かたりのか〜にばる

読書記録を中心に綴っています。

蒲団の香り

干した布団の匂いを「お日様の香り」という人がいる。

僕はどうしてもホコリっぽくて好きになれない。

彼の場合はというと、涙するほどだったようだ。

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匂いや香りは人の記憶を鮮明に蘇らせる。街ですれ違った女性からほのかに香る香水が昔の恋人を思い起こさせたり、デパートのコスメ売り場が海外の訪れた街を想起させたりするように。夕方近所の家の台所から漂う香りで、「あ、今夜はカレーだな?」とか。いや、これは違うな。

当時は随分最後の描写が話題になったようだ。女性の読者は「気持ち悪い」という感想を持つ人が多い気もするが、個人的にはこの主人公の描写は分からなくでもない。それだけ強い印象と感情が匂いによって結び付けられていたのではなかろうか。そこまでのめり込めるほどの女性とはどんな女性なのだろうか。随分と離れた年のようだが、年齢なぞ関係ないのかもしれない。それを気にするのは、いや、気にしすぎるのはこの国の特徴だろう。

年の差のある恋愛感情なんて、今でこそどうってことない認識になってきただろうが、明治の世はどうだっのだろうか?個人的な印象としてはむしろ昔の方が年の差は大きかったのではないかとも思う。良くはわからないが。

ただ、時代問わずオトコという生き物の中には少なからずマザコンロリコンが共存する気がする。特にロリの傾向は強いだろう。

現代の日本において言えば、ロリコン傾向はますます強くなっている。社会が極端な程に「若さ」を貴重で価値あるものとし、歳を重ねたものへの軽視しているから所以である。アンチエイジングが悪い訳では無いが、歳を重ねることへの強迫観念にすら近い拒絶反応は一体何なのであろうか?1つはあからさまな年齢差別。何事も年齢で区別したがる社会制度が、原因だろう。2つ目は、エロティシズム。日本人のエロ観の問題。「エロい」と感じる範囲型の文化圏よりも広いのではないか?幼顔が多い文化圏では、欧米の大人な雰囲気をまとおうとするとギャップが大きく、背伸びした感が出てしまうのかもしれない。顔の雰囲気だけでは無いかもしれないが。なぜなら、そもそも似合わないことが多いから。どうしても「イヤらしさ」が勝ってしまうきらいがある。「かわいい」という言葉が万能なのもこれら様々な要因がもたらすのかもしれない。

そういえば余談だが、就活生のアンケートで、30になったらオバサンという回答が圧倒的に多かったといものをなにかてちらっと見た。30でオバサン、10年後40でおばぁさん、人生80年と考えたら残りは化石か…。「生涯現役」なんていうガツガツした勢いはないのかもしれないな。セカンドライフを楽しむなんて都市伝説的な言説に魅せられてしまっているのかもしれない。まぁ就活生の意見故、この国の企業体質への幻滅からきた浅い考えなのかもしれないが。その割には今の時点で何かを得ようともしている風ではなく、既にセカンドライフ的な過ごし方にも見えなくはない。

話がずれすぎたので元へ戻そう。主人公に肩入れする訳では無いが、女性の恋人なる男はなんともいらだちを覚える人物であった。無計画もいいとこで、何がしたいのかもままならず、かといって「このままついてこい!」という感じでもない。この宙ぶらりんな感じがどうも個人的にはすかん。全てにおいて腹を括っていないとでも言おうか。いや、大学を辞めることに関しては腹を括っていたのかもしれないが…。何事においても「黙り決め込めば嵐はすぎる」と言わんばかりの姿勢にもいらだちを覚える。人間関係の戦略としては一つの方法だが、赤の他人、今後一切関わらないという間柄であれば有効な戦略だが、そうではない状況では単に不利になるだけ。

日本のビジネスマンや就活生が大好きな自己啓発本に書かれる要素が盛り込まれていて、彼らが読むべき本の1つはここにあるのではないかと思わされる。

などと、今恋しい香りはなんだろうかと思い起こしながらつらつらと綴ってみた。

 

では、また。

好きな作家

お題「好きな作家」

最後の記事から、論文を書き始めてしまった(いや、書き直しを始めたというのが正しいか)のと、まだこのブログに慣れていないこともあって、ちょっと横道外れてみようと思う。

