とある京大生の

独断と偏見

ジェネラリストがスペシャリストになろうと自分を騙しながら就活した話

ずっと葛藤していました。私。

就活を開始して、以下のことをいろんなエラい人の口から聞いた。

変化の早い時代に突入し、これからの日本はどうなるかわからない

→安定な会社なんてない

→どこでも働ける人になることが大切

→会社にローカライズされた能力を身につけるのではなく、どこの会社ににっても通用する専門性を身につけるべきだ

ふむ。そういえば私の父もファイナンス職で転職を繰り返している。たしかに、なんとなく正しいそうだ。でも、昔から多趣味で好奇心旺盛な私はどう考えてもジェネラリストタイプ。でもどれかの職種を選ばないといけないらしい。じゃあどの職種にしよう?

 

全ての職種に興味があったし、どれも楽しめそうだとはおもったが、ちょうどUSJの森岡さんがフューチャーされていることも相まって、なんとなくマーケティングを選んでみた。そして、世界最高峰のマーケティングカンパニーと呼ばれる外資系企業のインターンに応募し、参加してみた。市場を調査し、何を、どのように、いくらくらいの価格で売り出せば、売れるかを決める仕事だった。マーケティングの業務内容の耳障りは良かったが、実際に日本の支社で行っていることは、海外の既製品をどうローカライズするか、とどのようなプロモーションを打つかの二点だった。特に、マーケティング下流過程であるプロモーションの部分に関しては、どうしても好きになれなかった。自分本位なところが引っかかっていた。あるいは、買わせる、だったり、実際よりよく見せようとする、ことを目的とする業務内容に本質ではない要素を感じとってしまった。良い悪いではなく、個人的にそれが引っかかった。

 

マーケティングにも楽しいと感じる部分はあったが、やはり何かが違うかった。どこがいいと感じたんだろう、と整理していると、上流の部分だと結論ずけた。何を売るのか、を決定するこの部分だと。そして、それに際して、データを扱うのが楽しかったのではないか、と仮説を立て、次にファイナンスにピンをたててみた。会計コンサル会社や外資メーカーのファイナンスのジョブを経験させてもらった。株を運用していること、理系のバックグラウンドがあることなどもあり、他の人より数字が読めた。抜群に活躍できた。このことが、楽しかった。強みが活きている感覚はあるが、これを一生の仕事にしたいかと問われると迷った。そもそもファイナンスは守りの数字を扱うことが多く、マイナスを無くすような仕事だ。そのあたりが自分の性にあってないと父からも指摘されていたし、自分でも薄々感じていた。

 

次はどうしよう。マーケティングが好きな人は、企画が好きなことが多いと聞き、確かによく自分で企画を行っていたので、向いているかもと思い、商品企画のインターンに参加した。 これが非常に楽しかった。これだと思った。ビジネスプロデューサーとその会社では呼ばれているのだが、まさに自分のなりたかったものは、プロデューサーなんだと、腹落ちした。もっと具体的には、コンセプトメイキングをするプロデューサーがしたかったのだと。消費者の感情や心理と向き合って、何を作るから始まり、世に送り出すまでの全ての工程に携わりたかったのだと。ジェネラリスト志向の私が目指すべきスペシャリストはここだと確信した。例を挙げるなら、AKB48というコンセプトを生み出した秋元康さんや蔦屋書店を生み出した増田さんみたいな人。こういう人になろう、なりたい。そう思えた。味わったことのある人にしかわからないと思うが、過去の出来事のすべてが繋がり線になる感覚。初めて成りたい目標が明確になった。

 

何が言いたいか。どの職種を専門にするか決めた方がいいとか、職種を決めるのは難しかったとかそのようなことではなくて、もっと広く、自分が真に何をしたいかということは、きっとどこにも落ちていない。自分と向き合いつつ、いろんな会社や仕事と触れ合う中でしか見出せない。そして最終的に落ち着くところは、すでに用意された枠組みの言葉ではなく、コンセプトメイキングプロデューサーみたいなわけのわからない言葉なんだと思う。心からそう思う。そして、おそらく専門性が重要かと言われると、人によると思う。どうありたいか、なにがしたいかが重要で、専門性はその後の議論。ぜひ私のような高学歴就活性は専門性の病に囚われることなく、自分が"真に"したいことをみつけようとして欲しいと思う。

 

P.S.

