ぽんは愛するより愛されたい

お腹ぽんぽこりんのぽんこが書きたいときに書きたいものを書きたいだけ書いています。特に有用な情報はありません。

親知らずに愛されて困る

親知らずを抜いた。

何年も前から歯医者さんに言われ続けていた。「親知らず、抜いておいた方がいいですよ。」言われたが、親知らずを抜くのは怖い。恐ろしい。健康な太い歯を歯ぐきからぐりぐり引き抜くなんて、想像しただけでもおぞましい。ああ怖い。やりたくない。そう言って何年も何年も放置していた。

きっかけは些細なことだった。数か月前、流産をした。稽留流産というらしく、心拍は一度も確認できないまま、さらっと出ていってしまった…ということはなく、全然出ていってくれないので業を煮やして手術を選択したら、その手術日に自然に出て行く流れになってしまい手術を受けたものの「はて、手術とは」みたいな処置になってしまったという流れがあるのだが、それはまた別の機会に。結果的に流産になったのでたいへん短かったのだが、私には妊婦の期間があった。葉酸サプリはバッチリ飲んでいたし、生活も規則正しく送っていたし、実家も義実家も協力的で、選んだ産婦人科は親切かつ情報共有が出来ていて好感が持てた。ただ、一つ気掛かりがあった。親知らずである。

ずっと抜けと言われていた親知らず。でも怖くて抜けなかった親知らず。別に虫歯になっているわけでも、痛いわけでもなかった。体調のすこぶる悪い日、なんとなく親知らず近辺が怪しい雰囲気を醸し出すことはあったし、歯磨きもしにくかった。その程度。その程度のことなのだが、妊娠すると麻酔が使えないという話は聞いたことがあった。そして、妊娠すると女性ホルモンの関係で歯のトラブルが起きやすいという話も聞いたことがあった。と、いうことは?

親知らず。嗚呼、親知らず。私は妊娠中、ちょっとした時限爆弾を咥えているような気分になっていた。どうか痛みませんように。どうか虫歯になりませんように。どうかどうか、親知らずが爆発しませんように。

それとは関係なく流産になってしまい、落ち込んだり落ち込まなかったりしている間に時は過ぎ、仕事もプライベートも平常運転に切り替わった。その頃、定期検診に行った歯医者で言われた。「親知らず、抜いた方がいいですよ。」そして私は陥落した。

でも怖い。親知らず怖い。かかりつけの歯医者は「神経と近いですからね、CTを撮ってしっかり診たいのですが、あいにくうちにCTはなくて」と言う。CTを取ってきたらうちでも抜けると言うが、いや待て。CTのない歯医者は親知らずの抜歯経験が少ないのではないか?

私は、医者の腕は経験に比例するという持論を持っている。探せば神の手を持つ医者もいるのかもしれない。名医もいるのかもしれないが、私がそれを探し出すことは不可能だ。だから、とにかく経験をたくさん積んでいる、かつあまり疲れていない医者が良い医者だと考えている。経験があればある程度は上手なはずだし、色々なケースを見てきていれば、何かあっても判断がしやすいはずだ。というわけで、親知らずの抜歯に秀でた歯医者を探した。親知らずを抜くというのは手術の域に入るのだそうで、それを専門にしているのは口腔外科というところだ、という情報を手に入れた。家の近くの口腔外科を探し、そのホームページを熟読し、親知らずをほぼ毎日抜いているらしき歯医者に狙いを定めた。さぁここだ。思い立ったが吉日だ。私は歯を抜くぞ。待ってろ親知らず。

さっそく口の中を見てもらい、CTを撮り、神経と近いですけど繋がってはないので痺れは出ないはずですよ、と言われ一安心。とは言えさすが親知らずを何本も抜いているだけあって、予後がどうなると予想されるか、という話をたくさん聞かせてくれた。痛いのか、そうか、怖いなぁ。だから思う存分台湾旅行を楽しんだ後の日に、私は親知らずを抜くことにした。

