金剛寺の枝垂れ桜 縁がないのかぁ 

豊田市一色町川原鎮座金剛寺
3月にカタクリの花を見に行ったさい、豊田市金剛寺に立ち寄りそこで見た枝垂れ桜が忘れられず、あれから既に一か月
名古屋のソメイヨシノも見頃を迎え、さすがに「葉桜になっているから」と自分に言い聞かせる毎日が続いていた
それでも花を付けた枝垂れ桜の姿が諦めきれず、周辺の神社も廻り切っていない事を口実に、4月6日再び金剛寺を訪れてきました
中通りかかった雲興寺の桜は満開を迎え、駐車場には多くの車が止められていました
やはり枝垂れ桜は葉桜かぁ

金剛寺境内から眺める藤岡神社社叢、社頭脇のソメイヨシノは見頃を迎え、このタイミングでは金剛寺境内周辺の桜は既に終わりを迎えていました

駐車場から築地塀越しに見る枝垂れ桜
わかってはいたが薄紅色に染まった枝垂れた桜の姿は遅かった

境内左から樹齢300年と云われるエドヒガン桜の全景
既に散った花弁が境内を薄紅色に染めていた
例年満開を迎える時期がいつ頃なのか、自分の記録がなく想像もつかないので致し方ない
前回訪れてから1ヶ月を経て、それでも頑張って咲いている方だろう

上の写真は3月7日に訪れた時の枝垂れ桜、本堂が見通すことができる状態で蕾も堅かったが
さすがに一か月後は無理がある、タイヤがバーストした3月28日に寄ってみるべきだったか

金剛寺エドヒガン桜

こちらは五条川ソメイヨシノ
華やかなソメイヨシノの花とエドヒガン桜を比較すると、エドヒガン桜は枝垂れた枝全体に小さな細い花弁を付け、その繊細さが女性的な美しさを感じさせます

前回は閉じていた本堂の引き戸がこの日は開けられ堂内を見る事が出来た
4月8日はお釈迦さまの誕生日
花まつりまで桜の花が付いていればいいんだろうがねぇ

来年はもう少し早く訪れ、猿投山を背景にして朝日に照らされた里山の枝垂れ桜と金剛寺を撮ってみたい

金剛寺
宗派 / 曹洞宗
山号 / 菩提山
開山 / 大永元年(1521)
本尊 / 不明
参拝日 / 2024/04/06
所在地 / 豊田市北一色町川原278-3
関連記事
『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原

『八柱神社』豊田市北曽木町

前回掲載した折平町八柱神社を後にして、今回は北曽木町に鎮座する八柱神社を掲載します
折平町から県道353号線を北上し、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停を過ぎた左側の高みに北曽木町の八柱神社は鎮座します
折平町の北に隣接する北曽木地区のほぼ中央の折平山東麗に位置し、農地を取り囲む様に集落が点在しています

集落と農地を見守るような高台に北曽木 八柱神社は社頭を構えています
南東向きに社頭は、左の社務所脇から石段が上に続き、右手に常夜灯が立てられています

社頭前の道路は幅員の狭い生活道路なので路上駐車は出来ません
社頭前に火の見櫓が立っており、その脇に小型車2台ほどの駐車余地がありそちらに駐車させてもらいました

石段右に社標と由緒が立てられており、由緒の内容は以下
「十五等級 八柱神社 旧村社
鎮座地 豊田市北曽木町片平232番地
祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
由緒
 創建は明らかではない
社蔵の棟札に奉修理 八王子遷宮 武田金右エ門経定享保18年丑年(1733)11月吉日とある
北曽木の氏神として村民の崇敬あつい
明治5年(1872)10月村社に列格
境内社の創建
津島社は安政4年(1857)
太神宮は慶応4年(1868)9月
山神社は文政2年(1819)2月
例祭日 10月第一土曜日
社殿
 本殿 流造、0.25坪
 覆殿 2.25坪
 幣殿 2.25坪
 拝殿 12.5坪
 社務所 12坪
 参集所 8.75坪
境内坪数 174坪  藤岡観光協会 」と記されている

