存在の時間

存在のお時間ですよ!

存在肯定についての愛の諸形態

存在と人生は違う。

この寒いのに無糖紅茶に氷が浮かんでいる。

対象を愛し、その存在を肯定するが、本人にとって生まれてくる(きた)ことが良かったかどうかを勝手に判断してしまう、つまり人生の価値を勝手に測ってしまう、という関係の在り方がある。

「愛しているよ。生んでごめんなさい」

そんなことを言って、何も加えなければ甘美なミルクにわざわざ後悔という苦味を混ぜるのは意味のない嫌がらせだ。少なくともぼくはそんな愛は受け取りたくない。

でも、生む前に考えて欲しかったと望むのは愛の希求だ。少なくとも自分の生を肯定する責任を背負って欲しがっている。ぼくはそれを望んだことがないと言い切れるだろうか。

存在否定はするが、本人がその人生を肯定するかどうかを決める権利は侵害しない、そんな関係の在り方もあるかもしれない。

「私がこんなにあなたを愛さなくても、あなたはその人生を愛しますか」

ああそうか。もしかしたらぼくを愛さなかったあの人は、そんな問いで罪滅ぼしをするかも知れない。

フレンチトーストで口が甘いのを無糖紅茶で直す。

大人になれる日

大人になることは嘘つきで、筋が通ってない、不誠実で残酷でわからず屋な人間になることだと思っていた。

そういう人間を憎んで、軽蔑していた。

大人が間違っていて自分が正しいと思っていた。

自分はいつかそういう人間に「なってしまう」のではないかと恐れていた。

嘘をつかず、筋の通ったことを言い、一度言ったことは変えず、気持ちや決心も絶対に変えず、うっかり人を傷つけたりせず、人の気持ちや立場をきちんと理解し、それこそが賢さで、そういう理想を持って生きている自分こそが正しくて、そうできない人間のことを見下していた。

だから、自分がそれらを出来なかった時、私は自分を心の底から憎んだ。

失敗ばかりのしょうもないクソ両親や世の中の馬鹿な大人そっくりな自分は死ぬべきだと思った。

でも朝から晩までそうやって虐め抜いているしょうもない自分、変えたくて変えたくてたまらないそのしょうもない自分こそが自分の実際の姿であって、その無力な自分のことを受け入れられないばかりにまた高潔な理想にしがみつくことになった。

まだ私は「なってしまう」ことを恐れていた。「なってしまう」のではなくもう「なっている」のに。

既にそういうしょうもない自分を生きているのに、しょうもなくないフリをしていた。

本当の自分に会う勇気がなかった。

だからずっとひとりで待っていました。

誰も来ない夕暮れの保育園で。

誰も迎えに来てくれなかったんです、失敗ばかりしている頭が悪くて無力なデカい子供の自分を。

クソ両親そっくりでムカつくからという理由で会いに来てくれませんでした。

私は私の存在から目を逸らして、正しくて素晴らしい自分を生きようと必死になっていました。

自分を高潔な理想から解放してやって、失敗ばかりの本当はしょうもない自分を許す、ただそれだけのことが、どうしようもなくどうしようもなく出来ませんでした。

人間を正しい人と間違っている人に分けて、間違っている人間を正義のアンパンチでシバキあげるのは一番楽で簡単で頭使わなくて済むし3歳児でも出来るのに、なのにそれをやっている自分の方が目の前の間違った大人より頭がいいと思っていた。

