ただパンが好きだと叫びたい

パンが好きだ。

中でも、母が気まぐれで作るパンが好きだった。

 

記憶をたどると、ランドセルを背負った私がふっと駆け抜ける。学校から帰って、家のドアを開けるとすぐに、小麦の焼けたあの香ばしい匂いが鼻を駆け抜ける。(あ!焼いてる!)そう思った瞬間、ローファーがランドセルが急に煩わしくなって、急いで身につけていたものを玄関に放り出す。そのまま一直線に、時折ツルツル滑るフローリングに足を取られながらも最奥のキッチンへ急ぐ。

 

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そしてキッチンに到着したと同時に私が「パンだ!」と叫ぶと、パンが回るオーブンから目を離して振り向き、母は笑って言った。

 

「おかえり、今日は作ってみました」と。

 

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パンが好きだと自覚し始めたのはいつからだっただろうか。家に大量にある、母が購入したパンをもしゃもしゃ頬張りながら考える。

 

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昔からパン好きだった彼女によくパンを食べさせられてきた。(現に今も)ものごころつく前からパンを刷り込まれ続けていたけれど、美味しいな、パン、好きだな、と思い始めたのはやっぱり母の手作りパンだったような気がする。

 

母が得意だったのは、クロワッサン、バターロール、スコーン。小さなオーブンプレートに、どれも少しずつ癖があるパンがきれいにと並んでいた。そのまま3人家族の小さなテーブルに運ばれるのだけれど、小さなパンでいっぱいになるのがおかしくて、そしてなんだか嬉しくなったのを覚えている。

 

どのパンも、パン屋さんで見るよりもちょっと形は歪で小さかった。それに、中には表面が黒くなりすぎているものもあったけれど、カリッとした生地と中のふわふわもっちりの食感が堪らなかった。美味しくて、ついつい何個も食べてしまった。一人っ子で取り合う兄弟もいなかったのに、必ず両手と口をパンでいっぱいにしていた。終いには、食い意地が張りすぎて父の分も食べようとして、何回か怒られた程だった。

 

パン屋さんで買ったパンは、美味しい。それは間違いないのだけれど、あのときのパンが忘れられなくて(食べたくなって)普段は全く料理をしないのだが、再現できるか作ってみることにした。

 

 

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母が使っていた、こちらのレシピ本をもとに今回はスコーンを作ってみた。

 

材料は、レシピ本ではスコーン12個分で計算されていたので、半分の6個分になるように再計算した。バター、ベーキングパウダーそして小麦粉が足りなかったので、近くのスーパーで購入。小麦粉は、袋詰めされたものしかないと思っていたら150gの小麦粉があって心底驚いた。そして世間を知らない自分を恥じた。

 

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材料は、左から時計回りにバター(約27g)、ベーキングパウダー(約2g)、小麦粉(150g)、牛乳(約33g)、塩(約1.5g)、砂糖(18g)、卵(1コ)。

 

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作り方は、ふるいにかけた小麦粉とベーキングパウダーとバターをボウルに入れる。バターを細かく刻んだら、手でバターと粉をさするように混ぜていく。

 

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そして溶いた卵と牛乳をいれて、粉をかぶせるように混ぜていく。

 

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混ぜ合わせたら、生地を2つに切り分ける。そしてその2つを重ねて上から潰す。これを4回程繰り返したら長方形に形を整えて、冷蔵庫にいれて30分冷やす。

 

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冷やし終わったら、厚さ1.5cmになるよう棒でのばして型抜きでくり抜いていく。家に棒と型抜きが見当たらなかったので、棒はラップの芯、型抜きはプリンのカップを使った。

 

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くり抜いたらオーブンで210度で10分焼いていく。

 

 

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そして出来上がりがこちら。いい感じに焼き目もついて、我ながら美味しそうに仕上がった。

 

パンにしては短く1時間程で仕上がったが、材料の購入からg数の計算などを含めると割と時間はかかってしまった。意外と苦労して出来上がったスコーンを、早速母に見せて食べてもらった。

 

