デザインをする上で重要となる言語化、モヤモヤと宙をたゆたっている思いや考えが言葉になったとき人は心を動かされ走り出すのか
人はなぜ、思っていることや考えていることを言葉にしたがるのだろうか。それはきっと、太古の昔から人間が根源的に求めてきたことではないだろうか。詩人、哲学者、為政者、そして想いを詞にして歌にのせるロックンローラーたちも・・。
みんな、言葉にならない思いや考えを、どうにかして言葉に表現しようともがいてきた。その結果、我々現代人は、過去の天才が生み出した叡智を言葉として吸収して、人類としてのステージを一つずつ上げていった。人類の歴史と同じ厚みの言葉の堆積、その上に立っている私たちは、なんと恵まれていることだろうか。
などと、何だか大袈裟な書き出し方をしてしまったー。
ここ最近、ホームページのリニューアルやパンフレットの制作をお手伝いさせていただいているクライアント様がいて、思いや考えを聞き、それを言葉にしてまとめていくという作業を繰り返している。そんな中、その言語化についての感想をFacebookに書いてくださっているのを発見した。
一部、以下に引用をさせていただく。
今、会社の新しいパンフレットを作成してもらっているのだけど、、、自分達は何を目的にどんなサービスを提供しているのか、改めて文字化されたものを検証しながら、涙が止まらにゃい🥲気持ちに関係なく、自分がやるべきことの真髄に触れたときは、勝手に涙が出る。困った困った。
そうなのだ、人はもやもやと空中を漂っている思いや考えが、言葉として目の前に現れた時に感動する。これは僕自身も何度も体験し、身をもって実感をしていることだ。・・ふと、なぜなんだろう・・とか考えてしまっている自分に気づく。人はなぜ、思いや考えが言葉になったときに心を動かされるのか?
おそらく、一つは「探していた探し物が見つかった時の感覚」。そして、「見つからなくて、絶望して、探すのを諦めかけたけど、諦めなかった」という、ずっと探していたものだから。
こういうことでないかしら??
例えばだけれども、「生きる目的」「存在する意味」「自分の役割」「宿命」「天職」みたいなことが気になって気になってどうしようもない、という人がいたとする。その人は、きっと探すだろう。しかし、その道は険しく、簡単に見つかるものではない。
辿り着くまでの道のりが険しく、困難であればあるほど、探し求めているものは光り輝いていく。これさえ見つけられればと期待は膨らんでいく。そうして探し求めた答えが目の前に、言語として、ハッキリと書かれていたとしたら、そりゃあ感動するよなあと思う。
思い返してみれば、「自分の強み」「才能」「宿命」「この世に生まれてきた意味」と・・・ずいぶん探し求めていたもの。そして、何か一つが見つかるたびに、自分の中に欠けていた何かが埋まったような気がして、走り出す力になる。
そう、言葉にしていくということは、前に進んでいく推進力を得るものなのかもしれないな。
何者にもならず、素の自分をさらけ出して、自分らしい文章を書くことについて
小学生の時、作文は苦手でした。夏休みの宿題で、確か読書感想文と生活作文の2択でどちらかの提出だったような・・??ちょっと記憶が曖昧ですが。で、僕は決まって生活作文を選び、毎年夏になると家族で行くキャンプのあらすじを書いてお茶を濁していました。
朝起きてからキャンプ場に行って、誰々と一緒で、あれとこれをして、帰ってきました。楽しかったです。また行きたいです。という内容の、とにかく「決められた枚数の原稿用紙の文字を埋めればいいんでしょ?」という姿勢で取り組んでいたつまらない作文です。
そんな苦手だった作文に対して、ちょっと風向きが変わったのが中学生の頃。あれはI先生の頃だから多分3年の時ですね。学校で作文を書く時間があって、どういう経緯かは覚えていないんですけど、近くの席のH君の作文をみる機会があって、そしたらびっくり・・!
どんなテーマの作文か全然覚えてないんですけど、そのH君の作文の文中に、おそらく今さっき起こったであろう現実の描写が書かれていて、H君は担任のI先生が廊下を走っているのを窓越しに目撃したんでしょうね、「あ、I先生が廊下を走ってる」みたいなことを書いていたんです。(何故だか、周辺のことは忘れていてもこのエピソードだけは覚えてる)
もちろん、その作文のテーマは、そういう趣旨のことを書く作文ではない!のだけど。(いや、実際には覚えていなんだけど)あの時の衝撃を説明するにはそう考えるしかない。それで、僕の脳天に雷は落ちて、「作文って、こんなに自由でよかったんだっ・・!」と、心に刻まれたようです。
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時は流れ。
いつの頃からか、自分の考えていることを文章にして、それをネットで発信するようになりました。ちょっと記憶を整理してみると、多分あれは25歳前後くらいの時に、当時やっていた宅録音源を発表するホームページを自作で作って、そこに日記をアップしていたのが原点でしょうか。あ、当時流行っていたmixiの日記も同時期かしら?
