☆★☆ぽんつかのF1名(迷)車列伝☆★☆

☆ぽんつかのF1(をはじめとする)ミニカーコレクションの紹介☆

ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・22

◆1994 マクラーレンプジョー MP4/9

※この記事は私の大いなる私感と偏見によって書かれており、ミハエル・シューマッハ
 に対する批判が含まれています。シューマッハファンの方はご注意ください。

私は大の『ハッキネンファン』である。
歴代のF1ドライバーで、好きなドライバー5人を挙げろと言われたら、
いや3人と言われても絶対に入る。 それくらい好きだった。
ちなみにあと4人を挙げると、アラン・プロストネルソン・ピケ
デーモン・ヒル、そしてティエリー・ブーツェンだ(統一性なし)。
ミカ・ハッキネンは、90年のF3マカオGPを観てファンになった。
当時、土曜(確か)の深夜に放送していた自動車情報番組『Motor Land 2』で、
レースのダイジェストを見た記憶がある。

彼は英国F3で無敵といって良い速さだった。
フィンランド人というところも惹かれた。次代のF1を担う有望株として
注目していた。だからマカオでも応援していた。しかし、
そんなハッキネンを撃墜し、のうのうとそのレースを優勝したのが
ミハエル・シューマッハだった。 シューマッハは最終ラップの長い直線、
自身を追い越しにかかったハッキネンに対し、執拗なブロックを展開。
挙句接触ハッキネンをリタイヤに追い込んだ。
コース中最高速を記録するストレートで、蛇行しての執拗なブロックに、
速度差のあったハッキネンはたまらず追突。ハッキネンだけがリタイヤし、
シューマッハはそのままトップでチェッカーを受けた。
シューマッハのレースというのは、彼のキャリアにおいて一貫して"そう"だった。
 のちのF1において『バトル中の走路変更は1回まで』という、ジグザグ走行を禁ずる
 スポーティングレギュレーションが導入されたが、その元凶はシューマッハである。

私の『ハッキネン好き』と『シューマッハ嫌い』はここから始まった。
同時に二人のライバルストーリーもここから始まった。
次代の『セナ・プロ』といった二人だった。
ハッキネンは1991年に自身のF1キャリアを開始させる。
91、92年を苦境のロータスで過ごしたハッキネンは、
93年いよいよ有力チーム・マクラーレンと契約する。しかし、当時マクラーレンには
アイルトン・セナがいた。セナを手放したくないマクラーレンと、
ホンダを失ってタイトルの見込みがないマクラーレンから出たいセナとの駆け引きは
シーズン終盤まで続き、そのおかげで、先にドライバー契約を結んだはずの
ハッキネンは、第12戦を最後にマイケル・アンドレッティが解雇されるまで、
セナのリザーブに甘んじた。

しかし、フォードHB-V8という非力なエンジンで戦っていたマクラーレン
初めて出走した第13戦ポルトガルで、
ハッキネンはいきなり予選5番手のタイムを叩き出す。
ハッキネンはとんでもなく速かったのだ。
苦境のロータスにあって2年間で7度の入賞を記録した実力を、
ようやく思う存分見せられる環境を得た。ファンや関係者はそう思った。

しかしその後4年間、マクラーレンは不遇の時代を送る。
前回紹介したランボルギーニ搭載計画が、すんでのところでご破算になった94年。
資金提供のない供給契約を嫌ったロン・デニスは、結果ランボを蹴り
プジョーエンジンを選択。当時ツーリングカーで最速だったプジョーに、
デニスは大いに期待していたようだ。しかしこの時のプジョーには、
重要なパーツが欠けていた。『優勝請負人』と言われたチーム監督の
ジャン・トッドが、93年を最後にプジョースポールを離脱していたのだ。
これがデニスの大きな誤算だった。
トッドが去ったプジョースポールは組織力が著しく低下しており、
出来上がったエンジンの信頼性は劇的に低く、毎戦毎戦火を噴きまくり
『ロケット』と揶揄された。

