現象の奥へ

【詩】「挽歌」

「挽歌」

詩というものは、だいたいにおいて、でたらめである。とくに定型でない詩は、言葉が従わねばならない規律などなにもないのであるから。ただ単に抽象的な言葉を連ねたものを詩と信じる人々がいて、とくに商品ではないのだから、その人のご自由である。それがいいと思うひとびともいてそれもご自由である。ただ世界の、少なくとも文学史に残っている詩の書き手は、個人的なこと具体的な現実に触れないで何か書いている人々は一人もいない。それをいれなければ、詩にならないからだ。さて、ベケットの「Enueg Ⅰ」という詩であるが、このEnuegという言葉は、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語ラテン語辞典には、出ていない。これは、フランスのプロヴァンスの方言である。いちばん近い言葉は、ennuiである。それでこれは、地方の悔やみ歌みたいなものの形を借りたものである。

Exseo in a spasm
tired of my darling's red sputum

ボクハ出テ行ク痙攣しながら
愛する人の赤い痰壺を見飽きて

と、高橋康也は訳しているが、全然違う!
Exseoはラテン語で、「立ち去る」「脱する」「旅立つ」
spasmの中へ「消える」のであるが。spasmは、「痙攣」である。
つまり、痙攣「のなかに」旅立つ。へんな表現だが、ベケットはこういう使い方をする。
sputumは「痰」で、「英語的に」spasmと韻を踏んでいる。
「痰壺」は訳しすぎで、red sputumは、「赤い痰」つまり「血痰」ではないだろうか?
ことほどさように
詩は個人的なものであり、
その言葉の使い方も、というか、「言葉の使い方のなかに」
詩が存在する。
とくに外国語の訳は、
ごまかしがきく。
慣れ親しんでない外国語の場合、英語からの訳というのが、常套的にありうる。うまいぐあいに原著と重なり合う場合もあるが、遠ざかってしまうものもある。どうせ
読者はわかりはしない。
ベケットの難解なこの詩は、お葬式の時に
挽歌を歌う、玄人の真似をして
つくったものである。
その昔、原田康子なる作家がいて、
テレビドラマ化された作品があった。
「挽歌」という題だった。
若い女が、
不倫で夫を奪う。
妻は川か海か、水に飛び込んで自殺する。
はたして、
どっちが勝ったのか?
羅和辞典片手に、
ベケットの詩など訳す気になれない。
愛する人の血痰に倦んで、
痙攣のなかに逃げる。
あるのは、
死の静けさ。
ベケットはいつも、
死の周囲の汚物を
洗い清める。




【詩】「ボヴァリー夫人、あるいは、絶望という名の電車」

ボヴァリー夫人、あるいは、絶望という名の電車」

Nous étions à l'Étude, quand le Proviseur entra, suivi d'un nouveau habillé en bourgeois et d'un garçon de classe qui portait un pupitre.
ぼくらが自習にいると、校長先生がブルジョワの新入りと勉強机を持ったコヅカイを連れて入ってきた。
この新入りがのち、その妻が不倫にのめり込み、
ボヴァリー夫人」と呼ばれるのだが、果たして、
「ぼくら」の「ぼく」とは誰なのか?
Kさんは不倫はしなかったが、同様に死んだ。
夫は詩人でKさんも詩人だった。
夫は周囲に箝口令をしき、
のち再婚して「しあわせ」になった。
私は彼らの同人誌に入っていて、結婚祝いもあげた
関係だが、夫だった男は
私から逃げ回っている。
何十年もなんの接触もないのに。
あるいは、Kさんが、私の背後に見えるのかもしれない。
ブロックしているならちょうどいい。
ここにはっきりと記録しておこう。
Kさんの魂を鎮めるために。
絶望するには素質がいる。
そういう素質がなければ、なかなか死の方向へ進めるものではない。
たしか、ボヴァリー夫人を映画で演じたのは、
イザベル・ユペールではなかったか。
原文は明確で思想がある。
その思想は、不倫物語ではなく、
写実だ。事実だけを書いていく書き方。
最後は、夫、ボヴァリーの死で終わる。



最果タヒ詩集『恋と誤解された夕焼け』

最果タヒ詩集『恋と誤解された夕焼け』(2024年5月30日、新潮社刊)

