プチ旅行記 2024年1月 福岡 後編

福岡旅行記の後編です!前編からの続きです。
 
 

そして、朝。おはようございます。

 
この日は午前中に友達のアテンドで太宰府天満宮に初詣に行くことに。人生初の太宰府天満宮!!!
 

梅ヶ枝餅、甘さや口溶けが優しくて、とても美味しい。
 

撫でると頭が良くなるという牛を撫でまわし、「麻雀が強くなりますように!」とお願いした。
 
 
参拝の列に並んで、「今年も頑張りますので、よろしくお願いします」と心の中で唱えながらお参りした後、謹んでおみくじを引く。

 

結果は大吉でした。
 

良いことしか書いてなくて凄い。ありがたき幸せ。
 

池の鯉と戯れる。楽しい。
 
 
そうこうしているうちに、お腹も空いてきたため、天神に戻って友達がお薦めしてくれた鯖定食屋さんに昼ごはんを食べに行った。
 
 
少し並んだけれど、メニューが鯖定食のみということもあり、回転は早い気がした。
 
席に着くと、注文を取られることもなく、豆腐や漬物、そして鯖と白米と味噌汁が順番に出てくる。It's automatic.
 
脳内に宇多田ヒカルが浮かんでは消えていった。
 

鯖好きにはたまらない!脂が乗ってて最高。
 
 
 
昼食を終えた後はデザート。
ということで、美味しいと評判のパフェ屋さんに。
 

可愛くて素敵な店員さんに「もじこうTシャツ可愛いですね」といじられて照れつつ、「どこから来たんですか?」と声をかけていただき、楽しい世間話をするなどした。福岡は店員さんも優しいね。
 

苺はもちろん、クリームやジェラートも絶品。
 
 
さて、お腹も膨らんで来たところで、そろそろ滋賀に帰るか、どうするか。
 
いや、何か忘れている気がする。
 
………
 
博多ラーメン!!!
 
せっかく福岡に来たのに、まだラーメンを食べていないではないか。
 
博多ラーメンを食べずに帰ることは考えられないので、腹ごなしに散歩をしつつ、またしても友達に薦めていただいたラーメン屋を訪れた。レコメンド本当にありがとうございます…!
 

ミニラーメンのメニューがあるのが嬉しい。高菜おにぎりも小さくて食べやすいし、めちゃくちゃ美味しい。
 
博多ラーメン、もっと開拓したいなぁと思いました。
 
 
お腹もいっぱいになったところで、そろそろ博多駅に向かおうかなぁと思い、天神から博多駅まで30分ほど歩く。私のキャリーケースはゴロゴロと転がすと死ぬほどうるさい。いい迷惑だと思うけれど、一人で歩く時はこの音が案外嫌いではないなと思う。(人と歩く時は会話に支障が出るくらいうるさくて最悪です)
 
快晴の空の下、良い気分で腹ごなしの散歩をして、博多駅に到着。
 
 
なんかまだ食べられそうだな…と思い、福岡県民に薦めてもらったミニヨンのクロワッサンを買う。
 

とても美味でした!博多駅構内の柱の影で食べた。
 
 
お土産売り場でかさの屋の梅ヶ枝餅を購入して、新幹線に乗り込む。自由席にて無事座席を確保。温もり残る梅ヶ枝餅を頬張る。美味しいー!
 

 
甘いものを食べたら眠くなり、荷物をかかえて入眠した。夢うつつのなか聞こえてくる駅名が、聞き慣れない並びで、「そういえば九州新幹線に乗るのは初めてだなぁ」と微かな意識の中、思った。
 
 
そうこうしているうちに、見慣れたJR京都駅に到着し、乗り換え。ここまで来ると滋賀の自宅は近い。
 
 
旅行に行く度、思う。
色々な場所を訪れて、たくさんの出会いがあって、新しく好きな場所が出来ることは、本当にかけがえのない経験だと。
 
そして、改めて、自分が暮らすこの場所が好きだと。
 
 
家に着いて、靴を脱いで、部屋に入る瞬間のこの気持ちが尊いなぁと感じる。
 
 
家に帰るまでが遠足、とはよく言うけれど、家に着いたこの瞬間までが旅なのだと、私は思います。
 
 
忘れられない3日間、ありがとう。
 
また、遠くないうちに福岡に行きます。
 
その日まで、日常を暮らして、元気に過ごすのだ。
 

プチ旅行記 2024年1月 福岡 前編

今回の旅行記は、福岡編です。

奇跡の17連休を獲得した今年の冬休みに訪れて、大好きになった街の話。

 

 

 

 

1/3の夕方、神戸で高校の同窓会を終えた私は、そのままの足で六甲アイランドへ向かった。

 
門司港行きの阪九フェリーに乗るためである。
 
 
 
前回の東京旅行ブログに出てくる北九州市生まれの友達の影響で、唐突に冬休みの福岡旅行を決めた。
 
思えば、福岡にはずっと憧れがあった。
 
私が敬愛する小説家、絲山秋子さんの小説の舞台としてよく出てくる街だからである。
絲山秋子さんは、会社員時代に転勤で福岡に来て、住んでいたと聞いたことがある。
 
大好きな小説で描かれる福岡。
決して遠い場所ではないけれど、ちゃんと訪れるのは初めて。
大学生の時に大分県の湯布院に旅行した際に通過したくらいしか足を踏み入れたことがなかった)
 
 
友達の故郷であり、また別の友達が住む街であり、憧れの土地でもある福岡は、一体どんなところなんだろう。
 
そんなワクワク感を胸に、私は神戸港18:30発のフェリーに搭乗したのである。
 

 

◼︎福岡旅行 2024/1/3〜1/5
 
慣れないフェリーになんとか乗り込み、部屋を確認して、早々と大浴場で風呂を済ませる。
 

実はフェリーで宿泊するのも初めての経験だった。
 
船内に売店やレストランもあり、夜景を眺めながらぼんやり座れるような席もところどころにあり、とても快適な作りである。すごい。
 

海上では携帯電話の電波が入らないということを知らなかった私は、「電波がない!!!本でも持ってくれば良かった…」と少し後悔しながら、ブログの下書きをメモ帳に残して、20時台にはスヤスヤと就寝した。
 