ちなみにJ.トッドはその後、フェラーリの監督となり、
シューマッハと共にフェラーリを常勝軍団に育てあげ、
現在はFIAの会長を務めるという傑物である。

結果マクラーレンは、プジョーとの契約を1年で解消。
その後はメルセデスと契約するも、マクラーレンが再びタイトル争いが
できるようになるまでには、あと4年かかる。
ハッキネンの、マクラーレンでの雌伏の4年間の始まりとなる、
94年のマシンがこれ。欧州のタバコ広告規制はミニカーにも及んでおり、
『Marlboro』のタバコロゴが入ったモデルは稀少である。


マクラーレン MP4/9

 デザイナー:ニール・オートレイ
       アンリ・デュラン
 エンジン:プジョー A4、A6 3.5L V10(フランス)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:マクラーレン/TAG製6速セミオートマ
 ドライバー 7:ミカ・ハッキネンフィンランド
         フィリップ・アリオー(フランス)
        ※第10戦のみドライブ
       8:マーティン・ブランドル(イギリス)

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・21

◆1993 マクラーレンランボルギーニ MP4/8B

1992年シーズンの終了を以て、ホンダがF1から撤退した。
88年から「最強」の称号を欲しいままにしてきた
マクラーレン、A.セナ、ホンダの蜜月は終焉を迎えた。
ホンダを失ったマクラーレンに、セナは将来の展望を見いだせなかった。
だからウィリアムズへの移籍を模索した。
そもそも90年の時点で、ホンダの優位性がもうそれほど大きくないことに
気がついていたセナは、フェラーリやウィリアムズへの移籍を画策していたのだった。

かたやマクラーレンも、簡単にセナを手放したくはなかった。
しかし、マクラーレンが最終的に93年のエンジン供給契約を結んだのはフォード。
セナを思い止まらせる、ホンダに代わるパワーのあるエンジンサプライヤーを、
ついにこの年見つけることは出来なかった。
しかも当時のフォードはベネトンとワークス契約を結んでおり、
マクラーレンはなんとかセナの要求に応えるため、ベネトンと同じエンジンを
マクラーレンにも供給するよう契約をとりつける。
しかし、フォードのワークスエンジンはV8。かつてマクラーレン
頂点を狙えるパワーを与えてきたV10やV12と比べると明らかに非力だ。
だからセナは、本当に93年の『マクラーレン・フォード』が戦えるマシンなのかを
確かめるため、開幕から1戦ごとのスポット契約を結んで走り続けるのだった。

結果信じられないことに、セナはこの非力なエンジンでシーズン5勝をあげるのだが、
その裏でとある計画が進んでいた。
それが『ランボルギーニエンジン』搭載の計画である。
結局これは、チームボスのロン・デニスが蹴ったため(プジョーと契約して大失敗)
実現しなかったが、実際に93年型のMP4/8にランボV12を積んで
エストリルでテストが行われた。その時のマシンがこれ。

当時マクラーレンリザーブドライバーだったM.ハッキネンが、
この『マクラーレンランボルギーニ』をテストしたときの話が、
なんとも私の妄想力を掻き立てた。ハッキネンいわく、
搭載されたランボV12はとんでもないパワーのエンジンだったらしい。
やや長くて重たかったためシャシーに調整を必要としたが、
エンジンはとてもトルクフルで、素晴らしいパワーを持っていたという。
テスト中、このエンジンがブローしたそうだ。とてつもない爆音を轟かせ
高速で走るマシンを追い越して、エンジンから放たれたパーツが吹っ飛んでいき、
フロアには穴が空いたらしい。セナも実際このクルマをドライブしており、
改善点を指摘した上で「合格」のお墨付きを与えていたという。

