言の葉の火葬場

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく、書いて、吐いて、そうしてどこにもいけない、言葉達をせめて送ってあげたい。そんな火葬場。

青の話

今日もいい天気だ。

片手には、昨晩から良く冷やしておいた、緑色に赤い星マークの、パブでよくみる瓶ビール。水上コテージのテラスに置かれた真っ白なデッキチェアに深く腰掛け、それを一気に煽ると波が砕けるように、喉でじゅわりと発泡した。太陽の眩しさも手伝って、思わず目をぎゅっとつむる。

サイドテーブルにはうず高く積まれた、赤、緑、黄色といった色とりどりの南国のカット・フルーツ。その中のよく熟れたマンゴーをキラキラと銀色に輝く小さなフォークで口に運ぶと、甘くもったりとした芳香が口いっぱいに広がって、私は昨晩の夕焼けを思い出した。

海と空と雲が目の覚めるような朱色に照らされ、メラメラと燃えている。夜が近づくにつれ、その炎は紫色に変わってき、頭上には星が輝き出すのである。

ここはまさに楽園である。

目の前にどこまでも広がる海と空を眺めながら考える。

さて、今日は何をして過ごそう。

森林浴

音が、聞こえる。可愛らしい小鳥の囀りのようだ。爽やかな風に木の葉が揺れ、聞こえてくるのは、滑らかなシルクのガウンの衣擦れ。日々聞こえてくる音のほとんどは耳障りな雑音であるが、ここは、ショパン夜想曲第2番のように煌びやかで落ち着いた音楽で満たされている。

鼻で大きく息を吸う。生ある者たちの残り香が、鼻腔いっぱいに広がる。潮風にも含まれる、死にゆく生命の香りである。森であれば腐った草木や死んだ虫、動物達の香り。それは腐葉土の香りだ。この香りを嗅ぐのが、私は何よりも好きだ。

眼前には水面が光を受けて艶々と輝いている。それは、最高級のボルドーワインでも到達し得ない、甘美な色彩であり、手に掬って口をつけたくなる衝動を抑えられない。

やはり、森林浴はいい。日々の疲れを癒すために私は、時折、秘密の森林浴をするのである。

その時、背後で携帯電話の通知音がなった。幸福で満たされていた心が急激に冷えていくのを感じた。そして、森林浴を邪魔されたことに、酷く苛立ちを感じた。

立ち上がりテーブルの上の携帯電話を覗き込んだ。妻からだ。帰宅時間の連絡をするようにとの旨だ。私は手袋を取り外し、携帯電話を手に取り「今から帰る」とだけ送信すると、ポケットに押し込んだ。

そして、大きなため息をつきながら、倒れている女に近づき、小鳥の囀りのように、可愛らしく鳴る喉からナイフを引き抜いた。

 

 

北風とチョコレート

土手沿いの道、北風が吹いて、たまらずマフラーを鼻の下まで持ち上げる。水と枯草と羊毛の微かな匂いで鼻腔が満たされると、ふっと、チョコレートとオレンジの甘い香りが、思い出された。

 

人生で初めて、恋人からチョコレートを貰ったのは、土手だった。ひとつひとつ、小さなビニールで、丁寧に包装されたオランジェットが、箱いっぱいに詰められていて、宝石の様に光っていたっけ。

 

あの日のオランジェットの味を思い出そうとしていた時、左手の中の携帯電話が震えた。

電話に出ると、少し拗ねた様な声が聞こえてきた。

「もう。ティッシュを買いにどこまで行ってるのよ。もう着く?」

もう、着くよ、そう応えると、今度は少し嬉しそうな声がした。

「あ、そうだ。今年のバレンタインは何が良い?」

 

ポケットの中、婚約指輪のケースを、右手でそっと握りながら、僕は応えた。

 

そうだな、今年は、初めて君から貰ったガトーショコラがいいかな。

 

もう、オレンジの香りはしなかった。

 

雪やどり

ねえ、どうして、雨やどりという表現はあるのに、雪やどりという表現はないのかしらね。

 

貴女は、あの雨の日、バス停でそう言いました。私は貴女にあの時抱いていた、霧雨のような恋心を今でもおぼえています。

 

その年の春、まだ雪深い山中で、貴女は、道端の曼珠沙華を手折るように、そっと、自ら命を絶ったのでした。

 

その知らせを母から聞いた時、私はその情景を夢想しました。

 