以前も書きましたが、この辺りの神社は概ねこうした由緒が整備され初めて訪れた者にはとてもありがたい
西加茂郡誌に目を通しましたが、上の内容以上の記述は見られなかった
社頭左の社務所・参集所をはじめとし、近年再建され綺麗な社殿に生まれ変わっています

鳥居全景
昭和2年(1927)寄進の明神鳥居

昭和2年寄進の明神鳥居
ここから緩やかな石段が境内に続いています

鳥居扁額は「八柱神社
この辺りは各地区ごとに八柱神社が祀られているのか実に多い、これを全て廻るのも面白い

石段の左の石の社
文字が刻まれていましたが読み取れなかった

社頭を振り返る
正面に見えている道路が県道なので火の見櫓と鳥居が目印になるかな

境内の全景
折平町の八柱神社を思わせるような高い石垣と白壁が眩しい社殿
社殿両脇には境内社が祀られている

この光景も折平町の八柱神社を思わせる

拝所全景
再建が何年前か定かではないが、今でも木の香りが漂ってくるようだ

掲げられている額も新調されたものだろう

斜めから見る社殿全景
長い庇の下が拝所で社殿そのものが鞘殿・幣殿を兼ねたモダンな外観
内部には流造の本殿が祀られており、脇障子の前にはここまで見かけなかった狛犬の姿がある
小型の陶製狛犬で頭には角も生えているようだ

鞘殿左の境内社
左が秋葉神社、右が安政4年(1857)創建の津島社

鞘殿右の境内社

左の覆屋には左が文政2年(1819)創建の山神社、右が天照皇大神宮とあるが慶応4年(1868)創建の太神宮と思われます

右は稲荷社
こちらは近隣から遷座されたものか、創建などは不明

拝所から眺めた境内
境内は社殿を除いても広い面積があり、特に右手方向が広く、農村舞台でも建っていたのではと勘繰りたくなる

脱線しますが
先日、迫町下切町の立派な農村舞台が残る磯崎神社を訪れ、地元の方から農村舞台についてお話を伺う機会があった
その中で「農村歌舞伎を継ぐ後継者がなく、立派な舞台が建つ広い敷地では10月に棒の手と火縄銃の空打ちが行われ、歌舞伎は途絶えてしまった」と伺った
今でもしっかりした木材で造られた舞台も維持に手が回らず、役割を終えやがて朽ち果て姿を消す事になる
八柱神社の境内の広さはそうした名残なのかと思いたくなる
受け継がれてきたものが途絶えると云うのは寂しい限り、しかしそれも時代の流れなんだろうねぇ

境内東側からモダンな社殿の眺め

境内右から樹々に包まれた白いモダンな社殿の眺め、別荘的な雰囲気が漂う社殿の外観です
この道は社頭まで続いていますが、恐らく祭礼時の資材搬入用で農道のフェラーリ専用道
参拝目的で乗り入れるのはやめた方が無難だろう
このまま社頭まで下りていく

社頭から北曽木町の眺め
常夜灯は明治22年(1889)の先人達が寄進したもの

今回、猿投神社が鎮座する猿投山の東麗を走り飯盛山カタクリを目指しました
道すがらの集落には古くから護られてきた農村舞台や社寺などあり、興味深い土地柄でした

北曽木 八柱神社
創建 / 享保18年(1733)八王子遷宮の棟札
祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 秋葉神社津島神社天照皇大神宮、山神社、稲荷社
所在地 / 豊田市北曽木町片平232
氏子地域 / 北曽木町
例祭日 / 10月第1土曜日
八柱神社(折平町)から八柱神社(北曽木町)まで車アクセス / 県道353号線北上直進、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停の先を左折 車移動時間​約5分・1.5㌔​​​​
参拝日 / 2024/03/07
関連記事 / 

『八柱神社』豊田市折平町

前回掲載した上渡合町に鎮座する八柱神社から、車で県道33号線を北上、折平町地内で県道353号線へ
右手の田んぼの中のこんもりとした杜が今回の目的地折平町の八柱神社になります
移動時間は5分もかからないでしょう

