咳が止まらない

中途半端なおたくのOLのブログ

見たかったものしか、そこにはなかった(乱文)

 

推しのイベントがありました。


もう、見たかったものしか見なかった。
ずっと見たかった姿がそこにあった。

 

笑ってステージにひとりで立っているというのは、当たり前じゃなくて、奇跡で。
ほんとうに紆余曲折あった。所詮オタクなので薄っぺらいことしか言えないけど、だから、本人はこちら側が思っている何倍も何倍も、紆余曲折あったと思っていると思う。
知らないこと、言えないこと、言いたくないこと、言いたかったこと、ぜんぶぜんぶ飲みこんで、今、笑って私達の前に立ってくれている。


辞めるタイミングなんていくらでもあった。
いつ辞めてもおかしくなかった。
そういうことしか、彼らと彼には起こらなかった。

 

だから、ずっと、これが最後かもしれない。と思いながら会いに行っていた。儚い。売れてないコンテンツは常にいつ終わるかわからない。
もう終わりなんだ、もうだめなんだ、きっと、これが最後なんだ。
何回そう思っただろう。
惰性だ、やりたくないならやめればいい、そう思ったこともあった。


そんな今までの不安は、ぜんぶぜんぶ、覆ったのかもしれない。


そう思えるようなステージだった。
低くて小さいステージに、死ぬほどわたしにとっての希望があふれていた。

 

 

 

今までの間、ずっと全身全霊をかけて追ってきたわけじゃない。
ちょうどいいお涙頂戴ストーリーの当事者になった気になって、都合のいい部分だけ繋ぎ合わせて、勝手に昂ぶって泣いているだけと言われればそうだ。上には上がいる。

 

でもそんな私ですら、涙は止まらなかった。
頭でいくら考えてても、見ると「うう~~好きだよ~~~」以外の感情がなくなった。

 

呆然とする。
今まででもう何回見たかわからないのに、視界に推しが入ると体温が上がる。動悸がしてくる。
何回接触で喋ったかわからないのに、いまだに何回も脳内リハーサルをしないと上手く喋れない。

好きが更新され続ける。困るなあ。

 

 

 

 


君が僕の前に現れた日から
何もかもが違くみえたんだ
朝も光も涙も歌う声も
君が輝きをくれたんだ

 

 

久しぶりに推しが待ち受けになり、愛について考えたという話

推しが雑誌に載った。あまり珍しい事ではないが、きちんとカメラマンに撮ってもらった写真というのは雑誌ぐらいでしか見られないので、いつも必ず買う。

 

撮影の様子がSNSに出ていて、すごく仕上がりが良さそうだったので楽しみにしていたんだけど、これが近年稀にみるっていうか今までで一番レベルで格好よく写っていて、届いた日からちょっと浮ついている。特に一枚、すごくすごく好きな写真があった。

不意に見られた時に恥ずかしいのと精神状態が落ち着かなくなるので普段は推しを待ち受けにはしないんだけど、今回に関しては雑誌をiPhoneで何度も撮り、待ち受けに大大大設定した。ほんとびっくりするぐらいかっこいい。落雷。え、こんなにかっこよかったの??突然やめてくれ。いや、普段もかっこいいけどさ…。


こんなに写真を見ているだけで心臓が止まりそうになるひとを、ひとと、わたしは何回も喋って、写真を撮ってもらって、手を握ってもらって、わたしの一方的な告白を聞いてもらって、好きだよと言ってもらって、なんかもうわけがわからない。そりゃ仕事だしそうしてもらうためにお金払ってるから当たり前なんだけど、なんかもうそのギブアンドテイクが壊れるほど、待ち受けの推しはひたすらにかっこいい。


こんな幸せな事はあるんだろうか。写真を見ているだけで世界が止まりそうになるひとに出会えるひとは、どれだけいるんだろうか。それとも街を歩いているあのカップルは、お互いの姿を写真で見ているだけで、力が湧いて来たりするんだろうか。そうだとしたらなんて素敵なんだろう。私はちがった。

 

こんなに推しが好きなら、もうそれで私の人生いいんじゃないかと感じた。
どうして愛は双方向じゃないと愛と言えないみたいな風潮があるんだろう。
なんで結婚してなかったり恋人がいないと愛がない孤独で可愛そうな人みたいに思われるんだろう。
一方通行だとしても、一方通行であるからこそ、双方向より大きく、壮大な愛かもしれないじゃないか。でもこれはストーカーの考え方に通じそうで危険だね。わたしはストーカーではありません。