少しいじっていたら「お題」なるものが出てきた笑。まぁ、面白半分で乗っかってみるか、ということで書いてみることにする(ほんとは他の人のブログを探したいのだがそれすら分かりにくい。選択をミスったか?笑)

さて、「好きな作家」ということなのだが、これまた難難題である。見つからないとか、いないという答えのないものを無理に探そうとするからではない。むしろその逆である。これは、何か好きなものがある人なら共有できる悩みであろう。例えば、海外旅行が好きなら「好きな国」とか、コーヒーが好きなら「好きな豆」とか、そういった類の質問だ。これに迷わず回答できるとするなら、よほど芯の通った方だとお見受けする。

さきほどいったが、これほど難しい問題はない。特に作家となると、物語そのものが好きなのか、文体が好きなのか、それとも作品から離れた実際の生き様が好きなのか、色々視点はあるがとりあえず好き勝手に挙げてみることにする。因みに、挙げていく順番が好きな順というわけではないので悪しからず。思いつくまま、気の向くままでしかない。

まずはウィリアム・フォークナー。難解な文章で噛んでも噛んでも味が出てくるスルメのような文体、表現がたまらない。個人的には『八月な光』のイントロの部分は、南部に住んでいたこともあるので今読み返すと懐かしささえ覚える。初めて読んだのは学部生の頃。確か課題図書だった気がする。この時は目の前に知らないアメリカが広がった。都会のアメリカ文化に惹かれて夢中にになっていた僕にとって、このど田舎のアメリカはまた別の国のようなものであった。それはそうと、この作品の冒頭を読むと『おースザンナ』を連想してしまうのは僕だけだろうか?確かこの歌バンジョーひっさげて南部アラバマから西へと向かうう内容だったような。それはさておき、一人目はフォークナーということで。

次、トニ・モリソン。モリソンはかなりフォークナーの影響を受けている気がする。本人が何といっているかは、モリソン研究者ではないのでわからないが。多分否定してるだろうな。という憶測。モリソンの作品は中学生で初めて第1作目の『青い目がほしい』を読んだ。当時はさっぱり意味がわからんかったのを覚えている。ただ、読んでいて腹が立ったのは間違いない。ピコーラがなぜあんな目に合わなきゃならなかったのか?何でそんな話にしたのか?誰かが手を差し伸べる可能性を模索しなかったのか?など。それから約10年後、卒論でこの作品を扱った。なんども読み返したが、今度は論文の書き方がわからず(今もわかってないに等しいが)しょうもないことを書いて終わってしまった。この時ほど我武者羅に勉強して学問をしておけばよかったと思ったことはない…いや、今でも思ってるかも。モリソンの作品はそれなりに読んでいる。『ラブ』『マーシー』あたりからはさっぱりだが。『スーラ』『ジャズ』『ソロモンの歌』『ビラブド』『ターベイビー』とあらかた読んだ。どれも面白いし、文体にもこだわって書かれている。これもまたスルメのようなもの。『ビラブド』もいいが、『ソロモンの歌』や『ジャズ』もたまらない。こうやって書いているうちにまた読みたくなってきた。

3人目は、セオドア・ドライサーかな。『シスターキャリー』も『アメリカの悲劇』もどちらも好き。モダニズムやポスモも好きだが、基本的には自然主義文学が好きなのかもしれない。あの最後に何も残らない感じがたまらない。あめりかだけにとどまらず、「欲」を追求していった結果待ち受けるのは虚しさだけというのは、いつの時代にも通用するものだと。今の日本の人たちに読んでもらいたい。この先のびやしない経済活動を追い求めて何が得られるのかもう一度考えるためには、一つの手がかりになるのではないか?そんなことはさておき、『シスターキャリー』でキャリーが舞台女優になる筋なんて、アメリカ、ニューヨークの華やかな世界を描いている。それでも女優はあまりいい仕事だとは思われていなかったのだけど。19世紀の作家エドガー・アラン・ポーの母親は確か女優だったはず。まぁ、ドライサーよりも世代が上だからより厳しかったのかもしれないが。

