つぼ

好きなことを好きなときに好きなだけ書く

「夢を持て」というのろいの言葉。

 自分のブログページを開き文章を打つ時は、なるべく心が落ち着いた状態で実行するよう心掛けています。ですが、波風立っている心境であればあるほど、頭の中を吐き出したくなる衝動に駆られるものですね。吐き出すことで一旦整理したくなります。

 私の場合、大体においてそういうのは「よくない衝動」です。なにかを発見することで興奮し、それにより高揚した気持ちを発信するといったニュアンスではなく、とにかく頭の中が混乱している状態。大抵は一晩眠れば落ち着きますが、時間をおいてふつふつと再燃する思いがあるということは、「衝動」ではないのかもしれない…。

 

 「夢を持とう」という言葉を幼い頃から耳にしてきました。幼稚園でも「将来の夢」を絵に描くといったお遊戯タイムがあったのを覚えています。日本、いや世界中で?、古くから代々そういった教育がされてきているのでしょうか。当然と言えば当然ですよね。人類の未来に関わることと言っても過言では無いのですから。

 本当にいいことだと思います。大勢の人にとっては。ごく自然に、そう遠くない未来の、希望に満ちた自分を思い描ける良い機会。まだ生まれて数年しか経っていないその時点で、夢を自分の中に構築し(夢というものが収まるための隙間を埋めて)、それに向かって前進する。小学生、中学生、高校生…と時を経るごとにその夢は具体性を増し、いつの日か本当に「夢の通りの自分」になっている…。眩しいです。

 その頃からてきとうな言葉を紡いでいる自覚があった人は、いるのでしょうか。きっといるはずなのでしょうけれど、周囲にとってそんな過去の話はもはや忘却の彼方かな…。私の場合は年齢が上がるにつれ「てきとうさ」が増していきました。徐々に思い入れが無くなっていき、「(安定しているらしいから)公務員になりたい」だの「(できるだけ人と関わりたくないから)在宅の仕事をしたい」だの。

 今でも「将来の夢は?」と尋ねられると返答に困ります。「わかりません」と回答した際には「なぜ?自分の夢なのに?」と問い詰められました。自分の夢なのに自分でわからない、ということはそれほどまでに異常なのでしょうか?だって、自分でもわからないのだもの。夢が入るための隙間が、隙間のままずーっと心にある状態です。大きな夢を持つ人というのは「夢を持たないことは悪」とでも言わんばかりに攻撃的だったりします。

 

 多くの人にとって夢というのは、煌びやかな追い風のように背中を後押ししてくれるものなのでしょう。私にとっては、もやもやして正体が見えない、重圧でしか無いです。

指針的なもの。

 あまりにも自分という人間が空っぽで、なにかに情熱を注いだことがありません。一応趣味はあるのですが、「●●が好きです!」と胸を張って言えるようなものでもありません。

 

 思えば、周囲が何食わぬ顔でこなしていくような些細な事柄に躓いて来ました。考え過ぎる性格なので、「これをする意味は?」「これをして何になる?」というどうでもいい問いが内に生まれ、その度に自分なりの答えを見つけようと必死になるのですが、大抵の事柄にはおそらく意味なんて無い…のだと思います。そういう風にできているからそういう風にするしか無い、というか。

 答えなどわからなくて当たり前のはず。自分が納得するかどうかが言わば正解なのでしょう。

 

 …頭ではそう思うのですが、自分は「納得」ということがよくわかりません。どういうことなのか、感覚的に理解できません。なにかに情熱を注ぐという、「心の底からの思い」を感じ取ることが無いためです。

 

 ですが、もう子供では無いですし、いい加減仮面だけでも自分なりに納得する考えを見つけたいと強く思っています。外面だけでもなにかを装っていれば、いつかは本体(?)もそれに馴染んでいくのではないかという淡い期待のもと。

 「当たり前になることを恐れないこと」、「続けること」、「期待しないこと」。

 この3つの考え方は理屈っぽい自分でも割とすんなり受け入れることができました。何をするにしても規則を決めないともやもやしてしまう自分なので、この3つだけは大切に、あとはもうどうとでもなれ精神で生きたいです…。

 

 人もの問わず、執着は自分が苦手とする事柄です。情熱と執着はとても近いところにあるのでしょうから、自身の内に情熱を得るためには執着しないとダメなのだろうとも思いますが、醜い感情だと感じてしまいます。執着無しに情熱を注ぐにはどうすれば良いのか…。

 穏やかに生きるために、執着とは無縁でありたいものです。

わからないこと。

 ブログを始めた理由は、「自分にはわからないことが多すぎるとよく反省するから」というのがイチバンかと思います。

 

 これまでにも色々なSNSやブログなどで「自分」を発信した経験があるのですが、どこに行っても、それぞれの場でそれぞれの自分が形成されたような感覚がありました。場所を移る度に「誰の目も意識しないでおこう」と思うのですが、自分にはそれがとても難しい…。全ての場所で言動にブレが無いよう努めても、仮面を被ったかのように、発言だけではなく思考までもが変わっているように感じられました(ある意味、適応していたのかな)。根本的な、もやもや・どんよりした部分はどこでも同じでしたが。

 そしてこうして新しい場所に来た今でも、前記事にてさっそく「読み手」を意識してしまっています。

 

 どの場所の自分も、自分だと言えばそうなのでしょう。

 ですが、私自身が自分という人間を理解出来ていません。何をどう理解出来ていないのか、何もかもわかりません。そんなの読んでる方にとってはもっとわからないこと。

 

 とにかく、自分という人間を少しでも理解できたら、という思いで新たにブログを開設した次第です。頭に浮かんだことを一つ一つ吐き出しつつ、パズルみたいにそれらを繋げたりして、整理したい。かなり電波なことになるんだろうな…。それも止むを得ません。自分で思うけど本当にお堅いなあ。

てきとーに続ける。

ブログを始めるにあたり、規則を明確にしないのは

いかがなものかと思います…。

読み手の存在を想定した時に、色々と読みにくいので。

ですが、今まで自分の中に規則を作りすぎたために

ちょっとアレなことが招かれるケースが多くあったので、

今回こそは、てきとーさを心掛けようと思います。

こういった宣言をする時点で、

じゅうぶん角張ってるのだろうけれど。

 

若干根暗な人間が考えていることをダラダラと書くだけのブログです。