 

だいたい愛が1対1である必要はあるのか?
日本の結婚という制度になぞらえて考えると1対1じゃないとうまくいかないのでそうなっているだけなんだろうけど。1対1でないといけない理由の本質は、独占欲と嫉妬心と自己愛だと思う。好きな人には自分だけを好きでいて欲しいというのは、結構驕り高ぶっている気がする、本当に本当にその人を好きなら。

 

とにもかくにも一枚の写真だけでこんなことまで考えさせられてしまうとは思ってなかったけど、それぐらい良い写真を見られてわたしはとてもうれしい。


行けない現場があるのが嫌でモチベーションの行方不明が起こっていて今後のイベももう行かなくていいかなと思ったり(チケは取ってるんだけどね、その辺覚悟が足りない)、

当たり前のことだけどわたしなんかいらないじゃん、全部行けないならもう全部やめても一緒じゃん、っていう無限ループに陥ってたんだけど、そんなん関係なく推しは顔が良くて見ているだけで息が詰まるほどすてきだということを一枚の写真で思い出させてくれた媒体様、ほんとうにありがとうございます。

 

しばらく待ち受けに君臨してもらいたいけど、仕事中も見てしまってどきどきしてガチな話で心臓に良くない気がしてきたので早々に変えるかもしれない。

今日はものすごく晴れていてとても落ち着かないけど、待ち受けを見るたびにひとつすっ飛ばす私の鼓動を早めるのに一役買っている気はする。

 

早く仕事を終わらせて帰りたいです。

 

終わりのはじまり

 

自分の意思とは関係なく、推しのおたくで居られなくなる日々が来るということは、本当はずっとずっと、わかっていたはずだった。


きっと、推しに会えなくなったその日から、何事もなかったかのように、私はドルヲタではなくなるだろう。2推し候補もいない。もともとメジャーなバンドにしか興味が無く、おたく属性は持ち合わせていなかったから、元に戻るだけといえばそうだ。でも、戻った自分が想像できないくらい、推しはいつのまにか私の精神の大きな部分を占めていたらしいことを今更痛感している。

 

日本にはない制度のために韓国の男性は30歳になるまでに2年間、生活を離れなければならない。もちろんそれは芸能人も例外ではなく。それはもうずっとファンになったときからわかっていて、みんな通る道だし、覚悟はしていた、つもりだった。

 

実際のところ、まったく出来ていなかったけど。


ふわふわとした覚悟とか理解はわたしの頭の片隅に追いやられ、推しと近くで会えば会うほど、イベントに行けば行くほど、現実は曖昧になり、信じたいものしか信じなくなっていたようだ。幸せでいればいるほど、楽しければ楽しいほど、もう会えなくなるかもしれないなんて事実からは目を背けがちになる。


終わりは、すぐそこまで来ていたのに。

 

さらに言えば、時期だって明確にわかっていた。こっちのマネジメント会社との契約期間は今年で一区切りだということは知っていた。契約した時に期限を言ってくれていたから。今思うとすごく親切だ。

それなのに、実はぎりぎりまで延長するんじゃないか、まだ大丈夫なんじゃないか、っていう根拠のない期待だけを信じていた。あっけなく、本人たちの言葉によって、その期待は打ち砕かれた。

 

状況だけみれば、よくここまで続いた、という評価が正しい。動員は増えず、キャパは広がらず、新譜もほとんど出ず、同じ客から単価を引き上げるだけの運営、マンネリ化したステージ、馴れ合いの空間。
ひいき目にみても限界がきているのは明らかだったけど、どんなにマンネリ化しても推しとメンバーが好きだし、グループの歌は素晴らしかったとは思う。とにかく、歌はじょうずだった。活動の規模と歌唱力は、まったく釣り合っていなかった。

知ってた、わかってた、でも、っていう無限ループを何回繰り返せば、受け入れられるのかなあ。

 

数年後の活動なんて何一つ保証がない。もっと売れていれば、芸能活動を続けられると思うけど、そういうわけでもない。何も保証がないまま、待ち続けられるおたくがどれだけいるんだろう。