 
 
そして、朝。
 
フェリーの揺れが微振動として身体に伝わり、なんだか変な感覚の寝覚めであった。
 
身だしなみを整えた後は、レストランで朝粥定食をいただき、朝特有のゆるやかな時間の流れを感じながら、門司港への到着時刻を迎えた。
 

旅先で食べる朝粥って美味しいよね。
 
門司港からは、連絡バスに乗ってJR門司駅前へ。
 
お気に入りのカメラ、FUJIFILM X100Fを片手に、のんびり散策をするのがとても楽しかった。
 

 
 
少しは観光らしいことをしよう!と思い立ち、電車で移動して門司港レトロ周辺へと移動。
 

 
途中、スタバに寄ったり、手相占いをしてもらったり、よく分からないガチャガチャをしたりしながら、非日常を満喫。
 
旅先で気まぐれに行き当たりばったりの行動をするのが好きなのです。
 

「あなた、優しくて真面目な人ね。長生きの相よ。」と占い師のおばちゃんに言っていただいた。
 

かわいいガチャガチャ。ちゃんと鳴きます。
 

一人旅でよく分からない遊びをする29歳。
 
 
 
 

門司港名物の焼きカレーとバナナビールも堪能したところで、小倉駅経由で新幹線に乗り継いで、博多駅に移動。
ちなみに、先月まで小倉の読み方が「こくら」だということすら知らなかった…。(おぐらと読んでいた…)
 
 
14時ちょうどに博多駅に到着。
 
この後は、15時半に友達と集合して麻雀を打つ予定がある。
 
約1時間、どう過ごそうか。
なんだか眠いな…。
 

ということで、博多駅前のネットカフェ「ポパイ」に来て、仮眠することに。
 
旅先のネカフェで仮眠を取るの、自分あるあるなんですけど、他にもよくやるよ!って人がいたら教えてほしいです。めちゃくちゃ気持ち良いよね。
 
 
 
仮眠から目覚め、友達と合流し、3時間ほど麻雀を打つことに。
 

友達以外の方は初めましての方ばかりだったけど、全自動麻雀卓に慣れない私にもとても優しくしてくれました。ありがとうございました!!!
 
麻雀を打った後は、天神に移動して、友達5人と焼鳥居酒屋へ。美味しい!!!デザートが下ネタなこと以外は全て最高でした。

ちょっと気まずいやん。
 
飲み会の後は、少しカラオケ2次会をして、友達は帰路につき、私はビジネスホテルへ。
 
 
綺麗なホテルなのに、宿泊費が4000円と安く、とても嬉しい気持ちになったりした。
 

ビジネスホテルって無性に写真が撮りたくなるんですよね。何気ない風景。

 

 

そうこうしてるうちに眠くなり、なんとかシャワーを浴びて、パリパリのベッドで就寝。

繁華街の喧騒を遠く感じながら、眠りの中に落ちていきました。

旅の疲れが心地よく、沈むように深く眠った、気がした。

 

 

後編へ続く。

 

プチ旅行記 2023年12月 東京

今年の冬は、ちょこちょこと旅に出る機会に恵まれた。

 
自分はあまり旅行をたくさんするタイプの人間ではないのだけど、久し振りの一人旅が非常に楽しかったので、ちょこっと日記として残しておきたいと思う。
 
 
◼︎2023/12/16(土)-18(月) 東京
 
 
「12/16、映画のエキストラ出れる人いませんか?」
 
大学時代の友達数名のグループLINEを開くと、映画を自主制作している友達からのメッセージが来ていた。
 
文脈から察するに、関東圏の大学同期に向けての募集かなという感じではあったのだけど、友達の映画制作している現場をずっと見てみたいと思っていた私は「関西からだけど行くよ!」とすぐに返事をした。
 
普段は忙しくて土日の予定がなかなか開かないけれど、12月はたまたま暇があって、東京に遊びに行くのに最高のタイミングだなぁと思ったのである。
 
 
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12/16の朝、京都発の新幹線で東京駅へ。
 

駅弁を食べるのが大好き。
新幹線の自由席の真ん中で、左右に人が座っていたので「食べるタイミングないかなーー」と思っていたけれど、左右ともに酒盛りや飲食を始めたので、無事食べることができました。嬉しい。
 
 
東京駅で新幹線から降りた後は、電車を乗り継いで、埼玉の撮影現場へと向かった。
 
実は埼玉に足を踏み入れるのは初めてだったので、なんだかワクワクする。
 
東武東上線に揺られ、途中で向かいの乗客がゲロを吐いてキャリーケースにゲロがついたりするトラブルに見舞われつつ、目的地に到着した。
 
 
撮影現場では、撮影チームの人達に挨拶したり、衣装さんと一緒に衣装合わせをして写真を撮ったりしてから、いよいよ撮影が始まった。
 
自分が経験したことのない現場だったので、小さな役柄だけど、とても勉強になって面白かったです。
 
照明さんや音響さん、カメラさん、監督がいて、チームで協力して現場を回している。そんな、きっと映画制作をしてる人にとっては当たり前の風景も、自分にとっては真新しく、興味深いものでした。寺岡くん、ありがとー!!!
 
 
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そんなこんなで撮影を終え、東京に戻って喫茶店で一息つき、夜は友達のおうちにお邪魔することに。
 
駅で集合して、一緒にスーパーで買い物して帰る。地元ならではのスーパーは見ているだけで楽しい。
 
友達が料理をしてくれている間、本棚の本を読んでいいよ!と言っていただいて、友達の出身地である北九州の旅行本をペラペラとめくっていた。ちなみに、これがきっかけで、翌月に突然福岡旅行を思い立つこととなるのであった。またそのブログも書く予定。
 
 
そうこうしているうちに、晩ごはんが完成!
 

 
友達が作ってくれた福岡の郷土料理「がめ煮」は、唸るほど美味しくて、今でも味が忘れられません。
 
食後は、お土産で持参した八ツ橋を一緒に食べたり、美味しいお茶をいただいたりしながらお喋りをして、気付けばあっという間に23時過ぎに!
 
 
交代で風呂に入ろうということになり、ここで自分がパンツを忘れたことに気付く。パンツ…!!!
 