県道33号線から県道353号線に入りそこから東方向の上渡合の八柱神社方向を眺める
飯野川沿いに開けた傾斜地に田んぼが広がり、ここから西側は折平山が迫っている

八柱神社(折平町)の社地全景を東から眺める
農地の中心に神社が鎮座し、古くからの集落は山側に集まっている
社頭は南東向きに鳥居を構え、社殿はお椀を伏せた様な杜に包まれています
杜は数本の杉の巨木と広葉樹で形作られ、桜の樹も見られます
社地の盛り上がり具合は古墳をイメージさせるものがあります

社頭の眺め
一対の常夜灯と右にある村社八柱神社の社号標は大正9年(1920)寄進されたものでした
石の明神鳥居から境内に入ると左に舞台らしき建物があり、社殿は城壁を思わせる高い石垣の上に建てられています

社頭右にこの辺りではお馴染みの由緒書きが立てられています
「十ニ等級 八柱神社 旧指定村社

鎮座地
 豊田市折平町姓敷329番地
祭神
 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命湍津姫命、田心姫
由緒
 元亀年中(1570-1573)の勧請には安政5午年(1858)、棟札に創建は貞享3丙寅年(1886)と記されている
 古来は若宮八王子社と称した
 明治5年(1872)9月村社に列する
 昭和15年(1940)7月7日、社殿改修、社務所新築
 同16年10月6日指定社となる
 境内社の山神社は天福元巳年(1233)2月7日、琴平社は天保10巳亥年(1839)3月10日と棟札に記されている」

西加茂郡誌に目を通す、折平八柱神社の記載はあったが祭神以外は記されていなかった

鳥居の寄進年も大正9年(1920)寄進されたもの

鳥居額は八柱神社

社殿正面全景
見上げるばかりの石垣と社殿に続く石段、上り口に一対の狛犬と手水鉢が置かれています

手水鉢には配管から手水が注がれるようですが生憎と注がれていなかった

石段前の狛犬は標準的なもの(年代未確認)

入口から見上げる神門と拝殿
神門と拝殿に架けられている額はどちらも八柱神社とあり、劣化もないことから近年改修を受けたのかもしれない

社殿全景
切妻妻入りで向拝を持つ拝殿と切妻平入の鞘殿がひとつに繋がったもので、鞘殿には千木と鰹木が付く

拝殿の鬼には八柱の社名が入る

大きな拝殿額
拝殿や鞘殿は虚飾を廃したシンブルな外観です

ガラス越しに見た本殿、造までは分からなかった
祭神は天照大神須佐之男命の誓約により生まれた五男三女神です

鞘殿左の境内社
由緒にあった琴平社や山神社はここに祀られている

左から津島神社琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社の七社相殿
琴平社はともかく、山神社が二社祀られてる、どちらが由緒にあるものだろうか

相殿の左に一社だけ離れて祀られている石の社
文字が刻まれているのだが全く読めない、これが由緒にある天福元巳年(1233)の山神社だろうか
もともとこれらは神社合祀令にともない、集落に点在していたものが八柱神社に纏められたものと思われます

神門から見下ろす境内
右手の建物の用途が良く分からなかった
農村舞台が多いこの辺り、これも農村舞台?と思いたくなる

まるで城壁
ここから西側の県道を越えた、折平山の東麓から続く尾根の高みには戦国時代に築かれた折平城址があるという
その一帯の地名が折平町中屋敷、地名から嘗てこの辺りを収めていた豪族の居館があったことが偲ばれる
三河志の折平城の項目には城主不明の記述だけで、築城年・築城主は不明

社地西側に集会所のある広場と隣接しており、社地の斜面に殉国の碑が立てられています

殉国の碑の先でどっしり聳える樹齢200年を越えるツブラジイの巨木
太い幹は途中から二つに分かれ、そこから更に大きく枝を広げている
樹高は目測15㍍以上あり、幹回りは約3.6㍍と見事な樹で、豊田市の名木に指定されている

八柱神社
創建 / 貞享3年(1886) 棟札の記録
祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 津島神社琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社、不明社
所在地 / 豊田市折平町姓敷329
氏子地域 / 豊田市折平町
例祭日 / 10月第4日曜日
上渡合八柱神社から折平八柱神社まで車アクセス / 県道33号線北上し県道353号線に入り右側​5分以内​​
参拝日 / 2024/03/07
関連記事 / 
・『八柱神社豊田市上渡合町
『藤岡神社』豊田市北一色町
『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原
『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷
『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平
『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平
​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『八柱神社』豊田市上渡合町

