雨降りて 土肥ゆる。

つらつらうらうら。揺蕩う日々の虚ろな記憶の溜池。重い腰が上がらない。

民主主義の瓦解でお先真っ暗なら好きな事だけとりあえずやればいい。

だいぶお久しぶりです、かぢつです。

もう前回の記事から1年以上経っておりますね。いたってマイペース更新。すいません。

書きたい事はいろいろあるんですけどね。きちんと文章に起こそうとするとそれなりの労力が必要で...っていう言い訳。

先日、淡路町の居酒屋「みますや」で父と飲んできました。

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創業は明治38年の由緒ある、きたなしゅらんで3星取れそうなこのお店。フロアはほぼほぼ外国人の方がスタッフでしたが、18時を過ぎると仕事始まり初日にも関わらず、サラリーマンでいっぱいでした。ご飯も美味しかったですが、お酒も美味しかったー。やっぱり秋田のお酒が好き。特にあまーい、まんさくの花。日本酒は特に久々に飲むと、美味しいですよね。ちなみに最近知った、奈良の風の森も結構好きです。

ちょっと前から、ほぼほぼ病人の巣窟となってしまっている実家。母は鬱と統合失調症で弟も鬱になった模様。唯一父だけが健全なのですが、出張で海外に頻繁に行ったり、何が何でも週休2日しかくれない会社に勤めている上に、病人の巣窟に毎日帰宅しているので親元を離れた娘としては大変心配であります。今回の飲みも父から「元気なの?」ってラインきて、ちょっとやばいのかなと思ったくらい。ま、だいたい顔には出さないから会うとへらへらしてるんですけどね。心配だわー。

そんな感じで、父とよく飲むのですが、話題はいろいろ。時事の話もしたり、趣味の話もしたり。引き出しが多すぎて打った球は必ず返される、というかむしろ倍返しされるくらいなので、話していて楽しいですし、勉強にもなります。

こないだ、例の参院選があって、結局わたしは予定していた休みに投票しようと思っていたら、仕事の都合上、まさかの休みがぽしゃったので、投票することが惜しくもできなかったのですが、その話にもなり、そしてアメリカの大統領選の話にもなりました。

わたしは改憲派でどちらかというと右寄りなので、参院選の結果的には「そうか」って感じなのですが、やっぱり選挙活動中の演説の内容に改憲の内容が入っていなかったのはいただけないですけどね。

ま、そんな参院選の話からトランプ氏の話から、先日のトルコでのデモの話などに飛び、世の中物騒だねという話になったわけです。

父曰く、世の中、今考えうる発展出来る段階まで発展してしまっていて、今後は緩やかに右肩下がりでこのままでは落ちていくだろうと行っていました。

資本主義による格差が広まりすぎて、わたしが思うに、もう手をつけられない状況だと思います。そして「民主主義」という名の今では果てしなく細分化された理想的政治形態も、限界を迎えていると思います。

トルコでのデモで、Instagramでトルコ人のアーティストの方をフォローしているのですが、デモの日のことを備忘録としてあげていました。"scarest night"って言っていたくらいだったので、相当だったんだと思います。そしてその方は「民主主義」と謳っている政権は、民衆の大半から「選挙」という神聖な場を持って選出されてはいるが、畢竟、大半にはなれなかった少数派を弾圧し国を統治している事を憂えていました。

「民主主義」という形態を利用して統治しようとするには国際情勢が複雑過ぎるのや権力保持者が利己的すぎる印象をわたしはみ受けます。舞台に上がれば観客の声はさして聞こえないし手出しもできない。そして、そのような傍若無人な振る舞いを止めるはずのメディアもお門違いな報道をするばかり。現行の「民主主義」とはそんな風に、わたしには映ります。

結局、表面上は「民主主義」でも1枚めくればそれはホッブスが言っていた「万人の万人に対する闘争」なのかなと思います。留学中にホッブス、ロック、ルソーの有名な著書を授業で扱いましたけど、一番納得したのはホッブス。多分、ちょっと性悪説でわたしの思考は成り立っているという節もありますけど... 笑

現行の形態が変わらないか新しい形態が生まれない限り、このまま右肩下がりで世界の治安が悪くなるのは目に見えているのではないかなと思います。

かと言って、政治家になってどうこうできるような頭はありません。

若い世代、所謂ゆとり・さとり世代やそれ以下の世代は、相当な熱意と覚悟で現行の政治形態を変えてやる!って思わない限りは、今ある世界で生きていくしかありません。ニュースをつければ、国だろうが都庁だろうが、お金の話。そして霞ヶ関内で錯綜する個々人の利己的な思考。そして選挙になれば誰かの揚げ足をとるべく躍起になるメディア。人間、完璧でないんですから突けばなんでもでできますでしょうよ。って思いながら眺めていますが...

