メロンダウト

メロンについて考えるよ

フェミニズムについて

草津の件がまた話題になっていたのでひさしぶりにフェミニズムについてです。

現代フェミニズムとはいったいなんだったんだろうか・・・

 

「草津町に来て謝るべきでは」虚偽認定された性交渉証言に苦しんだ黒岩信忠町長の怒り㊤ - 産経ニュース

「世の中はひどい…言われっぱなしだ」性交渉証言に苦しんだ黒岩信忠草津町長の怒り㊦ - 産経ニュース

 

草津やオープンレターの件からずいぶん経つけれどいまだに話題になっている。

 

私たちは、研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。

 「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。

オープンレターのアーカイブ

https://archive.md/4x2NI

 

草津の件に関しては事件そのものが虚偽であったため、それに乗って草津町長や町全体を非難した人々は、仮にそれが告発者に騙されていたのだとしても、もう謝る以外にない。今となってはもうそれだけであるが、何故あのようなことが起きたのかを考えながらオープンレターを読むと現代フェミニズムの問題点が浮かびあがってくる。

 

 

オープンレターには「中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取る」と書かれているが、そもそも論として、何故自身の文化、つまりフェミニズムやリベラルが中傷や差別的言動を生み出さない例外だと思えたのだろうか。今となっては明らかであるが、現代日本社会において最も攻撃的な集団のひとつにリベラル・フェミニズムは数えられている。草津の件もそうだが、表現の自由にたいし攻撃的であること、古くは「安倍死ね」といった明らかな誹謗中傷を行っていたりと。そのような言動・行動を続けてきた結果、もう一般社会ではフェミニストを名乗ることすら憚られるようになった。フェミニストと名乗った瞬間にややこしい人間であるとラベリングされるからである。ややもすると「変な宗教」に入っているぐらいの烙印を押されかねない。男女平等主義者であってもフェミニストであるとは誰も自称しない。皮肉にもオープンレターに書かれている通り、みんな「フェミニズムという差別的言動を生み出す文化から距離を取った」のである。

 

 

フェミニズムに限ったことではなくなんらかの思想をベースにして運動を展開すればその主義にそぐわない人にたいする誹謗中傷は必ず起こる。それはどんなものだって例外ではない。フェミニストにとってアンチフェミが行っていた揶揄は誹謗中傷に見えていた。それはそうなのだろう。しかしながらその視座を反転させればフェミニズムがアンチフェミニズムにたいし行っている「マジレス」もまた攻撃的なものに映っているといった想像力を働かせてしかるべきであった。

いや、もとい、なんらかのテーゼを主張するとアンチテーゼが生まれ、闘争が始まり、友と敵に分かれる。それが政治の原理原則であり、その構造を否定しようとして誹謗中傷撲滅を謳ったところで、誹謗中傷撲滅という主張自体が政治でありそれ自体が相対化され友と敵に人々を分かつ媒介として機能「してしまう」矛盾から逃れられるわけではない。具体的なレベルでは確かに誹謗中傷を撲滅することは正しいのだけれど、どれだけ誹謗中傷撲滅キャンペーンを張ったところで無くならないのはSNSを見るに一目瞭然である。それどころか誹謗中傷撲滅を全面に押し出すと逆張りをする人が出てきたり、相対化することで人を集めマネタイズしようとする勢力が出てくるのが数が力となり金となる民主主義や資本主義の宿命なのであろう。

ではどうすれば良いのかと言えば、もう政治は愚かなものであるとして「そういうもの」だという認識を持ちながら付き合っていくしかないのではないだろうか。政治に参加することがスマートであるといった向きも最近は見られるけれど、政治にコミットすることはスマートなことではなく単にめんどくさいけど付き合っていかないといけない以上のものではないように思う。