19世紀つながりだと、ハーマン・メルビル。そしてやっぱり彼、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。またの名をマーク・トウェイン。メルビルもトウェインもかなりコミカルな内容。トウェインは言わずもがなか。メルビルは『白鯨』のイメージだろうが、「バートルビー」なんて結構笑えておもしろい。トウェインの『ハックルベリー』は何度読んでも新しい発見がある。研究の世界では大量に研究が出されているから言い尽くされているのかもしれないけれど、どうなんでしょう。

20世紀中頃から後半にかけてでいえば、ジェームズ・ボードウィンかな。彼はすごく繊細な文章を書くのでサクサク読めるわけではない。代名詞使ってうまく距離感を出したりして、ネイティブじゃなければ注意して読まないとその微妙な揺らぎについていけない。そんな作品。『山に登りて告げよ』は代表作、もう一度読みたい作品。エッセイなんかも凄く味わい深いし、未だに研究出されている。ボールドウィンの専門誌があるくらいだから。

まだまだたくさんいるけど、アメリカではこの人を最後にしておこうか。ジュンパ・ラヒリ。『その名にちなんで』が有名かな。この作品は翻訳でしか読んでいないので、原書でもう一度読みたい。舞台は確かニューイングランド、ボストンだったかな?うろ覚えすぎる。これもマイノリティの話。大雑把に言ってしまえばアイデンティティの揺らぎとか微妙な心の揺れや葛藤などいろんなことが描かれている。また、違うアメリカが見えてくる作品。

国をイギリスに移してみると、やはり最初にくるのはウィリアム・シェイクスピアかな。どの作品も面白いし、悲劇であってもコミカルな要素を入れている。それがミソなのだろうけど。アメリカの文学にも影響してるし、そのほかの国にもだろう。シェイクスピアはもともと元ネタがあってそれを参考に書き換えているから、ヨーロッパ諸国へのというよりはお互いに影響しあったというのが正しいかな。

他にはチャールズ・ディケンズ。文の書きっぷりがすごい。情景が浮かぶし、まるで映像を見ているかのような気分にさせる。うまく表現できないけど、ちょっとお洒落な感じの表現もある。読んだのはずいぶん前だから、もう一度読んでみたい。そういえば、昨日キンドルで『大いなる遺産』と『二都物語』原書で手に入れたところ。いつ読めるかな?

モダニズムでいうならヴァージニア・ウルフとかジェームズ・ジョイスとか。どちらの作家も難しくて、実は読みきったことがない…あ、ウルフは学部の頃に何冊か読んでるな。記憶が薄れすぎてる…。人間の良いところかもしれない。また読む楽しみができるから。

他にもまだまだいるけど、イギリス最後はカズオ・イシグロ。この人の文章は初めて読んだ時、大学受験生が書いた英作文かと思った。レベルが低いということではなくて、文体が受験英語もしくは日本語をベースに英語を書きましたという感じの文体。こうなると、英語文学の新境地とはここなのかもしれないなと、ノーベル賞受賞の時に感じた。意識の流れとかモダニズムが模索したような芸術としての要素は、書かれた英語という言語の背後に潜む他言語の影響なのかも。

さてさて、「好きな作家」ということでいうならこのくらいでしょうか?まだまだいるけど、書くのも流石に疲れてきた。

あ、一つ、日本文学ないって言われそう。ま、読者ついてないから誰もがそんなことは言わないでしょうが笑。日本文学は実は意外に読んでる。でも、全くと言っていいほど記憶に残ってないのです。漱石の作品、鴎外、芥川のいくつかくらいかな。記憶にないという点からすると、おそらく日本文学が僕の人生にほとんどなんの影響も与えていないということなのかもしれない。残念だが、僕個人としてはそういう結論に今のとこら至っている。

最初にも書いたが、こたえを一つに絞れるようなお題ではないので、列挙させていただいた。おそらくこれがまともな回答であろう。でなければ、尋常ではないくらい芯のある人か全く本を読まない人かに違いない。おそらく後者が大半であろうが。読みたい、読まなければという本が積読状態で減るどころか増える一方。内容だけをさらっと追えばいい知識のための本ではないからなおさらだ。文学作品もしかり。本腰入れて楽しむとなるとぐっと読むスピードは落ちる。まぁ、それは仕方ないことだ。むしろ積読があることは幸せなことである。まだ知らない世界からそこに広がっているのだから。