こんなものを見つけたました。

"https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2F1989kitakita%2Fposts%2F1549131518729756&width=500" width="500" height="367" style="border:none;overflow:hidden" scrolling="no" frameborder="0" allowTransparency="true">

書いてあることは要するに、自分がしたいことに真正面に向き合った人にしか答えは導けないということ。本当にそうだと思う。私は就活を6月に初めて4月にしたいことが見つかりました。

NHK 見えない"貧困"を見て

NHKの見えない貧困を見て、子供の将来への選択肢が奪われることは何より大きな社会問題である。それは100%同意である。その前提のもと、言いたいことは3つ

1、相対的格差、それ自体は問題ではない

2、貧困家庭の親は本当に子供のためになるお金の使い方を知るべし

3、どこまでの家庭を救済するべきか線引きが難しい

 

1、「相対的格差、それ自体は問題ではない」について

相対的格差とは、平均的所得を下回る家庭のことである。その相対的格差を取り上げることは、資本主義の否定であり、その先にあるのは社会主義だ。資本主義が絶対だとは思わない。社会主義にもいい面はある。しかしながら、相対的格差を問題視することは、資本主義を否定するくらい大きな問題であることの認識はしておくべきだ。そして、今回一番の問題となっている貧困家庭に生まれた子供の将来が奪われている理由は、相対的格差ではない。

 

2、「貧困家庭の親は本当に子供のためになるお金の使い方を知るべし」

番組の中で、こんな一幕があった。一般家庭と相対的貧困家庭とではスマホ、ゲーム、自転車の所持率は相対的貧困家庭の方が高いのである。親との連絡手段に必要と紹介されていたが、それならガラケーでよい。結局のところ、友達に貧しいとおもわれないように親が子に教育に直接関係のないものを買ってあげているその優しさによって、本当に必要な教育費、医療費にお金を回せていないのだ。とても哀しい話であるが、短期的な親の優しさがかえって長期的には子供を苦しめているのである。構造的に仕方ない側面があるとはいえ、貧困家庭が更なる貧困を生むのは、お金だけでなく、親にも問題があるという認識は大切だ。

 

3、「どこまでの家庭を救済するべきか線引きが難しい」

そもそも子育てとはお金のかかるものなのである。年収200万の見込みしかないことがわかっていて、5人子供を産めば全員に満足な教育を受けさせてあげられないことは明白だ。本当に子供のことを思っているのであれば、金銭的にも、気持ち的にも、子供を育て上げれる自信がないのであれば、産むべきではない。少なくとも私はそう思っている。子供は生まれる家庭を選べないのだから。とはいえ、そのような厳しいスタンスでは、誰も子供を産まない、産めない。そのため、最低限のセーフティーネットは国が敷くべきである。難しいのは、その線引きだ。結局そのラインを引き下げることは、富める者の税収により貧しい者の生活を助けている、つまり、間接的な富の再分配である。重要なのは、国の線引きと親の適切な家族計画である。

高学歴の世界からみた低学歴

 

最近目にした2つの記事。自分にも少し思い当たるところあったので書きたいと思います。読んだのはこの2つの記事。

luvlife.hatenablog.com

anond.hatelabo.jp

2つの記事に共通して、主張しているのは、こどもの育つ環境は親の学歴によって大きく左右されるということ。そしてその環境は、高学歴側と低学歴側の双方にとって想像がつかないほど隔絶しているということ。この2点が「低学歴側」に育った家庭からの目線で書かれています。そこでここでは、いわゆる「高学歴側」からの目線で書きたいと思います。

あらかじめ言っておきたいのは、この記事は自慢でもなんでもなく、こちら側はどのような世界なのか、こちら側からみたあちら側の世界がどのようにうつっているのか、

ということをかきたいと思います。

2つの記事を読む限り、親が国立大学を卒業している私の家庭は「高学歴」といっていいでしょう。私は、低学歴の世界で育った母と高学歴の世界で育ったの父のもとに高学歴の世界の子として生まれました。

母の両親は高卒です。祖母は、少なくとも国立大学(当時、帝大)は狙えるほど勉強がとてもできたそう(今でも勉強が趣味)ですが、女性ということ、家が裕福ではなかったということ、で大学には行けませんでした。

そんな両親のもとに育った母は、とても貧乏ではありませんでしたが裕福でもありませんでした。大学には行かせてもらえましたが、国立でしかも家から通えるところしか受けさせてもらえませんでした。

父はというと、祖母は当時には珍しく大学でており、祖父は東大。そんなもとに生まれた父は、幼稚園から私立で中高も私立、大学は京大で、絵にかいたような裕福な家庭でした。

そんなもとに生まれた私は、自然な流れで中高と私立、大学は京大へと進みました。中高の同級生も東大が京大が医学部、私立なら早慶がほとんどでした。一般に社会の縮図と呼ばれる地元の小学校ですら、住んでいた地区の兼ね合いから、ほとんどが関関同立あたりの賢い大学にいっています。きっと高学歴側の住人なんでしょう。

