肥満と薄毛からの脱出!「背水の陣」に直面した中年男の日記

肥満と薄毛の話題だけではなく、趣味の読書・音楽・映画などのご紹介もしますよ。

休職後初めての産業医面談 その1

約束していた会社の産業医面談の日がやってきてしまいました。

前回からの続きです。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

人事部長からは、早めに来て、休憩室で待っていてほしいとメールで言われましたが、本社の社員たちがデスクで仕事をしているスペースのすぐ隣で、何の仕切りも無く、丸見えの状態です。

しかも社内の扉を開けて入ったら、社員が仕事をしている後ろや前を通らなくてはなりません。

当然何らかの挨拶をしなければならず、数ヶ月も休職している僕にとっては一体何と言えばよいのか、どういう表情をすればよいのか、判断に困るところでした。

おそらく相手方の同僚や上司たちにとっても、同様だと思います。

実は、こういうことが一番ストレスに感じて、厄介なことだったりします。

 

そこで、僕としては、約束の時間(午後4時)ギリギリに行くことにしました。

ギリギリなので、上司や同僚らとコミュニケーションを取る暇もなく、すぐさま産業医との面談室に向かうことを企んだのです。

 

僕があまりにも緊張している風に見えたのか、妻が会社の近くまで付き添ってくれることになりました。

というか、これではまるで小学生や中学生と同じで気恥ずかしいので、断ったのですが、面倒見の良い妻は頑として譲ろうとせず、会社の最寄り駅である新宿駅まで一緒に電車に乗って付き添ってくれました。

新宿駅からはそこそこ歩くのですが、会社の入っているビルの真ん前まで付き添ってくれたことは、かえって良かったかと思っています。

余計な雑念に襲われて、余計なことを考えなくて済むので・・・

 

しかし、約4ヶ月ぶりに会社のあるビルのエントランスに一人で入り、一気に緊張したと同時に、休職する前の大変だった時期をおもわず思い出さずにはいられませんでした。

会社のあるフロアでエレベーターを降りましたが、幸い誰もいませんでした。

そして、オフィスのドアをセキュリティカードを通して入らなくてはならないのですが、これが一番緊張しました。

中にいる本社の社員みんなの視線が一気に集まり、注目されるからです。

しかし、仕方ありません。

(ええーーい!! ままよー!!)

ほとんどやけになって中に入ると、すぐ目の前に総務の担当の女性社員が出迎えてくれて、奥にある会議室に入るよう、示唆されました。

僕は出来るだけ注目を浴びないように、早足で進みましたが、何人かの社員が僕だと気がついたようでした。

(なんとなく気配で、ちょっとビックリしている感じが伝わってきました)

そして、産業医が待つ会議室のドアをノックして、すぐさま中に入るのでした。

 

(次回に続く)

メンタル絶不調

復職を決める重要な診察を受診し、僕は大いに悩みましたが、K先生が良い落としどころを見つけてくれました。

6月中旬までの休職延長の診断書を書いてもらいますが、産業医の診断により、産業医の指定する期日から復職を開始して、休職期間を短縮できるということにしてもらったのです。

2人とも安心してクリニックを出て、カフェでくつろいだりしていたのですが、僕はなぜかガクッと疲れと睡魔が怒涛のように押し寄せ、カフェでしばらく仮眠を取りました。

僕はK先生との復職に関する一連のやり取りをする中で、とても精神的に負担が大きかったらしく、また、前夜の睡眠状況もあまり良くなかったので、ぐったりしてしまい、早々にカフェを出て、必要な食材の買い物をしてすぐに帰宅しました。

帰宅後も、極度の疲労と偏頭痛が生じて、絶不調となってしまいました。

 