 

 

法廷は演じる場

しばらくは個人的に知ってるけど、じっくりと読んだことないシリーズ。(前回も同じ)

ソクラテスの弁明』The Aplogy of Socrates

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ここで書きたいことは「裁判」「神」 についての2点かな。

 この本はタイトル通りソクラテスの弁明が語られているものだが、裁判を扱った文学作品は数多くある。(ちなみにこの本は研究の世界では作品ではなく事実を記したものとしてとらえられているよう。)

例えば、『ヴェニスの商人』『アメリカの悲劇』『Native Son』などはすぐに挙げられるし、ディケンズもたくさん描いている。

 

以下はごくごく当たり前のことだが、記録のために残しておく。

 

A.神が絶対としつつも、実際に人を裁くのは人というシステムは、現在においても考えなければならない問題。裁く者に降りかかる問題である。またソクラテスの鋭い指摘がたまらない。

 

さて、私を有罪と断じたる諸君よ、私は諸君に向かってこの後に起こるべき事について予言して置きたい(中略)諸君が私に課したる死刑よりも、ゼウスにかけて、さらに遥かに重き罰が、諸君の上に来るであろう。今諸君が、この行動に出たのは、そうすれば諸君はもはや諸君の生活について弁明を求められなくなるであろうと思ったからである。しかし私は主張する。諸君には全然反対の結果が生ずるであろう、と。今よりもさらに多くの質問者が諸君の前に出現するであろう(64)

 

まだ続くけれども、この辺りで切っておく。

人が人を裁くことの重さを語っている。現在この国でいえば裁くのは、裁判官ということになっている。陪審員も匿名。それでも、このソクラテスの言葉は無視できない。特に陪審員は、匿名のはずだから、誰から聞かれる訳でもないであろう。しかし、出した答えが正しかったのか否か、常に自問自答という形で自身に問われ続けることになる。それなりのトレーニングを受けているとはいえ、判事も同様であろう。ソクラテスの指摘は、より長いスパンで降りかかる精神的負担を指摘していると読むことが出来る。

 現在の日本でいえば、自身の決定が全てではないにしても、多かれ少なかれ判決には影響を与える。しかも、二審に進めば陪審員を用いた一審の判決すらひっくり返る制度。一個人のメンタルに負荷をかけておきながら、判決が翻る制度そのものは如何なものか?など、多くのことを考えされられる。

 また、裁判が1つのパフォーマンスであることもソクラテスは教えてくれる。

 

諸君、諸君は恐らくこう思われるであろう。私が有罪となったのは言葉の不足によるものであると、いいかえればもし私にして、有罪宣告を免れるためには、どんなことでもしたりいったりしてのけてかまわないと信じてさえしたなら、言葉次第で諸君を説き伏せることも出来たであろうに、と。しかしそんなことは思いもよらない。もとより何かの不足があったために私は有罪となったのであるが、それは決して言葉の不足ではなくて、厚顔と無知と、諸君が最も聴くを喜ぶような言葉によって諸君を動かさんとする意図の不足である。すなわち私が泣いたりわめいたり、その他私が私に不似合いであると主張するものでしかも諸君が他人からは聴き慣れている如き幾多のことを、したりいったりしなかったためである(62-3)。

 

単に無実であることを立証しただけではその目的を果たさないということ。これは、実際に裁判に係わったことがないので分からないが、判事や陪審員も人、人の心を動かすだけのパフォーマンスが必要であるということだろう。まあ、このブレを無くすために判例が存在するのだろうが。

 少し視点を変えると、一個人もしくは集団を動かすためには、対象が期待することを演じなければならないということ。演者(ソクラテス)が、己の演じたいように演じた結果が、死刑とするならば、役者としてはダメ出しを食らったことになる。期待される人物像を表現出来てこそソクラテスは自身は無罪を勝ち取れたと、自覚している。少なくともそう語る。本当にそんな展開になったかどうか分からんが。