前回掲載した金剛寺や藤岡神社の鎮座する北一色地区から、車で北東に5分程の上渡合地区に鎮座する八柱神社を取り上げます

鎮座地は県道33号線と県道352号線の分岐となる上渡合町大畑交差点から50㍍程南下した、飯野川左岸の標高232㍍程の山の中腹に鎮座しています
この地域は江戸時代には「加茂郡渡り合村」、天保期には「加茂郡渡合村」と呼ばれていた地域
後に加茂郡西加茂郡東加茂郡に分けられた際、上渡合村は加茂郡から西加茂郡編入され、
豊田市編入により現在の豊田市上渡合町に至るようです

上は県道33号線沿いから東方向の飯野川左岸の鎮座地で、社殿はこの山の高みに鎮座します

飯野川右岸に社頭を構え、赤い橋を渡るとその先から急な石段が続きます
社頭には一対の常夜灯とその先の右に社号標はありますが鳥居はありません

常夜灯は大正13年(1924)7月寄進のもの

常夜灯の少し先の左側に石柱が1本立っています
上を見れば楔が打ち込まれ、貫の木鼻だけが残る明神鳥居の柱のようです

右側の社号標は社名は八柱神社大正9年に建てられたもの
その先に途中からポッキリ折れた柱と周辺には折れてしまった島木や笠木、貫が纏められていました
何が起因してこうなったのか分かりませんが、柱の断面が綺麗な状態なので最近の出来事のようです

橋を渡ると目の前に乱積された岩で作られた急な石段が上に向かって続き、その険しさに石段の前で立ち止まる
手摺はないのでポケットに手なんか入れて登ろうものならただでは済まない
石段の前の一対の狛犬は「ご安全に!」と呼び掛けているようだ
右手に解説板と左手に石碑が建てられています

石段付近の全景
こうしてみれば石段の傾斜も分かりやすいのでは

石段の上り口を守護する狛犬
阿形は毬、吽形は…子持ちだろうか

寄進年は未確認の狛犬の台座には井筒紋、下は橘の紋が刻まれている

左側には辨財天が祀られていました

由緒書きの内容は以下
「十四等級 八柱神社 旧村社
鎮座地
 豊田市上渡合町井ノ脇105番地
祭神
 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命湍津姫命、田心姫

由緒
 創建は明らかではありませんが、社蔵の棟札に奉建立 若宮一宇 貞享三丙寅年(1686)3月15日とあり、再建とも考えられている
往古は若宮八王子社と称し産土神として崇敬されている
明治6年村社に列し、同12年八柱神社に改称
例祭日 10月
社殿
 本殿折屋造り 0.3坪
 幣殿 3.4坪
 拝殿 4.5坪
 社務所 5坪
境内坪数 675坪」
とありました
余談になりますがこの辺りの比較的狭い範囲の集落には八柱神社が点在しています
山間で古くから人が住む小さな集落が点在しているのは分かりますが、理由は分からないが八王子を祀る神社が多いことに気付くはずです、藤岡神社も大正以前は八柱神社でした

講釈ばかりで、これ登らなきゃ話は進まない
足元を確かめながら一段〃行ってみようか

角が取れた石が多いので踏み外しに要注意
この社叢には桧が多いようですね

夜間も参道脇の街路灯が足元を照らしてくれて…というか夜ここを登るのは勇気がいるだろう

拝殿が見えてきた
長い距離の石段ではないものの、傾斜があって手摺がない不規則な石段は気が抜けない

無事に到着
目の前の建物は拝殿でいいと思います

拝殿から本殿の覆殿の眺め

切妻瓦葺の四方吹き抜けの平入の建物で、覆殿と祭文殿も兼ね備えた建物になっています

本殿域の玉垣昭和3年
手前の常夜灯の竿には明治の元号と、更に社名も刻まれていますが、八柱でも八王子とも読み取れない社名が刻まれているようです

覆殿前から社殿の眺め
正面が八柱を祀る本殿と左右の覆屋の中に其々2社が祀られていますが、社名札は掛けられていない様でした

本殿は板宮造りの一間の向拝と階段が付くもので解説には折屋造りとある

右の二社、社名は不明

左の二社、こちらも社名札がパッと目見当たらなかった
こうして写真を纏めている際中に覆屋の棟の先に社名の書かれた木札がある事に気付く
その目線で他の写真を見返して見るが木札はこの一枚だけのようです
拡大しても何が書かれているのか読み取れなかった
恐らく全ての社はこうした位置に社名札が掛けられていたのかもしれません