このパッケージングが実現していれば94年、
セナはマクラーレンに留まったのではないかと言われている。
結果93年を最後にマクラーレンと袂を分かったセナは、
翌年ウィリアムズのマシンで悲劇的な事故に見舞われ、
栄光の人生に突如幕を下ろすこととなる。
人生において「たられば」を語るのはナンセンスだが、
もしマクラーレン・ランボが実現し、94年もセナがマクラーレンに留まっていたら……
F1界の景色はまた、別のものになっていたのだろうか…

※ちなみにR.デニスがランボ搭載を蹴ったのは、ランボ側がエンジンを
無償供給するだけで、それ以外は一銭も出す気がなかったことが原因。
ホンダの「タニマチ気質」に慣れきったデニスには、受け入れ難かったか。
結果94年はプジョーと契約して痛い目を見ることになる。


マクラーレン MP4/8B

 デザイナー:ニール・オートレイ
 エンジン:ランボルギーニ 3512 3.5L V12(イタリア)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:マクラーレン製6速セミオートマ
 ドライバー 7:ミカ・ハッキネンフィンランド
       8:アイルトン・セナ(ブラジル)


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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・20

◆2012 ウィリアムズ・ルノー FW34

度々『名車烈伝』に登場するウィリアムズ・ルノー
今回は比較的最近(と言ってももう8年前汗汗)のマシンの紹介である。

80年代後半から90年代中盤、これはウィリアムズチームにおいて
最も輝いていた時代と言っていい。ドライバーズ王座は87、92、93、96、97年と5度、
コンストラクター王座には86、87、92、93、94、96、97年と実に7度輝いている。
80年代はホンダと、90年代は全てルノーと獲得したものだ。
しかし、97年を最後にルノーがワークス活動を撤退すると同時に、
ウィリアムズの強さは陰りを見せてゆく。

98、99年はルノーのカスタマーエンジンを「メカクローム」、
「スーパーテック」ブランドで使用するも、満足な成績は上げられず。
2000年から9年の長期契約を結んだBMWも、絶対的な速さを見せるに至らず
GP10勝にとどまる。また、チーム運営への介入を巡ってBMWとの関係が悪化し、
2005年には契約解消となる。その後はコスワーストヨタを経てまた
2012年にルノーエンジンを搭載するも、2000年代後半以降のウィリアムズは、
もうかつての「強さ」をすっかり失っていた。

2004年以来勝利から遠ざかっていたウィリアムズ、
ベネズエラ人のパストル・マルドナードと、アイルトン・セナの甥っ子の
ブルーノ・セナのラインナップで2012年の開幕を迎えたが、
この頃のウィリアムズは下位グループ。この年もさしたる活躍は見せていなかった。
しかし、この年第5戦スペインで突如速さを見せる。
なんとマルドナドが予選でPPを獲得、
レースでも優勝しまさかのポールトゥウィンを達成するのだ。

正直申し上げて、なぜこのスペインだけウィリアムズが速かったのかは判らない。
全く判らない。正直まっっったく判らないのだ(くどい笑笑)。
スペインGP以外のウィリアムズのパフォーマンスは、完全に下位チームのそれ
以外の何ものでもなかった。ただ、このFW34とカタルーニャサーキットの何かが
奇跡的にハマったのだろう、としか言いようがない汗汗


この年ウィリアムズが速かったのは、このスペインGPのしかもマルドナード車だけで
シーズンを通して見れば、12コンストラクター中8位と
下位グループであることに変わりはなかった。
しかし、前年から強かった頃の「ロスマンズカラー」に酷似したカラーリングを
マシンに施していたウィリアムズ、一時的にとは言え「ウィリアムズ復活」を
期待させる勝利に、ファンや関係者は大いに湧いたのである。
まぁその後の展開は、現在のF1ファン諸氏にはご存知の通りであるが…。

ちなみにこの年、エースのマルドナードは1勝したものの20戦中入賞はわずか5回、
セカンドシートに座ったブルーノが10回の入賞と、ポイントでは優勝分
マルドナードが上回るも、入賞回数はブルーノの方が多かった。

