宮沢賢治を否定する営みについて
筆者が専門とする研究において、どうしても対峙しなければならない作家が一人いる。宮沢賢治である。
この間、筆者は主に二人の人物の著作物に時間を割いている。ひとりは宮沢賢治で、読んでいながらふと、宮沢賢治について思ったことがあるのでメモ程度に書いておきたい。
まず、個人史と宮沢賢治の関係について明らかにしておく必要がある。後述する、宮沢賢治に意識的に距離をとりつつづけた経緯と直結する話題からだ。
幼少の時分、宮沢賢治との距離は極めて近かった。それは母に因縁づけられた経験で、母は高校時代から宮沢賢治の熱心な読者となり、イラストレーターの仕事をやっている時期には『銀河鉄道の夜』を主題とした、さる現代音楽家のディスコグラフィのデザインも手掛けている――その音楽家の知名度はそこそこだが、近年亡くなってしまい、つい数年前に追悼コンサートが営まれた――。
他方で、父は父で小学生の筆者に宮沢賢治の童話集を買い与えるなどしており、当時、ますます宮沢賢治の存在感は高まっていった。しかし、わたしが宮沢賢治の物語を確りと読んだのは、塾の課題で『貝の火』が扱われた時が初めてであったと思う。奇妙なはなしだな、と感じる一方で、とても残酷な物語として受容していた気がする。
宮沢賢治を疎む動機は、すでにここで二つ成立している。一つは親からの勧め――それへの反撥、残酷な物語の忌避、である。そう、宮沢賢治の世界観というのは、常に残酷さに満ちているのだ。直接的な暴力描写は、明らかに幼少期のわたしに瑕をのこしているように感じる。無論、今思えば「童話」という評価は残酷さが忍ばれている点で正しいのだが。
したがって、とにかく高学年からは宮沢賢治を疎むようになり、他方で中高と宮沢賢治の世界観――残酷さに対してであれ、優しさに対してであれ・・・総称して愛(かな)しさとでも便宜的に名づけておこう――に心酔する同輩を横目にしながら、居心地の悪さを感じていたものだ。その疎みは次第に漠然とした嫌悪と変じていったように思う。
そのような過去があったのでわざわざ読むこともなかったのだが、研究に必須の対象ともなれば避けられず、夜な夜な捲ることにした――また、ここでは言及しないが、これとはほかに宮沢賢治を読むべき理由もあった――。
並行して小沢俊郎による作家研究も目を通していたのだが、そこで気づいたことがある。
小沢俊郎は筆者が読み進めていた宮沢賢治の小説における評論において、作家の素朴な農民的精神や自然への惜しみない畏敬の念、人間中心主義的な見方への皮肉を読み取っているようだったのだが、それらはいずれも宮沢賢治の作品の大前提ともいうべき思想で、わざわざ声を大きくして言うべき事柄であるのかどうか。こういった疑念を突き詰めた結果、ひとまず次のような結論に至る。即ち、宮沢賢治の農民至高主義、自然への愛情、人間への皮肉、そして愛しい世界観ともいうべき作家性―作品性は、なんら否定される余地をもたず、むしろ肯定されて然るべきような、無条件の当然さを孕んでいるのだ。ここに宮沢賢治のテクストの魔力とも呼ぶべき危なさがある。したがって、宮沢賢治を論じる際、宮沢賢治が書いた世界観を否定することの困難さが考えられ、宮沢賢治のテクストの内側に閉じこめられてしまう怖れさえある。事実、小沢俊郎は宮沢賢治のテクストを批判的に読むことができず、殆どが作品の主題の賛辞――<農民藝術>の礼賛に終始しているのだ。
無論、見方をかえればそこが宮沢賢治の弱点でもあるといえようが、宮沢賢治の誤りを思想的に炙り出すには、せいぜい小泉義之が『ドゥルーズの哲学』で示したようなアクロバティックなやり方でなければ到底成し得ないのかも知れない。
他方で、宮沢賢治の近親相姦説などがまことしやかに流通するが、結局それは宮沢賢治を否定したくとも文学の地平で宮沢賢治を否定することができなかった――思想で対決できなかった――人々が、スキャンダラスな話題を求めた結果なのかもしれない
冒頭に引いた言葉のすぐ後、ロラン・バルトは「制度としての作者は死んだ」[2]と口にする。しかしその後、結局のところ人は作者を欲望してしまうことを指摘する――彼がテクストにフェティッシュの価値を見出すのは、禁忌を否定してもなお、今度はその否定を否定してしまうという、バタイユの二重否定が念頭にあるのかもしれない――。
ロラン・バルトの次の文章の末尾、「読むことがたやすくなる」は、「読むことを渇望させる」と訂正させておくべきだろう。