それからというもの、ブログだったりTwitterだったりFacebookだったり、時代の流れとともに色々なSNSが登場して、初めてみたり止めてみたりしつつも、いつも何かしらをどこかに書いては発信をしていたように思います。
そうやって自分の内面、思ってること、考えていることを文章にして発信をしていると、いつも感じる違和感。なんか、こうじゃないんだな。もっとこういう風に表現したいんだが。なんだか筆が進まないなと、書いては消し、消しては書き。ブレーキをかけながらアクセルを踏み、キィキィ摩擦音を立てながら文章を書いている感覚。
それでも書くことを止めなかったのは、何者にもならず、素の自分をさらけ出して、自分らしい文章を書きたいと思っているからなんだろう、と気づいたのはわりと最近のこと、いや今日といえば今日かも知れない。数日前に、しばらく書かなかったブログを再開してみて、少しは自分らしく書けているような気がしていますが、どうなんだろう・・。
ちょうどさっきなんですが、4年前に書いたブログにコメントが入って、はてなブログさんから通知が来ていたので、該当の記事を読んでみたんですが・・・なんだか、これ書いた人すげえ嫌なヤツなんです笑。4年前の僕。ちなみに、その入っていたコメントというのもアンチ的な内容のコメントだったわけですが。
4年前の僕が書いた文章も、紛れもなく僕の文章で、あの当時の僕の「自分らしい文章」であったはずですが、どこか第三者的な目線で見たときに感じる違和感。なんだか、この文章は自分らしくない気がする。その違和感を払拭するために、何度でも何度でも自分を刷新していきたいと望んでいるのだろうなあ、僕は。
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別に、「こうしよう」と決めて、こだわってそうしているわけではないのですが、僕、過去に書いたブログとか消さずに残していて。一応誰でも見られるような状態になっているんです。別に、そう読んだりもしないんですが、きっと読むと恥ずかしくて赤面するような内容も書いてあったりすると思うんですよね。
それでも、ネットの片隅に漂いながら残しているのは、「僕はこんなに変わったんだぞ」という証拠を残しておきたいみたいな気持ちがあるからなのかなあ、なんて自己分析したりしています。漂っているものを少し貼っておきますので、もし興味あれば読んでいただければと。
これが原点、かな?
アカネロボッツHP ※ニッキ参照
社会人1年目に始めたブログ
階段 〜やっと三日坊主〜
娘が生まれたての頃に書いたらしいブログ
地球は丸い。か?
これは割と最近かな
本当に大切なことってなんだろう・・とか、ついつい考えてしまう、そんなめんどくさい人間です
自分のことを文章として書くのは、自分と向き合うことなのかも知れないと思う。その作業はしんどいし、なんだかうまくいかない。消耗する。・・でも、続けてたらいいことあるかも、なんて思ったり。
もしあなたが周りと馴染めないと思ったとして〜普段から、孤独でいること。それはいいことだ
孤独はさみしいことで、辛いことで、できれば避けたく、孤独でいることを他人に知られることは恥ずかしいことである。・・・そうなのか?それは、単なる思い込みではないだろうか。などと、最近思うようになった。
僕自身の体験。孤独感というと大袈裟だけれど、疎外感というか、どこか自分は他の人とは違って、ひとりぼっちだという感覚が昔からあって。遡っていくと・・・そう、あれは、小学校に上がる前のこと。同い年の友達が家の周りに住んでいなくて、徒歩で15分くらいの、ちょっと下ってちょっと登った「どろだに」と呼ばれるところに住んでいた。
どうしてもあっちのどろだにチームに入りきれない僕。疎外感のようなものを感じている僕。こういった感覚が原体験として残っている。それが要因なのかわからないけど、中学〜高校くらいで、仲間に溶け込めず、友達がいないこと、一人でいることを恥ずかしく思った。そんな学生時代を経て、フリーター時代、社会人になってから、色々な集団の中に身をおいたけど、どこにいても孤独感が今も拭えないでいる。
と、ことさら「孤独感」と書いてしまうと、たぶん、おそらく、世の中的にはちょっと可哀想と言うような、心配される対象とみなされてしまうのではなかろうか。ただ、心配しないで欲しい。落ち込んだりもしたけれど、僕は元気です。