翌日日曜日の朝食後から、新しく処方された「アリピプラゾール」(エピリファイOD錠3㎎と商品名は表示されています)を飲み始めました。

抗うつ薬の補佐的な役割をする気分を安定させる作用がある薬ですが、小さくて薄っぺらくて、ちょっと甘く、すぐに飲み終わってしまいました。

それまで服用していたワイパックス漢方薬の抑肝散も一緒に飲みました。

しかし、しばらくすると、頭の前頭葉の部分に違和感を感じ始めました。

それは次第に鈍い痛みに変わり、左眼の周りと両方のこめかみのあたりも鈍い痛みが出てきました。

気分的にも落ち着かず、まるで風邪をひいて高熱を出している病人のような感じになりました。

この日曜日と翌月曜日は終始こんな感じで、ヒドい絶不調の状態でした。

 

新しく処方された「アリピプラゾール」 
エピリファイOD錠3㎎と商品名は表示されています。
抗うつ薬の補佐的な役割をする気分を安定させる作用がある薬です。

 

でも、やらなくてはならないことは、こんな絶不調な時でもやらなければなりません。

会社の共有チャットで、人事部長に今回の診察の主治医の見解を伝えました。

なぜか人事部長からは数分で返事が来て、3日後の木曜日に産業医が来社するので、予約するかどうか打診が来ました。

月に1回しか来社しないので、これを逃すと1ヶ月以上先の6月20日となってしまうので、承諾しました。

ポンポンポンとスムーズに人事部長とやり取りして、産業医の面談は3日後の木曜日の午後4時ということになりました。

早めに来て、休憩室で待っていてほしいと返信がありましたが、この休憩室は社員のデスクが連なるスペースと何の仕切りも無く、丸見えの状態です。

「もうちょっと気を遣ってくれないかな‥」

とちょっと憮然としましたが、まあ仕方ありません。

その後、大雨の中、車を飛ばして郵便局に行き、レターパックを購入して、その中に2回目の傷病手当金支給申請書一式を入れて、会社の労務課宛に発送しました。

まあ、頭痛がひどく、メンタル絶不調なのに、よくがんばりました!

 

翌日火曜日に、行きつけの整体師のところに行って、全身のマッサージを思いっきりやってもらったら、なぜか頭痛はかなり軽減していき、その翌日水曜日には頭痛はほとんどなくなっていました。

有難いことです。おそらくいろいろと緊張することが多くて、血行が悪くなっていたのかもしれません。左側の肩や首回りがガチガチに凝っていたそうです。

 

しかし、僕は木曜日の産業医との面談を前にして、かなり緊張していて、とても憂鬱でした。自分なりに休職してからの日々の生活のこと、最近の心身の状態、主治医の見解について、ノートにまとめておきました。

妻からは、ここまでするなんてスゴイ!なんて几帳面なんだ!と言われましたが、仕方ありません。これが僕の性分です。だからメンタルの調子を崩すのでしょうかね。

 

今この文章を書いているのは、産業医面談で会社に向けて家を出る直前に書いています。

産業医面談の結果については、また次回のブログでお伝えします。

 

 

休職中の6回目の精神科受診~復職を決める大詰めの日 その2

「そうですね・・・まあ二つの方法があるかと思います」

「まず、この新しい薬「アリピプラゾール」を試しながら、同時に復職していく進め方が考えられます。こういう進め方もありかと思います」

「もう一つは、心配であれば、この新しい薬を一定期間試してみて、問題無いと思える状況になるまで休職を延長するということも進め方として考えられます。私としては、理想的なのはこちらの方です。期間としては6月末までをお勧めします」

「リラポンさんとしては、どちらがいいと考えられますか?」

 

前回からの続きです。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

僕はK先生にそう言われて、迷いに迷い、困ってしまいました。

薬の効果がはっきりわかるまで休職するにしても、6月末までだと結構長すぎるし、その時に薬がばっちり効いて良くなっているという保証もないし・・・

かと言って、新しい薬を試しながら復職するにしても、まだ不安定な状況だし、薬が効かなくて仕事中にメンタルが落ちて業務に支障をきたすのもイヤだしなあ・・・

何気なく、後ろに座っていた妻の顔を見ると、妻の顔がとてもこわばった顔をしていました。

 