「なんかひび割れてるね」

「美味しい美味しい、けどなんかしょっぱいよ」

「ジャムつけなくてもいいね、美味しいよ」

 

私個人はしょっぱいとは思わなかったけれど、きっと正しく均等に混ぜきれてなかったのだろう。自分でも食べてみたが、レシピとしては同じなはずだったけれど少し違う味がした。

 

単に料理経験の差と言われてしまうと、ぐうの音も出ないが、それだけじゃないような気がした。これがよく言う「愛情がこもっているから」なのか、、、今回、材料購入から始めて作ってみたが、1から作るのはやはり骨が折れると思い知らされた。

兎にも角にも、今度は母と一緒に作って今分かっている経験の差から埋めていきたいと心から思った。そしていつか、自分に子どもができたら母が作っていたようなパンを作ってあげたいと思うのだった。

 

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まだ届かない人、絶対に届きたくない人。

社会に出て、色んな人と出会った。

それは今私の視界を広げている。良い意味でも、悪い意味でも。

 

色んな人がいる。それは、気配り上手な人。

私にはちょっとやそっとでは真似できないような、技術を持った人。空気や人の動きを敏感に察知して、すっと席を立ち相手が待ち望むモノを差し出し、振る舞いを行う。相手は喜び、感謝し、それを彼女は何でもないように受け取り、席に座る。私が気づいた時には、彼女は立ち上がり2、3歩足を踏み出している。ただただ、私は出遅れたことを謝ることしか出来ずにいる。まだ届かない。

 

こんな人もいる。自己アピールが上手い人。

就職活動だけでとりあえず良いのだと思っていた、自己アピール。しかし、本番は社会人になってからだった。「今、自分はこんなことをやっている、こういう結果をあげた」こうしたことを、平然と社内で発表する人がいる。それも堂々と、胸を張って。そのモチベーションはどこから来るのかと以前、聞いたことがある。その時、「家族がいるからね」と言っていたけど、守べきものがあると人は強くなる、とどこかで聞いたけど。私はそんな彼を見上げることしか出来ない。まだ届かない。

 

でも、一方で驚くような人もいる。

それは、言葉に遠慮のない人。それは面と向かってでも、メールの文章でも変わらない、無遠慮な人。

自分の中で最も口にしないであろう表現で攻め立ててくる。言い方の間違いで済まされない表現で。

それがメールという考える時間が与えられているメディアを使用しているときも同じであったときは驚いた。いくら顔文字を多用したところで、言葉の鋭利さは変わらないのに。その直後に、いくらフォローを入れたところで尖ったナイフは刺さったままなのに。

そしてその人が、冒頭で出した気配り上手な人と同一人物なのだから、恐ろしい。

 

人はいいところもあるし、わるいところもある。

それは分かってはいたけれど、こうも表裏一体だとどうしたものかと悩まされる。それでも、先輩だから、上司だからと自分の胸に言い聞かせるしかない。学生時代は、自分の好きな人と一緒にいればよかったけど、社会人はそうも言っていられないから。なに当たり前なことを言ってるんだ、と思う人もいるかもしれないが。現実として目の当たりにすると、狼狽えるんだ。

 

まだ届かない人、絶対に届きたくない人。

そこから何を盗んで何を捨てるかが、自分にとって大切なんだ。

 

 

 

ビジネストークから脱する、読書の冬

本を読もうと思った。

 

最近、どうしたものか頭にモヤがかかったように回らない。その影響は口にもまわっているようだ。例えば、他人との会話。話をしていて、色々と自分の中こうした方がいい、とか、それは違うとか、思うことはあるのだが、言葉として相手に伝えようとすると口が開かなくなる。思考に合致した言葉が見つからず、もやもやする。そうして考えているうちに、相手は話終わって、何か話さないとと焦った結果「そうなんですか」という言葉が口からこぼれ落ちる。

 

ビジネストークであれば、そんなもので良いのかもしれない。上辺だけ取り繕って、相手の話に相槌を打てばそれでいい。そうすれば、相手は満足するから。そんな会話が存在するのだと、社会人になって知った。だが、なんと貧相な会話だろう。いや、むしろそれは会話というのだろうか。