「鯉と誤解されたナマズ」なんて言葉がふいに口をついて出た、誰もいない海。
いい日旅立ち山口百恵さん息子さんの結婚式はどこ?
週刊誌記者がつきまとうから「放課後婚」(←本詩集所収の詩の題名)音楽がついてないから、アニソンにさえなれない。歌詞として使えるけどネ。ぼくは「ano」ちゃんを思い出したんだけど、世代的には、二世代くらい上ダナ、最果タヒさんは。「現代詩手帖賞」出身だけど、今は、「新潮」から詩集が「出して」じゃなく、「出されて」ます。はい、メジャーです。「きみの心音になりたい」(←本詩より引。全文引用してはだめよ、そこのオバサン)けど、だめだね、流れ星が睨んでる(ぼく(山下)のオリジナル詩句です(笑))出版社は変わっても、ブックデザインはずーっと同じ「雰囲気」。実際、同じデザイナーかどうかワカンナイ。調べるほどの興味なし。じゃあ、エントロピー増大のずーっと同じ金太郎飴的詩かな?ってゆーとそうでもない。少しずつ、「低学歴の若者には縁遠い単語が混じり始めてる」(Ex.「卿」「婚」「滅」……)あいかわらず、恋とか言っていて、若者の「ふりしてる」けど、もはや若者ではなくなっている。Z世代ですらない。詩人として、「手堅く」やっている。初出は「ネット」(主に短い詩)と『新潮』(主に長い詩)の半々ぐらい。100ページ足らずの本に、43編の詩。でも、短い詩ばかりではない。結構長い詩もある。もー、小林製薬のサプリみたいだ。なんかそう思うと、吐き気がする。このチョーシでどこまでやるんだろう? 何百万円も出して、詩の老舗「のふりをしている」出版社で、歌謡曲のようなイデオロギーの詩集を出すか。まー、その方がマシだろうな。少しは、同調してくれるひとがいるから。(一応)大手出版社で企画モノを出していない詩人さんたちは、誰もうらやましがっていない、どころか話題にすらしていない。帯に「好きだと思う瞬間、流れ星になる。」(笑)。さんざんポピュラーソングの世界で聴いたような文句。そのあと、「人間のあらゆる感情は美しい言葉となる。詩の沃野の最先端を疾走し続ける43篇」よーゆーわ(爆)。蓮實重彥の言葉だったか。「批評の文章は、批評対象に似る」。しかし、このカイシャの賞だったか、ナントカ賞を取っているのに、氏の著作は出てない。買い手というか、読み手が限られると思ったのか(出版者が)。実は、本詩集も同じようなものである。B6版(?)くらいで、100ページない。山下さんの詩集とほぼ同じ大きさじゃん。これかれは、このサイズが正しいと思うゾ。しかし、山下さんは、ブックデザインも自分の作品である。三沢厚彦氏に追随している。といったら失礼か。読めば読むほど気持ち悪くなるサプリの様な本。世間を意識して(「現実感覚」とは言わん)、「ボランティア」、「戦争」などという題名も散らしてある。1300円は安い。しっかし、誰が買うんだ、こんな本? (あ、オレか(笑))。Chan、chan〜♪


 

【詩】「あるいは、絶望という名の流星」

「あるいは、絶望という名の流星」

「ここから入る者は、あらゆる希望を捨てよ」(ダンテ)

ひとは完全なる無音の部屋に閉じ込められると、気が狂うそうである。
芥川也寸史が『音楽の基礎』で書いていた。
ラカンの顔写真を見ると、
薄っぺらで饒舌な司会者のようだ、蝶ネクタイなんかして。
こんなやつが、むしろシンプルで明快な、ドイツ語で書かれたフロイトのテクストを読んで……
読んだのか? ほんとうに。めちゃくちゃ……
という言葉をNHKアナウンサーでも平気で使うが、
複雑な分析理論(みたいなもの)をでっちあげた、また、
日本語訳がわけわからず、訳者たちもほんとうに
わかっているのかどうか。
ボードレールがフランス語に訳した、ポーの『盗まれた手紙』
をもとにした、しち(=めちゃくちゃ)複雑な
分析を展開しているのが、
『エクリ』である。なんでボードレールは、
ポーなんか訳そうと思ったのか、この、
ナポレオンにどこか似た感じの顔つきの男。
ほら、
絶望という名の星が、
いま流れたよ。




 

石川淳「西游日錄」

石川淳「西游日錄」(石川淳選集第十七巻所収)