これを書いている段階で由緒書きの内容に満足してしまったため、地史まで調べなかったが、ひょとすると境内社が記されているかもしれません
今の時点では不明社として、何か分かれば追記する事にします

参拝を終え覆殿右手から全体を眺める
境内はここから右に下りの参道があるようです

下から見た際にこの参道口は見当たらなかったが、あの石段を上らずに境内に通じているようです
参道左側の斜面に手水鉢が置かれ、清水は絶え間なく注がれているようです

鉢には寄進年が見当たらなかったが、注がれる水は配管で上の方から引かれているようです
鉢の脇から上に続く道があり配管を追いかけて見ました

少し先の山肌に小さな湧き水が溜まる場所があり、配管の先はここに繋がっていました

周辺はシダが生い茂っており、木漏れ日に透かされて鮮やかな緑を魅せています
さて、ここからどの参道から下に降りるか

下りの石段は怖いけれど、ここは確実に戻れるこの道を戻る事にしよう
真っすぐ下向きに降りるのは避けたい、上り以上に要注意だ

飯野川の流れも春めいて見える

八柱神社
創建 / 貞享3年(1686)再建
祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 辨財天、他不明社4社
所在地 / 豊田市上渡合町井ノ脇105
氏子地域 / 豊田市上渡合町
例祭日 / 10月第2日曜日
藤岡神社から八柱神社まで車アクセス / 県道350号線を南下北一色町内で左折し県道33号線を北上​5分​​
参拝日 / 2024/03/07 
関連記事 / 
『藤岡神社』豊田市北一色町
『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原
『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷
『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平
『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平
​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『藤岡神社』豊田市北一色町

前回は北一色町川原地内に鎮座する金剛寺を紹介しました
今回は同じく北一色町山洞地区に鎮座する藤岡神社を掲載します

鎮座地までは車で移動する必要もなく
金剛寺の前を横切る県道350号線を東に越えて、田んぼの中の農道を歩いて行けば社頭に至ります
県道から東を見ると鳥居の姿も見えるはずです
あの鳥居まで徒歩5分もあれば辿り着ける距離にあります
社殿は鳥居の先に見えている緑豊かな杜の中腹に鎮座します

杜の手前に靖国鳥居が建てられ、鳥居をくぐり飯野川に架かる神橋を進むと藤岡神社の社地になります

社頭から境内の眺め
鳥居右には「村社藤岡神社」社号標が立てられています

現在の藤岡神社は、かつて別の名前で呼ばれていた可能性があります
寄進年を確認するために社号標の表と裏を見る
上の写真は大正時代に寄進された社号標の「藤岡神社」と刻まれた表側
下の写真は社号標の裏側で社名は「八柱神社」と刻まれ社名が異なっています

新橋を渡ると杜の中に石段が現れ、その先に拝殿らしき姿が見えてきます
石段の左手に解説板らしき姿が見えます

解説板の内容は以下
「九等級 藤岡神社 旧指定村社
鎮座地
 藤岡町大字北一色字山洞40番地

祭神
 天照大神素戔嗚尊が天の誓約を為した時に生じた八柱の神
 即ち、日本書紀に拠れば、正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命
 天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命(以上天照大神の御子)
 田心姫、湍津姫命市杵島姫命(以上素戔嗚尊の御子)の八柱を祀る
由緒
 明徳4年(1393)、猿投「東の宮」の摂社「御子の宮」をこの地に遷す
 「東の宮」の神主 武田恒家供奉して「八王子の宮」と称し、猿投山東方の総鎮守「小猿投」とも呼ばれた
 明治五年八柱神社と改め村社となる
 明治45年(1907)指定社となる
 大正12年(1923)藤岡神社と改称
 昭和63年(1988)に神撰所、平成12年(2000)に社務所新築
社殿
 藤岡地区最古の神社本殿は二間社・流造・檜皮葺で希少性を誇っている
社殿等面積 64.77坪、境内坪数 1306坪
例大祭 毎年10月
神賑行事 飾献馬、棒の手演武、火縄銃奉納射撃、巫女舞
氏子数 208戸」とある