仕方がないので、風呂場でパンツを洗わせていただいて部屋に干し、その晩はノーパンでパジャマを着て眠りについた。
 
 
ぐっすり快眠して、目が覚めると朝。人のベッドで眠るのは久し振りで、なんだか不思議な感覚だった。
 
いや、そんなことよりも、パンツだ。
さっそく干していたパンツを確認したところ、まだ濡れていて乾き切っていない模様。
 
これは履けないな…コンビニで新しいパンツを買うか…ということで、ノーパンのまま身支度して、私は別の友人とのモーニングに向かうべく友達の家に別れを告げたのであった。
 
 

 
優雅にモーニングを堪能して、無事コンビニでパンツも手に入れた後、泊めてくれていた友達から連絡が入る。
 
「パンツ忘れてます!!!!!!!」
 
友達の家に濡れたパンツを置き去りにしてきたのであった。あちゃー!
 
ユニクロのパンツだから捨ててください!」とお返事したものの、優しい友達は「パンツ、届けるので履いてあげてください!」とパンツ思いの返事をくれたのでした。
 
 
ちなみに、その時、私は上野公園でパンダを見て「あまり可愛くないな…」などと複雑な気持ちになったりしていました。
 

なんか燃え尽きてない?
 
人生で初めてパンダを見た気がする。
 
 
そして、わざわざ上野駅までパンツを届けに来てくれた友達。可愛い花柄のハンカチに包んで、綺麗に折り畳まれたパンツ。優しさに感謝の気持ちでいっぱいでしたが、ちょっとシュールで笑ってしまった。
 
こうして、パンツは無事私の元に戻り、パンツ騒動は一件落着したのでした。
 
 
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友達からパンツを受け取った後は、電車に乗って東京駅へ移動。
 
東京の知人に薦めていただいてから、ずっと食べたかったエリックサウスのビリヤニを昼食に!大阪にもあるのは知ってるけど、なんとなく東京で食べたかったのです。もちろん美味でした!
 

 
 
腹ごしらえも済んだところで、最後のお目当て…
 
はとバスツアー」へ!
 
ずっと昔から、はとバスに憧れていて、やっと夢が叶ったので嬉しい。
 
私が乗ったのは、2階建てパノラマバスで、2000円で東京の有名な観光地をぐるっと周遊してくれるというツアーだった。
 
少し肌寒い12月、皇居から国会議事堂、東京タワー、麻布台ヒルズと回って、首都高に乗ってびゅんびゅん風に吹かれながらレインボーブリッジを渡る。楽しすぎる!!!!!あまりの楽しさに、1人でニコニコしていたくらい。最高だったなー。
 

 
はとバスに大満足した後は、少し早いけど、帰りの夜行バスが出るバスタ新宿へ。
 
21時半発の高速バスに乗るのに、18時前には到着してしまった私。
 
時間を持て余すかな〜と思っていたけれど、旅の疲れから待合所のイスでキャリーケースを抱えて3時間爆睡。全然持て余さなかったな。
 
仮眠から目覚めた後は、トイレでモコモコのパジャマに着替えて、メイク拭き取りシートで化粧を落とし、夜行バスに乗車した。
 
やっぱり、夜行バスって値段が安いんですよね。
別に新幹線代が払えない訳じゃないんだけど、これで8000円浮くなら、浮かせた方が良いよなーという感じ。大人になっても貧乏性だね。
 
 
そんなこんなで、楽しい旅もいよいよ終わり。
 
夜行バスですんなり熟睡して、目が覚めるとそこは滋賀でした。
 
5時過ぎに滋賀に到着し、帰宅して30分ほど仮眠した後、元気ハツラツで出勤!!!
 
少しの気だるさを足や背中に感じながら、日常に戻っていくのでした。
 
 
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この旅行の間、何人かの友達から「東京に来てるなら会いたかったー!」と優しいメッセージをいただたいて、
 
あぁ、自分の友達は東京にもたくさんいるのだなぁ。
 
と、改めて思うきっかけになったりもした。
 
普段はバンドのライブ遠征か仕事の研究会くらいでしか行かない東京だけど、もっと気軽に遊びに行きたいと思いました。
 
次は往復夜行バスも悪くないなぁ。
 

 
また東京に行った時は、良ければ一緒に遊んでください!
 
終わり

ICL手術から1年経って

みなさんICLという言葉は聞いたことがありますか?

 

Implantable Contact Lens(ICL)

 

簡単に言ってしまえば、近視や乱視を矯正できる目の手術のひとつで、視力を上げる手術としてはレーシックと並んで有名な手術だと思います。

 

今更ながら、という感じもあるのですが、私は2022年11月にICL手術をしました。

約1年経った今、手術後の見え方なども含めて、書き残しておきたいなと思ってblogを書いています。

 

眼科の専門的なことは詳しくないので、体験談として参考に読んでいただけると嬉しいです。

 

  1. 視力が低すぎる人間の生活
  2. ICL手術をするにあたって
  3. 手術、怖すぎる
  4. 念願の裸眼生活

 

  1. 視力が低すぎる人間の生活

私は近視がとても強く、長年の間、視力が低すぎる生活をしてきました。

 

初めて眼鏡を作ったのは小学2年生の頃だったと記憶していますが、それからずっと視力が落ち続けて、2021年にはコンタクトレンズの度数が-10.00に到達し、眼科の医師に「メーカーの製造上限まで来てしまったので、これからはコンタクトの上から眼鏡をするしかないですね」と言われるほどになりました。(注1)

 

そして、最終的にはコンタクトをつけていても矯正視力が0.4くらいしかない…という状態になり、仕事にも支障を来し始めたため、2022年1月にコンタクトの上からかける用の眼鏡を購入しました。これで矯正視力は1.0に!

 

それにしても、自分より近視が強い人というのは、まだ身の回りで見たことがないんですよね。

職場の健康診断でも、眼科検診で「眼鏡の矯正視力ですねー」と言われて、「いや、コンタクトレンズの上から眼鏡をかけていて…」という説明をしたために、神妙な顔で担当の人が別の人に健康診断表の書き方を相談に行ったりしていました。コンタクトの上から眼鏡をしている人って見たことなくないですか?