そんなことを菩薩(夫)に話すと、親知らずを抜いたことのある彼はこう言った。「親知らず、痛いよ。抜いた当日なんて熱がでちゃって。どん兵衛しか食べられないし、ロキソニンが手放せないよ。」うげ、何それ怖い。そんなのやだ。別の友人は「親知らず抜いたら、もう口の中にキャンディーがあるみたいに腫れるの。痛いよぉ」やだやだ、そんな話聞きたくない怖い。極めつけに父は「頬が腫れて何するにも辛かった」知ってる、見てた。そんなの思い出させないで。

話す人話す人全員に脅されながら、抜歯当日。麻酔のせいなのか緊張のせいなのか、やたらと動機がした。判決を受ける無実の被疑者はこんな気持ちなのかもしれない。ただ、神経に近いと言われながらも、何のかんのと10分ぐらいで処置が終わってしまった。思った以上に全く痛みがなく、拍子抜けしてしまった。「痛みの期間は人によって違うけど2日~2週間で治まりますからね。」という歯医者の言葉が頼もしい。ちくしょう周りの奴らめ、散々脅しやがって。痛みなんて2日で治してやる。気合だ気合。

当日、麻酔が切れた後は確かに痛かったが、思ったよりも痛くなかった。もっとのた打ち回るような痛みかと思っていた。ふふ、これしきのことで熱を出すとは、菩薩の何と軟弱なことか。一応のロキソニンを飲んで、余裕しゃくしゃくで1日を終えた。

 

のだが、次の日、私の頬がパンパンに腫れた。親知らずを抜いた右側だけが、ぷくーっと膨らんで、クレヨンしんちゃんを思わせる輪郭に変貌を遂げた。痛い。痛すぎる。ロキソニンを飲めば少しはマシだが、触ると激痛が走る。そして膨らんだ頬が妙に重い。頬に重力を感じたのは人生で初めてだ。とても右頬を下にしては眠れないので、左を向いて寝ることになった。ロキソニンのせいか、昨日の麻酔のせいか、手術のせいか、抜いた親知らずの怨念か、1日ぐったりしていた。痛い。重い。だるい。そして何より、食べられない。腹は減る。口は開かない。そもそも噛むのが痛くて辛すぎる。ロキソニンを飲むには何かを食べないといけないのに、痛くて何も食べられない。仕方がないので食べずにロキソニンを飲む。ごめん私の胃袋。歯が痛くなくなったらちゃんと労わるから許して。痛みがマシになったタイミングで、柔らかいうどんを流し込む。普段から食べるのが遅いのに、いつもの3倍は時間がかかる。そのうちに食べるのに疲れてしまって、空腹のまま諦める。この激痛、いつになったら治まるんだ?明日?明日かな。まぁ、最近食べ過ぎで体重増えたの気になってたんだよなーいいダイエットになってるよーと自分を慰める。私は基本的に前向きな人間なので、本当にダイエットしている気分になって満足した。そんな私を見て、かわいそうかわいそうと言いながら菩薩が私の写真を何枚も撮っていた。仕方がないのでとびきりの笑顔でピースを返したが、撮れたのは眉毛をハの字にしたクレヨンしんちゃんだった。こんなはずでは。

3日経っても4日経っても頬は腫れ痛みが続いた。私のクレヨンしんちゃん化はとどまるところを知らない。歯医者に追加の痛み止めを貰い、膿んではいないから耐えろと激励を受ける。痛い。だるい。頬が熱い。食べられない。処置当日に何を思ったか作っておいた野菜スープで耐え忍んだ。くたくたに煮たキャベツと玉ねぎの癒し効果は半端じゃない。そして麺。とにかく麺。特にうどん。ありがとう小麦。

5日目。唐突に腫れが引く感覚がやってきた。朝、菩薩に腫れが引いたと訴えたところ、「うーん?言われてみれば?」と言われたが、頬が軽くなっているのがわかった。夜になってまた腫れが引いたと菩薩に訴えたところ「本当だ」と納得していた。相変わらず痛みはロキソニンで鎮圧しているものの、頬を触ると痛みがある。けれど頬の熱は引いて、麺以外の物でも食べられる気がしてきた。でも、唐揚げを食べたら痛かった。私は加減というものを知らない。