一方マシンとしては実は画期的な試みを採用しており、
決して見るべきところのないマシンではない。
まずエンジンを前年のコスワースからコンパクトなルノーへ変更したことで
ラジエターを小型化でき空力面の向上につながった。
また、超小型かつ究極的に高さを抑えたギアボックスが話題となった
前年のFW33のコンセプトを継承したこのマシン、FW33同様マシン後部は
ありえないほど低い位置まで絞り込まれている。
そして、FW33では通常ギアボックスケーシングの上に接続するリアサスペンションの
アッパーアームを、リアウィングの支柱に接続していたが、
このFW34では支柱そのものを撤廃し、ギアボックス上の突起が
ウィングステーとサスペンションマウントを兼ねる方式に変更されている。
このように苦しいながらもチームは、
速さを取り戻すための試行錯誤を怠ってはいなかった。

苦境にありながらも新しい試みに挑み続けていたウィリアムズだが、
結局その後は大きな改善は見られず。チームはドリルトン・キャピタルという
投資会社が買収し、2020年9月についに創業者一族の手を離れることになる。
そんなウィリアムズのF1での最後の勝利がこの2012年である。
ウィリアムズがかつての栄光を取り戻す日は果たして来るのだろうか・・・


◇ウィリアムズ FW34
 デザイナー:マイク・コフラン
       マーク・ギラン
       ジェイソン・サマービル
 エンジン:ルノー RS27-2012 2.4L V8(フランス)
 タイヤ:ピレリ(イタリア)
 燃料:トタル(フランス)
 ミッション:ウィリアムズ製7速セミオートマ
 ドライバー 18:パストル・マルドナードベネズエラ
       19:ブルーノ・セナ(ブラジル)

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・19

◆1991 ティレル・ホンダ 020

中嶋悟は、日本におけるF1開拓者である。
1987年に日本人として初めてF1にフルタイム参戦し、
以降5年間ほぼ欠場することなく出走(90年ポルトガルGPを唯一体調不良で欠場)。
入賞10回、最高位4位1回、ファステストラップ1回を記録。
ホンダの後押しを受け、日本人の期待を一身に背負い先駆者として闘い続けた。
91年、38歳を迎えた中嶋悟は、前年アイルトン・セナマクラーレンで王者に輝いた
チャンピオンエンジンを得て、ティレル・ホンダの中嶋悟としてシーズンを戦った。
前年、後輩の鈴木亜久里に表彰台登壇で先を越された中嶋悟は91年、
2年ぶりにホンダエンジンを背負い並々ならぬ決意でシーズンに臨んでいた。

91年のティレルのマシン020は、前年のチャンピオンエンジンに改良を加えた、
ホンダRA-101Eを搭載。前年、F1界に衝撃を与えたハイノーズ、
アンヘドラルウィングを継承したマシンは、当然ながら
大きなジャンプアップを期待されて開幕戦からデビューした。
開幕戦は中嶋、No.2のステファノ・モデナ共に入賞と絶好の滑り出し。
※モデナ4位、中嶋5位、そして6位には鈴木亜久里が入賞した。
特にモデナは第4戦モナコで予選2番手を獲得(決勝はリタイヤ)、
続く第5戦カナダでは2位表彰台と好走を見せる。
しかし第6戦以降ティレルは、全くと言っていいほど上位に絡めなくなる。

一説にはシャシーとエンジンのバランスが悪かったとか、
シャシーの設計思想が既に古かったとか(フロントノーズ以外)、
中盤からのマシンアップデートが追いついていなかったとか、
様々な見解があるが、実際のところマシン開発がシーズン中に止まってしまって
いたのは事実らしい。さらに、この年目立ったのがピレリタイヤ勢の苦戦で、
グリップもさることながら耐久性の乏しさも、低調なパフォーマンスの
大きな一要因だったのは言うまでもない。
※不調の要因として関係者は一様にホンダV10の「重さ」をあげている。020は
 そもそもフォードV8搭載を想定してデザインされており、デザイナーの
 ポストレスウェイトも監督のケン・ティレルに「91年もフォードにしてほしい」
 と訴えていたという。
※また、監督のケン・ティレルが020への投資を望まなかったという証言も
 関係者の間では多数ある。開発が進まなかったのはそのせいで、さらに当時
 マクラーレンと提携したマネジメント契約では思いのほかスポンサーが集まらず
 徐々に資金も枯渇していったようた。
※ケンの息子ボブ・ティレルは、マーケティングのためにタイヤをピレリ
 スイッチしたのは完全に失敗だったとも述べている。