 

そんなこんなで、コンタクトと眼鏡を併用する生活をしていた私でしたが、あまりの煩わしさに、「これはもう多少金額が高くてもICL手術をするしかない!!!」と考えるようになったのです。

 

そもそも眼鏡がめちゃくちゃ嫌いなんですよね。鼻が疲れて頭が痛くなるし、冬はレンズが曇るし、すぐ汚れるし。プールやお風呂では使えないし。その上、コンタクトの洗浄もあるなんて!という感じで、本当にやってられなかったです。半年で限界でした。

 

ICL手術の金額は、ネットで検索すると40~80万が相場と書かれていました。

レーシックは7~30万円が相場と言われているので、遥かに高い金額になります。

 

私の場合、近視が強すぎてそもそもレーシックで視力矯正することが不可能だったので、ICLしか選択肢がありませんでした。(注2)

ちなみに私は県内の有名な眼科で手術をして、結果的には費用は67万円程度でした。

金額の内訳は、眼科のHPに書いてあった通りの手術料金+保護ゴーグルや目薬等の費用1万円程度です。

 

決して安くはない買い物ですが、近視が強すぎる私は「絶対に必要な手術だ!」と確信して、ICL手術をすることを決めました。

 

注1:ここで言うコンタクトレンズは、私が使っていた乱視用ソフトコンタクトレンズ2week用を指します。ハードコンタクトレンズならもう少し上の度数があると聞いたのですが、私は過去に2度ほどハードコンタクトレンズに挑戦して、体質的に合わず、痛すぎて返品した過去があり、ハードタイプのものは使えないと判断しました。

 

注2:レーシックとICLはそもそも手術の方法が全く異なります。その上で、どちらにもメリットデメリットがあると思います。近視が軽くてどちらも選べる方は、どちらにしようかと悩むと思いますが、このblogでは詳しく言及しません。「レーシック ICL 比較」などで検索すると、より詳しい情報が得られると思います。

 

2.ICL手術をするにあたって

 

ICL手術をする!と決めて、いちばん初めにやることと言えば。

 

そう、病院探しです。

 

大切な手術だからこそ、病院探しは迷うと思うのですが、私の場合はレーシック手術をしたことのある友人が「良い眼科だったよ!」と比較的近い病院を紹介してくれたので、あまり迷うことはありませんでした。ネットで口コミなどを見た感じも評判が良く、安心して選ぶことができました。

 

手術をした後になって思うことは、「あんまり遠すぎる病院は選ばない方が良い」ということです。

 

検査や手術の当日に、朝から瞳孔を開ける目薬を自宅で点眼する必要があり、眩しかったり焦点の定まらなかったりする状態で病院に行かなければならないからです。もちろん、手術後もすぐに視力が安定する訳ではないと言われています。(私は術後すぐによく見えましたが…)

 

病院からは「家族の送迎かタクシー」での来院を勧められました。

 

私は、自宅から電車を乗り継いで30分程度の場所に病院があるということもあり、手術後だけ家族の送迎、それ以外は公共交通機関で通院しました。タクシーは高い。

 

なので、あんまり遠い病院を選ぶと不便かなぁ…と思います。

 

さて、病院が決まったところで、早速予約を取って初回の通院へ。

初回は、簡単な検査と手術内容の説明、手術日や術前検査の日程決めをしたと記憶しています。

 

実は、私は初回の通院のときが最も緊張していました。

 

「もし、ICL手術できないと言われたらどうしよう」と不安に思っていたからです。

 

実は、世の中には「ICL手術ができない人」が存在します。

難しいことはよく分からないのですが、角膜と水晶体の距離が近い方は駄目なのだとか。

 

初回の検査で「あなたの眼はICL手術できません」と言われてしまったら、一生コンタクトと眼鏡の二刀流で生きていかなければならないのだろうか…とずっと考えていました。

 

結果、検査結果に問題はなく、すんなりとICL手術の段取りが進んでいきました。この結果を聞いた時が、本当にいちばん嬉しかったです。

 

2022年8月、初診でOKが出て、その場で67万円をクレジットカードで決済。

手術日程は仕事の都合を確認して調整しますと言って、検査日を決めて帰りました。

(最終的に手術は同年11月にしました。)

 

ちなみに、この後日の術前検査が強度近視の自分にとってはなかなか面倒なものでした。

 

発注するレンズの度数などを決めるために、同じような検査を2回するとのことで、この検査をするために、検査日の1週間前からコンタクトをつけずに生活しなければならなかったのです。

 

これはHPにも書いてない内容で、他の眼科のHPを調べても書いていない病院が多かったです。ちなみに、日数は3日間としている眼科もあるようですね。

 

近視が強すぎて、寝る直前までコンタクトをつける生活をしている自分は、「裸眼でかけてまともに見えるメガネ」というものを持っておらず、これでは仕事ができない!と思い、急いでメガネを作りに行きました。

メガネ屋の店員さんに近視と乱視が強すぎて驚かれ、圧縮軽量レンズにしないと重すぎるしフレームにはまらないと言われ、なんだかんだ2万円くらいかけてメガネを作りました。3回くらいしか使わないのに…。

 

このメガネをかけていると、目が縮みまくって同僚に笑われるわ、視界が歪んで仕事がやりづらいわで、コンタクトをつけられない期間は地獄でした。車も乗れないし…(注3)

私はいつも職場まで片道1時間かけて車通勤しているのですが、職場が山奥にあるので、公共交通機関を使うと片道2時間くらいかかるんですよね。車に乗れず、電車とバスで通勤している期間は大変だったなぁ…(遠い目)

 

そんなこんなで、術前の2回にわたる検査も無事終わり、手術当日を迎えることとなるのでした。

 

注3:このメガネでの矯正視力は一応ギリギリ0.7あるので、車に乗れないことはないのですが、視界が歪み過ぎて危なかったです。ちなみに私は、このメガネをかけた初日、「いけるやろ!」と思って車に乗ってみたら、自宅の駐車場から出庫する時に、駐車してあった無人の車に盛大に自分の車をぶつけて大変な目に遭いました。本当に申し訳ない…。人に怪我させたり轢いたりしなくて良かった…。この事故のせいで等級が下がって、今年の自動車保険の保険料がめちゃくちゃ高いです。涙

 

3.手術、怖すぎる

 

いよいよICL手術当日!