6日目、7日目と経過すると、頬のふくらみはなくなり、親知らずがあったところの歯ぐきだけがぼこっと腫れている状態にまで落ち着いた。友人が言っていた「口の中にキャンディーがあるみたいに腫れる」というのはこれか!とかなり感動した。こんなもの、大したことないじゃないか。相変わらず痛くて、朝は歯の静かな痛みで目が覚めるが、ロキソニンを飲んでしまえばこっちのものだ。にしてもロキソニン、凄い。何が入っているんだろう。

とはいえ、8日目になれば歯医者にもらったロキソニンも底をつき、もらいに行くついでに抜糸をしてもらった。「膿んではないし、状態も悪くはないから、そろそろ痛みもなくなるはずなんだけど」と言う歯医者の言葉に、素直な私は頷く。オッケー任せて。ロキソニンさえいれば、きっと私は大丈夫。副作用で口がえらく乾くけど、きっと私は大丈夫。

そんなわけで、今日で10日目になった。まだロキソニンがないと痛い。いつになったら痛みが引くのだろう。歯の痛みは全てのやる気を削ぐ、ということが、今回の教訓だ。ブログを書く気なんて一気にそがれてしまったし、仕事も絶対にやらないといけないもの以外は全く手につかなかった。もうじき引っ越しなのに、引っ越し作業なんて全くしていない。

ちなみに、抜歯をする前に私を散々脅した菩薩は「自分が親知らずを抜いた時より明らかに酷い…」とたいそう慰めてくれた。私の様子を見た友人たちも「そんなに腫れる人初めて見た」とたいそう慰めてくれた。みんな私ぐらい苦しんだから脅したんじゃなかったのか!と少し腹が立ったのはここだけの話だ。

歯医者の予言では、最長で痛みは2週間続くらしい。2週間まであと4日。辛いは辛いが、薬を飲めば治まる痛みなので大して苦しくはない。痛みがなくなるのが楽しみだ。痛みがなくなったら何を食べようかと今からわくわくしている。

 

ただ、もう一本の親知らずをいつ抜くか。

私にはもう勇気が残っていない。

オーディブルで聞く「90歳、なにがめでたい」

最近、オーディブルというアプリにはまっている。

私は読書好きだが、最近は本を読むのがほとほと面倒に感じるようになってしまった。とにかく、本を開くのが面倒くさい。字を目で追うのが面倒くさい。そして何より面倒なのが、一度本を開いてその中に旅立ってしまうと、読み終わるまで私の意識が本の中から帰って来なくなることだ。本を読み始めると、特に小説を読み始めると、私の意識は完全に現世から離れてしまう。本の世界の中をフワフワ漂って、続きは何だ、あのセリフの本当の意味はどうだ、あの主人公の行動の裏にはいったいどんな気持ちが、等々。想像が想像を呼んで、現世で起こるあれこれ、仕事とか家事とかその他の話が全く脳に届かなくなってしまう。ここから現世に帰ってくるのが大変で、本を読むのは面倒だと避けるようになってしまった。

でも、本を読みたい気持ちはある。あの没頭する感覚は、本の中の世界でふわふわ漂う感覚は好きなのだ。本は読むけれど、サッと現世に意識が返って来られるようにしたい。そんな私の願いを今一番手軽に叶えてくれるのが「オーディブル」だった。オーディブルは本を朗読した音声を聞けるサービスだ。オーディオブックと言われていて、車で移動することの多い欧米ではよく使われていると聞いたことがある。私も仕事場まで車で移動することが多いのだが、残念ながら運転は好きではない。ほとんど毎日運転して、驚くことにゴールド免許を持っているが、未だに車幅はつかめないし、器用に車線変更できない。オロオロして疲れてしまうし、その反面、運転はとても退屈だ。音楽ぐらいでは私の退屈は紛らわせないし、テレビを見るときっと何かをひいてしまう。それはいけない。そこで、オーディブルを聞いて、少しでも車移動を楽しくしようと思ったのが使い始めたキッカケだった。そしてそれは大成功。毎日移動中にあれを聞こう、これを聞こうと思うと運転は嫌ではないし、他の退屈なこと、例えば料理皿洗い片付け掃除洗濯物などなどをする際にも聞いて、読書をした気分になるととてもいい。そして何よりいいのは、耳から読書をすると、当たり前だが目はフリーになっていることだ。その目は現実世界のアレコレをしっかり見ている。すると、読書したあとに現世に戻って来やすいのだ。気持ちの切り替えが簡単。これが、私がオーディブルに感じた一番の魅力である。