自分のことだけしか見えていないとしたら、自分の孤独感を恥ずかしいと感じたら、それは自分を責める口実になる。あとは、自分のここがダメだから、自分にはアレが足りないからと、自己否定を繰り返せばいい。でも、ちゃんと世の中のことを、他の人を見てみるとそれが間違いだったんじゃないかと気づく。
ちゃんと自分以外の人に目を向けてみると、みんな誰だって孤独を抱えているんだろうなと思う。いつも笑顔のあの人も、人付き合いの良いこの人も、友達に囲まれているように見えたって、どこかに孤独感を持ちながら生きているんではないだろうか。
人は、独りで生まれて、独りで死んでいく。
なんていう言葉をいちいち書いてみると、改めて思う。ああ、そうか、人との触れ合いっていうのはあたたかいんだな。僕は孤独な人間だけど、ずーっと独りではなくて。こうしてカラオケに付き合ってくれたり、チョコをくれたり、Facebookにコメントを入れたりしてくれる。それっていうのは、幸せと呼んでも差し支えないんじゃないかしら。今そんな風に思っています。
皆さんは孤独でしょうか。孤独はダメで恥ずかしくて避けたいものでしょうか。それとも孤独は豊かなものでしょうか。
夢を持てと大人は言うけれど、ないものはしょうがないだろう
「夢を持ちなさい」「夢を持たないと立派な大人になれないぞ」「進学先を選ぶには、夢から逆算して考えるんだ」「何?夢がないだと?ほら、なんかあるだろう」「子供の頃に、必ず書いてたはずだ」などと、教師から高圧的に夢を持つことを強要されたとしたら・・・
これは、「夢ハラ」とでも呼ばれるのだろうか。。。
まあ、教育現場の実際のところはわからないのだが、逆に、「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実的な路線で進路を選びなさい」みたいな向きもあるのではないかとも思う。
さて、僕は「夢ハラ」の被害者というわけではないのであるが、「夢コンプレックス」ではあったかもしれない。その心はというと・・・夢が欲しいのだけれど、実感として湧いてくる具体的な「夢」のカタチが想像できないでいる人間だということ。
今日は、久しぶりに大嶋啓介さんの講話を聞く機会があって、やっぱり人の可能性を見なきゃねとか、夢や目標を持つことって大事だよね、なんて言うことを再確認した。で、改めて、僕の夢。夢、ゆめ〜かあ。。。
なんだろう、そう言う時に、例えばさ「メジャーで通用する野球選手になる!」とか、「ロックで世界を変える!」とか、「SKEに入ってアイドルになる!」(←これはウチの娘ちゃんの話w)とかとか。宣言できてしまう人を羨ましいなと感じてしまう。
だって、夢って原動力の源だって言うし、実際たぶんそうなんだろうな〜と思うし。夢に向かってる人を応援したいと思うし、夢に向かって突き進んでる人って、無敵で、輝いていて、楽しそうだし・・等々。
じゃあ僕はどうだというと、瞬間的には「これや!夢を見つけた!」と道が開けて突き進むも、しばらくすると失速してしまう。持続力がないのよね。飽きっぽいともいう。なので、「これや!」「違った〜」「これや!」「違った〜」を繰り返してここまでやってきたと言うのが現状で。これが僕の「夢コンプレックス」というわけ。
それがここにきて、長年の自問自答と世の中に対する観察を経て、「夢コンプレックス」に折り合いがついてきた。夢がない、夢を持てない、具体的なイメージとして夢を描けないことに対して、「まあ、それはそれでいっか〜」という、いい意味での開き直りができるようになった。
夢はあってもなくてもいいし、ただ目の前のことを頑張るだけ。それに、夢が具現化する時期っていうのも、人によって違うんじゃないのかなあ。早い人は、それこそ小学校に上がる前にすでに夢を持っているかもしれない、一方、ゆっくりと夢をあたためて、50歳を過ぎてから夢が見つかる人だっている。
僕も、もうそろそろ42歳になるけれど、なんかちょっとその辺に、ぼんやりと見えてきている気がするんだな。ぼんやりなものだから、「よしゃ!夢に向かってレッツラゴー!」とはならないのだけど、鈍行列車に揺られながら、あ、そろそろ夢、近づいてきてる??くらいの予感はしているのだ。
さあ、もう一回言っておこう。
夢はあった方がいいけれど、ないものはしょうがないだろう。(ないなら、ないで、目の前にあることを頑張ってりゃ、そのうち見つかるかもよ)
おしまい
作れる人は沢山いる、僕は何をすればいい?