そんな中で生きていかなければならないのですが、父もわたしも一貫して思うことは、これからは自分が好きな事をし続けられる人がブレずに生きていけるという事。

父は基本的に、放任主義で自分でなんとかしながら好きな事してけばいーよっていうスタンス。そんなわけで、就職もせずにわたしは都内で契約社員ですが服を売って生活しております。就職して企業で働いている同期や他の方と比べれば手取りなんで雀の涙。けど、今はお金よりも、洋服の知識が欲しい。好きな事を学びたい。そして将来はそれを糧に小ぢんまりでもいいからセレクトショップを開きたい。と考えております。

側から見れば、結婚の予定も全然なく、契約で働いて、いざという時どうするの状態ですが、一寸先が闇なら今好きな事をしてそこから学べる事を最大限に学んでいければいいと思っています。

人の幸せ基準は十人十色ですが、わたしは、今やっている事、今までやってきた事は将来、線になって繋がって、必ず意味のあるものになってくれると思っています。だから、好きな事をただただやる。それだけ。アンテナを張っていれば必ず転機はあると考えています。

結婚して家庭を持って、という事が将来の夢という人もいるかもしれません。けれどもし、将来の夢なんて何もわからなくてただただ就職をしてお先真っ暗な中頭を抱えて生きて行くのならいっそ、好きで夢中になれるものをずっとしていけばいいと思います。そりゃ最初はいろんな面で苦しいです。最初から楽な事からは何も学べないです。

そしてそんな好きなものも夢中になるものもない人はまずは勉強すればいいと思う。確かビートたけしが言ってました、やりたい事がわからないやつは勉強をしてないって。ただ世の中を走馬灯のように眺めていたら何も見つからないです。面倒で大変だけど立ち止まって、一歩一歩踏みしめて歩いていかないと何も見つからないと思います。

苦労は買ってでもしろ、後悔先に立たずとは先人もよく言ったものです。

意識を有すると言う事

こんにちは、かぢつです。

最近暖かくてお花見日和かと思いきや、本日は強風で桜の花びらが曇天のもと、沢山舞っておりました。明日六本木の桜を見に行こうかと思ってるけど、大丈夫かな...

お花見日和な昨今ですが、暖かくなって来ると柔らかい日差しの下、読書をしたくなってもきますよね。ぶっちゃけ「読書の秋」とか言うけど、こういうちょうど良い温度の季節って結局は「読書の季節」なんだと思う。大手町にも「食欲の春」とかってポスター貼ってあったし。つまりはそう言う事。

さて、最近話題だった「紙の月」を途中まで読んでいたのですが、それをほっぽって、今は新書の「2045年問題ーコンピュータが人類を超える日ー」を読んでおります。

 

2045年問題 (廣済堂新書)

2045年問題 (廣済堂新書)

 

 

これ、彼氏が日本にいた頃に読んでいて、スウェーデンに持って行く予定だったところを頼み込んで貸してもらっているのですが、やはり、なかなかに面白いです。SF系興味ある人とかだったら面白いと思います。SFっていうか超現実的なんですけどね。

わたしはこの本を読むまで「2045年問題」なんてものを知らなかったので、とてもお勉強になったのですが、よく考えたらあと30年後じゃんってびっくりしちゃいました。ちなみにまだ読み終わってないのですが。

まぁ、人工知能が人間を凌駕するというお話が核なのですが、わたしが気になったのはそこじゃなくて、コンピュータが意識を有する必要性があるのかどうか。超絶サブな部分ww

松田氏はこの著書の中で、多くの科学者がコンピュータを更に発展させる為には意識を芽生えさせる事が必要不可欠だと考えていると述べています(ちなみに本人は、この意見については批判的です)。

意識を芽生えさせる事によって人智を凌駕して行く可能性を作り出す。

けれどそもそも、意識とは何なのだろうとふと思ったわけです。

まさに、哲学ターイム!