最近、そんなオーディブルで「90歳なにがめでたい」という本を読んだ。数年前に大ヒットしたエッセイだったらしい。いつも小説ばかりではつまらないと、本当に軽い気持ちで選んだエッセイだったが、これがとびきり面白かった。もう、全編がおばあちゃんの愚痴なのだ。延々とおばあちゃんの愚痴が書き綴られている。ただ、やはりエッセイを書く人は愚痴の書き方も一流だ。しっかり愚痴を書いた後、しっかりオチをつけている。そのオチが面白くて、鬱陶しいはずの愚痴がキラキラと輝きだすのだからすごい。最後まで聞いて、あまりの軽快さにもう一度聞きたくなってしまった。あれは名作だ。

私の知り合いのおばあちゃんに、あんたは欲がないね、と言われたことがある。確かに私はあまり欲深い方ではない。特に欲しいものがたくさんあるわけでもないし、日常にはすっかり満足している。もっとお金が稼ぎたいとは思うが、そのために死に物狂いになるほどお金に困っているわけでもない。もっと贅沢がしたいと思うこともあるが、別に贅沢をしなくても満足してしまっているのも事実だ。最近は怒ることもないので、愚痴を言うこともほとんどない。

けれどそんな私も、思春期だった中学生の頃、ずっと何かに怒って反発していた。私の周りには嫌いなものばかりだった。とにかく、あの頃は世界の全てだったはずの学校というものが大嫌いだった。同級生が嫌い、先生が嫌い、部活が嫌い。毎朝同じ時間に家を出るのも嫌いだったし、挨拶運動とかいう謎の運動も嫌いだったし、校門に飾られている何かで賞を取ったらしい大菊も嫌いだったし、職員室の前の廊下に並んでいる動物の入ったゲージも嫌いだったし、突然クラスメイトとして迎えられたタヌキ(普段は中庭の檻の中で飼われていた)も嫌いだった。何故タヌキをクラスメイトという設定にしようと思ったのか、それ以前に中学校の中庭でなぜタヌキを買おうと思ったのか、今考えても謎である。

気に入らないものに1日の大半の時間を吸い取られる、それこそ一番嫌いだった。 友だちなんて要らなかったし、何かにつけ目の敵にしてくる先生たちに気に入られたくもなかった。嫌だ嫌だいやだ。私のフラストレーションは、あの頃、表現という形で昇華されていた。 絵を描くのが面倒だから、という理由で、私は小説を書きなぐっていた。隙あれば話を考え、紙とペンがあればそこに文字を書きなぐった。今読めば拙すぎて、燃やしたいと思うような文章で、とにかく小説らしきものを延々と書き綴っていた。怒りのエネルギーを全部想像のエネルギーに変えて、憑りつかれたように文章をひねり出す。あの頃の禍々しい、マグマのようにお腹の底から湧き上がってくる黒いドロドロした力は、今ではすっかり感じなくなってしまった。それと比例するように、私は小説を書かなくなった。想像してまで逃げたいと思うような現実に対峙しなくても良くなった、ということなのかもしれない。

思春期、反抗期、というのは、あの黒い力のことを言うのだろうか。でも、「90歳なにがめでたい」の本からは、あの懐かしい禍々しいエネルギーを感じたのだ。あれは怒りのエネルギーなのか。怒りを忘れたから、今の私にはパワーがないのだろうか。怒りはエネルギーだ、と誰かが言っていた。私も少しは怒りを感じる状況に身を置くべきなのだろうか。私はもう怒りたくないし、イライラもしたくない。けれど、昔のようなドロドロした、喉の奥が焦げるような力はもう一度感じてみたいと思っている。

 