物語が、お行儀よく、上品な言葉で、善意に満ちて、信心深い語調で語られていればいるほど、それをひっくり返し、汚し、裏側から読むことがたやすくなる(サドの読むセギュール夫人)。この裏返しは純粋な生産だから、立派にテクストの快楽を増す。[3]
[1] ロラン・バルト、沢崎浩平訳、『テクストの快楽』、1977、52。
[2] 前註におなじ。
[3] ロラン・バルト、沢崎浩平訳、『テクストの快楽』、1977、49。
補遺: 前記事 「ことばにころさせられるまえに」について
前記事について質問をいただいたので応答する。
まず、「ことばにころさせられるまえに」は一つのバラッドとして完成させる事が少なからず目的化されている。これは、フランソワ・ヴィヨンのよく知られた一連のバラッドを想起したことに起因する。また、巫山戯たタイトルが既にこの記事が一種の茶化しであることが暗示されている。
言葉が話者の代理物であるという考えは、もっぱらジャック・ラカンが彼のセミネールで示したシニフィアンの理論に依拠している。ラカンが仄めかしたのは、シニフィアンは主体の表象代理であるということだ。シニフィアンが明らかにするのは書かれた言葉ではなく、シニフィアンを生成した人物の存在のみである。
余談だけれど、ブログ名のaphanisisとは、刹那的な象徴界への参与と復活し得ない永久の死滅の享受、すなわちシニフィアンの消失を指示する語として用いられている。aphaniaisとは語られた言葉そのものなのだ。
言葉が嘘をつくということはなく、人が嘘をつく。
異論もあろう。筆者自身、言葉それ自体の力で言葉が嘘となり得てしまったような出来事を知っている。外的要因が折り重なって、思いもよらぬ形で言葉に救われたり死んだりした人を知っている。言葉は殆どの場合、目的や意味に囚われないか、あるいは少なくとも、目的とか意味とかが全てではないことを、常に使い手に対して示唆している。もっとも、言葉の美化が即座に使用者の罪の贖罪に結びつけられるという事態も、実際ありふれており、それだけに言葉に対してお気楽に、分別のない赤子みたいに「好き」を振り撒く人間には戦慄する。
なお、戦慄するだけで嫌悪はしない。前回の記事を読んで、切迫した様子で筆者を案じた人がいたのだけれど、怒りや呆れは然程抱いていない。
前記事の最たる目的は、終結部に設置されたエルザ・トリオレの引用が全てである。
「誰も私を愛さない」(トリオレ)。私のための小説を書くこと。言葉をフェティッシュの座から引き摺り落とす最善の方法。読者不在のままに。言葉を自分にだけ向けることができるのであれば。
私ひとりのための小説を書くとしましょう。読者ぬきの。実在しそうにない小説。私はひどく哀れな、ひどくみじめな女ですから誰かに秘密を打明けたりしません。私の所有するものは、すこぶる僅かですから、それは金輪際ほかの人と分ちあえるものではないのです。ひとかけらの食べもの、ひとひらの埃。それが私の全宇宙です。
ことばにころさせられるまえに
私ひとりのための小説を書くとしましょう。読者ぬきの。実在しそうにない小説。私はひどく哀れな、ひどくみじめな女ですから誰かに秘密を打明けたりしません。私の所有するものは、すこぶる僅かですから、それは金輪際ほかの人と分ちあえるものではないのです。ひとかけらの食べもの、ひとひらの埃。それが私の全宇宙です。それを私は震える重い水滴ごしに視つめるのです。『オペラ』。シャンデリヤ、限りない音楽。夢を見たい者は夢を見、夢を見うる者は夢を見る、というわけです。仙女の棒のようなオーケストラの指揮棒、光線のたばにつかまった蛾、歌う人形、音を出す操り人形。 一つのごく古い世界。舞台、私の幼い日の玩具、さる人にもらった贅沢な贈物。平らな箱、その舞台の奥にもうけられた背景、舞台のうえのあちらこちらには繁った葉をつないで書割となっている樹木。そして木製の台にくつつけられて立っている張子の俳優たち……。揚幕は赤く、金びかに塗った総(ふさ)がついていて、日除けのように巻き揚げられているのが、私の目に浮びます。この世の舞台という舞台は私にとってはこの舞台なのです。ポール紙と着色した布とで出来あがった一つの世界、私を魅了する会話、 一方の足を折りまげ、もう一方は伸ばして岩のうえに腰をおろしているテノール歌手、そして神聖な顫音、そして奈落の底の低音歌手。
エルザ・トリオレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.