やっかみばかり言う上司や仕事が遅い同僚、気が合わない友人とも場合によっては付き合わなければいけないのとたいして変わらない。しかしそのめんどくささが行き過ぎれば付き合っていけないと判断され人が離れていく。そうしたごく一般的な判断が政治にも適用されるだけではないだろうか。

モラハラばかりする人がいれば人が離れていく。間違いを認めない人がいれば仕事を振られることがなくなる。自分が正しいのだとマウントばかり取る人からは離れていく。これらはフェミニズムが行ってきたことであるが、こうしたことを繰り返した結果、みながもうフェミニズムには付き合いきれないと判断して人が離れていった。付き合いきれない関係性は切るしかなくなってしまう。人間関係が「そういうもの」であるのと同じように政治だって「そういうもの」なのであろう。

とはいえ、人は変わるし、愚かなことを抱えていることが普通であるため、多少の間違いを犯しても、特段、人は離れていかない。それが通常の判断であるが、フェミニズムはもうそうした許容範囲を踏み越えていったと多くの人が判断してしまったのであろう。政治、というか人間は原理的に愚かな性質を持っているが、その愚かさを許容するにも限界がある。その境界線を踏み越えないようにめんどくさい飲み会にも行かないといけないし、なんらか付き合いが続くようめんどくさい配慮もしなければならない。

政治の問題になるとそうした関係性の問題が棚に上げられ政治性だけにフォーカスされ、純政治的な話に収斂してしまうけれど、そのように政治を捉えることは間違っているのだろう。フェミニズムも男女の文脈で語られることが多いけれど、今起きていることは男性や女性といった対立構造の問題ではない。単に人間関係が破綻したということ。それ以上でもそれ以下でもないように思う。僕もフェミニズムというか男女平等にはかなり関心があるほうで、多くの人がそうであるように女性の活躍には賛成の立場ではあるものの、フェミニストに同調するかと言えば、首を横に振ってしまう。それは政治的理念の違いというよりももっと土着的な「もう付き合っていけないな」という判断が働くからだ。

 

そのようにして他者がいなくなった集団が辿る道はムラとしての結束、つまりは先鋭化となってしまう。外部から人が入ってこなくなった集団は内部の人間を外に漏らさないよう主張を先鋭化してそれを防波堤とし、ムラを守ろうとする。端的に言えば、オープンレターに書かれているように「よその文化から距離を取る」ように号令を出す。それがオープンレターの「外から見た解釈」である。

ネット上ではオープンレターに書かれている反差別的な言説と草津で町長に誹謗中傷していた件は矛盾しているという批判があるが、抽象度を上げて見るとなんら矛盾していないことがわかる。彼ら彼女らはよその文化から距離を取ったのであり、そこにはもう人間関係が存在せず、したがって謝るような関係性も見出していない。つまり草津の件で謝罪しないフェミニストはオープンレターで示されたことを実行しているに過ぎない。この点でオープンレターは最悪の成功を果たしたと言えるだろう。

政治的なことは政治的なこと~りりちゃんの獄中日記を読んで~

いただき女子りりちゃんの獄中日記を読んでいたら「なにもない」というエイズに罹り亡くなられたソープ嬢のブログを思い出した。

nanimonai.cocolog-nifty.com

 


悲しみに暮れた女性が書く文章には独特な感性が宿っていて心に訴えかけてくるなにかがある。
良きように言えば感性ではあるものの、逆に言えば感性が宿る魅力的な文章を書けるということ自体が男性を色恋に落とし込む才能であったりもするのかもしれない。
また、僕のように彼女達の文章を読んで「心にきてしまう」人は詐欺被害に遭いやすい性格なので注意したほうが良いと思った。