今週のお題「読書の秋」

30歳の曲がり角でぶち当たる壁

私は自他ともに認める気分屋だ。感情の起伏は大きくないが、気分の移り変わりが激しい。

気分が乗れば1日中でも同じことに飽きずに集中していられるし、気分が乗らなければ1分も集中できない。でももういい大人なので、気分が乗らないながらも頑張るときもある。でも、気分が乗っているときの効率の良さにはとても敵わない。

だから私は、せめて家で一人でいるときだけでも、自分の気分に合わせて行動をしている。

私は自営業で、仕事をするしないも、仕事や家事をする時間も概ね自由に決められる。だから気の向いたときに集中して仕事を終わらせてしまう日もあるし、仕事はほっぽり出してずっと料理をしている日もある。一部時間の融通が利かない仕事だけ、ちゃんと時間を守る。

これが一番、自分の能力を発揮できるのだと、そう思っていたのだけれど。

 

最近、新しい環境に飛び込むのが億劫になってきた。

私は気分屋で面倒くさがりなので、面倒くさがりが顔を出しただけだと最初は思っていた。でも違う。これは、老いだ。

20代の頃、私は体の調子が悪くて寝込んでばかりいた。持っている体力はいつも赤点滅で、1日中行動できる元気も自信もなかった。けれど、新しいことにチャレンジするのは好きだった。新しい学問、新しい仕事、そして新しい人間関係。心機一転、そこで何をするのか考えてワクワクしたものだ。ゼロに近い体力と余りある気力のアンバランスさが辛かった。

でも、迎えた30代。私の体力は20代と比べ物にならないぐらいしっかりした。旅行で歩き続けたって、その後バテることはあるけれど、全く寝込んでしまうなんてことはない。風邪だってあまり引かないし、あまりのだるさに一週間を布団で過ごすなんてこともなくなった。これぞ元気。周りと比べるとまだまだ弱いのかもしれない。でも、好きなことは何でもできるし、スポーツだってやる気になれば続けられる。

でも、気力がないのだ。

新しい仕事に挑戦するのが面倒になった。新しい本を読むのだって勇気がいるようになった。新しい人間関係は、もはやどうやって作るのかも忘れてしまった。唯一、新しい学問には興味があるが、それに時間を割くのが面倒になった。これは何だ。私の、あの湧き上がるチャレンジ精神と尽きない興味はどこにいったんだ。鬱病か?こんなにポジティブなのに?そんな話を非常勤職を転々としている友人にすると、彼女もぽつりと言った。私もそうなの。30歳になって、最近、新しい職場に行くのが嫌になってきて。一昨年ぐらいまで、何とも思わなかったし、むしろ楽しみなぐらいだったのに。そして二人して気づく。あ、これ、年齢が30を超えて、何かを曲がってしまったのかも、と。

お肌でも、体力でも、30を超えると衰えるという。私は真っ先に気力が衰えてしまったのかもしれない、と。

 

でもこれではダメだと思っている。やはり新しいことにはどんどん挑戦したいし、仕事も人間関係も本も映画も学問も、何だって楽しんで関わって、ワクワクし続けていたいじゃないか。そしてそのまま、何に対しても楽しい楽しいでも体が動かしにくいわぁ年かしらと笑って言って老いていきたいじゃないか。

ということで、気分で動くことを止めようと思う。そもそも面倒で気分が乗らない日が圧倒的に多いのだ。気分が乗った方が効率がいいが、気分を待っていたらいつまで経っても進捗はゼロである。このままでは私の給料もおいしいご飯も楽しい予定も全てゼロだ。これはいけない。

が、しかし。今まで気分で動いていたものを是正するのは大変だ。

私は自由に時間を使える。逆に言えば、誰も私に命令してくれない。あれやりなさい、これやりなさい、締め切りはこの日時まで。誰かが強制力を持って言ってくれたらどんなに楽だろう。それはそれで、きっと私には辛いのだろうが。

でも私は気分屋で、TODOリストを作ってみても、やることを大きな紙に書きだしてみても、アレクサに色々言ってもらっても、なんだかんだ理由をつけて、気分で動くことがやめられない。

