今の田舎は、「スマホ」で映えるが、心で映えず

昨日までの、

「GWの熱気」を、沈める様に、

夜明け前から、「春の雨」

 

ぼんやり生温かな空気が、

様子を見る様に、流れていく。

「少し動けば汗ばんで」

春とは思えぬ、暖かさ。

 

一瞬で、変わる空模様、

「女心と秋の空」と、いわれてきたが、

最近の春は、

同じ様に、しとしと降っていた雨が、

渦を巻いた強風が、竜巻になる、

 

「傘の形」を、成さないほどに、

「傘の用事」を、成さないほどに、

歪んだ傘を、大事に持って、

暴風雨の中を、走り出す。

 

美しい、

「自然の四季ある日本」が、生み出した、

俳句や和歌の、

最初の季語が、出てこない、

季節感は、どこかに消えた。

 

たぶん、

そんな、「失われた日本の風情」を、

街から離れた、田舎には、

残っているだろうと、

休みの日には、こぞって出かける。

 

行ってみれば、

地元の名物が並び、人、人、人

旅館に入れば、人、人、人、

 

昔の田舎には、

澄み切った青い空に、

鳶が、輪をかいて飛んでいる、

流れる清流には、お玉杓子が顔を出し、

桜並木に、菜の花畑は絵画の様。

 

今の田舎は、

スマホ」で、映えても、

心で映えず、

写真が増えるたびに、消えてゆく。

 

お父さん、お母さん、お疲れ様でした

GW最後の日、

遊び疲れ、

帰り道は、渋滞に巻き込まれ、

「なお、しんどい!」

 

「体力」を使い、

「お金」を使い、

「気」を使い、

それでも、

遊びに行きたい思いは、辞められず、

こうなる事を承知の上で、

実行される。

 

人は皆、

楽しい事、嬉しい事は、

「官能の世界」であり、

心を止める事は、不可能である。

 

事故や事件に、会わずに、

無事に、

帰る事ができたとすれば、

当たり前ではなく、

「奇跡と呼ぶ」に、ふさわしい。

 

これだけの「人間」と、

陸、空、海の、「乗り物」が、

行き交う中で、

事件が起こらない方が、不思議である。

 

「止まって、並んで、待って、待って」

手に入れる、

人生の思い出のアルバム、

 

私達の子供の時代は、

未来に

夢を馳せたが、

今の子供達は、

実態を、

観て、聞いて、学んでゆく。

 

お父さん、お母さん、

「お疲れ様でした」

 

「貢献出来るかは、歳のせいではない」

定年近くなるまで、

「サラリーマン」をして来た人間が、

最近、

「起業家」になる相談をしにくる。

 

「お給料をもらって来た」人間が、

「お給料を出す側」に回るのは、

思うほどに、簡単ではないが、

人生の、終わりが見えてくると、

当たり前に、わ良かれと思っていた事が、

「これで良いのか?」と、

思える様に、なって来たという。

 

昔は、、

終身雇用が一般的で

定年退職まで、がんばることが、

世のため、家族のためと、

お父さんは頑張って、

「さあ、今から好きなことを!」と、

思ったら、病気になったり、

不幸が来たりと、気の毒な一生になる、

 

だからなのか、

少し余裕を残して、

「50代後半」に、会社を辞めて、

次なる夢や、やりたかった仕事に、

着手しようとする。

 

こんな混迷の時代に、

どうかなとはおもうが、

「ピンチはチャンス」でもあり、

やらないで死ぬより、

やって、死ぬも良しかな、

 

自由民主主義の日本の中で、

会社の力ではなく、

個人の力で、

ビジネスラインにのって、

世の中や人に、

「貢献できるかは、歳のせいではない」と、

証明してほしい。

もう、こんな日も「最後になるかも」

なんだか、

「うすら寒い朝」である。

GWも、早くも、半分が過ぎて、

過ぎて仕舞えば、

「つわものどもが夢の後」である。

 

「年寄り組」は

こんなときは、

静かに、家にいて、

窓から、桜の散り行く姿を、

見てるが、よし。

 

しかし、

こんな時こそ、

「財布がわり」の爺さん、婆さん、

誘い出し、

お互い、楽しい時間を共有して、

思い出作りも、良い物である。

 

しかし、終わってみれば、

「身体を使い」疲れ果て、

「お金を使い」後悔し、

「あちこち使って」医療費に落とし込む。

 

情けない話ではあるが、

これが、「高齢者の現実」で、

若者には、

話も、行動も、追いつかず、

 

めったにいかない、ファミレスで、

「ドリンクバー付きランチ」を食べても、

飲み物一杯飲むだけで、

胸一杯!