マシンパフォーマンスの低調さもあり、己の限界を悟った38歳の中嶋は、
第9戦ドイツでこの年限りでのレーシングドライバーとしての引退を発表。
その後も低調なパフォーマンスに終始しながら第15戦日本GPを迎える。
ホンダも中嶋の為に『鈴鹿スペシャル』エンジンを用意するが、
レース途中ステアリングシャフトの破損からS字を直進。
満場の観衆が見つめる中タイヤバリアに突っ込みリタイヤとなる。
終戦オーストラリアは、自身がファステストラップを記録し4位入賞した
89年と同じ、豪雨のアデレード市街地。誰もが『雨の中嶋』の再現を期待したが、
結果は1コーナーで左リアタイヤを縁石に引っ掛けスピン、リタイヤとなる。

有終の美を飾れなかった中嶋だが、最後のインタビューには
「僕らしくて、いいんじゃない?」と涙声で、それでも笑顔で語り、
濃密すぎた5年間のF1キャリアに終止符を打ったのだった。

ホンダパワーを活かせなかったティレルは、
この年獲得したスポンサーの多くを、ホンダと共に1年で失い、
慢性的な財政難に陥ってゆく。
結果この020は、改良を加えて93年中盤までの2年半使われた。
93年には片山右京がドライブ(020C)。2年の時を越えて、
2人の日本人がドライブした、日本にゆかりの深いF1マシンである。

ちなみにこのモデルは『1991年 日本GPバージョン』と銘打たれている。

ティレル 020
 デザイナー:ハーベイ・ポストレスウェイト
       ジョージ・ライトン
 エンジン:ホンダ RA101-E 3.5L V10(日本)
 タイヤ:ピレリ(イタリア)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:ヒューランド製6速MT
 ドライバー 3:中嶋 悟(日本)
       4:ステファノ・モデナ(イタリア)

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・18

◆1999 B.A.R.・スーパーテック BAR-01

今回の名車烈伝は1999年、世紀末のF1界の話題を
いっとき独占したチームのお話。それがこのBARこと
ブリティッシュアメリカン・レーシングだ。

この国籍不明なネーミングのチームは、1999年?2005年までの6年という
短い間F1界に存在していた。チーム名のブリティッシュアメリカン云々というのは
このチームのメインスポンサーから来ている。英国に本社をおく
ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(以後BATと記載する)が資金提供しており、
クレイグ・ポロックという実業家が資金難で喘いでいたティレル
買収することで誕生した。

この計画には95年のCART王者にして97年のF1王者ジャック・ヴィルヌーブが
深く関わっており、CART時代にヴィルヌーブのマネージャーだったポロック
チームを立ち上げ、レイナードが設計したシャシーをヴィルヌーブがドライブする、
というビジョンに基づき計画が進められた。
そして発表されたのがこのBAR-01である。
ちなみにこのカラーリングは、一悶着ののち変更が加えられたバージョンなのだが、
このカラーリングがシーズン開幕前に発生した悶着の原因となっていた。
 
BARは最初の新車発表会で2種類のカラーリングのマシンを発表した。
BATの異なるタバコブランドである「Lucky Strike」(LS)と
「State Express 555」(555)のカラーリングをそれぞれに纏わせ、
LSカラーをヴィルヌーブ、555カラーをNo.2のリカルド・ゾンタのマシンとして
走らせるという計画だったのだ。同じチームで違うカラーリングのクルマを
走らせることはCARTでは一般的な広告方法だが、同じチームのマシンは
同じカラーリングでなければいけないF1は、これを認めなかった。