 

前日の夜は、ドキドキしながら手術をした人の体験記をネットで探して読み漁ったりして過ごしました。

 

手術当日は風呂には入れないし、化粧も禁止です。

 

私が手術した病院では、術後3日は洗髪・洗顔禁止、目の周りは使い捨ての濡れコットンで拭き取りして清潔に。(注4)

化粧は1週間禁止でした。マスクで隠してノーメイクで仕事に行くの、辛かったなぁ。

あと、1週間くらい保護ゴーグルをかけて過ごすので、見た目が面白い感じになってしまって肩身が狭かったです。

職種によっては、ノーメイク&保護ゴーグルで仕事するのが無理なところもありますよね…。

 

色々な制約を乗り越えられるのかと怯えつつ、指定された目薬を指定された時間に点眼して病院へ。

 

スムーズに手術へと案内され、ICL手術が始まりました。

 

全身麻酔をしない手術なので、バリバリ意識がある状態での手術になります。怖い!怖すぎる!!!

 

時計を見る限りでは、手術は両目で30分もかかっていなかったようなのですが、とても長い時間に感じました。

 

点眼麻酔をしているので全く痛くはないのですが、眼を眩しい光で照らされて、「正面見て!」と言われながら目にグイグイとレンズを入れられるのが、圧迫感が凄くて超超超超超怖かったです。

緊張しすぎて息ができず、自分の拳を強く握りしめすぎるあまり、看護師さんに「力を抜いてね、大丈夫よ」と何度も手を柔らかくほぐされていました。

笑気麻酔をしてるからぼーっとして怖くないよ!と説明されていたけど、私はめちゃくちゃ怖かったです。終わってしまえば何ともないけれど!

 

その後は無事に手術が終わり、家族に車で迎えに来てもらい、あっさり帰宅。

 

体調が悪くなることも特になく、視界も極めて良好で、裸眼でクリアに見えることに感動しつつ、決められた目薬をさすことは忘れないように気を付けて過ごしました。

 

経過も順調で、手術翌日、1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後、6ヵ月後の検診も無事に終えて、最後の検診では「これで卒業です!」と院長に笑顔で送り出していただきました。

看護師さんにも拍手してもらって、あれ、なんだか嬉しかったなぁ。

 

注4:この風呂禁止期間のことを考慮すると、ICL手術を夏にするのは避けた方が無難なのではないかと思います。汗をかく季節に3日間も洗髪できないのは地獄すぎる…。

ちなみに、私は11月でしたが2日間で我慢の限界に達して、スイミングゴーグルをつけて禁を破って洗髪していました。

 

4.念願の裸眼生活

 

こうして、私の念願の裸眼生活が始まりました。

 

1年経った今、思うことは、ICL手術をして本当に良かったなぁということです。

今のところは大きな視力低下はなく過ごせています。(注5)

 

ICL手術の術後の合併症でよく言われるハロー・グレアは、正直あります。

ハローは夜に光がにじんで見えたりすること、グレアは眩しく感じたりすること、です。

 

こうした合併症は確かにあるのですが、慣れるとあまり生活に支障はありません。

ハローは慣れたし、グレアに関しては、日差しの強い日に長時間外で過ごすような時にサングラスをかけて過ごすようにしています。

これを「生活に支障がない」と感じるかどうかは、個人差があるかなぁと思いました。

 

私の場合は、強度近視の不便さが大きかったので、ICL術後の小さな不便はあまり気にならないのかなと思います。近視が軽い方が手術すると、見え方が変わって困る!と強く感じることもあるかもしれませんね。

 

小さなことかもしれないけど、コンタクトを洗うという面倒な作業から解放されたし、コンタクトをつけたまま寝落ちして朝に嫌な気持ちになることもないし、外出中にコンタクトがうっかりはずれてなくなったら…というような不安もないし、高いお金をかけて定期的にコンタクトレンズを注文する必要もないし、そんな些細なことでめちゃくちゃ嬉しくなる瞬間が日々たくさんあります。

いま、私の眼の中には、-16.50の度数の眼内コンタクトレンズが入っています。

 

私は現代の進んだ技術がなければ、視覚障害を抱えて生きていかなければならなかったんだなぁ、とよく思います。

私の元の裸眼の視力では、ほとんどの仕事には就けないだろうし、勉強したり生活したりすることも難しいだろうなぁ。

 

ちょっと話は逸れますが、技術の発達や社会のあり方の変化によって、今は障害とされていることも、未来には障害ではなくなることもあるのだろうなぁと、希望を持ったりもしています。

 

私は今日も現代の医療技術に支えられた視力で、元気に楽しく生きています。

手術が終わってから1年、何度も感謝して、何度も「やって良かったなぁ」と感じながら日々を過ごしてきました。

 

 

これからICL手術をしようと思っている方へ。

 

「迷う理由が値段なら、やった方が良いよ!」

 

 

このblogが誰かの参考になっていれば、とってもとっても嬉しいです。

 

注5:ICL手術をする際に、「もし術後に視力が落ちたらどうしたら良いですか?」と尋ねると、「コンタクトやメガネで上から矯正することもできるし、お金はかかるけど、再手術して眼内レンズの度数を変えることもできるので、困ったら相談してくださいね」と答えていただきました。もし視力が下がったとしても、軽い度数のコンタクトかメガネで過ごせるなら別にそれで良いかと今のところは思っています。

「氏名」について思うこと

2022年7月、私は結婚をした。

そして、苗字が変わった。夫の姓を名乗るようになったからである。



はっきり言ってしまえば、私は自分の姓にこだわりが無い。旧姓よりは新姓の方が気に入っている。病院で新姓で呼ばれることにも、すぐ慣れたし、違和感も抵抗もなかった。もちろん、名義変更の手続きは面倒ではあったのだけど。


