何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

絵葉書を読む(その15) 少女たちの休み時間

 

『絵葉書を読む』第15回。今回の絵葉書はこちら。

追想 不破俊子画』

葉書の表には「少女の友絵はがき」と印刷されているので、雑誌『少女の友』の付録だと思われる。

 

 

『少女の友』は実業之日本社から刊行されていた少女向けの雑誌である。1908年(明治41年)に創刊され、1955年(昭和30年)に休刊した。

小説(川端康成吉屋信子など)のほかに芸能情報やファッション関連の記事なども掲載され、また読者の投稿ページも充実していて、少女のための総合誌といった趣きだった。

またその小説と並んで挿絵も人気で、代表的なところでは中原淳一松本かつぢなどのイラストが紙面を飾っている。

上の絵葉書の不破俊子という人もそうしたイラストレーターの一人だと思うが、詳細はわからなかった。

 

葉書の消印は「松本」(長野)、日付は昭和15年4月。差出人・宛名人ともに女性である。(旧字・旧仮名は現代的に改めた。太字は原文では◎傍点)

 

○○さん!

何て思い出の言葉でしょう

 追想

懐しい少女の友を読んだ頃の私達

あの十分の休みが本当になつかしいわ

 

「十分の休み」というのは学校の授業の合間の休み時間のことだろう。二人は女学校の級友だったに違いない。

短い休み時間、机の上に『少女の友』を広げて、額を寄せるようにして一緒に読んで、小説や映画や流行の服や、あれこれ取り留めのないおしゃべりをして……。そんな光景が目に浮かぶ。

特別なことなんかなくても、ありふれた日常がかけがえのない時間だったのだと、大人になって気づく。

 

 

「往年」にはまだ早い

 

先日、新聞を見ていると、ちょっと気になる出版広告を見かけた。

双葉文庫の3月の新刊の広告なのだが、この中の大石大『恋の謎解きはヒット曲にのせて』という小説が気になったのである。

いや、その、正確に言えば、気になったのはその作者や作品そのものではなくて、そこに添えられた紹介文なのだ。それはこんな文章だった。

恋愛は人類最大のミステリー? 宇多田ヒカル星野源などの往年のヒットソングにのせて、失恋の謎を解く連作ミステリー小説。

私が気になったのは、この中の「往年」という言葉だ。宇多田ヒカル星野源の曲を「往年のヒットソング」というのは、ちょっと早過ぎやしないか?

 

その小説を読んでいないので、実際どの曲のことを言っているのかわからないが、宇多田ヒカルのメジャーデビューが1998年なので、当然それ以降の曲だろう。星野源にいたっては、ソロデビューが2010年である。ついこの間じゃないか。

そういう歌手や曲に対して「往年」という言葉を使うのは、なにか違和感を覚えるのである。「往年」というのは、もうちょっと昔の人や物事に使う言葉ではないのか。

「往年」という言葉には、どこか現役ではないような、第一線から退いているような響きがあると思うのだが、どうだろう?

 

もっとも、辞書によれば「往年」というのは単に〈過ぎ去った年〉とか〈昔〉という意味なので、何年前からが「往年」というような定義があるわけではない。5年前でも50年前でも「往年」は「往年」だ。

だから上に引用した紹介文はぜんぜん間違っていないし、私も文句を言っているわけではない。ただの違和感だ。

年齢的な違いもあるのだろう。50代の私の「往年」と30代の人の「往年」では、イメージするものが違ってくるのも当然だ。上の紹介文を書いたのはけっこう若い人なのかもしれない。

私の場合、20年ぐらい前ならまだ「現在」の範囲内のような気がする。

まあ、日頃古本ばっかり買ったり読んだりしているので、私の時間感覚が一般とずれている可能性もあるけれど。

 

 

角川文庫の横溝正史

 

前回の記事で書いていた通り、横溝正史八つ墓村を読んでいる。

 

 

映像化作品(映画・ドラマ)との違いに気をつけながら読んでいるのだが、原作の方が登場人物が多く、人間関係も複雑だ。さすがに犯人は同じだが(ドラマは少し違う)、主人公と犯人の関係は大きく変わっていて、そのため犯行の動機も少し異なる。その他細かい違いを言えばキリがない。

映画やドラマは決まった時間の中で物語を完結させなければならないので、なんでも原作の通りというわけにはいかないのだろうが、この改変はどうなのか。作者の横溝はどう思っていたのだろう。あまり気にしない人だったのだろうか。

 

