ちょっとベンチに腰掛けて

何もしたくないなあ、疲れちゃったなあ、なんて言うくらいなら、大きくため息をつきましょう。

二月


寒さのピークに、今年の雪景色は未だ全貌を現さず。控えめな粉雪かと思いきや、わが故郷関東平野はみぞれびちょびちょ、アスファルトに泥混じりの水では風流さの欠片もない。


昨年も全く同じ日のことを思い出した。元旦や誕生日でもなければ1日僅か数時間の出来事など記憶の彼方へ飛散・霧消してしまうものだが、殊にひっかかった出来事はその例に非ず、案外鮮明に思い出されるものであった。


懐古主義なる人物評価を得るのは甚だ不本意ではあるが、しかし記憶の美化に依存していきるのも、通時的呪縛から逃れられぬヒトの宿命であり、まさに貴方もその一翼を担っていることを忘れないでいただきたい。


つまりは、もう少しで大学生になれそうなんです。

新しく。



数ヶ月前に何を書いていたか、忘れてしまった。読み返してもないから、内容には矛盾があるかもしれない。
まあ、そもそも、すぐ矛盾が生じ得るほど僕の思考が安定していないのが悪なのかもしれないが。



僕は悩みを抱えている。おそらく、それは8年くらい前からずっとあったのだ。心の内にためているものは、決して表に顔を見せない。きっと暴れたり、叫んだり、何かを必死に主張しているのだろうが、僕自身がそれに気づくことはない。自己と自我の何と乖離していることか。日常の意識の中には全くといいほどたち現れない"じゃじゃ馬"であるが、しかし、どういうわけか、10月の頭を過ぎた頃から、僕の体を掴んで放さない。いや、むしろ底なし沼へ引き込もうとする得体の知れぬ手のようななにかに、引っ張られている。
「○○よ、この観念を忘れるな!お前が幸せを感じた時、その裏にいつも忍び寄る、耐えがたき孤独を忘れるな!」

くだらないのだ。僕がいつも鏡に向かって話しているということも、何かに没頭し、一喜一憂することも。
物心つく前に願った幸せのうち、まだ達成していないものはあるか?
僕は、その願った幸せよりさらに幸福な体験をしている。
いったい何が、心と身体をここに引き留めるのか。
実は夢の中こそ、僕自身の生きる世界なのではないだろうか。何か意味を持った出来事か、不変であり続け、意味を持ち続けるか?
もし問いを忘れたなら、その時こそ証明完了だ。今や現実に没頭しているお前の世界で、その問いは実際に意味を持ち続けたか?

これを「苦しみ」と呼ぶのだろうか。定義も、判断も、解釈も、僕が行う。すなわち、意味が欠ける。
他者の言ったことを信じるのは、慣れてしまえばできる。が、他者の存在は、疑いだしたら、そこで全てを諦めるしかない。それは、前提として、自明の理として与えられたものを疑うということだ。正しいとか間違っているとか、そういう次元の話ではなく、それはそもそも、あらゆるものから意味という名の価値の支持基盤を消去することなのだ。

一番ふさわしい言葉を使うなら、まさに孤独だ。
天涯孤独。
全ての問題を、"論じる必要性"に帰着させる。





いま、本当に、誰かと話したい。
一人でいることは、寂しい。
何もかも、喋ってしまいたい。

考え事のメモ

文化的コンテンツのみを内包した完結性の強いプロジェクトにこぞって参加する大学生が、その参加によって吸収した(吸収するはずの)いくつかの知恵を実際に活用しているのか、疑問に思われる。

某女性数学者が「意識高い系って嫌い」というような発言をしていたことに僕はひどく腹を立てたが、実際に自分が「義務教育及び受験勉強以外の」学習を志した時に、即座に目に入るプロジェクトは大概、鮮明な理由・内容と、ぼかされた有用性が同居している。

夏よ、夏よと呼ぶ声



 先週くらいまでは扇風機を弱で回して、タイマーをつけておいてもぐっすり眠れたのだが、7月も中旬になると暑くてなかなかそうもいかない。
 いや、もちろん毎日ちゃんと眠れてはいるのだが、クーラーの助太刀を貰わないと中々に快適な睡眠は得られないということである。

 節電の夏が続いているが、健康が一番である。






 話は変わるが、青年とはスピリチュアルな側面を強く持つものに惹かれるものである。というか、人間、だいたいそんなものであるが、青年期というのは、そういうものが他の世代より殊更顕在化するんだろう。
だから、洋楽も聞くし、ちょっと難しそうな本も読むし、新書コーナーの前で立ち読みしたりもするし、政治のココがいかん!みたいなツイートもしちゃう。
演じる理想の自分がやがて自己の一部になるっていう、昨日知ったばかりの受け売り言葉を見てみれば、まあ多少はね、そういうことなんでしょうね。
 あ、もともと洋楽聞いて、哲学読んで、新書をあさり、政治について考えている人だって沢山いるんだから、別にそういう行動を否定する気なんてない。ただ、なんか同じ世代は同じ頃に、同じような方向をむくのである。

 だからさー、なんちゃら自衛権反対って呟く前に首相官邸のページを見るとか、この際池上彰でもいいから何か言ってないか探すとか、少しでいいから考えてから行動しようよ。そんなに煽られやすい国民でどうすんだろう。賛否は個人の考えで決めていいんだからさあ、悩んでみたりとかしないのかなあ。
 感情なら犬にも猫にもあるんだよ。僕ら人間ですよ?多少はオツムの出来が違うんですよ?