なるほど、社号標の社名の違いが腑に落ちた
それにしてもこの辺りの神社にはこうして詳細に書かれた由緒が多く、モヤモヤを晴らすのに調べる必要がなく個人的にありがたい

スッキリした所でこの石段を上る事にします

石段脇の常夜灯の寄進年は大正10年(1921)

石段を上り詰めると蕃塀のように拝殿が迫り、その先に社殿が見えています

拝殿右から境内に回り込むと棒の手顕彰碑が建てられています
碑文から一部抜粋した内容
・一色の棒の手は織田家臣の本田游無が創始した流派「見当流」
・天文年間中根城築城時に地元民に祝意を表すために棒術を披露し、地元に広めた
・「見当流」は名古屋市内を中心に広まり、熱田神宮へも奉納、品野をはじめ尾張三河にも広まっていった
豊田市八草・猿投町・足助町藤岡町一帯で「見当流」が栄えている
・北一色の棒の手は明治4年生田芳蔵他3名にはじまり、氏神様の藤岡神社の大祭では献馬と共に奉納されている

顕彰碑から社殿の眺め
拝殿正面から見通した境内は広さを感じなかったが、こうして見るとかなり広い境内を持つ神社です

社殿は左に社務所、正面の一段高く積まれた本殿域に神門・四方殿・祭文殿・本殿と連なり、社殿右の斜面には境内社が祀られています

境内左の手水鉢、本殿後方の裏山から湧き出る御神水が注がれている

境内左から拝殿から顕彰碑方向の眺め
拝殿と書いてはみたものの、この佇まいから岩倉神社の農村舞台にも似ている

拝殿内にも由緒が掛けられていますが、内容は石段脇のものと同じ内容のものでした

拝殿の築年代は分かりませんが、小屋組みは一本物の無垢材がふんだんに使われています

境内から神門・四方殿の眺め

神門前の狛犬(寄進年未確認)

格子戸が閉ざされた神門の前で参拝となります
神門の前に建てられた四方殿の全体は見通せませんが、神楽殿や拝殿のような建物に見えます

境内右の境内社
手前の六社は左から金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社が祀られています
その後方の斜面には朱の社と石の社、石標が幾つか立てられています

上は殉国之碑、下は覚明霊神

更に斜面を登ると上の写真の大己貴大神少彦名大神と、石の祠がある
下は社名札がなく分からないが、この辺りは御嶽講の神域なんだろう
ここまで登ると本殿域を望めます

左が神門の先に建っているのが四方殿で、その先が祭文殿・本殿
何れも新しいもので近年補修されているようです
四方殿は入母屋瓦葺の四方吹き抜けで、床板や縁板、屋根を支える柱と梁にも真新しい肘木が付けられています
藤岡神社の四方殿・祭文殿・本殿は令和4年(2022)に大改修が行われたようです
その際に棟札が見つかり、寛文11年(1671)頃の熱田の大工で猿投神社の社殿も手掛けた藤原朝臣中尾勘右衛門が、当神社の四方殿・本殿を建てたと記されています
また、祭文殿(赤い屋根)から明治43年(1910)の棟札など見つかったようです
豊田市内に鎮座する神社本殿としては、室町時代中期の足助八幡宮本殿を除くと、寛文6年(1666)の熊野神社本殿(月原町)、元禄15年(1702)の川原宮謁磐神社本殿(御蔵町)に次ぐ古いものとなるようです

本殿は中央に柱のある二間社流造で、令和4年の修復時に檜皮葺から銅葺屋根に変えられたようです
詳細は見えませんが脇障子が付くようで、その前に白い狐の姿が見られます
山間の神社にありながら、八王子を祀るに相応しい立派な本殿です
接続する祭文殿は四方吹き抜けで入口側に格子戸が付いているようです