自問自答が、僕の戦略。
などと冒頭に書いて、ブログを書き始めてみよう。とにかく、いつも自問自答をしている気がする。ネガティブで冷ややかな目線で見れば、ずっとモジモジ考えているだけの生産性のない人と思われてしまいそうだが、そうではない。
さんざんモジモジ考えた挙句、いつか諸々のもやもや事がスッキリして、いつの間にか動き出しているのだ。いつかは、動く。だから、考え続けていてもOKなのだ。と、すぐに自問自答を繰り返えしてしまう自分を、前向き捉えることができるようになった。
さて、今の自問自答事は、「僕は何をすればいい?」ということであるのだが。まあ、これもずっと繰り返している自問自答ネタだ。デザイン制作という仕事する上での、自分のポジションどりみたいなもの。どこの位置にいるのが、一体いちばんいーのだ???
今朝は、熊本県でシステム開発やウェブ制作を行っている会社さんとオンラインで打ち合わせをしていた。社員数が15名ほど、外部スタッフ合わせると30名近くで、大きな案件だと数百万円〜1千万円規模のシステム開発などをされているそうで、僕が普段担当している仕事に比べて大きな規模の案件を扱っておられる。事例をいくつか見せていただいたのだが、もちろんのプロクオリティであった。
上手に作れる人は、沢山いるのだなあー。
ここのところ、この熊本県の企業さんのように、「協業しませんか?」というような名目で、よくお問い合わせをいただく。会社組織もあれば、フリーランスの方もいれば、学生さんが学業の合間に勉強のためにやっているパターンもある。
僕自身、制作も行うこともあるが、僕より上手な人は沢山いる。では、僕は何をすればいい?
さてさて、この自問自答もじっくり行きましょう。いずれ答えは出る。いえ、答えは出なくたって、いつか自然と走り出している瞬間があるのだから。わからないけど、今まで大体そうだったしね。
「君の進むべき道はこっちだよ」と神様が手招きしてる
圧倒的な才能を目の当たりにして、自分の才能とか未来のこととか考えちゃったりする秋の夜長です。フリーランスでデザイン事務所を開業して6年とちょっととなりますが、クリエイティブと呼ばれる業界の端っこの方で、なんとか良いものを作ろうと奮闘している毎日です。
作っているものと言うのは、例えばホームページ、例えばチラシ、ロゴマークや会社を紹介するパンフレットのようなもの。つまり、ビジネスシーンで使われるデザイン制作物と言うことになります。制作する上で心掛けているのは「人の心を動かすことのできるデザイン」であるわけですが。
ビジネスシーンと言えど相対するのは人間であり、ホームページでもチラシでも何でもない、それを見た人の心が動かすことができたら、そのデザインは成功なんだと思っています。そうやって、「人の心を動かす」もので、人の「創造性」を元に作られたものということで言うと、同じ土俵に上がってくるのがMV(ミュージックビデオ)なんですね。
昔から音楽は好きでよく聞いていたんですが、MVも深夜の音楽番組とかでよく見てました。映画は総合芸術だなんて言われますけど、MVもそんな節があるなと思っていて。歌詞、歌、メロディー、楽曲、映像、ダンス、演技、そして演者の存在そのもの。色んな要素がぎゅぎゅっと詰まっていて、その相乗効果で表現力が何倍にも練り上げられるっていう。
ここのところ、ずっと坂道シリーズを追いかけている中で、ここ数日急激に気になってリピートしているのが櫻坂。今日もいくつかのMVをYouTubeで再生しては、その圧倒的な才能が作り出したクリエイティブにため息。。。
そのため息には二つの意味があって、一つはこんなにも感動的な作品を味わうことができる感謝と感動のため息。もう一つが、自分の才能って何てちっぽけなんだろう、そんなふがいなさの混じったため息。いや、待てよ、前にもこの感覚を味わったことがあるような気がする。
大きな壁を目の前にして、立ちすくんでいるような感覚。たとえば、独立して自分でデザインの仕事をしようと思ったとき。自分の才能を探している途中、「ああ、僕は言葉を作る仕事なんだ」と登るべき山を見つけたとき。そして、帝王学を学んでいく中で、自分の魅力で誰かの心を動かせる人になりたいと思ったとき。
そうだ、高い壁を目の前にして立ちすくむ、これはきっと、「君の進むべき道はこっちだよ」と神様が手招きをしてくれてるってことなんだろう。