ところでこの『八つ墓村』は、角川文庫に収録された最初の横溝作品である。(初版は1971年)

その後他の作品も次々と角川で文庫化され、最終的には90冊ほどが刊行された。そしてこの文庫化に映画化が拍車をかける形でいわゆる「横溝ブーム」が起きた。

しかしブームというのはやがて去るものだ。横溝正史の文庫も次第に書店から消えていき、主要な作品だけを残してその多くが絶版(品切れ?)になっていった。

ところが近年、2021年の「没後40年」と2022年の「生誕120年」という2つの周年を記念して、角川文庫の横溝本が続々と復刊(再編集を含む)されたのである。特設サイトも作られている。

kadobun.jp

これを見ると、現在60冊ほどの横溝本が新刊として買えるようになっている。最盛期の3分の2だ。なので、「横溝正史は読んでみたいけど、古本はちょっと苦手」という人はいまがチャンスである。

 

よく売れた本というのは当然たくさん古本市場に流れてくるので、昔はどこの古本屋に行ってもまとまった量の横溝本があったものだが、さすがに最近では流通量が減っているような気がする。もっともヤフオクなどでは10冊20冊をまとめ売りしたりもしているので、版や装丁にこだわらなければ集めるのはそう難しくはないと思う。

これが例えば初版に限定したり、逆にカバー違いの異装本を全部集めるということになると、難易度は高くなる。特に初期に刊行された文庫の初版には古書としてプレミアもついている。

その中でも最難関なのが『八つ墓村』の初版本である。初版は上の画像のカバー絵と違い、「八つ墓村」の名前の由来になった落武者たちの生首(?)が描かれたおどろおどろしいカバーになっている。

いまヤフオクを覗いたら、ちょうどこの初版本が2点出品されていて、それぞれ開始の値段が3万5000円と4万5000円だった。いやいや、桁を間違ったわけではなくて、本当にこの値段なんですよ。まあ、入札はまだなかったが。以前もっと高い値段で出ているのを見たこともある。状態が良くないものでも1万円はくだらないと思う。

希少なものとはいえ、サイン本でもない中古の文庫本がこの値段になるとは……。いやはやマニアの世界は恐ろしい。

 

 

渥美清の金田一耕助

 

YouTubeに松竹映画のチャンネルがあって、月に一本昔の映画が無料公開(二週間の期間限定)されている。今月は横溝正史『八つ墓』(1977年公開)だったのでさっそく視聴してみた。

なんといっても興味深いのは、金田一耕助渥美清(敬称略、以下同じ)が演じているところだ。あの「寅さん」の渥美清である。なんかぜんぜんイメージできない。ちなみに金田一役を渥美清にするというのは、原作者の横溝の提案だったらしい。

私にとって金田一耕助といえば、映画の石坂浩二とテレビシリーズの古谷一行の2人である。この2人でイメージが固まっている。だから他の人の金田一を見ても、やっぱり何か違う感じがする。

渥美清はいったいどんなふうに金田一を演じているのか。

 

(画像は松竹より借用)

結論から言うと、なんだかとても地味な金田一だった。

まず第一に格好が地味だ。金田一といえば昔の書生のような袴姿が定番だと思うが、渥美版金田一は、ちょっとくたびれた感じのジャケットにズボンという普通の洋装なのである。探偵というより村役場の職員といった風貌だ。(もっともこれは、物語の時代背景が原作の昭和20年代からリアルタイムの昭和50年代に変更されているというのも理由の一つだと思うが)

それから話し方や動作が妙に落ち着いている。石坂浩二古谷一行金田一はどこかそそっかしいような、ちょっと滑稽な言動をするところがあるけれど、渥美版金田一はあまりそういうユーモラスな感じがなく、なんだか真面目な印象だ。

結果、なんとなく控えめで目立たない感じになっている。まあ、探偵としては目立たないほうが正解なのかもしれないが。

たぶん前年に公開されて好評だった石坂版金田一(『犬神家の一族』)と差別化するために、あえてそういう地味な感じの演出にしているのだと思う。金田一が主役ではなく、あくまでも主役をサポートする立ち位置というか、あまり存在感が大きくなりすぎないようにしているのかもしれない。

 

まあ、存在感というかインパクトという意味では(上の画像を見てもわかる通り)要蔵を演じた山﨑努がMVPだろう。

この白塗りの顔で、ときにはうっすら笑みを浮かべ、日本刀と猟銃で淡々と村人を殺戮していくシーンは、子どもの頃に見たらトラウマ確定のレベルだ。「鬼気迫る」とはまさにあんな感じ。