むしろ、私は、旧姓での「氏名」が嫌いだった。

嫌いになり始めたのは、大学を卒業して、仕事を始めた22歳の頃だったと記憶している。

理由は大きく分けて二つ。

一つ目は、家庭に起因する理由。二つ目は、ネットストーキングに起因する理由である。

今回は、「氏名」について思うこと、について、書く。




①家庭に起因する理由

2016年、大学を卒業して、就職した春。入職1年目の私は、ずっと怯えていた。

親族が勤務先に押しかけてくることを。


当時、色々な状況が悪く、厄介な親族に勤務先を特定されてしまった自分は、職場にかかってくる嫌がらせの電話に悩まされていた。

「こんな非常識な嫌がらせ電話をかけてくる人間ならば、いつ実際に足を運んでくるか分からない」

自分は、自分の血族や氏名に嫌気が差すようになっていた。この忌まわしい名前を変えたい、という思いに捉われ、毎日そのことばかり考えている時期があった。


一度、本気で名前を変更しようとこころみて、家庭裁判所に「名の変更許可」を申し立てしようとしたが、
「この申請理由では間違いなく棄却されるので、通名での使用年数を重ねてから申し立てし直した方が良い。一度棄却されると、余計に申請が通りにくくなる」
と裁判所事務官に全力で止められてしまい、仕方なく撤回した。

自分の親族には、戸籍名を変更している人が何人かいるようで、自分の決意さえあれば簡単に変更できるものと思っていたから、苦虫を噛み潰したような気持ちになったのを覚えている。



上記の経験から、私は転職を機に、戸籍名ではなく「通名で勤務するようにしている。そして、勤務先は、実の親にも教えていない。また親族に特定されれば、毎日、怯えながら過ごす羽目になるからだ。

通名使用を許可してくれた管理職には、頭が上がらない思いである。


ちなみに、今は職場で「旧姓の通名」で勤務しており、健康保険証などの事務手続きは「新姓の戸籍名」となっているので、勤務名と本名が一文字も一致しておらず、事務所で度々混乱を招いている。本当に申し訳ない。面倒な人間であることは、百も承知である。

でも、自分の希望する名前で働くことが出来ることが、こんなにも安心できることだなんて、思わなかった。

何も文句を言わずに、通名使用を認めてくれるだけで、ずっとこの職場で頑張りたいなと思えるぐらい大きなことである。



②ネットストーキングに起因する理由


本名で音楽活動をしたことがある人は、絶対に全員が悩んだことがあるであろう。
ネットストーキング、通称「ネトスト」である。

本名での活動履歴については、後悔しているともしていないとも言い難い。
多くの人に自分の名前を知ってもらえたし、当時、他にしっくりする活動名も思いつかなったのも事実である。
あとは、活動名を本名に定めた20歳頃は、おそらく漠然と性善説を信じていたので、後になって職場の人にネトストされて悪口を言われたり嫌がらせを受けたりするなんて思ってもいなかった。(そういう虐めが起こらない職場も稀には存在するらしいが…)



ネトストは、本来は本名の問題ではない、と私は思っている。特定されやすさが大幅に増すだけだ。


新卒で働いていた職場では、活動名が本名ではないにも関わらず、なぜか活動名とTwitterを特定されて、私よりも酷い嫌がらせを受けているラッパーの先輩がいた。


入職してまだ1ヵ月も経たない頃、多くの職員が昼食を取る小部屋で弁当を食べていたとき、YouTubeに上がっているラッパーの先輩のライブ動画を見ながら大笑いしている集団がいて、背筋が凍った。
その先輩の楽曲やラップは、とてもクールで格好良いと私は思ったが、音楽に興味もなければ、人の噂をしないと呼吸が出来ないような人たちにとっては、「なにこれwwwww」「きもーい」という言葉で一蹴できてしまうものらしかった。

ラッパーの先輩は、職場での風当たりが強かったので、その小部屋で昼食を食べたりしなかったし、私も間もなく、その小部屋で昼食を食べることはなくなった。
きっと、私のライブ動画だって、見られて馬鹿にされていたんだろうとは思う。



当時の勤務先は、18歳以上の学生が通う専修学校だったから、多くの生徒もいた。もちろん、生徒も悪気なくネトストはしてくるが、私の偽アカウントを作って、校内での私の写真を盗撮して載せたりしてくるのには頭を抱えた。さすがに未成年、やって良いラインと悪いラインが分からないのである。

私は、Twitterもブログも、「誰に見られても困らない」ことしか書かないようにしているつもりだから、別に生徒に見られようが職場の人間に見られようが、何も支障はないと思っていた。


でも、世の中、そんなに甘くないんですよね。

ツイート内容を曲解して噂を流す人、ネトストや嫌がらせをして反応を楽しむ人、色々な人がいました。

ネトストして得たライブ情報をもとに、おふざけで突然ライブハウスにやってきて大騒ぎする生徒もいて、ライブハウスで本気の説教をしたこともあった。
もちろん、音楽に興味があって、ちゃんと卒業後にライブに来てくれた生徒たちのことは、嫌になんて思っていないし、とっても嬉しかったけどね。


上記のような問題も色々起こったから、私はTwitterのアカウントを非公開にするようになったけれど、さすがにバンドのレコ発(新しい音源の発売を記念したライブのこと)が迫っている時期には、宣伝面からも鍵を外したかった。鍵をつけたり、外したり、そんな時期を経ながら、私は今ではアカウント非公開を常とするようになってしまった。


本来、SNSは知らない人と出会ったり交流する可能性を秘めている場として魅力を感じていたので、ずっとアカウントが非公開なのは、悲しいことです。
でも、仕方がないかなと今は思う。
私が職場を異動して、私の旧姓を知る人がほとんどいなくなったら、また鍵を開ける時が来るかもしれないね。特定される可能性が、ぐんと減ると思うから。






ずっと抱え込んでいた私情を、つらつらと綴った訳だけれども、私は不思議に思っている。

どうして、自分の好きな「氏名」で生活できない人が、たくさんいるんだろう、と。

夫婦別姓の議論もそうだし、名の変更手続きの厳しさもそうだけれど、自分が気に入らない氏名で生きることは、随時苦痛を感じながら、日常生活を行うことになるから、つらくて苦しい。
もちろん、色々な論点があって、簡単に姓名にまつわる制度が変えられないのは、頭では理解している。

