細かいことが嫌い。
子どものころから、ガサツでズボラでグータラです。
ですから、まさか自分がHSPだと思っていなかった。
細かいことは好きじゃなくて、潔癖症でも綺麗好きでもないし、どちらかと言えば散らかし屋で整理整頓が苦手。
ささいなことでクヨクヨとよく悩みますが、細かいことが嫌いなので、細かいことを気にしている自分自身を認められずにネグレクトをするという悪循環。
自尊心は低いまま大人になり、他者にどう見られるかを気にするので見た目を整える。
HSPの人は美的感覚に優れているので、華美ではないですがさりげなくおしゃれな人が多いです。ナチュラルメイクで、トーンを抑えたシンプルなコーディネイトに小物や差し色を効かせるのが得意。自分に似合うものをよく知ってます。それは、他者から言われた「その服よく似合っているね」「その色は似合わないよ」などの声に多大な影響を受けて記憶に残し、その後実践するからです。
ほしいものと、ほしいと思わされているもの。
自分がほしいと思っていたものが手に入るとうれしい。
自分がほしいと思わされていたものが手に入ると持て余す。
「ほしいもの」と「ほしいと思わされているもの」。
ある時まで、この違いがわからなかったのです。
ほしいものが手に入らなかったら悔しい。ほしいと思わされていものが手に入らないと、もっと悔しい。
自分がなにをほしいかわからない、ほしくもないのにほしいと思っていたことに気がつきたくないからです。
「ほしい!」という欲求は、思考や感覚を狂わせます。なぜほしいのか、本当に必要なのか。手に入れたら満足するのか。
ほしがらせているものは、世間の物差しによるところが大きい。
ほしいものは、自分の物差しによります。
自分自身にも世間の物差しが内在化している場合、見分けがつかなくなってしまいます。
注意が必要です。
繊細さん現る。
今、流行りの繊細さん。
感受性や想像力が豊かで、自然や芸術に感動しやすい。
怒られると萎縮してしまう。怒鳴り声や大きい声は聞くだけでビクッとしてしまう。
ひとりが好き。
物音に敏感。無音が落ち着く。
他者の怒りや悲しみを、我がことのように感じてしまう。共感力が強い。
嫌な出来事を反芻しては、モヤモヤする。
精神的に疲れやすく、ストレスを感じやすい。
繊細さんだとわかってよかったです。
病気ではなく、生まれつき備わった気質なので仕方ない。
自分のことを書かない。
文章は、自分の思いを書くためのものだと思い続けていましたが、どうやらそれは勘違いだったようです。
無我な状態で、言葉を編むべきなのではないか。
私が、私は、じゃなくて
空が、羽虫が、秋が、と主語を私以外にする。
布団が早く寝たらと言っているので、今から寝ます。
ひとりで生きる準備とは
一生独身でいるつもりなら、その準備をしなさいというアドバイスをいただきました。
お言葉を返すようですが、その準備をするつもりはありません。
私は準備が大変苦手な子どもでした。明日の授業の準備、遠足の準備、旅行の準備などいつも前日ギリギリにして、怒られていました。
準備をするのが嫌いというか、先のことを考えるのが苦手なのです。なにかがなくて困ったら、その時考えればいいではないか。先回りできることなど、限られている。
明日は明日の風が吹く。備えがあっても憂いはある。手を尽くしてもダメな時はダメ。
刹那的というよりは、仏教的な考え方に近いです。諸行無常。すべては移り変わり、変化し続けているのです。今日必要なものは、明日必要ないかもしれない。明日必要なものは、今日予測し得ない。
明日どんな日になるかは、誰にもわからない。
とはいえ、学生時代の時間割はもちろんたいていその通りに行われていたし、遠足のしおりには持ち物一覧があったので、それは理由になりませんけどね。
恋破れて、日常あり。
そう。
失恋しても、日常はつづくのです。
失恋は喪失体験の一種だが、軽度なものとして分類されがち。
しかしながら、当事者にとっては大変大きな喪失。国家レベルの損失なのです。
とはいえ、一社会人たるもの、泣き暮らしている場合ではありません。
顔で笑って、心で泣いて。何事もなかったかのように、日常を生きるのです。
花が咲いたら枯れるように、晴れた空が突然曇って雨が降り出すように、日常は移り変わり変化し続けています。
個人の情緒も同じです。いつもうごめいて揺らいでいます。不安定の中の安定を探し続けるのです。
それはちょうど、スラックラインに似ています。人生は、スラックライン。不安定なスラックラインの上で、必死にバランスをとります。力を抜いて、柔らかく身体を使って。
バランスを崩して落ちたら、また挑戦して。少しずつコツをつかんでいくのです。
恐竜博と三国志展
失恋後におすすめなのは、恐竜博と三国志展です。
なぜなら、その規模の大きさに圧倒されるからです。
そして、元恋人を想起させるものがほぼないからです。
時空間も国境も越えて、たどり着くのは諦観です。
恐竜博にいる恐竜は、骨です。骨の恐竜を見続けていると、もはやたいがいのことはどうでもよくなります。
巨大な骨を前にすると、一体自分は何をウジウジと悩んでいたのかわからなくなります。
失恋の特効薬は、新しい恋ではなく、恐竜の骨です。
三国志展は、三国志をあまり知らないものが行くと、よく意味がわかりません。
しかし、とりあえず大昔の中国で大変な戦いがあり、それが史実だということがわかります。
私は恐竜にしろ三国志にしろ、その時代に想いを馳せながらも、発掘・出土した人や研究者、実物を保存して梱包して輸送してきた人、展示した人たちの苦労や思いに感銘を受けます。
ここにこうやって展示されるまでに、どれだけの人の血と涙と思いが込められてきたのだろう。それを電車に乗って上野に来れば、簡単に見ることができるとは、なんとありがたいことだろう。
私は、大いなる力によって偶然に生かされてるのだなと思います。