僕は考えに考え、こう言いました。

「新しい薬を試して相応の期間休職して、その時に薬がばっちり効いて良くなっているという保証は無いと思うので、基本的には新しい薬を試しながら復職していくという方法が良いのかなあ、とは考えています」

「但し、会社側に連絡して、すぐに復職できるということは難しいと思いますし、会社側の都合もあり、産業医と面談してからその判断によって具体的に復職に向かうことになると思います」

「ただ、6月末までですと、ちょっと長すぎると思うので、休職延長は6月中旬までとすることでいかがでしょうか?」

 

こう言うと、後ろにいた妻もすかさずこう言いました。

「6月末までですと長すぎて会社との関係が遠のいてしまうと思うので、私も6月中旬頃までの休職延長の診断書を書いていただくのが良いと思います」

 

僕と妻の話を聴いて、K先生は少し考え、こう提案してきました。

「わかりました。それでは6月中旬までの休職延長の診断書を書きますが、産業医の診断により、産業医の指定する期日から復職を開始して、休職期間を短縮できるということにしてはいかがでしょうか?」

これを聞いて、(あっ!これは名案だ!)と思い、僕も妻もすかさず同意し、そのような感じでお願いしました。

 

その後、僕と妻からいくつか質問しました。

「復職した後の、うつ病の再発率というのはどんな感じなのでしょうか?」

すると、K先生は答えました。

「典型的なうつ病ではないので、再発という考え方は当てはまらないのですが、そのような調子の悪い日があって、仕事に影響が出るということは考えられます」

「そうなったら、その時にどうしていくか考えていくということが良いかと思います。場合によっては薬を変えたり、再度休職するということも考えても良いのではないでしょうか?」

 その時その時の状況に応じて、臨機応変に考えていくということだな、と僕は考え、あまり深刻に考えないことが肝要なのだと理解しました。

 

そして、直近の睡眠時間のデータを伝えました。

睡眠はメンタル疾患全般に深くかかわってくる重大なことなので、毎日睡眠アプリで測定しているのですが、過去1ヶ月間の平均睡眠時間は7時間31分、過去1週間の平均睡眠時間は7時間47分、と伝えました。

すると、K先生はすかさず「7時間半以上眠れているのであれば、問題ありません」と答えました。

 

妻も質問しました。

「夫は寝つきは良いのですが、朝方に起きてしまって、そのまま眠れなくなるということが週に1回くらいあるのですが、これは問題ないでしょうか?」

K先生は答えました。

「週1日くらいそういうことがあるのは、健常者の場合でもよくあることなので、特に問題無いと思います」

 

質疑応答が終わり、今後の薬の話になりました。

「明日から抗うつ薬の補佐的な役割をするアリピプラゾールを追加して、毎日朝食後1回飲んでください」

「今まで処方していたワイパックス・漢方のツムラ抑肝散・睡眠剤のロゼレムはそのまま継続してください」

「但し、ロゼレムはかなり作用が弱い薬なので、ご本人さえよければいつでもやめてしまって構いません」

 

新しく処方された「アリピプラゾール」 
エピリファイOD錠3㎎と商品名は表示されています。
抗うつ薬の補佐的な役割をする気分を安定させる作用がある薬です。

 

最後に傷病手当金支給申請書の話になり、前回4月27日に渡した4月6日から26日までの21日間を証明した書類はすでに記載済なので、今回発行する6月中旬までの休職延長の診断書と一緒に受付で受け取ってほしいとのことでした。

また、新たに4月27日から前日5月10日までを証明した書類をK先生に渡し、次回の診察日に受け取ることで同意しました。

これら傷病手当金支給申請書の件は、生活費のための大事なやり取りなので、メンタルの調子が悪くても、きちんと抜かりなく行わなければなりません。

 

そして、次の診察日は、会社側と復職に関する大事なやり取りがある期間なので、2週間後の5月25日(土)としてもらいました。

 

良い落としどころで結論が出たので、二人とも安心してクリニックを出ました。

しかし、僕はなぜかこれらのやり取りをする中で、とても精神的に負担が大きかったらしく、前夜の睡眠状況もあまり良くなかったので、ぐったりしてしまい、いったんカフェで休みましたが、必要な食材の買い物をしてすぐに帰宅しました。