松田氏は意識とは人間の脳内に浮かぶ曖昧でふんわりとした存在のような感じと説明されています。例えば、国家内の個々人がシナプスだとして、国家が脳。国家の意識とは、どこへ向かって運営されているのか(脱原発とか)であり、それは個々人が考えている事とは異なる場合があります。意識とはそんな感じのものであると仰っているわけです。

やっぱり理系の人だとしっくり来る説明をするから凄いなーとか思いながらこの辺りを読んでいたわけです。文系の人間に「意識ってなんですか?」って聞いたところで、もう笑っちゃうくらいフィーリング的な回答しか出来ないと思うからw

そして意識を宿すと言う事は、感性、感情を宿すと言う事。感情を宿すと言う事は負の感情も有すると言う事。だからもし人智を凌駕した場合、危険ではないだろうかと松田氏は考えるわけです。

また、「意識を宿す必要がある」という考え方は、「自由意志」を尊重する欧米圏(=キリスト教圏)の考えであり、過程を大事にしているからであると言うような事も述べられています。

「意識を持って何かを理解している」という状態があってこそ人工知能である、という定義に対し、松田氏は意識を持っているとか物事を理解してアウトプットをしているとかの過程よりも、結局は結果が大事なのではないかと主張されていました。

「自由意志」を重んじるのは個人主義であり、自由意志の存在が希薄な日本のような集団意識を重んじるのは利他的で集団主義である。そしてその集団主義のものは、過程よりも物事が円滑に進み結果が出る事を重んじており、それで綺麗に機能しているのであるから、自由意志=意識の存在を認識する必要は無いのではないか。

なるほど。確かに日本社会は過程よりも結果を重んじ、1度の失敗を重く捉え過ぎ、2度目のチャンスをなかなか得られ辛い環境にあるかとは思います。そう考えると日本社会はとても無機質で暖かみの無いように感じられますね。

けれどわたしは、結果が大事な事も多々ありますが、過程も大事かと思います。

そして、何より、知能を備えると言う事は結果論ではないわけです。人間は育った環境や教育によって、多種多様な知識を付けて行きます。その様々な環境・教育の結果が今現在、自身が認識している自己であり、またその知識を付けた自己を認識出来るのも意識があるからだと、わたしは思います。

人工知能だって意識が無ければただ経験をただ集積・解析してより良い選択肢を提示するだけの機械でしかないと思います。

「意識がある」と言う事は、考える事が出来るという事。

人が何かを無意識でやる時、それはだいたいルーチン化された事だったりします。つまり、頭で考えなくても反射的に身体が覚えていて行動する事です。けれど、意識があって何かを行う時は、その行おうとしている事の意味、将来への影響、そして行った結果どのような事が起こるのかなど様々な事を瞬時に考えます。そのような事を考える事で、やり方を変えてみたり、こうするとどうなるのだろうという好奇心からちょっと違った方面からの切り口を見つけたりと創造性に富んだやり方などを見つけて行く事が出来るのではないでしょうか。

わたしは意識があるから好奇心や創造性が生まれるのだと思います。

人智を凌駕する人工知能を作るのならば、やはり意識は有していないと成長してはいけないのでは無いだろうかと思います。

SF映画で登場するような人工知能は意識を有していないタイプのように見受けられます。多分、意識を有したタイプの人工知能は今な亡きロビン・ウィリアムス氏が出演されていたBicentennial Man(アンドリューNDR114)に登場するアンドリュータイプだと思います。

考える事、創造する事、好奇心がある事、これら全て意識の介在によって発声し得る行為や感情だと思います。

人智を凌駕した人工知能が現れたら、恐ろしい反面、おしゃべりしてみたいと思うのは、好奇心ある人間の性でしょうかね。

連れの愚痴ではなくて素敵な話を聞きたいな。

お久しぶりです、かぢつです。

年越して最早4ヶ月経とうとしておりますね。こちらの更新は相変わらず勝手気ままにのんびりと、ですいません。

ついこの間、アメリカからビザの関係で友人が一時帰国してきたので、銀座で晩ご飯を食べてきました。

その娘はもともと秋田の娘で、大学の同期なのですが、アメリカ留学中に現在の旦那さんと知り合い、最近結婚して渡米していったわけで、渡米する前に会いたかったけれど、会えなかったので、今回久々の邂合with 旦那さん\(^o^)/っていう感じで会ってきました。

帰国したその日に会ってくれたので、疲れていたようですが、何より、日本の花粉にやられて目も鼻も真っ赤でしたw

そしてもう1人、例の美容系で働いている同期の女の子も誘って4人で飲んできたわけです。

行ったお店はもう1人のやつの勧めで銀座の「なまはげ」というお店に行って参りました。

ここ→ AKITA DINING なまはげ 銀座店|銀座に秋田のうまい酒とおいしい料理|

わたし達が通されたところは掘りごたつのお座敷だったのですが、鎌倉を模した個室も奥の方にあるようで、なかなか面白いお店でした。

一番面白いのがなまはげの訪問。恐らく決まった時間になると突然店内放送でなまはげが来るから注文とかは待ってけれって流れるわけです。そして太鼓の音がすると、なまはげが店内を練り歩いて気が向いた席のお客さんにちょっかいを出すというパフォーマンス。

小さい頃になまはげとの邂合を果たした事のある秋田県民にとってはどうやら至極恐ろしいものらしく、その秋田出身の娘は泣き叫んでいましたw

そんなわけで、なかなか面白いお店でしたが、ご飯もそれなりに美味しかったです。

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これはお通しですが、おにぎりがわたし的に一番美味しかったかな!