母は子供の頃からよく、「この環境が当たり前と思ったらいけないよ。勉強したくてもできない人がいるんだよ。」みたいなことをよく言っていました。きっと低学歴の世界で育った自分や祖母の「当たり前」と高学歴の世界で育った息子の「当たり前」が乖離していることに気づいていたんでしょう。小さいころは「はいはい」と分かったつもりでいましたが、比べる対象は、高学歴の世界にいる人しかいないので、理解できていませんでしたし、今も理解できていません。1次情報として、聞いたことがないので、冒頭のブログの記事が本当に日本で存在するのかやはり疑ってしまいます。

私の家は、所得の割には、お金づかいは荒くなく、子供の頃から倹約を口うるさく言われました。自販機やコンビニでの買い物は禁じられていました。それでもある程度お金持ちな肌感覚はありましたが、母は自分の家の所得は決して教えてくれませんでした。きちんと知ったのは、大学の入学関連の書類で目にしたときです。自分が想定していた金額よりも何倍も多かったのを覚えています。今はもっともらっているのかもしれません。その想定していた額と実際の金額のギャップは、高学歴の世界に属している家庭を低学歴側に近づけようとした母の努力なんでしょう。

母はよく、自分が大学生のときに、成人式か卒業式どちらかしか振袖はダメと母に言われ、結局成人式には行かなかった話をします。きっと当時悔しい思いをしたんでしょう。友達が振袖を着て綺麗に装っている中、家にいたんですもんね。当然ですよね。そのあとも成人式の話なんかになった時は、会話の輪に入れず、嫌な思いをしてたのかもしれません。どれだけ寄り添っても僕にはわかりません。母は努力して「あたりまえ」の水準を下げようと育てて、それでもなお「あたりまえ」の水準が高く育ってしまうだろう私に、低学歴の世界の人であった自分が感じた悔しさを伝えることで、低学歴の世界の人が感じている気持ちや「当たり前」を息子に忘れて欲しくなかったのでしょう。

 

では、高学歴の世界の人は、低学歴側の世界をどうみているのでしょう。

「親の所得により環境の差異があることはわかっている。それは確率的な問題で避けられないので嘆いても仕方ない。そのような家庭のために国が救済制度を作っている。奨学金だってある。今ではネットで無料で勉強もできる。道は閉ざされていない。逆転のチャンスはたくさん転がっている。自分の努力が足りないのを社会の制度にするなよ。」少なくともこんなスタンスでした。私は。大阪都知事の橋下さんなんかもこんな論調だったと思います。高学歴側の多くが橋下さんを支持していたのも頷けます。

2つの記事をよんで、改めてどう思ったか。

・親の所得により環境の差異があることはわかっている。

→わかっていない。環境の差異が想像以上にある。

 ・道は閉ざされていない。

→親が低学歴の世界にいるため、子供にとって合理的な選択であるはずの、社会制度などが選択されないケースがあり、外部要因によって閉ざされうる。

 

そして今何を思うか。

2つ目の記事にあったように、この高学歴の世界と低学歴の世界の溝を埋める。つまり、自分の属していない他方の世界の実情を"知る"ことがよりよい社会を作る第一歩になるのではないかと思ったのでありました。

 

 

 

 

 

人の在り方の話

人に嫌われるのってそんなに恐れなあかんことですかねえ!?

他者の目線をきにして

本来の自分のしたいこともできないような人は

誰の人生を生きているんや?

大切なものには,好きだといって両手で抱きしめて,

嫌なものは中指たててfuck!

こんくらいの精神でええやん

もっと自分のしたいことしよ!

自分の人生いきよう!

以上,自戒!

 

日本の就活から派生して

日本の就活システムについて思うところはいろいろあります.

一言で言うと,日本の就活システムは

マイノリティーにきびしいシステムです.

集団主義を重んじる非常に日本らしいシステムだとおもいます.

ぼくもがっつり浸かってます.

 

集団主義が悪いとは思いません.

考え方の一つです.いいと思います

しかし,集団主義はえてして,個性を認めない.

そういう性質をもっています.

この点に関して僕は批判的です.

そして日本はまさに没個性の集団主義です.

 

集団主義と対になるのは個人主義です.

集団主義個人主義は両立し得れないが,

集団主義と個性は両立し得れます.

 

時代はボーダーレスなグローバル社会へと移行しつつあります.

集団の中に異国の人も入り混じってきます,

これまでの日本人だけではなんとか機能していた集団主義

これからは機能しなくなる事が増えることでしょう.