極度の疲労と偏頭痛が生じて、絶不調となってしまいました。

その日からしばらく僕のメンタルの調子と体調は最悪の状況を迎えるのでした。

 

(次回に続く)

 

休職中の6回目の精神科受診~復職を決める大詰めの日 その1

「まずワイパックスをこれから2週間飲んでみて様子を見てみましょう。そして、2週間後の5月11日の診察で、その後抗うつ薬のアルジロン?の服用を開始するかどうか判断しましょう」

「そして、その時の状態を診断して、復職を認める診断書を発行するか、まだ休職を継続した方が良いとする診断書を発行するか、判断しましょう」

このK先生の言葉を聞いて、僕も妻も安心しました。

そして、2回目の傷病手当金支給申請書の記載の依頼を先生にお願いして、診察室を後にしました。

次回の診察は2週間後の5月11日の午後1時50分となりました。

復職するか、休職を延長するか、大詰めの時が迫ってきたのでした。

 

前回からの続きです。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

前回4月27日以降の2週間、薬をリーゼからワイパックスに変えましたが、リーゼよりよく効くようで、問題ありませんでした。

基本的に落ち着いた2週間でしたが、残念ながらメンタルの調子が悪くなる日が二日ありました。

以前は天気の悪い日に限ってのことがほとんどだったのですが、今回メンタルの調子が悪くなった日はどちらも晴れ渡る晴天の日でした。

しかもメンタルが落ちると結構キツイ感じでした。

それ以外は特に懸念されることは無かったのですが、今度こそ具体的に復職をどうするか決めなくてはならない大詰めの診察日となるということで、僕の心はかなり緊張し、暗雲が立ち込めていました。

そういったことも実はメンタルの調子が悪くなった原因となったのかもしれません。

復職するとなると、またあのトラブル処理に追われる地獄のような大変な日々が始まります。

そして、また胃が痛くなり、偏頭痛に見舞われるようなツラい仕事現場に戻らなければならないのです。

「・・・どうしようかなあ・・・」

僕の心は診察日が近づくにつれて、メンタルの調子が落ちていき、不安な気持ちに包まれて、なんとも憂鬱な気持ちになっていくのでした。

 

診察日当日となり、とても不安で憂鬱な気分な中、電車に乗って、クリニックに向かいました。

今回は珍しく少し遅い時間の13時50分の約束だったので、その前に行きつけの駅ビルの「かまどか」で大好物の豚肉の味噌煮込み定食を食べたのですが、「ぼろきれ」というか「砂」を食べているような感じで、いつものおいしい味がしない感じでした。

 

クリニックに到着し、ほどなく名前を呼ばれ、診察室に入っていきました。

重要な話をするので、妻も同席してもらいました。

そして、僕はまずこの2週間の間の状況を説明し、メンタルが落ち込んだのは2日あり、今回は天気は関係ないが、時間帯は以前と同じく夕方から夜間に生じることを話しました。

メンタルが落ち込むと、憂鬱で仕方なく、何もやる気が無くなってしまい、ふさぎ込んでしまう。

自分の好きな事や楽しいと思える事も「義務」や「仕事」のように思えてきて、楽しめなくなってしまう。

それがまたイライラを誘発させてしまう。

身体の症状としては、両方のこめかみのあたり(特に左側)がずん!と痛くなり、バファリンなどを飲むと一応緩和する。

そして、前頭葉(頭の前のおでこから上の部分)のあたりが炎症を起こしているような違和感というか感覚がある。

以上のようなことをK先生に話しました。

 

すると、K先生はこう言いました。

「調子の悪い日が週に1回程度で、他の6日間が問題無いのであれば、私としては典型的なうつ病ではないと考えています」

うつ病ではなくても、週に1・2回程度調子が悪くなることは一応普通のことではないかと考えています」

うつ病というのは1週間や2週間などある程度の期間継続的に続いていくものなのです。リラポンさんの場合、年齢的に考えて更年期の症状とも考えられます」

うつ病ではなくて、更年期症状?)