精神的な老いとの戦いは、始まったばかりだ。

菩薩のスクリーニング

基本的に料理は私が担当しているが、週に1度くらいは旦那(菩薩)が料理を担当してくれることがある。

というより、そうなるように仕向けた。

菩薩は結婚するまでずっと実家暮らしだった。そんな人間にありがちなことだが、菩薩は料理ができない。包丁の握り方が危なっかしく、油を怖がる。そして料理が好きではない。料理にはとても時間がかかるのに、食べてしまうのは一瞬だから料理は空しい、と言う。早食いの菩薩らしい感性だと思う。

一方で私も実家暮らしから結婚したが、昔から休日に昼食を自分で料理する習慣があったことと、結婚を見据えてたまに料理の練習をすることがあったため、菩薩よりは料理ができる。とはいえ、私の料理スキルはパスタ作りに集約されていて、他の料理は未だにレシピがないと難しい。困ったものだ。

私が結婚して真っ先に考えたのは、料理のことだった。

現在の料理スキルだけでいえば、私が料理を担当するのが望ましいに決まっている。その上、菩薩と私では私の方が勤務時間の短い仕事をしている。その観点からも、私が料理を担当する方がいい。

が、しかし。

私が妊娠して悪阻が酷く料理ができなくなったら?

私がインフルエンザにかかって料理ができなくなったら?

私が入院して料理ができなくなったら?

毎日スーパーの惣菜?冷凍食品?外食?素敵な選択肢だが、毎日続くと飽きてしまうし、何より体調不良の時にスーパーのコロッケはあまり食べたくない。良ければ家でおかゆとか作ってほしい。そして私をいたわってほしい。

と考えると、菩薩は料理をしなくていいよ~私がやるよ~とは言わずに、菩薩の料理スキル向上のための策を練るべきではないのか、という結論に達した。そのための週一料理担当制度である。私の仕事時間が長い日かつ菩薩が早く帰ってくる日だけ、料理をお願いすることにしたのだ。

 だがしかし、いくら菩薩が慈悲の心と海のように深い愛情を持っていても、料理スキルがほぼゼロのアラサー男子に突然料理を要求するのは酷だろう。私なら5分で心折れる。そして惣菜に逃げる。

ということで、菩薩に料理を頼むときは、冷凍の魚を用意することにした。解凍してレンジに突っ込めば一品出来上がりである。このために結婚するとき、お高めの高性能レンジを購入した。本当にできる子で助かっている。

そしてみそ汁。具は、最初は切って冷凍してあるきのこ、塩漬けにした大根、乾燥ワカメなどなどを用意し、包丁を使わなくても作れるようにした。菩薩はみそ汁に一家言もっているようで、自ら率先してだしパックでだしをとり、味噌を溶かしてくれる。最初は包丁なしで作ってくれていたが、じきに具のバリエーションを増やしたくなったのか、玉ねぎやらじゃがいもやらを切って入れてくれるようになった。成長である。

あとは米を炊き、欲しければ冷蔵庫に入っている豆腐を小皿に取り分ければ夕食の完成。特別な献立を考えなくてもいいし、火加減で失敗することもない。調味済みの冷凍魚を買っているので味付けの失敗もない。やる気がなければ包丁を使う必要もない。我ながら完ぺきな策だと思う。

そんなことで、菩薩が夕食を作るときは「焼き魚+みそ汁」が定番となっている。1年以上続けているので、とうとう菩薩はみそ汁を抵抗なく作れるようになり、他の料理にも挑戦しようとするようになった。アッパレ。その調子。

 

そんな菩薩が、最近会社で料理の話をすることがあるらしい。基本的には男ばかりの職場らしいが、最近は女性の数も増えてきて、料理の話になることもあるそうだ。「僕、今日は料理当番なんです。」と菩薩が言えば、女性社員はほぼ全員、ちょっと固まった顔でこう言うそうだ。「え、料理、できるんですか?」確かに少し前までは全くできなかったが、そんなに料理出来なさそうに見えるのかと少し落ち込むらしい。正直、料理をしていそうな風貌ではないし、器用そうでもないので、そう思われても仕方がないとは思う。