ここから拝殿と境内の眺め
鬱蒼とした杜に包まれていながら、陽射しが降り注ぐ明るい境内です

それにしても拝殿の趣は農村舞台のように見えてなりません
調べて見ると豊田市には約31カ所の農村舞台が現存するようです
しかしその中に当神社の名は見られない事から、やはり農村舞台ではないようです

参拝を済ませ石段の降り口から鳥居方向を見下ろす

鳥居の先には田んぼが広がり、前方に金剛寺も良く見える

藤岡神社
創建 / 明徳4年(1393)
祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命市杵島姫命
境内社 / 金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社等
所在地 / 豊田市一色町山洞40
金剛寺から徒歩アクセス / 県道350号線を越え田圃の農道を北上​徒歩5分
参拝日 / 2024/03/07
関連記事 / 

『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原
『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷
『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平
『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平
​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『菩提山 金剛寺』豊田市北一色町川原

豊田市一色町向谷下の春埜山神社から、県道350号線を2分程​北上した北一色町川原地区
山間に田圃が広がる長閑な田舎の風景が広がります
今回は町内を南北に続く県道脇の高台に鎮座する菩提山金剛寺を掲載します

写真は県道東側の田圃から金剛寺と後方の猿投山を望む
小高い丘に鎮座する金剛寺、こうしてみると戦国時代の平山城か館の様な趣です
斜面には多くの樹々が植えられ、その多くが桜のようです
3月7日に訪れた時点では彩りはありませんでしたが、今頃はピンク一色に染まっているのではないでしょうか

県道から金剛寺門前を眺める
ウグイスのさえずりを聞きながら参道に向かう

菩提山金剛寺寺号標
石段の先にはフラットな参道が本堂へと続きます

境内の桜は枝垂れ桜が多いようです
左手の森の斜面に祠を見付けたのでそちらに向かて見ます

杜の斜面に作られた石祠
祠の両脇と天井は一枚岩、後方は小振りの石が積まれた壁になっていて
まるで横穴式の古墳のようにもみえてくる

祠の中には一体の石像が安置されていました
岩座に座り左手に巻物を持つこの姿は役行者なんだろうか

金剛寺伽藍
石垣が積まれその上に築地塀が築かれ境内を囲む
境内左に金剛寺を象徴する見事な枝振りの枝垂れ桜が聳えています
この桜が満開を迎えた時、金剛寺はさぞかし艶やかな姿になるのだろう
菩薩山金剛寺について大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌を調べたところ以下内容でした
「菩薩山 金剛寺 創建大永元年(1521) 境内反別四反三畝二七歩」
曹洞宗の寺院で本尊は分かりませんが釈迦牟尼仏だと思われます
またWIKIには天保期(1831-1845)から明治初期まで、金剛寺において寺子屋が開かれていたとも伝わるようで、享保19年(1734)に雲興寺の霊源陽沢和尚により開山とも云われ、雲興寺の末寺でもあるようです

境内のシダレザクラ
霊源陽沢和尚手植えによるものとされる樹齢300年の枝垂れ桜です
太い幹の大きなコブから伸びる枝は支柱なしでは姿を保てないほど四方に広がっています
満開の桜、一度見たいものです
例年は3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えるそうです、まだ間に合うかなぁ

豊田市指定文化財(天然記念物)
昭和49年2月に指定された樹高は10㍍のエドヒガン桜の一種という

本堂
伽藍は寄棟瓦葺の平入で右手の庫裏と繋がり、左に毘沙門天、本堂左の薬師堂が主な伽藍

本堂の金剛寺の額

地蔵堂毘沙門天堂、奥に見えているのが薬師堂になります

左から聖観世音菩薩、如意輪観音庚申塔、当山鎮守

毘沙門天

薬師堂

西加茂新四国八十八ケ所霊場の七十番札所になるようです

本堂の鬼には丸に立葵の紋が入っています

参道左側の車道から眺める金剛寺
この道の先は参拝者駐車場に至ります
満開のソメイヨシノが連なる光景は綺麗です
こうした山間の一本の桜が魅せる美しさも引けをとらないものがある
カタクリの開花に合わせて訪れたので桜はまだまだでしたが、来年はこの桜の開花に合わせて訪れてみよう