 

「一杯しか飲まないなら、

ドリンクバーは、バーでなし!」と、

みんなに、からかわれながらも、

久しぶりの、楽しい一日。

 

みんなは気が付かないが、

もう、こんな日も、

「最後になるかも」と、

年寄りは、心の中で思っている。

 

「女の恐ろしさ」は、受け継がれて行く。

「何故なのか」を、

知らずに、別れてゆく方が、

傷つかなくていい場合もある。

 

大切な人が、

ある日突然、目の前から「消える」

急に、「会えなくなる」事がある。

 

残された方は、

「意味も訳もわからず」苦悩する。

最後に交わした、言葉の中に、

もう二度と会いたくない、

もしくは、終わりにしようと、

決意させた、原因があるはず。

 

人は其々、

受け取り方も違い、

相手の言葉や、行動で

深く、「傷ついたり、恨み」となったり、

する場合がある。

 

「何か、貴方にしましたか?」と、

聞けば、

「胸に手を当てて考えたら?」と、

言われても、

「気づかず、知らず、わからず」で、

ただただ、謝り続ける事になる。

 

最初に傷つけたのは誰か?

その時、その場だけでの言葉ではなく、

「堪忍袋の尾が切れて」

何も言わずに、たち去れば、

相手は、悔い改めるだろうと、

忽然と、目の前から消えるのも、

かなり、厳しい仕打ちである。

 

それなら、

まだ、その場で口喧嘩して、

納得するまで、言い合いをする方が、

「罪」がないような気がする。

 

ある意味、

「男同士」は、気に入らなければ、

殴り合いになるが、

あとは「ケロリン」で、すっきりする。

 

「女同士」は、黙って、静かに去るが、

腹に一物持って、

相手を、自己嫌悪に落とし込み、

「狂い死に」するのを、

待っている感もある。

 

神代の昔から、

「女の恐ろしさ」は、

何千年の時を超えて、受け継がれて行く

 

「100歳寿命」の長生きも、良し悪し

若い頃から、

専門職の仕事をしていたせいか、

私が、

「隠居暮らしの年寄り」になった、今でも、

たまに、

もと生徒さん達が

顔を見せに来てくれる。

 

人生の終わりに近づき、

もはや教えることも、

知らせることもなかったが、

若い人達の、新鮮な話に、

興味深さもあった。

 

昔なら、

高齢者と呼ばれてもおかしくないほどの、

「50歳後半」の夫婦の会話を聞いていると、

「まだまだ、若い!」

 

妻が夫の意見に楯突くなど、

もってのほかの、

私たちの時代と違い、

「ハラハラするような言葉」で、

夫に対して、不平不満を言う。

 

「65歳を過ぎた頃」からは、

国も認める高齢者の仲間入り、

少しは、妻が我慢をしているようだが、

本来、女が長生きのデータで、

「誰に介護してもらうの?」と、

ピシャリといわれると、

夫は何も言えずに、下を向く。

 

「75歳を過ぎた頃」には、

半分以上、

「妻が、夫を見送り」

やっと、自由な一人暮らしで、

謳歌しているようにも感じる。

 

しかし、

「85歳をすぎる頃」には

妻も動ける内は、

老後暮らしも、楽しいが、

身体はガタガタ、頭はボケて、

困り出し、

「せんせいたすけて!」と、言ってくる。

 

その時には、

助けになる夫も、おらず、

子供たちも、そこそこの高齢者、

致し方なく、

国や、行政や、赤の他人に、

お世話にならざるを得ないのである。

 

女の一生

「100歳寿命」の、長生きも、

良し悪しであり、

花も身もあるうちに、

静かに消えてゆくのも一つである。

 

 

結婚生活に、「落第のはんこ」が押された。

今更、言うも可笑しいが、

何故あの時、

「嫌だな」と思ったのに、

我慢などしたのだろう。

 

女の私がシャシャリでて、

物言うことをためらったが為に、

最後まで、

「良き夫婦」として、

終わらなかった原因は、

お互いの意見を尊重し、

改善できなかったからである。

 

たまたま、

広い平屋の一軒家に、住んでいたから、

食事の時以外は、

他人のように、会うこともなく、

「マンションの部屋」を、

其々が、借りているような二人であった。

 

こういう状況になると、

夫婦であっても、手の打ちようが無い。

狭い部屋の中、

「否が応でも、顔つき合わせ」

何日も、物言わず、聞かず、

口を開けば、罵り合う。

 

お互い疲れてはて、いつのまにか、、

平常心に戻ることが、ある。

で、

日常は戻り、

喧嘩したり、仲良くなったりの関係が、

修復されて行く。

 

しかし、

「鍵が閉まったが如く」の、

部屋のドアは、開かずの間、

そうなると。

夫婦であっても。開けることならず、

夫婦関係は、

同じ家の中で、決裂する。

 

いつのまにか、

夫も、食事さえ作っておけば、

なにも、もとめず、

お互い、自由に暮らしだし、

別途の人生を、歩み出す、

 

夫が倒れ、

もはや救いがない状態になっても、

話題も、思い出もなく、

感謝の言葉もなく、天国に召された

 

最初に、

「言えなかった日」から、

ずーっと、

今言わなければ、他人のような関係に、

おわるだろうと、分かりながら、

別れを迎えてしまった。

 

一人ぼっちで、行ってしまった悲しみ、

一人ぼっちで、残された寂しさ、

半世紀を共にした、夫婦であったが、

決して、幸せとは言えない、

結婚生活に、

「落第のはんこ」がおされた。