 吉田健一が、文学は楽しむためにあり、それを否定して鹿爪らし構えて読むのはつまらない、それが紀行文だからろいって軽視するに及ばず、てなことを『文学の楽しみ』で書いている。
 和漢洋の教養に通じた石川淳は1964年8月、ソヴィエト・ライターズ・ユニオンの招待で、安部公房江川卓木村浩という、すごい面々と、横浜港から船に乗り、ロシア、東独、チェコ、パリへ旅立つ。十月末まで帰らない予定である。
「十月末はすなはち東京オリンピックのおはつたのちである。オリンピックの東京といふ逆上ぶりを見ないですませるためには、ちょうど渡りに船であった」ロシア語には、江川卓木村浩がいるし、心強い。……てなてなもんで、ハバロフスクのホテルに辿り着いて、部屋で夕食の相談をしていると、いきなりノックもなく半袖シャツの若い男が入ってきて挨拶もせず浴室に行きシャワーを浴びだした。一同はあっけにとられた。
「まぎれもなくフランス人。それもジャン・ギャバン主演のカツドー寫眞の下つ端役をつとめさうなくちであった」フランス観光団の一員。「このチンピラ、威厳あるオバサンにだいぶとつちめられたやうであった」
 (すでに!)60年後。われわれは、逆に、逆上したおフランスへ突っ込んでいこうとしている。
 どこへでかけようと、「帰路」という視点に貫かれているからこそ、旅は旅としてひとひらの哀愁を残す。

  この紀行文は以下のような文章で結ばれる。

  「かへりゆきてふるさとびとになに見せむひらけばかなしてのひらの空」

吉田健一は、本紀行文について、以下のように書く。
「言葉が作者の呼吸とひとつなったのが文体であり、文体で読ませるというのは、シベリア平原がどこまでも続くと書けば、そこにシベリアの平原がどこまでも続くことである。それ故に、これを読むものは文体を気にする必要がなくて、そしてそこの天地に遊ぶ間は実はその文体の言葉に支えられている」


 

 

【詩】「The Vulture、ベケットがゲーテをパロる」

「The Vulture, ベケットゲーテをパロる」

 

1777年12月28歳のゲーテはハールツを訪れる

早朝の空に腐肉を求めるvulture(ハゲワシ、高橋康也が訳しているように

禿鷹(ハゲタカ)ではない。ハゲタカは死んだ肉ではなく、

生きた獲物を狙う)が舞っている。

ゲーテはそれを詩にたとえて

寿ぐ154年後、

ベケットは、それを嗤う。当然尊敬しながら

93年後、

日本のあるところで詩人であると思い込んでいる

老人たちが、紋切り型の詩を書き、

ズレまくった考えを披露しあう座談会。

ああ、腐肉にさえなっていないということは、

こういうこと。

つまり、死んでいない。ぎらぎらに生きながらえて

死に値しないと、

死から見放されている。



詩誌『納屋』第一号

詩誌『納屋』一号(2024年4月9日発行、同人:金井雄二、坂多瑩子、田島安江、細田傳造)

友人の細田傳造氏に「こちらからせがんで」送ってもらった。一ヶ月以上前に出ているはずだが、細田氏にはその旨聞いていたので、私としては、「まだかなー?」と心待ちしていた。同人も「名だたる人々」である。誌名も、William Faulknerの「BARN BURNIG」(「燃える納屋」)や、村上春樹の短編「納屋を焼く」を思わせ、文学の香りが漂う。ひそかな期待を抱いた──。しかしながら、ざっと見たところ(あるいは見落としているかもしれないが)、こられの作品に関する言及はなかった。もしかして、ただの納屋? いかにも(笑)。の内容であった。私と関わるとろくなことはないので、傳ちゃんはひやひやしている。ごめんねー。端正な装幀である。これで500円は安い。
あ、いけね。言及、傳ちゃんだけに留めておくのだった。傳ちゃんの詩は、傳ちゃんらしさを失っている。勢いもなければ、ウイットもない。言葉がバラバラ踊っている。これまで見た氏の作品中サイテーである。それがどのような原因か、それは知らない。あと、4回も、このようなことを繰り返すのですか。今は、この4人より、名前もキャリアもない人々が、どんどん詩誌を創刊している。ただこの詩誌より、装幀は金がかかってなそうである。それでも文学のかけらのようなもは感じさせる。この時代、お金があるって、ある意味、不毛なことなのかもしれない。