ちなみに、下の黄色い紙はお酒です。お酒の種類がなんと言っても豊富!感動しました。飲んだ事無い秋田のお酒が沢山!とくに濁り酒なのですが「ど」がとっても美味しかった!あれは一升瓶欲しいな...

ま、そんな感じでわいわい本当に楽しく飲んできたのですが、なんて言うか、その友人夫婦が自然体で、こっちまで幸せになりました。

旦那さんはアメリカに渡って8年。博士号も取って研究をされているらしいです。理系で博士号取ってるって、最早凄いとしか思えない。彼氏から博士号取るの大変なんだよって言う話をさんざん聞いているので、最早畏怖の念を感じる領域。

しかし、わたし以外全員B型だったので、もう好き放題。それが面白いんですけどね。

けれど、何よりも、旦那の前でも変わらない様子のその娘を眺めていたらとっても幸せになりました。旦那さんはすっごいマイペースだしw

まだ結婚して日も浅いけれど、知り合って付き合い始めてから、旦那さんが凄く彼女の事を大事にしてくれていて、お互い尽くしているような感じだったので、とっても幸せそうでした。

別に明らかにいちゃいちゃしたりボディータッチが多かったり距離が無駄に近かったりって言うわけじゃないのに、自然に幸せな雰囲気が出て来るのって凄いなと思います。

若さ故なのかもしれませんが、よく、結婚していてもいなくても、お相手の愚痴を友人に言ったりっていう場面をや話を聞きますが、それって凄く悲しい事だなと思いますし、別れたらいいじゃないかと思ってしまいます。

わたしだったら彼の事を悪く言われたり蔑まされたりしたらとっても傷つきますし、わたしはどちらかというと彼氏の自慢をしたい人間です。←

長年連れ添ったり好きだったはずの人を卑下するような関係ではなく、友人夫婦のように、自然体で幸せそうな雰囲気を出せるようになれたらいいなと思います。そのほうが周りも、そして自分たちも幸せなはずだから。

みんなが自分の連れを尊敬出来るようになったらいいのに。

まず行うべきは、試験までの教育過程の改革では?

こんにちは、お久しぶりです、かぢつです。

またしても「お久しぶり」フレーズから入るこの緩さ。ダブルワークで最近忙しくて更新したくても出来ない日々です。小渕ちゃんに関する事も書きたかったのですが、完全にタイミングを逃しました。苦笑

というか、というか、前回の記事が思いの外多くの方に読んでいただいたようで、びっくりしていました。こんなに多くの方が読まれるなら、日本語の使い方等をもっと気をつけておけばよかったと反省するばかりです。といいつつ、今回もゆるーく手抜きで書いていきますが!

さて、我が家はバッシングを受けまくっている時の人ならぬ時の新聞社、朝日新聞を現在は購読しているのですが、4日前の25日土曜日の見出しでちょっと興味深い記事を見つけました。

内容は大学入試改革についてです。もうわたしには完全に関係のない分野なのですが、教育に少し関心があるので。ログインしないと読めないのですが、これがその朝日新聞の記事↓


ま、要約すると、これからは主体的な考察力等、自立的な思考が出来る子供達を育てて日本の為の生け贄になってもらおう、っていうところですかね。ちょっと言い過ぎました。けど多分そんな感じ。

そして、試験形態も色々変わるようですね。

まず、センター試験が名を改め「大学入学希望者学力評価テスト」になり、「覚える」から「考える」力を計る教科複合型テストになるとか

2つ目は受験でも使用でき、就職活動を始める生徒の1資料にもなる、必修科目(e.g. 国語、数学等など)の習得率を計る為のテストこと高校基礎学力テスト

3つ目が、各大学でアドミッション・ポリシー」を設定し、それに沿うかどうかを判断する為の大学独自の試験ープレゼンや記述問題等々ーの実施

新聞の文面を観たところAOや推薦は廃止の方向になるようですね。

いくら少子化と言えど、採点する側は大変なんじゃないか?と読んだ当初は思いましたが、採点する側の負担を優先していたら、主体性のある人間なんて育ちませんよね。

わたし自身、大学受験の時は、推薦入試で入学した為、センター試験を受けた事がありません。というか、センター試験まで勉強し続けられる気力もいい点数を取る自信も無かったので、日々の学校での成績を上位維持し、なんとか推薦にこぎ着けた感じです。

脱線しますが今思い返すと、受験期間って一種の就職活動と同じ雰囲気があるなと思いました。推薦やAOで受かってしまった人達は迂闊に受かった事を口に出せないし、センター組は友人が一足先に受かって人の朗報を聞いてもやはり他人事で上の空で祝辞を述べる。極端かもしれないですが、ものは違えど中身は一緒なのだなと感じました。

さて、お話は戻って入試改革のお話。

現在小学6年生の代から導入が始まる予定になっていましたが...