こうした感性が良いか悪いかという話をしたいわけではないのだが、りりちゃんが獄中から更新している日記がどこまでも個人的であるのと比べてりりちゃんを取り巻く言説の多くが政治的なものであることに妙な違和感を覚えてしまった。
りりちゃんが書く文章は徹底的に個人の感性、主に後悔と楽観に閉じられている。一方で、りりちゃんをどう捉えるかという言説の多くは政治的なものばかりだ。
りりちゃんの事件は女性差別であるか否かというフェミニストとアンチフェミニストの文脈、りりちゃんを擁護する人は公正世界仮説に毒されている、など。
りりちゃんにたいし同情的であるとフェミニストであり、詐欺師を擁護するのかと批判され、逆にりりちゃんを犯罪者であると言えば女性差別であるといったようなそしりを受ける可能性をどこかで気にしながらみな物を言う。
判決の妥当性について論じる時もりりちゃん=女性であるというような属性でくくられた視点ばかりが語られる。
被害額を勘案する形で「法の女性割」と言ってみたり、「性犯罪よりも重罪なのはおかしい女性は虐げられている」と言ってみたり。そんな具合だ。
そうした言説の数々を見ていると、なにかもう誰もりりちゃん個人のことを見ていないのではないかという気がしないでもない。
りりちゃんが纏っている属性「女性」「詐欺師」「ホスト狂い」「差別」「弱者男性」などの問題を引っ張ってきてみな「いつもの議論」をしているだけに見えるのだ。

そうした言説と対比する形で、りりちゃんが獄中から更新する感性的な文章がSNSで行われている議論のその異様さを浮き彫りにしている。
アングラで生きていた若い女性ということもあってか、彼女の文章からは良くも悪くも世間に染まっていない純粋さがある。
その純粋さがいつも世間の議論をしている人達の凡庸さ(社会性や整合性に囚われてしかもう物を書けないということ)を意図せずに照射しているのであろう。

 

率直に言うと、政治的で分析的な言動よりもりりちゃんが獄中から綴っている感性が乗った文章のほうが僕には豊かなものに見えてしまった。
りりちゃん個人を見るのではなく、りりちゃんの事件を敷衍する形で自説の正当化や政治的目的の為に使用することのいかに貧しいことか、というのが一連の経緯を見ていて感じたことだった。


良い悪い、正しいか正しくないか、差別かそうでないか、という話をするのがみんな好きで、僕もその一員であることは承知しているのだけど、
いつもそうした話をしているといつのまにかその「いつもの判断基準」に囚われてしまい、自分が何を話し書いているのかを忘れてしまうのかもしれない。

もちろんりりちゃんが行った詐欺事件には政治的に語りたくなる性質が多分に含まれていて、それを語ること自体は必要なことであり、特段悪いことではないのだろうけれど、
しかしそうした言説の数々は当人にとって見れば関係がなかったりするのであろう。そして政治を語る人はその「関係がないということ」を時に忘れてしまう。
事件に関するなんらかの政治的条件を見つければそこに原因を見ようとせずにはいられず、その原因に基づく社会を語り、政治を語り、構造を語らずにはいられない。そんな「生き物」なのである。

けれどその構造のうちのどれかは関係があったりなかったりして、そしてそのうちのどれを「言い当てたか」がその論者の政治的言説の信頼度を担保するとしても、でも本当はそんなのは運であったりどれだけ時勢に即した「言い方」をするかに依存しているのが実情なのであろう。

政治はそうしたある種の闘争を含んでおり、それ自体は政治がそういうものだとしか言い様がないのであるが、しかしだからといって「政治だけがすべてではない」のである。


それを思い出させてくれる文章に時折出会うことがある。それが古き良きインターネットの姿だったのだと、なにか久しぶりにそんなことを感じた件であった。

日本保守党がこれからくるのかもしれない

リハックで東京15区の候補者討論会が配信されていたので見ました

 

衆議院議員補欠選挙・東京都第15区(2024) なんで立候補したんですか?【ネット討論会】 (youtube.com)

 