 

僕はよくわからないと悩んでいたところ、K先生が妻に向かって言いました。

「奥様は、ふだんのご主人様をご覧になって、いかがですか?」

妻は率直に答えました。

「最近こんなことがありまして、二人でボードゲームをしていたときに、私が負けて少しキツイ口調で話したら、主人はその後調子が悪くなってしまったことがありました。なので、確かに先生のおっしゃる通り、典型的なうつ病ではないのではないかと私も感じています」

(そうなのか・・・じゃあオレのこの病気は一体・・・?)

 

次に、薬のことについて話しました。

「リーゼからワイパックスに変えて、鎮静効果が高いためか、ふだんはよく効いていると感じています」

「ただし、いったんメンタルの調子を崩すとなかなか良くなりません。そういう時にワイパックスを飲んでも効いている感じがしません」

「ただ、メンタルの不調になる日の頻度は以前より減ってきたように思われます」

そこで、K先生に質問しました。

「この場合、抗うつ薬に変えた方が効果は高いでしょうか?」

 

ワイパックスに変えて、鎮静作用が高まり、良かったのですが、いったんメンタルが落ちた時に飲んでも効いている感じはしませんでした。

 

K先生は答えました。

「基本的に薬については、鎮静作用はありますが、気分を高揚させる作用はありません。それを目的とすると、『覚醒剤』となってしまうので、処方できるものではありません」

「リラポンさんの場合、典型的なうつ病とはいえないので、抗うつ薬を処方することはお勧めできません」

「なので、抗うつ薬の補佐的な役割をする、気分を安定させる「アリピプラゾール」がふさわしいと考えています」

 

薬については納得し、この新しい薬を試していくことにしました。

そして、肝心の復職のことについて、話は移っていきました。

「前回書いていただいた診断書には『5月中旬まで休職することを要する』と書いていただき、もうすぐ5月中旬の時期を迎えるので、復職できるかどうか考えています。今のこのような状態で、問題は無いでしょうか?」

 

K先生は答えました。

「そうですね・・・まあ二つの方法があるかと思います」

「まず、この新しい薬「アリピプラゾール」を試しながら、同時に復職していく進め方が考えられます。こういう進め方もありかと思います」

「もう一つは、心配であれば、この新しい薬を一定期間試してみて、問題無いと思える状況になるまで休職を延長するということも進め方として考えられます。私としては、理想的なのはこちらの方です」

「リラポンさんとしては、どちらがいいと考えられますか?」

K先生の僕に下駄を預ける質問の仕方に、僕は大いに迷い、考え込んでしまうのでした・・・

(次回に続く)

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第2章 

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第2章「母へのレクイエム」となります。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

1⃣ テレビの可能性と限界

坂本龍一氏は、2010年4月からNHKEテレで、「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」に出演していました。

主に小・中・高校生に生徒として出演してもらい、坂本龍一氏がメインの講師となって、毎回扱うジャンルや作曲家などのテーマを決めて、ゲスト講師も招き、レクチャーやワークショップを行うのです。

YMO細野晴臣氏や高橋幸宏氏もゲスト講師として数回参加したこともあり、毎回番組の最後に三人でいろいろな曲を演奏するのが見ものでした。

僕はこの番組が大好きで毎回見ていました。

 

しかし、本書を読んで、実は坂本龍一氏が人知れずかなりの苦労もしていて、またテレビ局側への腹立たしさがあったことを初めて知りました。

テレビというのは視聴率を取るために、あらかじめ理想的な結論というか青写真を決めておき、それに沿った台本を作り込んでくることが常なのだそうです。

よって、出演させる子どもたちも、テレビ局側のいうことをきちんと聞いてくれる「いい子」を選んでしまうのだそうです。

「聞き分けの良い子」ばかりを揃えてしまうために、どこか「予定調和」というか「結論ありき」となってしまい、面白くもなんともなくなってしまったのだそうです。

坂本龍一氏はこういうアプローチが大嫌いで、生理的な拒否反応が出てきてしまうため、ある時は台本を作り込んできた制作陣に対して、「ふざけんな、あるがままにやらせろ!」とカンカンに怒ってしまったそうです。