でもその思い込みは、しょうもない自分を見ないでいるための手段でしかない。

正しくて素晴らしい自分という幻想は私を守ってくれたのかも知れない。

私を生み、この人生という理不尽な状況に置いた不完全なあの大人たちと同じように自分は不完全だということを認めるのは、とても苦しいことだったのかも知れない。

でもそれは、不完全な自分を認めれば、あの不完全な大人たちのことも憎まずに済むようになるかも知れないということでもある。

しょうもない自分でも、ここにいていいんだと思えるようになるかも知れない。

ちゃんと出来ない罪深い自分でも、幸せに生きていいんだと思えるようになるかも知れない。

人を愛したくても愛せない、間違えて余計なことばかりして傷つけて、でも相手の幸せを祈る無力な自分でも、尊いと思えるようになるかも知れない。

それが出来たら大人ってことなのかも知れない。

夢の終わり、愛の続き

普通の自分を生きることが出来なかった。
普通の自分を切り離して、馬鹿にして、
普通ではない自分しか認めることが出来なかった。
普通ではない経験をした人間は、普通ではない生き方をしなければならないと思っていた。
とりわけ人から見上げられるような、高尚な生き方をしなければならないと思っていた。
滋養に富んだ苦しみを飲み干して、俗的ではない彼岸の存在にならなければいけないと思っていた。
そうしなければ、異常な体験に苦しんだ自分が報われないと思っていた。
自分の人生の普通ではなかった部分を、自分という存在の核にしなければならないと思っていた。
苦しむことは高尚で、偉くて、選ばれた人間だけが得られる特権だと思っていた。
その実なにも持っていない現状の自分から目を背け、その苦しみがいつの日かこの生に豊穣をもたらすことを期待していた。
高尚に見える自分しか、好きになれる自分が他にいなかった。
まんまと騙されて私のことを高尚な人物だと思い込む人がいた。
普通の自分だけでなく、俗的な生き方をしている人、
高いことに興味がない人間のことを「主体性がない」と言って馬鹿にしていた。
何かを馬鹿にすることでしか維持できないような脆い自己肯定感で生きている自分のことですら、
中二病と言って適当にせせら笑って誤魔化していた。
でも実際は、
酒ばっかり飲んで、定職にも就かず、
育った家もぐちゃぐちゃで、
腕は子供の頃に傷だらけにして人前で出せないし、
義務教育は半分くらい受けていないし、
気持ち悪いオタクで、むっつりで、
簡単に人を信用して、それでいて誰にも心を開かず、
それすらも芸の肥やしだと無理に思い込もうとして、
人間関係はおかしいし、被害者意識に満ちていて、
自分に関わってきた人を思いやらず、傷つけるか逃げ出すかの二つしか出来ず、
本当は努力なんかしないで素晴らしい自分になりたいと思っている、
尊敬できる要素なんかかけらもない、
もう誰もが逃げ出すような、
生きていてもしょうがない、
社会的には最低の存在だ。
だから普通に生きられたときは嬉しかった。
普通のことを楽しいと思えたときは肩の荷が下りた気がした。
普通のことを楽しいと思っている自分を馬鹿にせずに済む生活はこんなにも素晴らしいのかと思った。
自称高尚な人々から馬鹿にされても良いと思えた。
何かを馬鹿にしなければ気が済まないような自己肯定感の低い自分や、
自己肯定感の低い自称高尚な人々の眼差しに怯えずにこれからずっと暮らせたらどんなに良いだろうと思った。
 
私は今まで自分が高尚だと思っていたことから離れた。
学問のことも本のことも考えなかった。
高尚でありたいという意識を捨てたときに、どんなふうにそういうことに向き合えるのか興味があった。
違う向き合い方があるのかないのかを知りたいと思った。
今まで通りの向き合い方では、自分を幸せにすることは出来ないと思った。
幸せを最終目的とするべきかどうかということを差し置いても、
今までのようなやり方で生きたとしても偽りの人生でしかないと思った。
 
自分を好きになれるだとか荒唐無稽な希望を持っているわけではない。
自分を好きになる日は来ないと思う。
でも普通のことを大切にできれば、自分を嫌いながらでも幸せに生きることができるような気がした。
今の自分を否定して、高い自分という幻想を生きることの中に幸せはないと思った。
だからそういうやり方とは、距離を置こうと思っている。
そうではない向き合い方がわかったときに、また改めて違う自分で本や学問に向き合うことができると思っている。

あなたが与えた私を生きるーーー存在を授与し合うということ

 私のことが好きだ?私のことなどよく知りもしないくせに、と君は言う。

 好意は、相手を知ることで初めて生まれる場合もあるが、相手を知るための関係の入り口である場合もある。そして大概、私たちはこの好意を正当化しようとする。それが相手に対する勝手な期待であってもだ。

 けだしそこには、ひととひととの交われなさ、幻想を纏っていない本当の姿をした相手と出会うことの難しさ、涙を飲んでそれに耐えながらもなお相手の傍にいたいと願ってしまう、そんなのっぴきならない事情があるのかも知れない。しかしその幻想から脱せないという不幸な事情が、もし人間に無限の可能性を与えるとしたら、と私は最近考えるのだ。

 

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 私は好意を持たれることが極端に苦手だ。偽物の私に期待されている気がしてしまうからだ。それは私に対して悪くない感情を持っているということであっても、もし相手の中の、相手が好意を寄せている自分が「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」というような人格だったらどうしようという恐怖は常に付きまとう。あまりに自由な「私」に、私はぞっとしてしまう。