それから終盤の演出も、ミステリーというよりはホラーっぽい感じになっている。

また、前述した時代背景もそうだが、原作との相違も多いようだ。

私は原作は未読なのだが、最近は原作と映像化作品の間のごたごたがなにかと話題になっていることだし、原作のほうも読んでみたくなった。

 

 

ちょっとだけ遠くに行きたい

 

風邪がなかなか治らない。ここ10日ぐらい調子が悪い。

寝込むほど酷くはならないがスッキリ全快するわけでもなく、体がだるくてなんとなく頭が鈍くなっている感じがする。あと鼻水がひどい。

以前は薬を飲んで一晩寝ればたいてい治っていたのだが、どうも抵抗力とか回復力が衰えてきているようだ。これも歳のせいだろうか。

そうこうしているうちに暦も2月になってしまった。ついこの間年が明けたような気がするのだが。

時間が経つのがどんどん早くなっている。これも歳のせいにしてしまおう。

しかし時間が早く過ぎるのも悪いことばかりではない。

この調子なら寒い2月もあっという間に過ぎ去って、気がつけば春3月ということになりそうだ。春だからどうしたというわけでもないが、バイク(原付)通勤としてはとりあえず暖かくなってくれるだけでもありがたい。

 

暖かくなったら少し遠出したいな、という気分になっている。

私がこんな気分になるのはかなり珍しい。

私は生粋の出不精であり、動かざること山の如しというか、尻に根が生えているというか、とにかく用事がなければ極力家から出たくないという人間だ。旅行なんかはもってのほか、日帰りの遠出だってめんどくさい。

そういう私がこんな気分になっているのは、たぶんこの本を読んでいるからだ。

岡崎武志『昨日も今日も古本さんぽ  2015-2022』(書肆盛林堂、2024)

 

 

これは岡崎さんが北は東北青森から南は九州熊本まで古本屋を訪ね歩いた記録である。(関東が多いが)『日本古書通信』に連載されていた文章をまとめたものだ。

岡崎さんもそうだし、この本にもたびたび登場する古本屋ツアー・イン・ジャパン(小山力也)さんもそうだが、とにかくフットワークが軽い。二人とも、古本屋があるなら日本全国津々浦々まで行くといった感じである。

こういう本を読むと、出不精の私でさえどこか知らない街の知らない古本屋に行ってみたくなる。どこかの地方都市の、寂しげな街のうらぶれた商店街で、忘れられたようにひっそり営業している古本屋に入ってみたい。(入るのに少しばかり勇気が要りそう)

本のためだと思うとちょっとだけ活動的になれる。ちょっとだけ、だけど。

旅情と古本はなんとなく相性がいいような気がする。どちらも「《いま》ではない《いつか》、《ここ》ではない《どこか》」を感じさせてくれるからかもしれない。

 

さて、どこに行こうかな。

でも、春になったらやっぱりめんどくさいとか言いだすような気もする。

 

 

タイトル未定

 

前回、こんな記事を書いた。

paperwalker.hatenablog.com

内容を簡単に要約すると、

ブックオフのウルトラセールに行ったけど収獲はイマイチだったこと。

・大石トロンボ『新古書ファイター真吾』という漫画を読んだこと。

・本を探すのは楽しい。

・でもブックオフは最近景気が良くないようだ。

という記事だった。そしてこの記事に私が付けたタイトルが「心は孤独な(本の)狩人」である。これはカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』という小説(村上春樹訳が最近文庫化された。未読だけど)が元ネタなのだが……さて、このタイトルは適切だろうか?

 

 

なぜこんなことを言っているのかというと、「AIタイトルアシスト」を使ってみてブログ記事のタイトルの付け方を改めて考えたからだ。

はてなブログ」ユーザー以外のために説明しておくと、「AIタイトルアシスト」というのは最近「はてなブログ」に追加された機能で、書いた記事の内容からAIがそのタイトルを提案してくれるというすぐれものである。

staff.hatenablog.com

さっそく使ってみたところ、上の記事に対してAIが提案したタイトルが次の3つ。

①ウルトラセールで買い物の成果はいまひとつだった

②本好きが悩むブックオフの現状

③買った本と家の惨状に押しつぶされる

どうだろう? 私はこれを見て「真面目か!?」と思った。③はちょっとおもしろいけど、①と②はストレートすぎる。確かに内容にはあっていてわかりやすいが、おもしろみに欠けるように思う。

 