いつの頃からか、僕もテレビが本当につまらないと思うようになり、ほとんど観なくなってしまいました。

今では民放はおろかNHKでさえもそれほど観ることはなくなり、YouTubeNetflixなどばかり観ています。

坂本龍一氏は「ある意味では日本の劣化を感じた」と言っていましたが、組織優先で動く日本社会の劣化が至る所で進んでいるように思えてなりません。

 

2⃣ 大貫妙子さんとの思い出

坂本龍一氏は、大貫妙子氏の初期の作品「Grey Skies」「SUN SHOWER」をはじめ、RCA最後の作品「カイエ」に至るまで、全ての作品にアレンジャー及び演奏者として参加していました。

近年では2010年11月にコラボレーション・アルバム「UTAU」を二人で共作し、ツアーも行い、僕も同年11月にグリーンホール相模大野で開催されたライブを観に行っています。

大貫妙子氏は、元々シュガーベイブ山下達郎氏と活動したり、細野晴臣氏や高橋幸宏氏などとも親しく、坂本龍一氏の元妻の矢野顕子氏とも親しいので、坂本龍一氏にとっては昔の音楽仲間の一人だったのだろうという認識しかなかったのですが、本書を読んで驚きました。

2010年11月坂本龍一氏と大貫妙子氏がコラボした「UTAU」のCD、DVD、ライブ会場で特別販売していたツアーブックです。

 

坂本龍一氏は本書の中で、20代前半の一時期、大貫妙子氏と一緒に暮らしていたことをはっきり言っていたのです。

ただ、坂本龍一氏に別の相手が出来たために、一緒に暮らしていた部屋を出て行ってしまったのだそうです。

その当時、大貫妙子氏が発表したのが「新しいシャツ」という曲で、その曲の歌詞を聞くと、つい泣いてしまうだそうです。

このような経緯があったためか、坂本龍一氏は大貫妙子氏に対してずっと負い目を感じてきたようです。

しかも、大貫妙子氏からはいろいろな面で助けられてきたそうで、それなのにこのような迷惑をかけてしまい、ずっと恩返しをしたいと思っていたのだそうです。

 

また、一緒に暮らしていた当時、よく麻雀をやっていたエピソードにも驚きました。

2人だけでは出来ないので、電話で仲の良かった山下達郎氏に電話して誘うと、達郎氏は練馬にあった実家の軽トラを運転してすぐにやってきたそうです。

もう一人は近所に住んでいた伊藤銀次氏で、4人で雀卓を囲んで、三日三晩徹夜でやることもザラだったそうです。

とても懐かしいと本書で言っていましたが、今となっては「夢の跡」という感じですね・・・

ただ、あの大貫妙子氏のイメージから、麻雀を三日三晩やるようなタイプには全く見えないのですがね・・・

 

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その3

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第1章「ガンと生きる」の中からの3回目となります。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

6⃣ 「戦メリ」に対する想い

坂本龍一氏の代表曲と言えば、「戦場のメリークリスマス」を思い出す人が多いと思いますが、坂本龍一氏は、「坂本龍一=戦メリ」と思われることがイヤでイヤでたまらなかったそうです。

世界中どこへ行っても、「戦メリ」を弾いてくれないかと言われることにいい加減うんざりしてしまって、10年位封印してコンサートで演奏しなかったとのことです。

そして、「戦メリ」を超える名曲を!という思いをずっと持ち続けて、曲作りを続けてきたそうです。

にもかかわらず、晩年になって再び弾き始めたきっかけとなったのは、2010年のキャロル・キングジェイムス・テイラーによる武道館コンサートを観に行ったことだったそうです。

キャロル・キングの代表曲と言えば、「You've Got a Friend」ですが、なかなか演奏してくれず、焦らすだけ焦らされて、坂本龍一氏はイライラしてしまったそうです。