 また、死刑/死に対して怯えろという集団の期待へ応えろということだろうが、死を怯えるという心理が前提。生にしがみつくのは生きとし生けるものの性。それがないことでソクラテスは異質として見なされたということになるのか?という疑問も湧いてきた。

 

B.神

 

諸君、真に賢明なのは独り神のみでありまた彼がこの神託においていわんとするところは、人智の価値は僅少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる(27-8)。

 

キリスト教以前でも人々の意識の中で神は絶対なのかと、単純に思った。日本で考えてみると、神が絶対という感覚はやはりないように思われる。民間信仰神道は万物に神が宿るが、人が創造れたわけではないし、宗教である仏教て、仏は創造主として存在してるわけではないし。やっぱりここは西洋と異なる点であり、哲学や生活におけるものの考え方が異なる大きなポイントである。優劣ではなく、同じレベルで学ぶ姿勢を持たないと、どちらも危険な思想に繋がりかねないし、学術やるにも広がりが出てこない。

 

海外では「無」の価値観や捉え方の研究か進んでいるようだが、日本はまた必死に西洋哲学を追っている。放置して忘れるんじゃなくて同時進行を目指さないと。という最後はよく分からんことになった。

 

ではでは。

 

 

 

 

地図のある本

前置きとして、真面目な解説や分析は多くの方々がやっていらっしゃることなので、はここでは自由に思ったこをつらつらと書いていくつもりです。

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さて今日は、言わずとも知れたミハエル・バフチンによる『ドストエフスキー詩学』。

しかも今日は中身には触れません。

 

のっけから、これのどこに地図があるんじゃ!?と、突っ込まれてしまいそうですが、僕個人としてはキチンと地図のある本だとおもいます。といっても、研究書なので当然といえば当然ですが。

「第1章 ドストエフスキーポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」とあります。

バフチンは、これまでどんな研究がなされてきて、ここではどういう視点でどうやって解釈していきますよ、という宣言をしてる。

しかもかなりな分量で。

上で書いてますが、研究書なので当たり前です。

どの研究書にもあるものです。

いわゆる先行研究のマッピング=地図。

これがないとほんと困る。

読んでる人はどこに連れて行かれるのやらと、不安に。

この地図がないのが僕の論文であることは内緒で笑

でも、笑いごとじゃなくて、これが例えば書籍の一章分くらいの論文になると、地図がある論文とない論文が出てくるんですよ。

僕はよく歴史・社会学系の研究している知り合いから指摘される笑

彼らからすると、例えば、ん〜、アーサーコナン・ドイルの『緋色の研究』についてってなった場合、それって同時代の他の作家や作品と比べた時どういういちなの?とか、当時どれだけ読まれたの?とか、場合によっては今どれだけ読まれてるの?とか、そういう議論をする側の位置に加えて、作品の位置も気になるらしい。

確かに、論文読んでてそういう位置付ってないなーって思う。

博士論文とか書籍にはあるのになーって。

それをきちんと示してくれる。分野によっても違うし、著者のスタイルによっても違いますが、序章でマッピングしてある人と、バフチンのこの本のように1章で書く人とで別れますね。

気合い入れて丁寧に読むぞって本にたいして、僕は意外と序章を最後に読んで読んできた内容を確認する派なので、序章でこれをやられていると「うーん…」となってしまう。

そのくせ自分で書く時は序章に入れる派。

単に、イヤなやつかもしれない笑

いや、そんなことは無いはず!

それでも、まだまだ書くのが下手くそ過ぎてまだまだ修行中。

文章書くのって大変だけど、その修行が楽しいですよね。

さてさて、この本はポリフォニーとカーニバルの二点が魅力。

個人的にはカーニバル論を詳しく読みたいので、内容についてはまた次回にでも、書きます。

平凡社ライブラリーから出てる『ドストエフスキーの創作の問題』の方がわかりやすいという話は聞きますが、どちらも読んでこそでしょう。

というわけで、今日はこのくらいにしておきます。

では、また今度。

 

 

祝・開設

はじめまして。

アメリカ文化・文学を中心に研究しているケイと申します。

ここでは読んだ書籍などを記録していこうと思っています。

記録し始めるのはおそらく2月になってからだと思いますが、どうぞよろしくお願いします。