 

それは会話ではないと思いつつ、結局語彙力を失っているのだから、社会人として染まってきているのだろう。(嫌な意味で)相槌を打てばいいのであれば、それはただの機械でしかない。それから脱するために、久しく読んでいなかった本を手に取ろうと思った。

 

本が、語彙力を取り戻してくれるのかはよくわからない。だが、生の文章を読むことで想像力をめぐらせ、文章構成を頭にいれて。こうした動きを自分に注ぎ込めば、今の空虚な状態から少しでも離れられるのではないかと思った。

 

今日は図書館で、5冊借りてきた。学生の頃のように、時間がありあまっているわけではないから、少しずつ自分のペースで読み進めようと思う。秋はもう終わっているが、読書の冬ということで。

 

 

 

 

 

 

 

非日常と日常の境界線を見る

3ヶ月前から、絵画教室に通っている。

 

地下1階へと続く急な階段を降りると、ドアがある。ドアノブを傾け全体重をドアに預けて開くと、その先に教室は広がっている。「薔薇」と壁一面に描かれ、カウンターには見知らぬボトルがところ狭しと並べられ照明をキラキラと反射させている。とあるバーを昼だけ貸し切って行われているから、やけにムーディーだ。

 

月2回、デッサンをしている。生徒は私を含めて4人。各々好きなものを描いているが、大体がデッサンなので、紙にザッザッと鉛筆を滑らせる音が響く。誰もが自分の世界に入り込み、互いに干渉し合うことはない。鉛筆の匂いが充満したその空間は、なんとも心地よい。

 

机の上には、濃さの異なる鉛筆と練りゴム。8本もの鉛筆を用意したのも、練りゴムとやらを目にしたのも初めてだ。練りゴムは、デッサンでは必要不可欠なもののようで、普通の消しゴムより柔らかい。ふにふにしている。

 

対象物を前にして、意識を集中させる。紙に鉛筆を滑らせて、白と黒の世界を作り出していく。

 

デッサンを始めたきっかけは非日常を満喫したかったからなのだが、実際まだ満喫できていない。先ほど、対象物を前にして意識を集中させる、と書いたが、そこまで集中できていない。日常の、あの平日の日々を頭の中で思い起こしぐるぐると旋回したままだ。

 

ちょっと前までは、せっかくの非日常を楽しむチャンスなのに、なぜここまで考えてしまうのかと軽い自己嫌悪に陥っていた。が、その自己嫌悪こそもったいないのではないか、と絵画教室の帰りにふと思い、そのことについてそれからはあまり考えないようにした。

 

日常と非日常について考えないようにしても、デッサン中の頭の中は変わらず日常で回っていた。来週はああしよう、とか、あれはこうした方がよかった、とか。

ある時、すごく落ち込んだまま週末を迎えたことがあった。陰鬱な気持ちの中、デッサンを始めた。日常を引きずりまくっていたから、デッサン中ももちろん考えていた。でも、鉛筆を進めるに連れ、思考が前向きになっていくのを感じた。それは、劇的な変化ではなかったけれど、鉛筆を進め紙に白と黒がはっきりとして、紙に対象物が浮かんでゴールが見えたとき、私の思考も微かな光を求め前に進んでいた。そして終わったときは、1つの作品が仕上がったと同時に気持ちが少し軽くなっていた。

 

きっとこれでいいんだ、と思った。たぶん、くっきりと日常と非日常を分けられる他人も世の中にいて、そしてそれがストレス発散になる人もいる。でも私は違った。日常と非日常を区分けできない不器用な人間だった。ずっとずっと考えてしまう。分けることに憧れていたけど、とても出来ない。だから、無理して分ける必要はないんだと思った。分けなくても、気持ちが前に向いたのだからそれで良いのではないか、と思った。

 

休日アクティブにはなりきれなかったけど、今の私はデッサンを始める前よりかは休日を楽しんでいる。始めたことに意味がある。だから、それでいいんだ。そう思って、あのバーのドアを開けている。