やっとラストに弾いてくれて、生で聴けた喜びに安堵し、そこで、はた!と気づいたそうです。

ミュージシャンである自分ですら、他のアーティストのコンサートとなると、なかなか代表曲をやらないことにイライラしてしまうのだから、自分のコンサートでも「戦メリ」を弾いてくれることを切望している人の存在を決して無視できない、と納得したのだそうです。

この本のインタビュー当時の2021年頃でも、「坂本龍一=戦メリ」というパブリック・イメージには抵抗はあったそうですが、淡々と自分の作りたい音楽を作り続ければそれで十分であり、イメージを打ち破ることを終生の目標にして、残された時間とエネルギーを使うのはつまらないことだと、認識を改めたのだそうです。

 

坂本龍一氏の代表曲は「戦場のメリークリスマス」という見解が大方だと思いますが、
実際に坂本龍一氏が最も気に入っていたのは、
この2017年にリリースされた「async」というアルバムだと僕は思っています。
坂本龍一氏は生前「好き過ぎて、誰にも聴かせたくない」と言ったそうです。

 

7⃣ 死後の世界

「死後の世界」というと、なにかとても非科学的で、スピリチュアルな世界というイメージがあります。

僕自身は、このようなスピリチュアルな「死後の世界」というものにはとても興味があり、末期ガンで死を身近に感じたこともあって、「死後の世界」や「転生」というものはあるのではないかと秘かに思っています。

坂本龍一氏は芸術家ではありますが、とても知的な人物であり、現実的な考え方も持ち合わせている人です。

しかし、この章の部分で、坂本龍一氏は2つのことを例に挙げています。

ひとつは、「コンタクト」という映画で、ジョディ・フォスター主演・ロバート・ゼメキス監督で、NASAで惑星探査のリーダーも務めたカール・セーガンの小説を原作にしたSF大作です。

もうひとつは、敬愛する「ボサノヴァの父」と言われるアントニオ・カルロス・ジョビンのエピソードです。

そんなジョビンが生前アマゾンの森林破壊を大いに悲しみ、こう言ったそうです。

「神が、こうもあっけなくアマゾンで300万の樹木を打倒させているのは、きっとどこか別の場所で、それらの樹木を再生させているからだろう。そこにはきっと、猿もいれば花もあり、きれいな水が流れているに違いない。ぼくはね、死んだら、そこへ行くんだ」

詳しくは、本書をお読みいただければと思いますが、この章の最後をこう締めくくっています。

「セーガンやジョビンの想像力、そして死んだらお星様になるという素朴なファンタジーを、今の僕は決して否定したくありません」

「果たして死後の世界があるかどうかは分からないけれど、ぼんやりとそんなことを考えています」

亡くなってしまった現在、坂本龍一氏は「死後の世界」を見ることが出来たのか、もしくはその場所にいるのか、知る由もありませんが、ぜひとも「死後の世界」でも生前と変わらず、バイタリティ溢れる活動を続け、まだ現世界にいる僕たちに時々警告を発して、導いていただきたいと切に願います。

 

坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1章 その2

坂本龍一氏の死後、昨年6月に出版された「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読破したので、僕なりに感銘を受けた箇所を少しずつご紹介していきます。

今回は第1章「ガンと生きる」の中からの2回目となります。

 

pilgrim1969.hatenablog.jp

 

4⃣ 友達という存在

坂本龍一氏は余命宣告を受けて入院していた日々は、とにかく気が滅入っていたそうです。

そんな時、ふと「友達」という存在について深く考えたのだそうです。

不思議なことに、ジャンルを問わず、いろいろな人たちと、音楽や音楽以外の分野でコラボしていた坂本龍一氏は、「自分には友達がいない」というのが口癖だったそうです。

そして、この機会に「友達」の定義づけをしてみたのだそうです。

その結果、自分が本当に困った瞬間に、真っ先に連絡できる人が友達だろうという結論に達したのだそうです。

今回「死」というものに直面して、相談したいと思える人を数えてみたところ、アメリカやヨーロッパ・もちろん日本にも数人いたそうで、とても安心し、自分が幸せだと感じることが出来たそうです。