その結果がこの写真である。BARはマシンの右半分を「555」、
左半分を「LS」カラーに塗り分け、ノーズの真ん中にファスナーを描いたのだ。
なんとも粋なセンスではないか。当時、チーム内で違うカラーリングのクルマが
走ることにワクワクしながら、FIAがこれを認めずにガッカリした私も、
このカラーリングを見て「ふふっ」となった記憶がある。

この頃はレギュレーションの締め付けが厳しく、F1マシンの形がどのチームも
似たり寄ったりになり、各チームの特徴をカラーリングにしか見いだせない
時代だったため、このカラーリングは大いに話題をさらった。
また資金力豊富な新規参入チームに、チャンピオンのヴィルヌーブが加入し、
長い間F1参入を望まれていたレイナードの参入も実現、期待感は非常に大きかった。
しかし、参入したカテゴリでは必ず優勝してきたという「デビューウィン伝説」を
もつレイナードも、量販ベースのシャシーメーカーとしての実績はF1では
通用しなかった。F1の開発ペースにについて行けず、大苦戦を強いられたのだ。
ルノーベースのスーパーテックエンジンも技術革新の速度が速いF1ではすでに
戦闘力を失っていた。ルノーは90年代前半を席捲した最強エンジンだったが
は97年を最後にルノーはワークスとしてはF1から撤退。
その後『スーパーテック』や『メカクローム』などのバッジで
カスタマーエンジンだけがF1に残ったものの、
もはや「最強エンジン」の面影はそこにはなかったのである。
結果、初年度は1ポイントも獲得できずにランキング最下位に終わる。

チームは翌年、F1における第3期活動を開始したホンダとジョイント。
ホンダと共に試行錯誤するも、思うような結果は残せず。
その後は欧州でのタバコ広告規制の強化に伴い、BATがホンダに株式を売却。
ホンダの完全ワークスチームとなり、BARはわずか6年で消滅する。
また、マシン製作を請け負っていたレイナードは、2002年シーズン開幕前に
資金難で倒産した。

ちなみにチームが辿った変遷を振り返ると、
ティレル → BAR → ホンダ → ブラウンGP → メルセデス 
ということで、なんとBARは巡り巡って現在、F1界最強のチームに姿を変えている。
当時苦労したBARの関係者も、これで少しは報われているのだろうか?
いや、ないな……

◇ブリティッシュアメリカン・レーシング BAR 01
 デザイナー:エイドリアン・レイナード
       マルコム・オスラー
       ウィレム・トート
 エンジン:スーパーテック FB01 3.0L V10(フランス)
      ※ルノーカスタマー
 タイヤ:ブリヂストン(日本)
 燃料:エルフ(フランス)
 ミッション:BAR/X-trac製6速シーケンシャル式セミオートマ
 ドライバー 22:ジャック・ヴィルヌーヴ(カナダ)
       23:リカルド・ゾンタ(ブラジル)
          ミカ・サロ(フィンランド
          ※第3~5戦をドライブ

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・17

◆1991 モデナ・ランボルギーニ 291

80年代後半から90年代前半まで、F1は新規参入ラッシュが続いた。
F1を志す新参チームが、下位カテゴリの名門やらイタリアの新興勢力やら
ジャパンマネーの台頭やら… とにかく有象無象が湧いては消えるを繰り返す
チーム乱立時代。あのスーパーカーブランドがついに1991年、
コンストラクターとしてF1に参戦した。それがこのモデナ・ランボルギーニだ。