でも、自分の「氏名」のことで苦しむ人なんて、この世に一人もいないと良いな、と、綺麗事でも本気で思っている。


ああ、もう、こんなこと、わざわざ書かなければいいのに、と思う自分だって、いる。
普通に生きている人なら、悩むことがないようなことで、ずっと悩んできたのかもしれないとも思っている。


でも、いつもブログを更新した後には、記事に共鳴して、誰にも打ち明けられない悩みをDMで相談してくれる人たちが出てくる。
自分の苦しみが、誰かの救いになることもあるんだと思うと、書くことをやめられない。


いつか、歳を重ねて、世間体からこんなブログは書けなくなる日も来るんだろうとは思っている。
それでも、書けるうちは、書きたいうちは、苦しくても、書く。消すことはないです。それだけは絶対に。


今日も、こんな拙い文章を最後まで読んでくれてありがとうございました。



P.S.1
今は通名使用と新姓のおかげで、氏名で苦しむことは減ってきています。名の変更許可の申し立ては、10年ぐらい通名の使用履歴を積み重ねた後に、申請するかもしれないとは思っているけれど。


P.S.2
私は、どんな呼び方で呼ばれるのも嫌ではないし、苗字や名前、フルネーム、あだ名、どれでも、親しみをもって呼びかけてくれることがうれしいよ。
そこは、旧姓での氏名が嫌いだったとか、そういうことは関係ないです。

さらば大宮

大学を卒業してからの6年間、私は京都市内の大宮という街に住んでいた。

私の20代のほとんどは、ここにあったと言っても過言ではない。
大学時代の下宿を離れて、ひとりの社会人としてスタートしたのもこの場所だった。


たくさんの人に出会うきっかけをくれた、自分にとって、かけがえのない街。
2022年2月、いよいよ離れることになった、思い出多き大宮。
今日は、そんな大宮について、懐かしい記憶をいくつか、書き残しておきたいと思うのだ。

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1.新卒と先輩(2016-2018)

2.徒歩3分の友達(2019-2021)

3.無職と飲み会(2020-2021)

4.社畜は通勤する(2022)


1.新卒と先輩(2016-2018)


2016年3月、大学卒業を機に、私は大宮へと引っ越した。

自分の就職先は、全国転勤ありの会社であるにも関わらず、初めての勤務先は京都市内の二条城近辺であった。

職場に通いやすく、バンド練習のある大阪へのアクセスも良い場所に住みたい!と考えると、大宮一択、即決だった。
大宮駅は、阪急京都線の沿線で、梅田駅まで40分もかからないのだ。

職場へは自転車で15分。
とても恵まれた環境である。



新卒で入社して、まだ右も左も分からないまま走り回っていた5月頃。
プライベートもないような日々に、ひとつ、嬉しいニュースがあった。

当時、OJTを担当する上司に無視されたり虐められたりして、毎日心が折れそうになるなか、自分にいつも仕事を親身に教えてくれる先輩がいた。
そして、その先輩が大宮に住んでいるということが分かったのである。


それからの仕事や生活は、なんだかとても楽しくて、あっという間に時間が過ぎていったように思う。


例えば、少し多めに残業した仕事終わり。
「岡本さん、ラーメン食べに行こ~」
と誘ってくれた先輩と、山下醤造を食べに行ったり。

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試験の前は一緒にガストで勉強したり。


嫌味な上司にムカついた日は、大宮界隈の居酒屋やバーをハシゴして、夜遅くまで喋り倒したりもしていた。


そんな先輩がいたから、私は仕事や大宮という場所に気持ちがすんなり馴染めたんだなぁという気がする。


色々な店に行ったけれど、私はイタリアンバルのTreottoで小さなパスタをつつきあっているのが好きだった。

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行きつけの店ほど写真がない説(何故かメニューの写真を貼る)


休日のモーニングは駅前ロータリーのハットリーへ。私はいつもホットドッグを選ぶ。喫茶店で待ち合わせをするのが好きだった。いつもより眠そうな風貌の先輩が遅れてやってくるのである。

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こんな楽しい日々が、永遠に続けば。
そう思うのは人間の性だけど、数年経ち、先輩は、転職し、大宮を去ることとなった。
悲しいけれど、これはおめでたいことでもあるのだ。


そうこうするうちに、引っ越しの整理をして、使っていない綺麗な衣装ケースと陳建一のすき焼き鍋をくれたのが最後、
先輩は東京へと旅立って行った。

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寂しかったけれど、陳建一で少し笑えた。


2.徒歩3分の友達(2019-2021)


2019年の3月、私の生活に転機が訪れた。

突然、徒歩3分の距離に親しい友達が出来たのである。


親しい友達が、そんな急に出来る訳ないでしょ……と思うのは当然、だけど、本当に突然のことだった。

面識のない女の子と急に親しくなったのは、共通の友人に「二人とも家近いんやから友達になったらええやん!」と紹介されたのが始まりだった。


私は、この春に大宮に引っ越してきたという、会ったこともない女の子の家で行われる鍋パーティーにノコノコと参加して、その次の週には手料理を食べに行って、そのまま夜泊まるぐらいに、一瞬で仲良くなっていたのである。


親しくなってからは、週に1度くらいのペースでずっと会っていたような気がする。道端でも何度も遭遇した。

鍋パーティー、たこ焼きパーティー、餃子パーティー、手巻き寿司パーティー、バーベキュー、クリスマスケーキ会、合同お誕生日会、映画鑑賞会、忘年会、新年会、なんでも一緒にやったし、

カレーを作ったからと呼んで、

ケーキを焼いたらまた呼んで、

聞いてほしい話があるときは家に行って、美味しい紅茶を淹れながら喋る。

「徒歩3分が遠い!」とゴネて、自分の家に帰らず、そのまま泊まったりしていた。本当に、お互いの家が居心地良かったのである。

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他にも、なんでもない夜に、二条城の周りや鴨川まで散歩に行って、仕事の話や恋愛の話、色々なことを語り合ったり、
休日の昼間には、一緒に家電量販店や家具屋さんを見に行ったりもした。