この記事↓にも書いてある通り、唐突に試験形態だけを変えてどうするのだろうかとわたしも疑問に思いました。


「考える」力って一朝一夕に身に付くものではありません。

思考回路というものが人それぞれにあるように、習った事を頭で考えて応用してアウトプットするって、実は結構難しい。

今の教育を数学で例えるなら、1度習った数式を暗記して基礎並びに少しの応用に対応出来る感じだと思います。けれどそれは、問題数が1つの時の場合。「複合型」と言うからには、きっと数字の羅列で応用された問題ではなく、社会問題の混じった論文的文章から数字を読み取って教わった数式を少しアレンジして使う感じなのではないでしょうか。

そこまでのスキルをこの教育改革で求めるとは思いませんが、詰まる所、そんなところ。それが、わたしが思う「考える」力です。

そして何よりも「考える」力を養う為にやってはいけない事を、今の日本の教育では行っていると思います。

それはつまり、正しい解が存在し、そして問題を解くとは畢竟、それを導きだす事。

日本の教育では、「正しい答え」を導きだす事が求められ、その答えではない、「もしかしたらそれが答えともなり得るかもしれない答え」などは切って捨てられてしまいます。

私事ではありますが、高校・大学とカナダ・アメリカに1年程留学をさせていただきました。アメリカの大学は、ご存知の方も多いかと思いますが、入学は比較的容易(って言ってもそれなりにテストとか色々あります)で、卒業が至極難しいと言われています。卒業するためには意欲的に自主的に、講義を受け、課題をこなし、テストに向けて日々勉学に励みます。

わたしが留学した時も、現地の学生達は課題をこなし、予習を行い、講義中も積極的に発言していました。

驚愕するのはその勉強量。わたしが通っていた大学も、都内の有名大学等と比べると課題や勉強量が比較的多く、多くの学生が図書館に籠って勉強していましたが、まさかそれを悠々と越えて来る課題の量を出されるとは思いませんでした。

週末を返上して図書館で泣きながらホッブズやロック、ルソーを読んでいましたが、それでも2時間に渡る授業の範囲をカバーしきれず、苦しんでいました。そして若干の古英文なので理解が難しい。

それを見かねた教授が声をかけて下さり、何度か勉強の手伝いをして下さいましたが、その時、教授はわたしのわけの分からない意見(が大半だったと思います...orz)や的外れな質問も「良い着眼点だね!」と肯定しながら応対して下さいました。

その姿勢は授業でも同じで、他の先生の似たような教科を履修しましたが、他の教授も同じようなスタンスでした。

そこで思ったのが、やはり、自分が発した意見を肯定してくれる、又は参考にしてくれる(「そういう見方もあるのね!参考にするわ」とか)授業スタイルだと、自ずと意見も言いやすく、また、脱線したとしても、それがまた「考える」力に結びついて行くと分かりました。

要は、ブレインストーミングと同じなんです。その日の授業範囲がブレインストーミングの核の部分になり、そこから色々な枝が、教授の進行方法や学生の意見によって伸びて行く。

けれど日本の授業では、先生は生徒に知識を教授するのではなく、枝葉を切ってしまった1本道を押し付けるだけに思えます。

それでどうして、大事な大学受験で、今まで教わってきた教育とは違う方法で自分なりの解を見つけ出せと言えるでしょうか。

与えられた事をこなさせる日本の教育では、与えられた事を考えて自分なりにこなす行為を試す試験を実施するのは無意味だと思います。

試験を変えるのではなく、まずは教育の仕方を変えなければ誰も何も育ちません。

教育は興味へ繋がり、そして子供達の将来へと繋がって行っているはずです。その辺りを踏まえつつ、もっと先を見据えた大きなビジョンで改革を考えられないものかと憂います。

って、中教審の人々自体がそう言う教育を受けてきたから難しいのかな...なんてふと思ってしまった今。

教育って難しい。

花のバブル組とゆとり世代ことさとり世代。

お久しぶりです、かぢつです。

2週間ぶりの更新になってしまいました。最近、自分で撮った写真を上げているブログも始めたので、そちらばかり更新してしまっておりました。そういえば、トピックが台風一過ですが、わたしも今日、お昼くらいにバイトを終えて帰って来る時にあまりにも空が綺麗だったので、思わず写真を撮ってきました。明後日くらいに上げたらもう遅いのかな...