齎す鬼
鬼の行事といえば、長谷からそう遠くもない天河の古社は、毎年節分会として鬼のために一夜の宿をしつらえる。天河神社の鬼迎えの神事――『鬼の宿 神迎え神事』である。
筆者はこれにも行ったことがない。が、父が行っていて、幼少の頃にその物語を聞かされたものである。神社の神官らは鬼のために握飯や聖水を用意し、祝詞だとか経文だとかをお唱えし、鬼を歓待する。これは節分の前夜におこなわれるのだが、一夜明けて鬼を泊めた屋内の桶を見ると、砂が溜まっていることがあるらしい。鬼が身を浄めた明かしとして、人々に喜ばれる。天河の鬼は人々に対し、福を与えると言う。
幼心に、この物語は実に神秘的な譚として印象ふかく記憶に刻まれた。
部屋一枚へだてたところで男どもが呪いの類の文言をうたっている。山谷の寒さが濃やかに充ちる閨、土地の人間が祈りを託した干し梅やら米やらの香りもただよっていただろう。闇を背にして一体の鬼が、握飯を美味そうに食らっている。事を終えると鬼は吉野の手水で身を浄め、用意された寝床へと身を寄せる。明くる日、人々は恭しく閨に入室する。
我が家では昔から「鬼は内」と囃すのだが、これが天河神社の慣いと知ったのは、ここ数年の間のことである。
『古本説話集』は第六十一、「伊良縁野世恒給毗沙門下文鬼神田与給物事」。
越前国の世恒は不仕合せな人物だった。彼はわが身を嘆いて毗沙門天に助けを乞うた
。のちに世恒は毗沙門の霊験を授かり――なお、毗沙門は鬼を制御する天である。薬師寺の鬼追い式で鬼を祓うのは毗沙門である――、家を訪ね来た美女から米を受ける。
月が幾ばくか過ぎると米も尽く。世恒は改めて毗沙門に縋る。すると、また美しい女が世恒の前に現れ、今度は文を与えたという。みると世恒に米を与えよとの内容で、言われるがまま、世恒は米を受けるために遠方の峰へと赴いた。着いた先で「なりた」と呼べ、と女は付言した。
そのまゝに行きて見ければ、まことに高き峰あり。
その峰の上にて、
「なりた。」
と呼びければ、高く恐しげに答(いら)へて、出で来たる物あり。見ればら額に角生(お)ひて目一つ付きたる物の、赤き犢鼻褌(たうさぎ)したる物の、出で来てらひざまづきてゐたり。
「これ御下し文也。この米得させよ。」
と言へば、
「さること候ふらん。」
とて、下し文を見て、
「これは二斗と候へどもら一斗奉れ、となん候ひつる。」
とて、一斗をぞ取らせたりける。
そのまゝに受け取りて、帰りてのちより、その入れたる袋の米(よね)一斗尽きせざりけり。[1]
註
[1] 高橋貢、『全訳注 古本説話集 下巻』、講談社学術文庫、2001、161-162。
走る鬼 ――「消える鬼」補遺
種々の『百鬼夜行図』を調べているうち、鬼が走っているものがあるのを知った。
百鬼夜行というと、なにやら深夜の往来をぞろぞろ歩いている印象があったのだが、画家によっては疾走感ある妖ども姿を描き出しているようだ――ちなみに、本稿では付喪神の行道も広義の百鬼 / 夜行の一例とみなす――。
このうち、暁斎の画にかんしては「暁斎の画ゆえ」とみるべきではあろうが、それでもなお、百鬼や鬼を走らせる例は少なくない。案外、人目に触れぬ速度で跋扈しているのかもしれない。
走る鬼といえば、鬼を走らせる行事がわが国にはある。追儺や鬼やらいがそれだが、追儺は必ずしも節分に限定されるような伝統でもない。たとえばそれは修二会というかたちで法会に組み込まれている点からも明らかである。筆者が実見したのは薬師寺の薬師悔過の最終日に位置する鬼追い式だが、長谷のだだおしなんかも有名である。ただし、薬師寺の鬼追い式は――そして、おそらく長谷の追儺も――、早い速度をともなわない芸態をそなえる。他方で、おそらく追儺の鬼は実際に走ったことであろう。
追儺の起源は南北朝までさかのぼることができる。中国から渡来した宮廷行事が源流で、もともとは鬼役の人間は必ずしも必要ではなかったが、やがて鬼を演じる人間が配置されるようになった。
しかし、平安末期頃から、目に見えぬ鬼に飽き足らなくなり、それまで鬼を追う役であった方相氏が逆に鬼にみたてられ、群臣らに追い出されるようになった。追儺は、それまでは宮中で方相氏に呼応して群臣らが桃の杖、桃の弓、葦の矢で東西南北に分かれて疫鬼を駆逐していたのだが、方相氏が鬼役に変化してしまったのである。このほか、大声をあげたり、振鼓を鳴らして鬼を追い祓う風習も、12月晦日の追儺におこなわれていた。[1]
こうしてみると、画面上の物怪どもの走りはなんと清々しいことであろう。彼らの自由で気儘な走りは、厭味などでも楽しそうだ。それが演劇化された途端、無性に残酷な様相をたたえるようになるのは皮肉といったところか。
註