なんてローカルな遊び。社会人で、ご近所に住んでいる者たちだけに許された遊びである。

一緒に遊んだ回数なんて、もう本当に数えきれないくらいに、遊んだと思う。

思い出して書いているだけで、なんて幸せな日常だったんだろうとしみじみする。


彼女は大宮に住むのが「初めての一人暮らし」だったということで、彼女にとっても、この日常が、かけがえのない想い出になってくれていたらいいなぁ、と私は心から思っている。

彼女もまた、私と1ヶ月違いで、大宮から去ることになった。
お互い、新しい場所で、素敵な新生活を送ろうね。
そんなこと、こんなところで書かなくたって、今でも毎週LINEをしているんだけど。

3.無職と飲み会(2020-2021)


世はコロナ禍。

同時にニートと化した岡本であったが、この頃から大宮で行われる友人達の飲み会に参加することが増えていった。


これは賛否両論あるのは承知なのだが、大宮は緊急事態宣言下でも、時間制限なく、バリバリ酒類の提供をしている飲み屋が非常に多かった。

河原町や京都駅の方が、店を閉めている割合は圧倒的に高かったと思う。
言わば、大宮は無法地帯として、酒飲みが集まってくる街になりつつあったのである。


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大宮に住んでいるからと、友達が飲み会にたくさん誘ってくれるのは、とてもありがたくて嬉しかった。
ニートにとっては、人間との交流は必要不可欠なものである。


平日から、ハイカラ亭、談、WTeなんかで飲み会をするようなことが多かったと思う。
もはや同じ店に行きすぎて、メニューに飽きたりもした。ハイカラ亭ではもやしばかり食べていたし、談は豚しょうが焼きにピーマンが入っているのがお気に入りだったし、WTeでは必ずデカい肉を食べていた。

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デカい肉


同じ店に馬鹿みたいに通うのが、なんだか居心地がよくて楽しかったし、自分には今までそういう経験がなかったから、なんだかとても良いものであった。

上記の店以外にも、王将1号店や、鳥獣戯画、melpo、雷、一恵など、お気に入りの場所はたくさんあって、大宮は本当に居心地の良い街だったんだなぁと思う。


当たり前の日常ほど、書き残さない。忘れないと思っていて、忘れてしまう。
それは少し悲しいから、今回は敢えてそんなことばっかりをたくさん書き残している。


4.社畜は通勤する(2022)


長い無職生活を経て、ついに私も再就職をする時が来た。

今月中には滋賀に転居するが、現在は大宮から滋賀へ電車通勤している。


往復3時間。5時半起床、6時半に家を出て、21時に退勤したら、23時に帰宅する。

キツいのはキツいんだけど、やってみたら案外どうにかなるもので、平日にお金を使うことがなくなって、節約には成功しているようである。

社畜らしい生活を、短期間限定で経験できるのも、それはそれで面白いものである。


今は、飲み会なんて行かないし、友達にも中々会う時間が取れないし、でも仕事は楽しくて、こんな日常もあるんだなぁと新鮮な気持ちで過ごしている。


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大宮で過ごした6年間は、私の楽しい20代の象徴みたいな時間だ。

ここには書いたようなことは、そのほんの一部分である。
お気に入りの店も、一緒に時間を過ごした人も、他にだってたくさんある。



みんなには愛している街がありますか?



子供の頃から親が転勤族だった私は、ずっと、これという地元はないまま人生を過ごしてきた。
数えてみたら、いちばん長く住んだ場所が、この大宮になっていた。


街を愛することで、街に愛される、生活に色が付く、暮らしが息づく。


そんな風に思えた、大切な街でした。



また飲みに来るときはよろしくね。


さらば、大宮。

虹の橋をわたって

2022年の冬のことである。
我が家では、二匹のモルモットが亡くなった。


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1匹目が黒と白と茶色の三毛モル、アルト。
2匹目が金髪のミシェル。

ともに5歳まで生きて、1月に亡くなったアルトを追いかけるように、2月にミシェルも息を引き取った。



動物のいない一人暮らしは、いつ振りだろう。

てきぱきと火葬屋さんへの連絡を済ませた後に、
「あ、もうエアコンをつけなくていいんだ」
と気付いた瞬間、急に、大きな寂しさに包まれてしまった。



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私の家は、ずっと来客に恵まれていて、たくさんの人がモルモットを可愛がってくれていた。みんな名前も覚えてくれた。


SNSで呟いたら、LINEでもわざわざ連絡をくれる友達がたくさんいた。
ご冥福をお祈りします、と、目の前で手を合わせてくれた人もたくさんいた。


自分はいつも一人では上手に泣けないタイプで、悲しみを上手く処理できない。
でも、たくさんの人が、一緒に悲しんでくれたから、今回はちゃんと泣いて悲しむことが出来た。
なんてことないように見えるかもしれないけれど、自分にとっては、とても大きな大きなことだった。
だって、私は、家族が亡くなった時ですら、泣くことが出来ないような人間だったんだから。


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書くことは、探せばいくらでも出てくるんだけど、長々と書くのも今回は違う気がして、
でも、今の漠然としたこの気持ちを忘れたくなくて、blogを開いている。

まとまらない気持ちを、まとまらないままに綴るのも、たまには良いのかもしれない。


部屋には、モルモットが食べるはずだった大量の草があって、それをゴミ袋に詰める作業をしている途中のまま放置されている。
2日前までは、元気に走り回っていたから、こんなに急にいなくなってしまうなんて思わなくて、通販で買ったばかりの大きな草の段ボール箱だって未開封のままだ。

これまで過ごしてきたケージも、動物病院に連れていくキャリーも、ペットシーツも、全部いらなくなってしまった。

要らないものを処分して、来週末に引っ越しを終えたら、モルモットがいない生活なんて当たり前になってしまうんだろう。
人間は、慣れる生き物だから、きっとその通りになる。
それでも、一緒に過ごした時間はなかったことにはならないし、それで良いのだと思う。


私は、この家で、モルモットと暮らした5年間の月日が、本当に幸せだったよ。

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天国でも、きっとアルトは人見知りせず、よく食べてよく飲み、ミシェルは、草ダイブをしてチモシーに埋もれているのでしょう。

そんな想像をするだけで、私は、今でも、少し幸せになれるのです。