金剛寺
宗派 / 曹洞宗
山号 / 菩提山
開山 / 大永元年(1521)
本尊 / 不明
参拝日 / 2024/03/07
所在地 / 豊田市一色町川原278-3
春埜山神社から金剛寺、車アクセス / 県道350号線を​北上約2分
関連記事 / 

『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷
『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平
『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平
​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『春埜山(はるのさん)神社』豊田市北一色町向谷

春埜山(はるのさん)神社
鎮座地は、猿投山の東麗の矢作川支流飯野川の右岸の山間に伸びる県道350号線沿いに位置します

江戸時代には三河吉田藩の藩領で加茂郡一色村と呼ばれ、明治には北一色村に改称
その後、加茂郡西加茂郡東加茂郡に分割された際、当地は西加茂郡編入されます
その後も西加茂郡藤河村、藤岡村を経て現在の豊田市一色町向谷下(むこうやげ)となります


個人的に豊田市編入以降、矢作川周辺の住所だけ聞いても場所のイメージがつかなくなってしまった
しかし住所は変われど長閑な環境やランドマークは今も変わらない

神社は県道から西側に少し奥に入った先に社頭を構えています
車で走っていると気付かずに通り過ぎるかもしれない
社頭への幅員は狭く、社標右手の駐車場に入るには普通車だと厄介かもしれません


エンジンを切ると、春めき始めた木立からウグイスの声が聞こえてきます
今年初めて聞いたウグイスのさえずりはここ春埜山(はるのさん)神社だった

社頭全景
右手に社標、神明鳥居の先に拝殿とこぢんまりとした神社です

春埜山(はるのさん)神社社標は昭和60年(1985)健之のもの
右奥に見えているのが参拝者駐車場

春埜山(はるのさん)神社境内に由緒は見られず、情報として書くべきものが見当たりません
なので写真をもとに境内の紹介だけになります

境内から鳥居の眺め
鳥居の寄進年不明、拝殿右に一つの石仏が安置されていました

青面金剛だろうか
製作年代は未確認ですが、昨日今日寄進されたものではないようです

切妻造の木造平入拝殿
左側の社務所兼住居と思われる建物と廊下で繋がっているようです

拝殿額「春埜山神社」
春埜山と聞くと静岡県秋葉神社下社から東に小一時間ほど走り、天竜川左岸の山深い場所に鎮座する神仏習合の名残をとどめた大光寺を思い出します

その昔、山道を求め四駆で訪れたことがあり、興味深い寺だった事を記憶しています

行基が開いた古刹で、春埜山は秋葉山、光明山と並び、遠州三山と称され、大光寺のある春埜山と秋葉神社本宮のある秋葉山は対をなすものと云う
今ほど気軽に写真に残せる環境でもなかったので、改めて訪れて見たい所です
果してこの神社が春埜山大光寺と関りがあるのか根拠はなく、まったくの個人の妄想でしかない

拝殿から本殿域の眺め
祭神は分かりませんがこちらで参拝させて頂きます

拝殿右側から本殿域を眺める
本殿は5本の鰹木、内削ぎの千木がつく神明造で、本殿の両脇に摂社が祀られています
本殿域右手に小さな池があり、本殿域周辺は石が組まれ、庭園の様に手入れされていました

神社についてなにも分かりませんが、昭和中期から後期の航空写真を見る限り、神社の姿は見られません
現在の社殿が建てられたのは、社標に刻まれていた昭和60年(1985)くらいのことかもしれません


春埜山(はるのさん)神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / 不明
例祭 / 不明
所在地 / 豊田市一色町向谷下851-3
参拝日 / 2024/03/07
香嵐渓臨時駐車場から春埜山神社まで車アクセス / 香嵐渓臨時駐車場から西へ力石交差点で右折、県道350号線を北上​約25分
関連記事

『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平
『神宮山 十王寺』豊田市足助町宮平
​・『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後
『足助神社』豊田市足助町宮ノ後
『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 
豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」