 私は「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」とは言わない。それが私の考える「ほんとうの私」だ。しかし、相手の世界に存在している私は「ほんとうの私」とはほとんど何の関係もない。だから勝手に、私のことを「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」などと口走る人間だと思い込むことも可能だ。

 「そんなの自分じゃない」。この台詞はどんな時に絞り出される悲鳴だろうか。ひとつに、相手があまりにこの私とずれた人物像を私に抱いている場合だ。しかしそれだけでは無い。「私」が「私」に対して抱いている幻想と乖離した自分を突きつけられた時にも、ひとは居心地の悪さや恐怖、怒りを感じる。相手によって顕になった「私」は、隠されていた自分なのかも知れない。即ち幻想を抱いていたのは相手ではなく自分だったというわけだ。

 こうなると最早どちらが幻想を抱いていようが、「ほんとうの私」同士で交わることは出来ない。私や相手が見ている自分がほんとうか偽りかはどうでもよいことなのかも知れない。どうでもよいことと言うと語弊があるが、私たちは自分が思うよりもずっと自由だし、どんな姿にもなれてしまうのだ。

 誰かを好きになることは、美との邂逅だ。その瞬間には生の煌めきがある。誰かが花を見て綺麗だねと呟いたら、ああ、綺麗だねと共感を寄せることは愛だ。たとえ全く違う花、いや犬のうんこが見えていたとしてもそれは愛だ。だから相手の幻想の中の自分を愛することは、循環して相手を愛することでもあるのかもしれない。

 ほんとうの私、ほんとうの相手に出会うことがお互いに難しいからこそ、幻想を授与し合うことが出来る。新しい自分を相手から授与されることで、どこまで行っても未知な自分であることを自分に許すことが出来る。それは言わばどんな自分でも良いと自分自身に対して言うことでもある。こういう自分でなければいけないという有限的な自分への愛から脱して、より深く自分を愛せるようになるかも知れない。だからこの一見救いようのない交われなさは、不幸な事情などではなく、人間に許された無限の可能性なのだ。

 私のことなどよく知りもしないくせに、と君は言う。君のことをよく知らないのは君自身かも知れないのに。もちろん、私がほんとうに君をよく知らないのかも知れない。しかし、もはやそれはどうでもよいことなんじゃないのか。自分の幻想にいつも付き合ってるかもしれないのなら、たまには誰かの幻想に付き合ってみるのも悪くないかも知れない。もっともそれは、新しい自分を受け取りたいと望んだ時しか叶わないだろうけど。

 

 

 

 

 

はにゃ〜んご主人様ぁ~~

眼差しの責任について

一人で百円寿司に行った。無性にあの茹でたエビが食べたくなってのことだった。

寿司が流れるレーンの向こう側の席で、絵に描いたような幸せそうな父親と母親と10歳ぐらいの女児が寿司を食べている。

流れてきたたまごを食べていると、女児がじっとこちらを見てきた。軽蔑するような眼差しであるように思えた。私は恐ろしくなって一瞬動きを止めてしまった。なるほど、両親に愛され、わざわざ連れられて寿司屋に来ているこの子供にとっては、一緒に食事をするような家族もなく一人で物を食べている私など哀れで汚らしい存在なのかもしれないと思った。

 

しかし、どうだろう。実際に私を哀れで汚らしいと思っているのは他ならぬ私自身であるような気もしているのだ。

眼差しが対象の在り方を規定するとしても、そもそもそのこちらに向けられた眼差しがどのような眼差しであるかを解釈しているとき、私たちは見る側でもあるのだ。

見る側と見られる側の違いは常に曖昧だ。互いの立場が曖昧である以上、どちらかに責任を求めることは無理がある。

もしかしたら、私も女児が規定しようとした内容に逆らって「哀れで汚らわしい」となったのかも知れない。

「あっ、こいつ、箸の持ち方が間違ってる。行儀悪いな。」とか、

「こいつ全く生モノ食べないな。さては好き嫌いか?」とか、

 

そういう内容で私を規定しようとしたのかも知れないのだ。

つまりこの記事で何が言いたいかというと、

 

 

誰かそのうちご飯行こう?(ハイパーめんどくさい奴)

