NHK文化センターのさいたまアリーナ教室はその巨大な建物の脇っちょから小さな入り口をスルリと入ったところにあった。町田康が冗談めかして「俺もさいたまアリーナで講演するなんてだいぶ出世したな、豪儀だなと思ってたらメインの派手な入口じゃなくてひっそりした陰のほうの入り口からコソコソッという感じで入ってきた」「まぁこれで俺はあのさいたまスーパーアリーナトークしたことがあるんやぞ!と言えますからね。嘘は言ってないから」と言い、聴衆の笑いを誘っていたのは覚えている。

 

1. 町田康が本格的に書く仕事を始める前どんなだったのか

…彼は十代の頃から音楽活動をしている。17才の時に頼まれて音楽活動についての文章を書き、それが彼が覚えている限り最初の書き仕事だったのだがテキトーにこなしたと言っていた。20才の時、別の人に頼まれて美術雑誌に寄稿したのだが原稿を受け取った人は「俺に原稿を依頼したのを心底後悔するような」絶望的な表情をしていたらしい。一気に年月がとんで30才ごろ、小説を読むようになった。友達の部屋の本棚にあるのを読んだらしいが、具体的な作家としては井伏鱒二筒井康隆などを挙げていたと思う。その時点で彼は文章というものについての特別視・畏怖があって、自分は書く側の人ではないという意識であったらしい。そのうち、同人誌で日記の連載をやらないかという話を持ち掛けられた。町田康以外にも何人か声を掛けられた人があり、雑誌に色んな人の日記を載せるという趣向の企画だったそうだ。町田は「日記なら書けそう」と思い引き受けたのだが、ここで「書く」ことの中心をつかんだ。各人はその日一日に起こった出来事を自由に書くのだが、町田の日記は他の人に比べ一日当たりの枚数が多かった。彼はここでしきりに「迂回」という言葉を使っていた。すなわち、行動の目的や結末へと一直線に向かうのではなく例えば「ライブハウスへ行こうと思って駅で電車を待っていたら変な男がいて、その男が手から提げていたビニール袋には知らない店の名前が記されていたのだが…」というような書き方をするのだ。町田の自己分析によると、そういう書き方をするのは自身の「書く」ことに対する恐れが結論をズバリと言うことを躊躇わせ、言葉を連ねさせるのだということだった。

 町田は別の日に井伏鱒二についての講演をしたことがあって私はそれも聴きに行ったのだが、彼はその講演でも「迂回・韜晦(本当に言いたいことや物事の核心をなかなか明らかにしないこと)」の重要性を言っていたので「迂回」は彼の大きなテーマなのだろう。

つづく。