このチームは立ち上げの時点ですでに、「いわく」がついていた。
フェルナンド・ゴンザレス・ルナというメキシコ人実業家が
立ち上げた『グラス』というチームに、ランボルギーニが全面協力して
F1へ参戦するのがもともとの計画だったが、1991年のF1へのエントリーも完了し
マシンのシェイクダウンも済んだ90年7月にルナが資金を持ち逃げし失踪。
設立直後に倒産寸前の危機に見舞われたチームを存続させるため
チームの本拠地をランボルギーニがイタリア、モデナに移して参戦支援をする、
という形で誕生したのがこのモデナ・ランボだ。
ランボルギーニは、当時のレギュレーションにあった
「正式エントリー後のレース欠場による多額の罰金」を避けるために、
イタリア人資産家のカルロ・パトルッコと組んでチームを存続させ、
91年開幕直前には日本の土井産業が資本参加し、チームとしての体を保ったのだ。
※サイドポンツーンについた『Central Park』が土井産業のブランド。
 この年はほかにもラルースチームもサポートした。 

賢明なF1ファンであれば、参戦までの事情を知った段階で、
このプロジェクトが長続きしないであろうことは容易に想像がついたはずだ。
事実このチームは91年のみで撤退、ランボルギーニのF1活動史に
なんとも言えない汚点を残すものとなった。

ドライバーのニコラ・ラリーニとエリック・ヴァン・デ・ポールは、
ひとまず全16戦に出走、しかしラリーニは完走3回の他リタイア2回、
その他の11戦は予選もしくは予備予選落ち。
V.D.ポールは第3戦サンマリノの9位完走以外は、
全て予選及び予備予選落ちという惨憺たる結果に終わっている。

参戦にこぎつけるまでのすったもんだに加え、経験不足感の否めない
ドライバーラインナップ、そして開発体制のずさんさと、突っ込みどころしかない
チーム体制は、同年F1デビューで13ポイントを獲得したもう1つの新参チーム
『ジョーダン』との明暗をくっきりと分けた。
むしろこのチームが、1年通して全16戦を戦い切ったことが驚きだった。

以下は、91年のフジTVオフィシャルF1ハンドブックに書かれた、
森脇基恭氏のマシン診断の解説文だ。↓↓↓

「このマシンは実際に間近で見たことがあるが、ひどい作りだ。
まず、各部分の出来が非常に悪い。まるで素人が作ったのではないかという
感じさえする。普通はF1チームがマシンを作る場合、見た目の良さということを
考えるはず。もちろん性能面の充実は言うまでもないが、遅いマシンでも
見た目だけはキレイにしようとするものだ。特にイタリアのチームは。
ところがモデナのマシンは、そういったところがまったく見られない。
ウイングの材質やフィニッシュもひどいし、コックピットもきたないし、
見ていて悲しくなる。」 -原文ママ

……ボロクソである。他にも「ネガティブな要素が多い」、
「全部設計し直した方がいい」など容赦ない辛辣な評価のコメントが並ぶ。

結果的に、前年そこそこ活躍したランボルギーニエンジンを搭載しての
前述のリザルトが、森脇さんのコメントの正しさを示している。
マシンをデザインしたのはフェラーリでも活躍したマウロ・フォルギエリだったが、
フォルギエリはどちらかというと『エンジン屋』で、マシンデザインに関しては
もう当時のトレンドを知る者ではなかった。

参戦までのすったもんだ、資金もなく、ドライバーも経験不足、
エンジニアも適材適所がなされなかった結果、世界に冠たるスーパーカーブランドが
産み落としてしまった『稀代の駄馬』、それがモデナ・ランボルギーニ291である。

◇モデナ・ランボ 291
 デザイナー:マウロ・フォルギエリ
 エンジン:ランボルギーニ L3512 3.5L V12(イタリア)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:アジップ(イタリア)
 ミッション:6速MT
 ドライバー 34:ニコラ・ラリーニ(イタリア)
       35:エリック・ヴァン・デ・ポール(ベルギー)

 

