生きています2

とてもふつうに生きています。

この場合の「ふつう」はノーマルという意味の普通ではなく、大禍なく、まあまあ無事に生きているという意味での「ふつう」です。

ノーマル的な意味のふつうではおそらくない。

えっちらおっちら生きています。

 

もはや「普通のしあわせ」など望むべくもなく。

手に入らなくなると確信できてやっと安心する「しあわせ」は呪いのようだなあと思います。

特に幸せがほしかったわけではないのですが、それを望まなくてはいけないという圧力、内面化されていた社会規範をもっと早く捨てられてたらなという気がします。

非常にぶっちゃけると、結婚する可能性を考慮に入れて生きなければならないみたいな覚悟、まったくいらなかったです。くそくそのくそです。

結婚したいと思ったことは一度もなく、結婚しなくてはと焦ったことも一度もないのに、それをしなくては自分が欠落した人間のように感じられる社会規範。

パートナーなどいなくても人は生きられるしパートナーがいたって死ぬ人は死にます。

「家族のために生きることの素晴らしさを認められないやつは不幸」なんていう呪いの言葉はくしゃくしゃに丸めてぽいです。中指立てて「し!ね!」と言ってやりたい。

わたしが欲しいものはわたしが決めていいのだ。

生きています

過去記事をみたら、「五年後に首を吊っている自分しか想像できない」って書いてた。


2009年の記事です。今がだいたい五年後です。現状を続けられるなら、病気や事故に遭わない限り、五年後も生きていると今は思っています。でも、あの頃あのまま生きていたらやっぱり死んでいただろうなと今でも思います。


相変わらず人生落伍者です。将来の展望はほぼゼロです。つらいことも多々ありますが、「わたしの」つらさである限りは、最終的には受け入れられるかもしれないと思っています。他人の、「誰かの」目を通して自分をみている時は死にたくなります。私の「誰か」はおおむね母でした。気がつけば母は私の中にいて、私を通して生きようとしていました。


あの頃の私は、母が死ねば自分も死ぬのだと思っていました。母が死ねば私も「死ななくてはいけない」のだと思っていました。なぜなら、私は母なので、母が死んだら私の人生もゼロにならなくてはおかしいからです。
そして、いつのまにか私は母の母になりました。母の母親になって、母を子としてあやして、母のために人生を尽くそうとしていました。しかしそれは確実に、私という個体にとっては死に等しいのです。


今のところ死にたくはないです。でも、誰かに(母以外の誰かにも)心を支配されそうな時、心の権利を他人に譲り渡してしまいそうな時はやっぱり死にたくなります。


きりよく五年後なことに気がついたので、試しに日記を公開設定にしてみました。
あいかわらずはてな記法について覚えていません。

食事するのは無駄なことではないかと思う。
一般論ではなくて、私を生かすために私が食事を摂るのは無駄なことではないかと思う。
気持ちが落ち込んでいる時、私(というくだらない存在)を生かすために食事(=他者の命を奪うこと)をすることに強い罪悪感を覚える。
食事をしないで生きていければいいのに。
生まれ変わっても私は有機物にはなりたくない。
この世からただ消え去りたい。

起きていると思考の全てが死に向かう。
死に向かうこと以外何も考えられない。
だから一生寝て二度と目覚めたくない。

私が毎日何も楽しいことがないというと、毎日楽しいことがあるわけないでしょ我が儘な的反応が返ってくるけど、通常より楽しい(プラス)ことを求めているわけじゃないんだ。全てが辛くてマイナスなことしかないから、生き続けるために少しでもマイナスではないことがほしいだけなんだけど伝わらない。
毎日辛いというと、みんな辛いんだからと返される。
みんなもそんなに毎日死ぬことばかり考えてるの?
私だけが我慢が足りずに死にたいとか呟いてるの?
人と話しても楽しくない、食べるものにも興味もない、本は読めるけど面白いとかあまり感じなくなった。新聞みたいにただ文字を読んで終わるだけ。ゲームは作業だし、ネットも作業だし。
私がやりたくてやってることは何もない。
でも努力を何もしてないから他人からは好き勝手自由に生きてるように見えるんだろう。
私はただ、毎日死なないように努力してるけどそれは誰にも伝わらない。
生きていることを許されているような人には誰にもわからない。
私の中の全てが私に死ねって言う。
常に死ねと言う自分と戦わないと生きていられない私の気持ちは誰にもわからない。
私は生きていることを許されている人間じゃない。
私の全てが私に生きていることを許さない。
他人は私を甘ったれた我が儘なクズだと思ってる。
私もそう思ってる。
私が生きてる価値なんて欠片もない。
出来損ない。人間のクズ。期待外れ。