そこで、「友達とは思想信条や趣味が違っていたって全然問題ない」「ただただ、頼りになる人」と言ったことが心に残りました。

 

僕も末期ガンになり、一応「死」に直面した人間の一人なので、これらの言葉はよくわかります。

ただ、僕の場合は悲しいことに、それが皮肉な結果となってしまったことでした。

それまで、「この人は親友だ」「この人は信用できる」と深く思っていた人に限って、全く頼りにならず、頼りにならないどころか、見舞いに来ることも連絡をしてくることもなく、それほど深く付き合っていたわけではなく、深く信用していたわけでもない人に限って、とても頼りになり、見舞いに来てくれたり、連絡をくれたりしてくれたことでした。

それは、「友達」「親族」を問わず、当てはまりました。

親族にしても、妻の親族は頻繁に見舞いに来てくれたり、いろいろ面倒を見てくれたりして、とても頼りになりましたが、僕の方の親族は妹以外は全く頼りにならず、見舞いにすら来てくれませんでした。(母は僕の妻が迎えに行ってようやく来てくれたようなさまでした・・・)

 

坂本龍一氏の話に戻りますが、中でもいちばん頼りになったのが、ドイツ人アーティストのカールステン・ニコライ氏だったそうです。

「アルヴァ・ノト」という名義でミュージシャンとして活動し、坂本龍一氏とは2002年リリースの「Vrioon」以来、数枚のアルバムやサウンドトラックを一緒に手掛けた関係でした。

一見すると、強面(こわもて)な顔つきで、作る音楽も思いっきりアヴァンギャルドなスタイルなのですが、性格は「おとっつぁん」と呼びたくなるような親しみやすい性格で、人は見かけやスタイルではわからないものだと思ったそうです。

tower.jp

 

同時期に脳腫瘍を患い、闘病していた高橋幸宏氏には、励ましの手紙と一緒に素敵な花を病室に贈り、高橋幸宏氏の療養していた軽井沢の家にまで見舞いに行ったエピソードを聞きましたが(残念ながら直前に入院してしまい、会えなかったそうです)、高橋幸宏氏のことも「友達」と思っていたのでしょうね。

 

同じ時期に、脳腫瘍を患い、軽井沢の自宅で療養していた高橋幸宏

 

5⃣ こういう時に心を落ち着かせてくれる「音」「音楽」

入院して気が滅入っていた時期、坂本龍一氏はひたすら「音楽にもならない音」を聴いていたのだそうです。

特に「雨の音」が良かったのだそうです。実はこれまでの10年くらいよく雨音に耳を傾けていたのだそうです。

入院中も、窓の外の雨音に耳を傾けていて、降っていない時はYouTubeでひたすら雨の音を8時間も流し続ける動画を見つけて、一晩中聴いていたのだそうです。

 

また、普段まったく聴かないカントリーミュージックを聴いて、不意に涙が止まらくなってしまったのだそうです。

アメリカのカントリー歌手の「ロイ・クラーク」という人の「Yesterday,When I Was Young」という曲で、坂本龍一氏にとっては非常に縁遠いミュージシャンであり、こんなミュージシャンのこんな曲に心を動かされることに、自分でも非常に驚いていたそうです。

坂本龍一氏は普段音楽を聴いても、歌詞の内容はほとんど頭に入ってこない性格なのだそうですが、今回この曲の歌詞の内容に非常に感銘を受けてしまったとのことでした。

「病気でもしなければこんな曲を良いとは思わなかったかもしれないし、歌詞の内容に耳を傾けられるようになったのは年齢のせいもあるのかもしれません」

このように言っていましたが、こういう「死」に直面するような非常事態になった時、「友達」にしても「音楽」にしても、本当に自分を支えてくれる存在がわかるのかもしれませんね。

 

長くなりましたので、続きは次回のブログで!