ブログを始めたばかりの頃、よく初心者向けの「ブログの書き方」みたいな記事を読んでいたのだが、そこで言われていたのが「SEOを意識したタイトルをつけるのが大事」ということだった。つまりGoogleなどの検索エンジンに引っかかりやすいタイトルをつけろということである。

具体的なことは覚えていないが、要するに、記事の内容を的確にわかりやすく表して、さらにキーワードになるような言葉を入れて……みたいなことだったと思う。

なるほどとは思ったけれど、なんだかめんどくさいし、しゃらくさい。

 

SEOを考えれば、私が上の記事に付けたタイトルは0点だろう。具体性がなくフワッとしてて、内容がわかりにくい。

いや、SEOを抜きにしても、元ネタを知らない人は「なんのこっちゃ?」と思うかもしれない。独りよがりの自己満足と言われても仕方ない。

しかし私は、わかりやすさよりもあえて自己満足を優先したいと思う。仕事ではなく趣味でやってるブログなんだから、それくらい好きにしていいと思うのだ。

 

……と、ここまで書いた時点で、今回の記事のタイトルを「AIタイトルアシスト」に尋ねてみたのだが、「タイトル生成に失敗しました」という表示が出てしまった。私の文章はAIにもわかりにくいのだろうか……。

しかし困った。最後はAIにタイトルを作ってもらって、それでオチにしようと思っていたのに。

というわけで、今回の記事のタイトルは未定です。

 

 

心は孤独な(本の)狩人

 

今年もブックオフのウルトラセールに行ってきた。

半日かけて3軒の店舗をまわったものの、成果としてはいまひとつだった。前から狙っていた本は買えたけれどその他の収獲はパッとせず、少しばかり徒労感が残る結果になった。

もっともこの結果は店の品揃えの問題だけではなく、私自身の気分の問題でもある。家の中の惨状を見るにつけ、さすがにこれ以上積読を増やすわけにはいかないという気持ちに(いまさらながら)なっていて、それが心理的なストッパーになって少し買い控える気分になっていたのだ。(買ったけども)

それに加えて、最近ある作家の選集を買おうかどうかと迷っていて、買うんだったら少し出費を抑えておかなければならないという懐事情もある。(買うんだろうけども)

そんな理由であまり積極的に買えなかったのだが、しかしまあ、結果はともかくやっぱりブックハントは楽しい。

 

ブックオフといえば、最近こんな漫画を読んだ。

大石トロンボ『新古書ファイター真吾』皓星社、2023)

 

 

これは新古書店で古本を買うのが趣味(生きがい?)という青年が主人公の「古本あるある」漫画である。

新古書店というのは、従来の古書店と違って「新刊書店のような広くて明るい店内」「最近の本が中心の品揃え」といった特徴を持つ古書店のことで、まあ簡単に言えばブックオフのような店のことだ。従来型の古書店に馴染みがない人は、古書店ブックオフと思っているかもしれない。

この漫画の中でも、ブックオフ(作中では「ブックエフ」)を主戦場にしている主人公が普通の古書店に対して敷居が高くて入れないというエピソードがあって、私も「ああ、それな! わかるわかる」と思った。ブックオフに慣れてしまうと、確かにそんな感じになる。

ブックオフ好きには共感できる漫画だ。

 

ブックオフの一番の魅力はなんといっても均一本の多さだろう。従来の古書店も店頭に均一本を置いているところが多いが、ブックオフの量は圧倒的だ。(もちろん質はそれなりだが)

その大量の均一本を丹念に見て、そこに探していた本やおもしろそうな本を発見するという過程には「宝探し」の楽しみがある。いや「宝探し」というより、何度も川底をさらって砂の中から砂金を探す地道な「砂金取り」のイメージの方が近いかもしれない。いずれにしてもそこには本を探す楽しみがある。

ただ欲しい本を手に入れるだけならネットで検索したほうが早くて合理的だが、本を探す楽しみはやはり実店舗に足を運ばなければ味わえない。

 

しかしそんなブックオフも最近ではあまり景気のいい話を聞かない。

ネット販売の方はわからないが、店舗の方は売り上げが減少していて、閉店も増えているという。

店の中も本のスペースが縮小されて、トレーディングカードやフィギュアなどの売り場が広がっていく傾向にある。それで売り上げが増えればいいのだが、本好きとしてはちょっと複雑なところだ。

いまでは本好きに欠かせないインフラ(?)なので、なくなってもらっては困る。

まあ私にできることといえば、たくさん本を買うことぐらいだけれど。(結局それか)

今年もこんな感じで。