 

いざ活動再開して戻って来ようと思ったとしても、ただでさえ少なかったおたくは更に減っているだろうし、私だって100%駆けつけられるかと聞かれたら、わからない。人生も仕事も正直あんまりどうでもいいんだけど、それを捨てきれない現実主義者もまた、私なのだ。もちろん駆けつけたい。でも今と同じ熱量ではきっと会えない。それはみんなそうだ。だからこそ、もう少し、今が続いてほしかった。

 

推しが言った。

 

 

いつか戻ってきたいけど、それが何年後になるかは、僕にも、誰にもわからない、って。

 

絶対に、とか、必ず、とか、耳触りのいい気休めを言わないところが、ほんとうに好きだと思ったし、同じぐらい悲しくて、引くほど泣いた。

 

いつか、推しもグループもうたわれた歌もおたくだった私もいろんな思い出も、風化していくのかな。あの時はあんなに必死におたくだったなあ、って笑い話にする日が来てしまうのかな。

 

ハリーポッターの憂いの篩みたいに、記憶を今のまま別の場所に保存して、いつでも眺められたらいいのに。推しが好きだっていう今の感情も、辛さも、思い出も、言葉も、光景も、わすれて、曖昧になって、日常に溶けていくのが、わたしは一番悲しい。

推しが舞台に出た話と、心境

 

マチネ。ソワレ。

歌って踊るアイドル(それも隣国)のファンなのでほぼ口にすることは無いと思っていた単語。
それが、日本で、口にする日が来るとは。

舞台の話自体はうっすら聞いてはいたんだけど、いざ公式に発表されたらチケット代が高すぎてびびった。外タレ価格とはいえ。日本は舞台の値段が高いとはいえ。
この価格設定で埋まるのかよ。いやー埋まるんだなーそれが!!しがみついてるファンのお財布の紐は、もはや無い。

そして何の躊躇もなく土日のマチソワを取った。仕事休んで全通するまではいかない中途半端なファンです。

千秋楽は保険をかけまくったけど、試しにだれも気付いてなさそうな先行で申し込んでみたらしれっと当たった。
だれも気付いてなさそうな先行ってなんだよ、って感じだけど、ほんとにHPの端っこに、しれっとリンクがあった。
これぞ隣国クオリティ。普通、同期間にいくつも申し込み先があるものなの?笑

発券したらこれまたびっくり前列しか来てねえ…大丈夫かよ…
おそらくその気づかれなかった先行にも席が割り当てられていて、前から順に埋めたっぽいけど、ほんとに気づかれてなかったのかな…ええ…。

 

正直観劇するまでは結構な勢いで冷めちゃっていて、どーしようもう辞めれる!って思っていたんだけどいざ近づいてくるとソワソワした。まだ辞めなくていいのかな(好きが薄れて情と意地だけになるとこうなります。のいい例)

なんで冷めてるかっていうと、半年ぶりに神にお目見えしたら、全然ちがくてもう。神は12歳の頃から好きな偉大なるボーカリストです。
アイドルとバンドじゃ比べられるわけないし、規模も全然違うし、自分の中でそれぞれに求めるものは違う、ってのはもちろんわかっててやってきたんだけど。

なんかそこが、わかんなくなった。
久しぶりの神のライブは、ものすごく感動したし、満足感と幸福感がすごくて。現場に行っても何も心がささくれたりしなくて、病むこともない、幸せだけ降ってくる、という当たり前のことを思い出した。

やっぱ私、ショーに感動したい。誰かを追っかけることが好きというよりも、ステージから放出されるエネルギーを受け取ることが好きなんだって、思った。

それで、じゃあ推しはどうだろうと考えたら、最近のライブには疑問しか持てなくて。練習もそこそこで歌詞はところどころ覚えてなくて新曲もない。
それでもダンスはやっぱり好きだし、感動することもあるけど、全部行く必要あるかな、減らしてもいいよなあ、って思ってしまった。

逆の人もたくさんいるだろうけど、認知とか接触で得られる幸福感よりも、ステージのパフォーマンスから得られる幸福感のほうが、私は圧倒的に満足できるらしいということを、知った。というか思い出した。