さて、先週末は友人の転職祝いを東京駅周辺でしてきました!

同じ大学出で、仲の良い友人二人とわいわいご飯を食べて参りました。

さて、一人は見事転職して今はプー太郎ですが、12月からまた働き始めるわけですが、もう1人は化粧品の会社に勤めており、先月の中旬辺りに本社から現場(東京駅近くのお店)へ異動になりました。あ、以前書いたこの記事に出てきたやつですね。

この彼女の話をまたとりあげるのですが、コース料理も終盤に差し掛かった頃、現場の上司の話になりました。

彼女、シェアハウスで実家を出て暮らしているのですが、個人部屋のないシェアハウスらしく、それを職場の人がその上司の人に漏らしたらしく、信じられない!って言われたらしいです。

その人的には、プライベートも何も無い空間で四六時中誰かと一緒じゃ気が休まらないじゃない、との事。

言われた当の本人は全然そういう事気にしていないし、わたしも彼女と1年くらい大学時代に、1部屋シェアして住んでいたので、そういうものなのかーっていう感じでした。

確かに、日本ではシェアハウスとかルームメイトとか余り聞かないですね。聞くとしても、最近の世代、所謂20代前半とか半ばくらいの人達以降ではないですかね。

アメリカに留学していた時はフツーに1年生の寮(わたしは当時4年生w)で中国人のルームメイトと1部屋シェアしていたので、プライベートもくそもあったもんじゃありませんよ。といいつつも、わたし自身、シェアとかあまり気にしないんですけどね。事実、シカゴを旅した時は12人部屋のホステル使いましたし。

そしてそんな話からもつれにもつれて、何故か行き着いた先は、花のバブル組とさとり世代の比較。笑

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さとり世代とか初耳だったので、なんですかそれ?っていう感じだったのですが、どうって事ない。ゆとり世代を指してもいるんですね。ネットで調べたら少し広めな世代をさしていましたが、大体90年代辺りに生まれた人々の事のようですね。

そうそう、この話題が出たいきさつが、金銭関係の話題。

さとり世代は総称して欲が極端に少なかったり合理主義者が多いと色々な記事やwikiにも書いてありました。

わたしはもろこの世代なので、色々第三者の意見を眺めていると「?」って思う節々があったりもしますが、インタビュー記事を掲載しているところとかは、結構納得いきました。

そもそもわたし達さとり世代の物欲が無いように思われがちなのは、言わずもがな、消費出来るお金が手元にあまりないからですよね。

バブルの時期とは真逆で、先進国の経済はだいたいどこも破綻をきたしていて、日本なんて、恐ろしい事に高齢化が急激に進み、世界でも類を見ない長寿国に大成長してしまったわけです。

そしてそのご高齢者達を支える為に(それだけの為ではないですが)、消費税10%が日の目を見ようかという状況です。

先日もニュースで取り上げられていましたが、家電製品あたりのプロモーション企画かなにかで、都内で展示会(デモンストレーション)が開催されていた様子が流れていました。その企画者や参加メーカーの社員さんがインタビューに答えていましたが、その内容はどれも「これからどんどん発展して行くであろう高齢者市場を狙った製品開発」をして行きたいというものでした。

別に高齢者の方を非難するわけではないし、一時は日本の経済を大きく成長させた方々ですが、正直、これからの時代は若者、ひいては国のお荷物になってしまうわけです(気分を害された方、ごめんなさい)。

そんな先行きの無い未来を見つめてどうして今を頑張ってより良くしていこうなどと思えるでしょうか?

未来を見据えるならば、今使うのではなくて、後々の為に貯蓄しておくという選択肢が、恐らくゆとり世代、もとい、さとり世代では過半数なのではないでしょうか。

わたし自身、物欲は至極強いです。特に洋服。だから今アパレルでバイトしてはいるのですがw

欲しいものはつきません。外を歩けば欲しいと思うものは必ず何かしら1つは目に入ります。けれどお財布と口座と相談せずとも、そういうものには手は出せません。だってお金が無いんだもの。そして長生きはしたくないけれど、20代半ばとか、まだまだ生き続けるじゃないですか。やりたい事はあるけれど、それは定職じゃない上に収入も安定していません。そういう事を考えると自ずと財布の紐をぎゅっと堅くしめてしまいますよね。