頑張れば、いつか

昨日テレビを見ていたら荒川静香さんがボブスレーのオリンピック選抜直前の選手に、「選ばれる前が一番つらいけど、あとから考えるとよかったと思える。今が一番頑張りどきです」と言っていた。

今が一番頑張り時です。
そう言われたら少し救われるかもしれない。
けど、毎日遅くまで自分の時間を削ってサービス残業して、給料も減らされて、工夫の余地もない速さばかり求められる仕事を毎日こなして、それで得られるものは何だろう。
明日につながる頑張りはいつか報われる日が来るかもしれない。
でも、明日がなく自分を削るだけの頑張りには希望がない。
今が一番つらいから頑張れ、といったところで、頑張った先には何もない。
お金も時間も若さも返ってこない。
単純作業しかないので技術も身につかない。
残るのは恨みと諦めだけ。

未来がない頑張りは無駄だ。
今の私の人生は無駄だ。
頑張ればいつかよかったと思える日が来るという価値観は、正直私に絶望をもたらしたね。
今私が頑張ったところで、五年後に首を吊りたくなる人生しか想像できない。
死にたい。

ググる

「死にたい」で検索した結果には共感できることも多いが「死ね」で検索した結果にはほぼ共感できないことに気づいた。



いつも憎しみに溢れている。
見るもの聞くもの、周囲が全て憎い。
加藤締三の五歳時の大人の何とかって本(うろ覚え。あとで補足する)で、鬱になる人は周囲が嫌いなんだろうと書いてあった。嫌いな周囲のために働いたり頑張ったりするから鬱になるんだという話。実感として正しい。毎日会社と仕事を呪っている私は、仕事のためだけに自分が使い捨てられすり切れ人生が終わっていくのを許せない。
12時間会社にいても月給が14万に満たない会社で生きていくのが辛くて死にたい。そして会社を呪っている。
明日にで倒産すればいいと毎日会社を呪うくらいなら辞めればいいのだが。
辞める勇気もないし辞めてもやりたいことはない。ただ消えたい。死にたい。

再開

最近また死にたい病に冒されつつあるので日記を再開してみます。
久しぶりすぎてはてなの使い方を覚えていません。


前回までの日記の狂いっぷりがひどいので消そうと思っていたが、たぶんこれから書く日記もそれなりにひどくなりそうなので消さないまま続けてみる。
私は気分が安定していない時は誰にも会いたくないので日記も書かないのですが、最近始めたtwitterで死ぬ死ぬつぶやいていると少しだけ気が楽になる気がするので、あてもなく世界に愚痴を垂れ流して申し訳ないと思いつつ真面目に日記に取り組む次第です。

明日会社に行かなくてはならない、と考えるだけで泣けてくる。
死にたい。
だけど、辞めたところで何も解決しないのはもう二年の休職期間で証明されている。
私は働くことに向いていないんじゃないか。
働けないということは生きていても仕方ないということなんじゃないか。
私は毎日自分を否定しながら生きている。持っているエネルギーの9割くらいを自己否定をするために使っている気がする。
死にたい。
何で生きているかわからない。
死にたい。
何のために生きているかわからない。未来に何の希望もない。
先行きが真っ暗な人生に耐えられない。
死にたい。


せめて給料が人並みなら良かったけど、一日12時間は会社にいて手取り14万以下っていうのはもうね。
友達と食事に行って、友達が高いものを注文した時に「それ高いから食べたくない」なんて思っている自分がみじめで仕方ない。友達と食事を楽しむべきシーンでお金のことばかり気にするような生き方が情けない。
だけどこの生活から抜け出すためにどっちの方向に努力したらいいか全くわからない。
やっぱり、もう死んだほうがいいんじゃないか。
何のために生きてるのかわからない。
早く死にたい。


今日はスプレー缶を捨てに行ったけど三十分頑張っても缶に穴が開けられず、手が滑って尖った鉄棒の先で自分の手を刺しました。
幸いたいした怪我じゃなかったけど、大きな怪我だったら会社に行かなくて済んだかなと思う自分がいる。


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なんかもうね、性格なのよ。
生まれ変われと言われても死ぬ以外に方法が思いつかない。