「結婚してからするようになって」と菩薩は続ける。「とは言っても、冷凍の魚をレンジに突っ込んで、みそ汁作るだけなんで、料理と言えるかどうか。」そこまで言うと女性社員、特に子供を持っているお母さん社員は食い気味にこう言うらしい。「それは立派な料理です。いいですね。すごいですね。」それを聞いて菩薩の料理テンションは上がるらしい。その調子です女性社員のみなさん彼を褒めちぎってください。

男性社員に同じように「今日は料理当番なんです」と言うと、大体が「へー」とか「マメだね」とか「奥さんは?」とかいう反応らしい。

きっと料理をよくする人は、魚焼くとかみそ汁作るとかの面倒くささをよくわかってるんじゃないかな、と菩薩は言う。だからきっと褒めてくれるんだよ。この話に食いつく人は料理スキルが高くて、あまり興味を示さない人は料理スキルが低いのかもね。ここまで話して、関西人である彼はしっかりとこう付け加える。「知らんけど。」

 

つい最近、年上の男性と話をする機会があったとき、たまたま菩薩の料理担当の日だったため、話の流れで「今日は僕、料理当番なんです」と言ったらしい。「君、料理なんてするの?」「はい、と言っても、魚をレンジに突っ込んで、みそ汁作るぐらいですよ」ここまではいつもの流れだが、それを聞いた男性の反応に菩薩は驚いたらしい。彼は

「それは料理とは言わないよ」

と笑ったそうだ。

その日家に帰ってきた菩薩は、その話を私にした後、ちょっと考えるような顔をして言った。「あの人、料理してないよ、絶対。」それは私もそう思った。きっと料理をしている人は、焼き魚とみそ汁を用意することの偉大さを理解していると思う。「それ言っちゃダメだよね、アレ絶対、奥さんとケンカになるやつ」ケンカだけで済めばいいけどな。「言ったら奥さん怒るよね、ホント、世の中のお母さんが怒る理由、ちょっとわかった気がした。ダメだよ、せめて労わないと」

焼き魚とみそ汁、いつも作ってくれてありがとう。

そう言うと、菩薩は笑って言った。「ちゃんとした料理はしてないよ」

運動嫌いがやるべき運動と、運動嫌いが毎日運動するための苦肉の策

基本的に体力ナシ子である私は、運動が大嫌いである。

とはいえ、冬になればスノーボードを楽しむし、地味にダイビング免許も持っている。水深40メートルまでなら潜ることができる(あまり潜ったことはないけど)。

でも、それだけだ。非日常でのスポーツは楽しんでやっても、日常のスポーツは楽しんでできない。ストレッチも筋トレもジョギングもウォーキングもスポーツジムも続かない。面倒ですぐにやめてしまう。

けれど運動しないと体力がつかないことも重々承知している。

体力はほしい。

でも運動はしたくない。

これぞジレンマである。

 

先日、マッサージへ行ってきた。

運動嫌いあるあるだと思っているのだが、運動嫌いはマジで運動しないため、体ががちがちになりがちである。ソースは私。体、ガッチガチ。大変辛いので、たまにマッサージ屋さんに足が向いてしまう。

そこで担当してくれたマッサージ師のお兄さんにも言われてしまった。お姉さん、今いくつっすか。アラサーでこの体はまずいっす。これ、50歳のかたさっす。お姉さん、一体何をしたらこんなにかたくなるんっすか。私は正直に答える。特に何もしていないので、何もしていないのが原因だと思います。大きく頷くお兄さん。それはダメっすね。それはダメっす。

運動した方がいいっすよ。とお兄さんが言うので、基本的に真面目な私は聞き返す。運動って、何をしたらいいんですか。ストレッチですか。筋トレですか。両方とも既に何度もチャレンジして、1か月未満で挫折することを繰り返していることだけは言わずにおいた。するとお兄さんから意外な答えが返ってきた。

 

「ラジオ体操っすね。」

 

何でも色々な方向にあちこち体を動かすことがいいらしい。

それならできるかもしれない。

ついでにランニングを強く勧められたが、運動嫌いが走る気力を持っているはずもなく、うんうん、はいはい、いいかも、と軽く流してしまった。ごめんお兄さん。それはレベルが高すぎる。