白色と灰色に包まれた世界で、貴方は純白の雪原に横たわり、なめらかな肌は徐々に生気を失って白く透き通っていくのです。

舞い落ちる風花がまつげに触れ、微かに残る体温によって融解し、涙のように瞳を濡らすのですが、とうとう、体温を失った貴方のまつげには白い霧氷が咲き、貴方はまるで磁気人形の氷の女王のようです。

この氷世界で生ある色は紅蓮色の貴女の唇と制服のスカーフだけでした。

 

ああ、何と静謐な死なのでしょうか。

私は、悲しさよりも、憧憬を抱いたのでした。

 

私も貴方のように美しく死ねるでしょうか。

いいえ、きっと、醜いにきまっています。

ですから、私はもう、長い間、貴方の後を追うことすら出来ないのです。

 

美冬

私は、あの日から、ずっと、雪やどりをしています。

こんな私を許して下さいね。

 

 

                                                           ある女の遺書より

 

 

翠色と灰色の心中

苔むす朽木

冬のダム湖

薄荷飴の香り

腐葉土の香り

鴛鴦の羽ばたく音

葉の落ちる音

貴女の心の輪郭

わたしの吐息

貴女の吐息がわたしの心の輪郭に触れて、そうして、わたしは藍に染まる

 

老人と旅人

あるところに、一人の老人がおりました。老人はかつて旅人でした。7つの海を越え、8つの大陸を渡り、9つの大砂漠を跨ぎ、そして、無数の山や草原や川や町や村を歩いてきたのでした。

老人が歩いたことのない道は、もはやこの地上には、一つもありはしないのでした。

しかし、老人はもう、旅をすることはできません。それほど、年老いていたのです。

ある冬の嵐の晩のことです。彼の住まいに一人の若い旅人が訪ねてきました。その若者は一晩、泊めてくれるように老人に頼みました。老人は、村外れの小さな家に、孫娘と二人っきりで暮らしておりましたから、大好きな旅の話を聞くことなど、ほとんどありません。ですから、旅の話をしてもらう代わりに、一晩、泊めてあげる事にしたのです。

さて、暖かい食事のあと、若者は今までの旅の思い出を語り出しました。しかし、彼が今まで旅をしてきた場所を老人は、全て知っていて、そして、はっきりと覚えていたのです。若者はすっかり感心してしまいました。

「あなたは、今まで出会った中で、最も偉大な冒険家であります。どうか、私にあなたの旅の思い出をお聞かせください。」若者は、そう、老人に頼みました。老人は嬉しそうに、今までの冒険譚を聞かせてあげました。

それは、氷の大地に咲く、水晶でできた花の話。

それは、雲よりも高い山でみた、虹色に輝く羽を持つ蝶の話。

それは、灼熱の砂漠で見つけた、蜂蜜の味がする泉の話。

それは、桃のような香りの薄紅色の朝靄に包まれた草原の話。

どれも、これも、若者が今まで見たことも聞いたことものない、景色なのでした。

「あなたには、本当に行ったことがないところがないのですね。」若者が目を輝かせながら言いました。すると、老人は、静かに首を振り、こう言いました。

「私にも、まだ、行ったことのないところが、一つだけあるのです。私は、長い間、旅をしてきましたが、そこが、いま、一番行きたい場所なのです。」

若者はびっくりして訪ねました。「それは、どこなのですか?どうか、教えてください。あなたほどの、偉大な冒険家が、その人生において、一度も行くことができなかったその場所に、私は是非行ってみたいのです。」

すると老人はこう答えました。

「あなたがそこに行くのは、まだ、早い。そこに行くには沢山の素晴らしい景色を見て、沢山の美味しい食べ物を食べ、沢山のやさしい人と出会わなければならないのです。そして、人生の最後に、満ち足りた気持ちでその場所へ旅立つのですよ。」

若者は、その場所がどこなのか、なんとなく分かりました。

「その場所はどんなところなのでしょうか。」若者が尋ねると、老人は微笑みながらこう答えました。

「行ったことがないので、私にも分かりませんが、きっと今までで旅をしてきたどんなところよりも、素晴らしいところなのでしょう。そこから、戻ってきた人は世界広しと言えども、一人もいないのですから。」

 

冬の嵐は去ったようでした。風の音はもう聞こえません。空にはきっと星空が広がっていることでしょう。明日は素晴らしい旅日和になるようです。