酩酊(第四章)
昨日,それこそ十数年ぶりぐらいにタバコを吸ってみた。
行きつけのミスドで寛ぐときは、タバコを吸うわけでなくても喫煙席を
選ぶ場合が多い。高校生が出入りしないので居心地がいいからだ。
もちろんちゃんとした高校生もいる。だけど、猿みたいなのが時々いて
それが私の神経を逆撫ですることがしばしばあったりするから、自衛の意味で
喫煙室を選ぶことが多かった。タバコを吸わない身なのに、喫煙室の座席を占有して
喫煙者のチャンスを剥奪していることに対して、申し訳なさというのか
後ろめたさというのか——そういうのはあったんだ。
で、ふとタバコの味を思いだしてみようかと思い立ったんだ。
20代の頃はタバコを吸っていた。それはタバコが美味しいと思ってたからではなく
単に背伸びしたかっただけだった。往々にしてカタブツ扱いされてばかりで
タバコを吸えば少しは他人からの印象を変えることができるだろうかとか
そういう動機でしかなかったと思う。美味しいと感じたことなんて一度たりとも
なかったような気がしていたのだ。
あれから何十年か経った今——タバコが予想外に「おいしくて」驚いてしまった。
チェーンスモーカーのように傍目から見えるのが小っ恥ずかしくはあったのだけど
ついつい5本ぐらいを立て続けに吸ってしまった。
なんだろう……本当に美味しかったのだ。
最近は食べ物の好みが極端に変わった。
私の「ご機嫌取り」をするときには,家内は相変わらず甘いものを勧めてくるが
最近は甘い物を食べると右脚に痺れが走るようになってしまったのだ。
どちらかというと酒の宛になるような、辛い系統のほうが好みになってしまった。
まあ。どうでもいい話でした。
酩酊(第三章)
しんどい
酩酊(第二章)
私がどういう人間であるかなんて知らねえんだろ、お前さあ。
だったら離れたところから、きたねえ顔を並べて見合わせて
私のことを見て、へらへら笑って揶揄するのをやめろや。
そういう<笑い顔>は威圧だ。
コミュニケーションを抜きにした揶揄なんてのは、卑怯者のやることだ。
私はもっと平和な世界に棲みたかった。
どうして「自分がされたら不快に感じるはず」の物事を
他人に対して平気でやることができる人間がこれほどにも多いのだろう?
ヒエラルキーからもたらされたハラスメントと同じ構図を
さらに下の側に立たせることができそうな対象をめざとく見つけて
押しつけてくる……その神経が私には解せない。
不快を伝染させて自分を慰めることのできる神経ってのが解せない。
苦しむ者の絶対数は少ないにこしたことはない——と感じない人間が
これほどにも多いというのが悲しくてたまらないんだ。
酩酊(第一章)
今の私には「友人」がいない。
とは言っても家内と娘がいる。
そういう意味においては孤独でないが、それでも
私は「ひとりでいる」時間が大好きだ。
いつもMacBookを携行している。鞄がいつも重いのはストレスだが
仕事の合間に喫茶店でMacBookを開いて,日記のような散文を書きつけて
自分自身の内面と対話することが好きだ。
人とあまり会話をもたないぶん,そうやって自分と話をする。
読書は本当は大好きなのだが、最近はあまり活字を読んで
頭の中で咀嚼するだけのエネルギーがない。
思うに読書は会話とまったく同じだ。会話にせよ、互いが一方的に
言いたいことをただ垂れ流しているだけというのであれば、そういうものは
意味のないことだと思う。ただ相手に甘えているだけ。
私は誰かと話すとき、それこそ脳をフル回転させて相手が言いたいはずのことを
探り当てようとしてしまう。だから会話というのがとても疲れるのだ。
そして読書も——そういう本質を有する行為だと思う。私は読書することを通じて
著者の言い分に耳を傾けて、どこか相づちを打とうとしていると思う。
ただ、最近はどうもそのエネルギーがない。
酒を飲むとつい、こんな風な駄文を垂れ流したくなる。