立憲民主党の酒井菜摘さん以外全員参加で社会保障憲法改正・議員の待遇・裏金問題などいろいろなテーマについて話していた。

具体的な内容については討論の内容についてまとめられてるPDFがあるのでそちらを見てほしいのだけど、番組を通して見た感想としては日本保守党以外すべてリベラルなのではないかというものだった。参政党やつばさの党のスタンスはいまいちはっきりしないものの、他の候補者は元自民党の議員だった秋元さん含め、総じてみな主張の内容がリベラルのそれであった。

日本保守党の候補者である飯山あかりさんのスタンスは明らかに愛国保守であり、「男女共同参画会議は無意味なので廃止するべき」「アファーマティブアクションには反対」などの意見を述べ、それについて他の候補者がリベラルっぽい反論をするという構図が一番印象に残ったシーンだった。

 

いままでの政局では保守といえば自民党で、特に安部派がその中核だったけれど、安倍さんが亡くなったことや裏金問題によってその求心力が失われ自民党もリベラル政党になったと言って良いのが現状であると思う。つまり保守政党がどこにもいなくなり、それがラディカルか穏健かにかかわらず主要政党は軒並みリベラル政党だというのが現在の政局である。

 

そこに日本保守党が入ってきて支持を集めている。今回の番組のコメント欄もほとんど日本保守党の候補者である飯山あかりさんのファンコメントで埋まっており、代表である百田直樹さんが政党をたちあげた際に出演していたAbemaプライムの視聴回数も400万再生を超えていたりする。

【アベマ同時配信中】「『日本保守党』って何だ?百田尚樹&有本香が生出演」 9/26(火)よる9時|アベプラ - YouTube

僕も最近まであまり注目してはいなかったのだけど、日本保守党の人気を見るに、社会・政治・政党のすべてがリベラル化していく中にあってそれにたいするバックラッシュは思いのほか大きいものなのかもしれない。

実際、「リベラルに業を煮やす」という感覚は今回の番組を視聴していてもふと感じることがあった。リベラリストの言説は良い政治・良い社会・良い人間であろうとするがあまり誰にとって良い社会なのかということがすっぽりと抜け落ちてしまっている。そのような煮え切らなさを感じる。普遍的かつユニバーサルに社会や政治を捉えすぎていて日本人にも外国人にも男性にも女性にも子供にも良い政治を志向するがあまり結局のところ何も言っていないのと同義であるというような肩透かし感があることが否めない。そうしたふわっとした言説にたいし保守、ナショナリズムの立場から物を言う飯山さんの話が痛快に聞こえるのであろう。明確に日本人の為の政治を語り、臆することなく男女の役割論を唱える。そうした人は今の時代、珍しい。

 

僕は特段、日本保守党を支持しているというわけではないけれど、どの国においても国家や伝統を基盤としたナショナリズムが求められているのは間違いない。国家が社会基盤(クライテリオン)をつくりそこで暮らす自由を保障された個人の多様性が民主制を支える芽となり国家へと還していく。そうした循環によって支えられているのが民主主義だと思う。最初にあるのは基盤なのか自由なのかという議論にたいした意味はなく、ただ、ひとつだけ言えるのは基盤がなくなれば自由もなくなるということであり、自由のためにこそ保守主義は必要とされている。実際、保守主義者は自由が好きだ。コロナ禍でロックダウン(的措置)や相互監視に異を唱えていたのも保守論壇の人(藤井聡さんや小林よしのりさんなど)ばかりであった。

反対に自由や平等を志向するリベラルはその自由に耐えられなくなった時、不安や欠乏を覚え、逆に規制を唱えるようになるのかもしれない。

いずれにせよ社会や政治のどこを切り取ってもリベラルっぽい今の状況にあって逆説的に保守が求められているのは間違いない。そこに収まるのが日本保守党なのかどうなのかはわからないが、ネット上の人気や街頭演説の様子などを見るに一大勢力になる可能性も否定できないように思う。

 

僕もどちらかと言えばリベラルよりかは保守よりの人間ではあると思うので、なんとなく、ゲームでもやりながら日本保守党の様子を見守っていくことにしたい。