日本は是非とも個性を尊重する集団主義であるべきだし,

そうなって欲しいと思います.

 

ではこの集団主義の源流はどこなのでしょうか・・・?

 

この集団主義ですが,もとをたどると

幼児教育からみられることに驚きました.

こないだ読んだ記事によると

各国で幼児の教育方法はてんで違うそうです.

そりゃ他の国と考え方も変わるわな,と納得しました.

もちろん,日本の幼児教育では集団主義が重んじられています.

今振り返れば,「みんなこうしてるから◯◯しないとだめでしょ」みたいな

言葉で説得されたように思います.

まさに全体主義

そしてそれに納得する子供もまた全体主義

教育方法ってあまり公で議論されませんが

国民の考え方の基礎を担うという意味で

とても重要だと思いました.

 

商品の価値とは

こないだベトナムにいったとき感じた違和感.

多くの店で値札が貼られていない.

そこで「いくら?」と聞くと

「いくらなら買う?」と返してきます.

そこから値段交渉に入るわけです.

彼らは人,主に国籍に応じて値段を変えていました.

日本人なら10ドル,アメリカ人なら5ドルというように.

その時は人によって値段を変えるなんてとんでもない

とおもいましたが

あとから考えてみると,すごく理にかなっていることに気づきました.

元来,同じ商品でも人によって物の価値は変わるのです.

ただの水でも喉の乾いてる人には水は高く売れます.

ごく自然なことなんです.

彼らはそれを国籍で大まかに分類しているにすぎません.

もしその値段に納得しなければ買わなければいいのです.

ここで商品の値段の決め方には2通りあることに

気づきました.

1つは材料費,人件費を計算し,

これくらいの利益は見込みたい,と商品の値段を決める方法.

2つ目は,消費者にとってこれくらいの価値があるだろう

と推定して商品の値段を決める方法.

僕のアタマの中ではすっかり2が抜け落ちていました.

当たり前のようで

思わぬことに気づかされたベトナム旅行でした.

DMM英会話始めました

春休みを絶賛謳歌中なのですが

 

ある経緯から英語力の必要性を感じて

 

数日前からDMM英会話を始めました。

 

春休みにもかかわらず。

 

料金が安いのであまり質に期待していなかったのですが

 

これが結構いい授業をしてくれるんですね。

 

受講したのは1日50分, 8600円のコース。

 

将来への投資と思えば僕には安く感じました。

 

 

DMM英会話を受講していて気になったことが幾つか。

 

1つ目。なぜこのビジネスが成り立つのか。

 

これの答えは簡単で

 

物価の差とインターネットですね。

 

1レッスン25分、150円弱なのですが

 

向こうの人たち(フィリピン人、セルビア人)にとっては

 

5〜10倍の価値があります。

 

この物価の異なる二つの国をインターネットというテクノロジーにより

 

つなぐことができたからです。

 

2つ目。DMMは本当に黒字なのか。

 

これについては推測ですが、おそらくギリギリ黒字かやや赤字でしょう。

 

他社競合を見ればわかるのですがDMMの価格設定は攻めすぎです。

 

また先ほどの物価の話ですが、仮に物価の差が10倍として

 

1レッスン25m,¥132なので時給にすると¥317/h

 

DMM英会話を受講したらわかるのですが、

 

講師の先生のレベルは高く、時間外労働も少なくありません

 

これらを加味すると日本の給料の感覚で時給¥2000は少なくとも

 

もらっているでしょう。

 

つまり向こうの給料で¥200/h入っていることになります。

 

するとDMMの取り分は317−200の¥117/hとなります。

 

ある人が1日2レッスンしてDMMには¥117、月にして¥3510。

 

多くの方は1日1レッスンだと思いますので1ユーザーあたり月約¥1750

 

そのようなユーザーが10万人いて粗利が1.75億円

 

教材サポート、ページのメンテナンス、講師採用などを考えると

 

しょっぱいですねえ・・

 

それでもDMMがこの事業に参入している理由は

 

この市場が成長産業であり、また横展開のし易い事業だからと僕は考えています。

 

今現在は日本人相手の英語学習事業ですが、

 

一度この市場で覇権を手にできれば

 

将来的にヨーロッパ人相手の中国語学事業など応用は自由自在です。

 

また、これは一般論ですが、

 

ある特定の性質を持ったユーザー(今回で言えば、英語学習意欲のある人)を

 

多数抱えるということは、次のビジネスをする際に有利ですからね。

 

以上がDMMが赤字になってでもこの市場に参入したい理由への考察です。