そして、それなら推しはものすごく必死に追わなくてもいいのか…?という気分になってしまい、来日しても「あ、来たのか」ぐらいにしか感じていない自分がいて、戸惑った。
こんなんなのに、結局、久しぶりに会っちゃうと、好き好き!追う追う!!ってなるんだよな。アホか。アホだ。

こんなこと言ってるそばから、次のイベントのチケ代全部合わせて10万、きっちりカード切りました。
つくづくクソだな。何やってるんだろうね。笑おう。あっはっは。

舞台は良くて、頑張っている姿をみて、結局好き好き!追う追う!ってなってるけど、その感想はまた。

推しのすごいと思うところを語る

一部のおたくがSNSに書き綴る推しの対応の自慢話をほかのおたくが叩いたり、それが発端となって派閥が出来ていたりするのは良く見るが、それ以外であいつはオキニだとかオキラだとか、そういう話が殆どないのは推しの素晴らしいところだと思う。

 

傍から見ていて「あの子絶対お気に入りだよね」っていうのがほとんどわからない、というか、無いのだ。


もちろん全員に同じ対応というわけではない。おたくの年齢層も幅広いので、自分より年上の女性(現場にはもちろんおばさまもおばあさまもいる)と年下の女性に対する接し方は違うだろうし、顔なじみとそうでないファンへの接し方も違うけど、それは神対応とか塩対応とかではなく、あくまで人間というか、自然なコミュニケーションとしての対応の差でしかない。

そりゃ、通えば顔なじみにはなる。ごく一部は名前も覚えてもらっている。モブ→顔なじみ→名前がわかる、というファンのランクはあれど、そのランクの中で突出することはできないし、そういう対応なのだ。
推しのそういうところが大好きだし、アイドルにものすごく向いていると思っている。

 

みんな平等、だけどおたくはどうにかして自分は特別だと思いたいものだ。そして、特別になる方法は2つ。自分を上げること、他人を下げることだ。イッツソーシンプル。

 

そうやって繰り広げられる特別になりたい合戦は見事なまでの自家発電である。
本当は誰かに「あの子はオキニだ」と言われたいけど、推しの対応は変わらないのでじっとしていてもオキニ認定はされない。
そこでなんとか羨ましがられるように、推しが言ってくれたことや、ファンサしてくれた内容、その他もろもろを(時に脚色して)SNSに投稿する。
それをSNSトロール中に目ざとくみつけた他のおたくは、新規だの、お花畑だの、ブスだのなんだのと叩く。
そのやり合い、やられ合いの繰り返しだ。もっと、もっと私のほうが上だ、とお互いに火をつけあい、より双方はおたく活動を激化させる。
その争いの発展に推しはまったく介在していない。みんなに平等に接しているだけだ。

 

すげえ、といつも思う。
計算してるのかしてないのか、たぶんしてないんだろうけど、やっぱり天性のアイドルだと。
色恋みたいな営業はまったくしないのに、ガッツが自然につくし、離れない。お金も落とす。どんどん落とす。
ホストかなんかになってたらきっともっと稼げたんだろうなあと思うけど、ホストじゃなくてよかったとも思う。
破滅だ。そんなの。いくらあっても足りない。
いや、ホストだったら出会ってなかったか。それはそれで私はもっとまっとうな人生を送れた気もする。まあいいか。

 

わたしも井の中の蛙なので、気に入られたいし他とは違うファンでありたいと思いながらも、寸分の狂いもなくみんなに平等に接する推しの前にひれ伏すしかない。

せいぜい、名前を覚えているランク上位のファンに食い込めている、ということを確かめて満足することしかできない。
ただそこで消費するエネルギーでいっぱいいっぱいなので、ほかの元気なおたくみたいに叩き叩かれあうパワーはなく、いつも当たり障りのない投稿をして「雑魚ですよ」感を醸し出している。いや、感じゃなくて本当に雑魚かもしれない。


本当はどこにも何も投稿しなければいいんだろうけど、書いて「いつも現場には居ますよ」感を醸し出してしまうあたり、やっぱり雑魚だな。ていうか、俯瞰して眺めて理解者ぶってるやつが、一番タチ悪い気もする。 

自尊心と承認欲求とは、大人になっても引っ込んではくれない面倒なものだ。
それどころか、大人になればなるほど、絡みついてややこしくなっていく気がする。

 