家に帰って、早速ラジオ体操を毎日やる方法を考えてみた。基本的に私は面倒くさがりの気分屋、忘れっぽいの三拍子揃った愛されキャラである。この三拍子を克服するために、己の意志を当てにはしない。もう30年失敗し続けている方法を取るほど私はバカではない。私が面倒くさがらず、気分が乗らないからいいやと投げ出さず、忘れずにラジオ体操をする、意思を全く使わない方法とは何か。

とりあえず最近買ったばかりのアレクサを設定してみた。旦那(菩薩)がいってきますと家を出た5分後、突如としてラジオ体操が流れ出す設定にしてみた。これなら私は起きている確率も高いし、音声が流れれば体を動かすに違いない。

目論見は今のところ成功している。朝からラジオ体操をするのは案外気分がいい。何がいいって、体がガッチガチなので背中とか肩とか太ももとかふくらはぎとか、ありとあらゆるところが伸びに伸びて気持ちがいいのだ。もしかすると先日のマッサージより気持ちがいいかも。ごめんお兄さん。

とりあえずブログを書きなぐっていたら腰が張ってきたので、ラジオ体操でもしようかしら。アレクサ、ラジオ体操をかけて!

菩薩の頭の中

私の旦那様は菩薩である。

とにかく怒らない。イライラしない。心が広い。不満を言わない。

これほどまでに穏やかな人間がいるのだろうかと思うほど、穏やかである。

仕事場でも「この人を怒らせたら終わり」と言われているらしい。

 

その極意を聞いてみると、必ず

「人に期待しないから」

と返ってくる。

彼は人に期待しない。

例えば私で言うと、結婚した当初から私が家事をすることを期待していない。

だから私がひとたび掃除機をかければ女神と称賛し、料理を作れば結婚してよかったとしみじみ噛みしめ、洗濯物を干せば自分は幸せ者だとうっとりする。

この期待値の低さが素晴らしい。

私は掃除が嫌いで、特に掃除機を操るのが苦手だ。だからあまり掃除をしたくない。

逆に洗濯はそれなりに好きで、晴れた日は何かを干したくなる。

だから基本、掃除はしない。洗濯は毎日でもする。

このアンバランスなかんじでも、全く文句を言わない。むしろ「毎日洗濯をしてくれるなんて、君はなんて素晴らしいできた人間なんだ!」と称賛される。私は愛するより愛されたいし、叱られるより褒められたい。この期待値が続く限り、私はほぼ毎日褒めてもらえることが約束されているので満足である。

この調子で期待しないで頂けると助かるなぁと日々思っている。

期待なんぞ、自分で自分にいくらでもしているのだから、他人にされても疲れるだけである。

 

そういえば、と思って考えたことがある。私は彼に期待しているのか?

期待していることは多々ある気がする。これをしてほしい、ああなってほしい。

でも、それを不満という形で表に出すのは違うかな、と思っている。

私がちゃんと言わないからやっていないだけ、私が教えないからそうしているだけ。だから私の行動を変えたり、環境を変えたりしないと、と考えている気がする。

 

2人の間に、今のところケンカは勃発していない。

いつまで続くのか楽しみであり、怖くもある。

はじめまして。

数ヶ月前から、いや、下手したら1年前から、ブログを記してみたいなぁと夢想していた。

別に忙しいわけでもない、大した事件も起こらないだらりとした日常を過ごしているだけで、別に主張したいことがあるわけでも聞いてほしいことがあるわけでもない。

ただ何となく感じたことをそのまま言葉にして、Webの大海へ放ちたい。

 

このブログはそれ以上でも以下でもないブログ。

書き手は私、ぽんぽこぽんこ。お腹を叩くとぽんぽこ音がするので、ぽんぽこぽんこ。略してぽんこ。「私って愛されキャラだから」が口癖のアラサー女子。

菩薩のような旦那と日々いちゃいちゃして生活している。

 

書きたいテーマは特に考えていないので、思いついたときにそっと更新していくと思う。

どうぞよろしく。