そういう事をしていると、不思議と物欲が無くなってくるんです。

そしてその諦めが、仕事面でも出て来るのだろうなと思います。

友人も言っていましたが、頑張っても直ぐに評価に反映されるわけではないし、ましてやずっとこの職で生きて行くつもりもないから、やる気が出ない、と。

わたしも似たようなもので、特に今はチームプレーが重視されるところなので(ほとんどそうか)、個人がどれだけ売ったかは分かりません。そして日々の予算は100万前後。そんな数字を示されて、更には売り場にあまり出る事が無いわたしにとっては、「本日も予算達成して、今月も報酬を受け取りましょうね!」って言われたところで、「頑張って下さい」と完全に他人行儀になってしまうわけです。

わたしは花のバブル組にとやかく言われた事は無いし、恐らく言われたとしても忘れてしまう質なので、覚えていないですが、さとり世代が何を考えているのか分からない又は奇妙な世代、なのではなく、恐らくほとんどの人がそうだと思うけれど、超現実的なのではないのかなと思います。

一部の人は興味が本当に無いのかもしれないけれど、また一部の人は政治に興味が無いのではなくて、机上の空論的言動や政策を売りにしてきた政治家に諦めを感じ、目を向けず、ただ黙々と現実を受け入れてきているのではないでしょうか。

わたしは安倍首相には大きな期待はしていないけれど、比較的賛成派です。そして消費税10%も大いに賛成派です。そもそも日本の消費税は極端に安過ぎるんです。先進国でどこを探しても5%なんて国、ありません。

気候変動も経済成長低迷もそして国民の負担も、わたしは畢竟、全て1本の線でつながっているのだと思います。どこかがほころべば絶対に他にも影響が出ます。それを最小限に食い止める為にも消費増税は良い1歩だと思います。

って現実を甘んじて受け入れてる時点でさとりの世代なんですかね。

けれどわたし達は絶望しているわけじゃないです。さとり世代以前の人達とは違う大きさだけれど、それでも生きている今このときの中で、必死こいてささやかな幸せを探して享受しようとしてるんです。

さとり世代代表!みたいな感じで書いちゃいましたけど、これは飽く迄わたし個人の考察と意見です。

同じ社会に皆生きているのに、尺度が違うって不思議ですけど素晴らしいですよね。

I thought what I'd do was, I'd pretend one of those deaf-mutes.

今週のお題「憧れの人」

世の中に不満があるなら自分を変えろ

それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独にくらせ

有名な台詞ですよね。

SFやハードボイルド系の有名アニメを好きな方なら直ぐにピンと来る台詞ではないのかと思います。

攻殻機動隊草薙素子の冒頭の台詞です。

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何度観ても素晴らしい作品な上、様々な引用が散りばめられているので、観る度に新たな発見がある作品です。

さて、今週のお題が「憧れの人」ということですが、わたしの憧れの人は草薙素子少佐ですかね。

現実味が全然ない「憧れの人」ですが、それが良いのです。

理想は高い方が良い。ハードルは高い方がくぐりやすい。何

攻殻機動隊を初めて観たのは確か留学中だった2012年だったかな。以前から当時の彼氏に面白いぞと薦められていたのですが、確か春休みかなんかで少し暇になったので観てみようかなと観始めたら、面白過ぎワロタ\(^o^)/っていう状態でした。

わたしはどちらかというとTVシリーズの方が好きですが、最近やってるARISEの方もそこそこ好きです。

草薙素子と言えば、美人、出来女、格好良い。

9課の男性陣に引けを取らない素子ですが、なんだかんだ、女性らしくもありますよね。例えば、2期後半の少佐とか。

さて、そんな少佐の1期の1話目のこの台詞がわたしは結構好きです。この台詞はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を引用しているし、フラグ立てにもなっているわけですが、素子らしい台詞ですよね。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ」

この台詞の意図が消極的な方向性なのか、はたまた攻撃的な方向性なのか、計りかねますが、今のご時世、まさにその通りなのでは無いのかと思います。

「民主主義」と言う都合の良い国家の統治方法の前において、マジョリティーと言う名の偏った架空の群衆に、人々(政治家、一般市民含む)は踊らされているように思えてなりません。

考える事を放棄した人々はメディアやネットの煽動によって形成された虚無の「マジョリティー」に追随し、目先の未来をそれが永遠に続くものと勘違いして声高に文句を言い並べているように思えます。