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・16

◆1991 フットワーク・アロウズ・ ポルシェ FA12

これぞ、当時のF1を知る者のおそらく9割以上が失笑を禁じ得ない迷車(笑)。
伝説の『フットワーク・ポルシェFA12』であるwww

1990年、2月に急遽誕生した日本系チーム『フットワーク』。
当時はジャパンマネーが大挙してF1に参入していた時代。
1978に当時の新進気鋭のエンジニア有志で結成されたコンストラクター
アロウズ』を、日本の運送屋である『フットワーク』が買収。
『フットワーク・アロウズ』が誕生する。
それと同時に翌91年からはポルシェエンジンを使用することも発表。
F1におけるポルシェといえば、ターボ全盛期の80年代中頃、
マクラーレンとのタッグでGPを席巻したエンジンだ。
我々日本のファンのみならず、関係者の間で期待は高まっていた。

しかし!! 翌年91年の開幕前テストでその期待はため息に変わる。
まるで単純にV6を二つ繋いだだけなのではないかと思わせるほど
長くて太くて重くてバカでかいビジュアルを持つポルシェV12は、
そのビジュアルに違わず劇的に遅かった。
いかにマルチシリンダートレンド時代とはいえ、あまりのビジュアルに、
ポルシェはF1をナメているのではないか?というジャーナリストもいたほど。
※参考までに紹介すると、当時のフェラーリV12の重量が308ポンドなのに対し、
 ポルシェV12は418ポンドあったと言われている。
※ちなみにkg換算で308£=139.7Kg 418£=189.6Kg。ポルシェがいかに重たかった
 かがわかる数字だ・・・(£=ポンド)。

マシンもマシンで、アラン・ジェンキンスという変人がデザインしたこのクルマ、
今後30年のトレンドになるハイノーズを採用したは良いものの、
フロントウィングのステーを1本にしたものだから強度不足でテスト走行中に
ウィングが脱落するトラブルが続発。窮余の策としてノーズの上面から
ワイヤーを垂らしてウイングを固定するという始末。
他にも、走行中にフロアからギアボックスが脱落し、
大クラッシュを喫するなどトラブルが多発。
※アラン・ジェンキンスはその筋ではある意味有名なデザイナーww ペンスキー
 インディカーシャシーデザインに携わった経験を持ち、F1界には10年以上も
 居座ったものの、代表作を呼べるような実績をあげたマシンはなく、鈴木亜久里
 に酷評されている。そのエピソードはまた別の回でwww

おおよそ戦闘力というものを持たないこのマシンは、
シーズン序盤でポルシェと契約を破棄し、結局はフォードDFR-V8に載せ替えて
シーズンを戦いノーポイントに終わるという散々な結果に終わった。
そんな欠陥マシンを、レギュラードライバーのアレックス・カフィの代役で
ドライヴしたステファン・ヨハンソンがこのミニカーのドライバー。
スウェーデン人のヨハンソンは実力派で、85、86年には『跳ね馬』フェラーリ
ステアリングを握った程評価は高かった。しかし、この頃のフェラーリ
お約束の低迷期にあったこと、そしてそののちプロストのチームメイトとして
マクラーレンをドライブした87年が振るわず、その後は中堅以下のチームに
スポット参戦する程度のドライバーに落ち着いてしまう。
この年カフィの代役として2戦だけステアリングを握るも、第5戦カナダはリタイヤ、
第6戦メキシコは予選落ちに終わっている。

バブル真っ只中にあった日本の大口パトロン、名のあるエンジンビルダー、
実力のあるドライバーが集まったとて、決してうまくいくものではないのがF1、
そんな教訓のみを強烈に残していったマシンがコレ。
『F1とはかくも難しいもの』なのである。。。

◇フットワーク FA12 
 デザイナー:アラン・ジェンキンス
 エンジン:ポルシェ 3512 3.5L V12(ドイツ)
      ※第7戦よりフォード DFR 3.5L V8(アメリカ)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:ヒューランド製6速MT
 ドライバー  9:ミケーレ・アルボレート(イタリア)
       10:アレックス・カフィ(イタリア)
          ステファン・ヨハンソンスウェーデン
          ※第5、6戦をドライブ

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