推しの顔の造形はどこからみてもきれいで、きれいなものが好きなだけなのに、
なんでこんなにいろいろと拗らせたんだろうなあ。

そろそろ

時々、でもなくわりと頻繁に、何をしているんだろう、と空虚感に苛まれる。

年を追うごとに1年が短く感じられる。

私、1年前何してたんだろう?何も変わってない。

 

応援しているグループの最後のリリースから1年が経とうとしている。タイミングが合わないのか採算が取れないのかもう諦めているのかはわからないけど、1年経ってしまった。

最近は音楽活動じゃない方向に向いているメンバーもいる。それぞれがやりたいことをやってくれて活動してくれるだけでもう、いいんだけど、いいんだけど、

私はやっぱり音楽が好きで。歌が好きで。曲が好きで。それと同じぐらい推しの人自体も好きだから音楽やめても応援しなくなるわけではないけれど、やっぱり歌っててほしいと、思ってしまう。

 

なんだかどうなってほしいのか、自分でもわからない。きっと彼らもみんなわかってない気がする。自分たちがどうなって、どうやって生きていくのか。何になりたいのか。何になりたかったのか。それが見えないから、応援するのがしんどい。

なんでこうなっちゃったんだろうなぁ。

原因は一個明確にあるんだけど、それはもう過ぎたことだし、真実は彼らしか知らないから考えるのは意味がないのでやめる。

 

話を戻す。

1年前と何も変わってない、かもしれない、けど、たくさん話したしたくさん目に焼き付けた、写真も撮り溜まって、サインも何個も貰って、もちろん全部全部お金と引き換えだけど、それは全部、事実だ。わたしのiPhoneの中に、パソコンの中に、記憶の中に、ずっとあり続ける。それでいいんじゃないか。

うまく言えないけど。自分で慰めてるだけだけど。そもそもおたく活動なんて生産性がない。その場限りの熱量を消費して終了、の繰り返しだ。

 

あーあ。会いたいけど、同じぐらいしんどいんだよな。

 

 

 

 

暇です

暇だ。現場がないと休日に何をしたらいいかわからない。

暇すぎて行きたくもないご飯の約束を取り付けた。
目の前の存在にちょっと飽きながら、顔、ってどうしてこんなに即物的で絶対的なんだろう、とぼんやり考えながら、美味しいような美味しくないような量産型のイタリアンをつつくんだろうなということはわかりきっているのに、なぜかOKしてしまった。

相手の顔すらよく思い出せないので待ち合わせの時点でだいぶ苦痛だ。メッセンジャーのアイコンは基本的に自分の顔にしてほしい。だれだかわからなくなる。みんな1回や2回会っただけの人の顔を2週間後とかに思い出せるのだろうか。私は無理だ。1年付き合った人の顔ですらもう今はよく思い出せない。きっとあんまりよく見てなかったんだろうな。

 

今の私は心のどこを探しても、恋人がほしいなんて思っていないし、だったらなんでOKしたんだ、と自分でも思うけど、やっぱりなんていうか、保険というか、リハビリなんだろうな。情けなー。

現実世界の人にときめかなくなったら終わりっていうかもはや終わってるんだけど、少しでもそっちになびけたら、しんどいおたくから抜けられるんじゃないかーみたいな。抜けられないことなんて自分で一番わかってるのにねー!めんど!!めんどくさ!!

まあいっか。でもな。億劫すぎるな。死にそうだったらドタキャンしよう・・・

 

次の現場に接触が追加された。
あるかないかで聞かれればあるほうがマシ、ってレベルの一瞬の接触だけど、やっぱり目の前に立てるか立てないかでモチベは全然違うんだよなあ。
服どうしようとか。メイクどうしようとか。
そうやって悩んで買い物してるときが一番楽しいんだからそれをやらせてくれ。って感じ。
春先は気温が読めないのと新商品がどんどん出るので服が決めづらい…。次の休日は買い物にいこう。

 

あの人に会いに行って帰ってきてからずっと雨が降っていなかった。
晴れは時々しんどい。朝起きて雲ひとつなく晴れているとうっすら憂鬱になる。デスクの横の大きすぎる窓から見える青空は、会社でまた同じ1日を過ごす私をどこまでも脅迫してくる。毎朝空を見て、小さく諦めのため息をついて、パソコンの電源を入れる。

おたくをしてなかったら、何が楽しくて生きていたんだろう?