底なしの不安/寂しさについて

底なしの不安や寂しさについて、ほんの思いついたことを書きたいと思う。

底なしの不安とは、「こうなったら安心だ」という具体的な安心の基準が存在しない不安のことである。

多くの不安は具体的な安心の基準を持っているように見える。しかし、その基準は必ずしも本物とは限らず、安心の基準に状況が達してもまた新たな不安の材料が現れることもある。つまり安心の基準が見せかけであるということだ。この場合、その不安は「底なしの不安である」と言うことができるだろう。

そして底なしの不安は、具体的な安心の基準を持っているように見えることが多い。

 

その一つの例として架空の人物を想定するとしよう。

底なしの不安を抱えたAさんである。

 

Aさんは愛する恋人がいるが、その恋人には親しい女友達がいたとします。Aさんは恋人を取られてしまう不安のあまり、その女友達と関わるのをやめてほしいと恋人に言います。恋人は女友達と関わるのをやめ、その分Aさんと多く接するようになりました。するとAさんは、恋人の仕事が忙しくて、恋人はその分私に注意を向けていないかもしれないと思い始めます。恋人に仕事を辞めさせ、ずっと一緒にいるようになりました。するとAさんは、恋人は私よりも自分の命のほうが大切かもしれないと思い始めます。Aさんの恋人はAさんを安心させるために命を捨てて死んでしまいました。Aさんは恋人が存在すれば安心できると思いましたが、恋人はもう死んで存在しません。

 

このように、一見具体的に見える「不安の原因」を取り除いても、また新たな不安の原因が眼の前に現れるような不安、これを私は「底なしの不安」と呼んでいる。

底なしの不安は、安心の基準が存在しない。

ここで私は思った。安心の基準が存在しないなら、逆に、どうなったら不安なのかという具体的な不安の基準も存在しないのではないだろうか。安心な状態と不安な状態を分かつラインが存在しないなら、どこからが安心なのかわからないし、どこからが不安なのかもわからないのだ。

しかし、底なしの不安を抱く人たちは、具体的な理由を上げて「だから私は不安だ」と言う。

「恋人に女友達がいる」「恋人が出張に行く」「恋人からの返信が遅い」…

これらも、一見具体的なものだが実は不安の本物の原因ではない可能性がある。先程書いたように、ちょうど具体的な安心の基準が本物ではない場合があるのと同じように。

だから私はとりあえず提案してみたい。(ちょうど底なしの不安を抱いてしまっている自分自身に対して)

「具体的な安心のラインがないことに気づいたのなら、具体的な不安のラインもないものとすること。つまり、安心基準が見せかけ(ダミー)であれば必ず同時に目の前の不安材料も見せかけ(ダミー)だから、そのダミーである不安材料のために不安になる価値があるかどうかを考えてみる」

これで底なしの不安が解決するかどうかを見てみたい。(報告するかどうかは気まぐれ)

 

 

(あっ、私の底なしの不安は恋愛絡みのものではありません。)

生を祝福するということ

こんな日だし久しぶりにブログでもと思い、編集画面を開いた次第である。

言葉は怖い。私はこれを書くのに慎重になるだろうけれども、もし読み手に痛みを与えたのなら申し訳なく思う。そのような恐れも持っていることも最初に伝えておきたい。

 

 

正直なところ、私にとって「生まれてきてよかった」と言うことは、とても勇気の要ることである。

それは例えこの人生を愛していてもだ。

もし生まれる前に戻って、全く別の人生を初めから生きる自由を与えられたとしても、またもう一度この人生を選ぶかと自分に問えば、黙ってしまう。即答できないのだ。

しかし、このままでは本当に自分の人生を愛しているとは言えないのではないだろうか。

生の肯定は、力づくでなされるようなものでは無い。それがどんなに強い苦しみがある人生だとしてもだ。善悪の解体がなされれば、その生への肯定は自然と湧き出てくる。

悪いことなどひとつも起きなかった人生を肯定することに、勇気など必要だろうか?私がこの生を心から肯定するために最も成すべきことは、もっと徹底した善悪の解体だろうと思う。

 

いやいや、でもむしろ、何度も捨てようとしたこの生を、終わってもまたもう一度生まれてきたいと渇望できるような生に出来るように、哲学や文学と戯れつつ、自惚れたり苦しんだりしながらあれやこれやしてみる生、それこそが自分にとってはもう一度生きたい価値ある生なのかも知れない。

じゃあ、言っても大丈夫だろうか。「生まれてきてよかった」

 

そして「27年前の今日に誕生できておめでとう、自分」

 

あっ、でもこれだと軽やかさが足りない気がするから、じゃあ向こう一年の目標として深刻病も治したいな。(贅沢)