全く違うところからになりますが十二国記内でわたしがもっとも好きな言葉は「責難は成事にあらず」です。

人や組織を責める事、壊す事は容易いです。

けれど、そこから何故責め壊したかという理由からより良いはずのものを作り出す事は難解であり、またそのような理由が無い限り、作られる事はありません。

今現在、わたし達は理由無き破壊をしているように思えます。

目先の疑似「幸福」だけを見つめ、あれは駄目、これは駄目。

考える事を放棄し、個を捨てた人々が不満を声高に上げても、現状は畢竟、何も変わらないのだと思います。

そんなマジョリティーに溶けようとする個で不満を掲げ、無意味な絶望を味わい、それを嫌だと嘆くのならば、まさに、

「...耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ」

だと思います。

今、攻殻機動隊が再放送とかされたらなんか凄い事になりそうな気がします。刷新的なアニメでした。

というわけで、草薙素子少佐に乾杯。

 

「結婚したい」と周りは言う

どうも、かぢつです。

最近は朝夜と日中の気温の差が激しく、遅番で帰宅する時、自転車をこぐのが少しずつ辛くなってきております。

さて、わたくし、来春で25歳になってしまうのですが、今のバイト先に同い年の女性の方がいるのですが、びっくり。

24歳にして既に2児の母。

えっ?

売り場じゃなくて裏で良かった。びっくりし過ぎてすっごい大きな声をだしてしまったw

その方、詳しくは分からないのですが、2児の母な上に、芸能活動もしているとか。確かにお顔は凄く綺麗だし、2児の母にしてはすらりとスタイルが良いのです。まるで「子供生むと、女はたるむ」っていう母からの教えが都市伝説だったかのよう。

実は秋田のユニクロで働いていた時も同い年でお子さんが1人いる方が働いていて、マジっスか!?ってなっていたのですが、まさか、都内に来てそんな女性がいるとは。タフだなー。

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先日、と言っても初夏くらいだった気がするのですが、1つ年上だけれど同期の友人がお見合いで結婚しました。彼女とはそこまで親しかったわけではなかったのですが、それを気に(直接的にも間接的にも関係ありませんが、何故かわたしの身の回りで)、1つとか2つとか年上の先輩達がちょいちょい結婚され始めたわけです。

ちなみにわたしが親しくしている友人達は「結婚したい」とは言うけれど、全然そんな気配が見えない人達ばかりで、わたしは早く振り袖を来て、結婚式に赴きたいものです、と日々考えている次第です。←

周りは「結婚したい」というけれど、わたしには結婚願望はこれっぽっちもありません。

別に親の仲が悪くて「結婚」というものに良いイメージがないとか、

フランスの事情を知り過ぎてて、結婚する意味が見いだせないとか、

そう言うわけではないのですが、わたしはパートナーがいればそれで良し、というスタンスです。

「それはまだ若いからだよー」

って言われるとちょっと腹がたつのですが、わたしは寧ろ何故「結婚」したいのか、理解に苦しむところがあります。確かに金銭面とか色々あるのでしょうけど...

わたしの「結婚」のイメージは生涯、1人の人をずっと好きでいて(または大切に思い続けて)、1つ屋根の下で(完全に一軒家に住んでいるイメージやw)支え合いながら共生していく、っていう感じです。

正直わたしは、1人の人をずっと大切に思い続けられる自信はないし、そもそも「好き」とか「愛する」とかいう感情が実はよく分からないので、好きな人が出来て付き合っても飽きてしまって、思いを継続的に内包し続けるのは無理だと思っています。

なんか文字に起こすとすっげー重そうな感じですけど、畢竟、「結婚」ってそういう物なのじゃないのかなと考えています。

「結婚したい」と言っている友人のうちの1人は、

旦那も欲しいけど、何より子供が欲しい

って言ってました。毎回「まずは付き合う事から始めろよ」って彼氏いない歴=歳の数のその友人には言ってます(^q^)

もう1人は、

大切な、守る物が出来るから結婚したいんじゃね

みたいな事を言っていた気がします。まぁ、確かに、結婚していればこその夫婦の特権的なものがありますよね、パートナーと比べたら。

けれどそれでも結婚したいとは思えないわたし。

きっとわたしにとってのメリットが見いだせないのでしょうね。

わたしは「やりたい事が特にない」人間ではなく、「あれもやりたいこれもやりたい」系の人間な上に、欲求も比較的強いので、自己分析の結果、利己主義な部分が結構あるようです。

恋愛なんてやっぱりgive and takeの世界だとわたしは思っています。正直、わたしはgiveの方が苦手です(もう駄目な人間タイプ)。

利己主義でgiveが苦手、果てには独りの時間が結構必要。

こうきたらもう、結婚したら破滅への道しかない気がしてならない。爆

もう少し歳をとったり、これから付き合うかもしれない人によって考えが変わって来るのかもしれませんが、結婚願望ない歴およそ10年以上のわたしの考えが直ぐに変わるとは思えません。

だからきっと、当分わたしは独り身です。