 最近、若干ではあるがイライラすることが多い。周りに対してもそうだけど、結局原因は自分にあるとわかってさらにイライラする。
 重なってくと、何になるんだろう。

ヒトラースターリンは悪として教えられ、ブッシュはバカなやつと指摘される。なんで最初にイメージを伝えるんだ?彼らが悪だから人を殺したのか?バカからテロ組織と戦おうとしたのか?
プロの音楽家が選ぶアーティストだから素晴らしい曲である、なんてお前はミュージシャン教の司祭か。

  僕もそういう輩の大概だけどね。じゃなきゃこんな稚拙な文章、書きマセン。



さて、勉強。



日々の暮らし


 最近はなかなか心置き無く遊ぶ時間がない。
僕の立場上、のんきに好きなことだけをして過ごすことはできないのだが、気晴らしもなく、友達と会うこともなく過ごしているとやはり気分は暗くなるものである。
LINEを一通送れば少しは心が楽になるものなのだが、どうにも上辺だけの交信になるような気がして送信ボタンを押す気になれない。
"いつでもLINEを返してくれる仲"というよりは"LINEくらいならいつでも返してあげる仲"と言った方がニュアンスが近いかもしれない。
まあ、何が言いたいかというと、最近何のために生活してるのかよくわからなくなったということである。
まだ若い上、恵まれた環境(この7文字は最早僕が自分のことを考える時に必ず思い浮かべる合言葉のようなものだ)に住む僕が不幸について語るなど決してあってはいけないようなものだが、幸福であるのがどういうことなのか、思索することくらいは許してもらいたい。

僕に足りないものの一つは、何のために生きているのか、目標がないことである。もちろん、周りの友人たちを見るにこの目標というものを明確に持っている人は少ない。彼らのうちには、ただ何となく、ちょっと楽しいことを探して、またつまらなくなったら別の楽しいことを探して、そのルーティンに依存して暮らしている奴らも多い。もし僕が数年前のように独我論に固執していたら、僕は彼らのことを能天気だとわらうが、今の僕はもう少し客観的に考えている。すなわち、僕も彼らと何ら変わりのない「目先の欲を満足させ続けてかろうじて生きている」のだ。
卑下しているわけではない。僕の持ちうる語彙ではネガティブイメージのものばかりで文を書くしかないだけで、「目先の欲」なんて書いているが、用はリアリストなのである。
やってられっか!
なんて叫びながらグダグダ生きるのは我々先進国に生まれたものの特権なのだ。罪悪感は高校生のころから感じているが、富は分配するためでなく享受するためにあるなら、むしろその罪悪感こそ幸福な家庭に生まれたうちの些細な対価である。
ま、そもそも、資本主義は夢を見ないはず。なんてね。



で。
自分の人生を自分らしく生きるだけなら、自殺してしまうのも頷ける。だが、他人のために生きているのなら、死ななくてもいいかなと思うのである。死ぬという選択肢を選ぶ前に今現状で試せるものが沢山あるからまずそれをこなしている、そういう点で自殺など優先順位が最下位なのだ。
勝てそうもない相手に対して、サレンダーするのではなく、現状できる限りのことを行ってから敗北する。得るものがあるかはわからない。果てしない自己確認である。
但し、これも幸福な国の"幸福な"若者のたちのうちの一人の話である。



とりあえず軽く書き直した。まだ変えるかも。

どどどどどっどー



たーぃふう。






4万のイヤフォンか、10万ちょいのシンセサイザー
ペラペラな財布には下し難い決断である。
ちなみに、こんな値段のイヤホンじゃオーオタなんて呼ばないからね。音楽が好きなら音質を求めたくなる気持ちはわかるでしょ?






そういえば、僕は作家になりたいのだ。
このブログの稚拙な文章をそのまま執筆の際にもちいるんけじゃないから、筆力は皆様の読んでいるよりも高い(ということにしておく)。
必要なのは、アイデアじゃ。
今時、純文学ってなかなか目を向けてもらえないらしいしね。だから、一発ポピュラーな話を書いて名前を売って、あとはひたすら書きたいものを書く。これが安定路線かな。


電子書籍は便利だし、絶対にもっと普及するけど、それは紙媒体の全廃を意味しない。本は情報が全てじゃないからね。まあ、そのうち触覚も気軽に再現できるようになるのだろうけど、読んで、触って、嗅いで、聞いて面白いのが本だから。豚耳にしたり、栞を猫に噛まれたり、表紙がおれちゃったり。傷つけば傷つくほど、愛は深まるものである。

寝床の横には本が沢山並んでる。

読みたいなあ。




でも今日は寝る。