書きかけ昇華2

傷つく、ということについてここ最近はずっとずっと考えている。同じネタでソロ議論を繰り返してるのクソダサなのでそろそろ辞めようと思い、少々長めの文章でまとめることにした。

 

弱肉強食の社会は終わりつつあり、弱者が弱者として弱者同士結託し強者を張り倒す力を持ち始めたように思う。良いとか悪いとかそういう事を抜きにして、少し遠いところから眺めるとなんか奇妙な状況に見えんねん。

 

かくいう私はたぶん、この社会の変化の只中にいる当事者でない。ひとまず自分を社会的弱者だと感じたことはないので。

頭身バグってるけど五体満足だし、女性ホルモン少なめだけどノンケだし、エンゲル係数高い家庭生まれだけど部屋に小銭転がってるし、モテないけど愛されてる。

差別されたり虐げられたりしてトラウマを負わされたことは一度もない。

でも人並みに傷つく。もしくは人並み以上に傷つく心を生まれ持ってしまったという自覚がある。人間それぞれが生まれ持つ悪意ゼロ%の棘でめためたに傷ついて血だらけになり発狂しかけた経験なぞ掃いて捨てるほどある。所謂メンヘラというのだろうか。

自分の傷つきやすさに気がついたのは恐らく中学生とかで、それから如何に傷つかずに生きていくか探ることが人生のタスクとして常に課されている。

大学生になり1.2年経ったころ、相変わらずそのタスクをこなしつつ成長してたわけなんだけど、自分を傷つけている殆どの原因が自分であることを発見。(世紀の大発見!)無意識にメンタルリストカットしている己を調教し直すことで多くの自我が救われたのであった………

 

対面する他者からかけられた言葉や態度によってつけられたと思っていた傷は、結局、他者を鏡として反射した自分からの攻撃から受けたものだったのである。全部じつは反射やねん。だって他者の言葉の実際の真意なんて、どんな手を尽くしても完全に分からんのにその言葉に己の深部に及ぶほどの傷をつける能力あるわけないじゃないですか、ねえ。

 

 

 

 

 

爪、ありがとう

バイト後の帰路で観ていた映画が残り20分のところで最寄駅に尽きてしまったので、駅ナカドトールにて残りを観終えた。いつもは絶対に頼まない甘いコーヒーを選んでしまった為に、なかなか飲みきれず観終わってからもグダグダしている。喫茶店の類では挑戦ってするもんじゃないですね。

フランシス・ハを正月に観た流れで(?)マリッジストーリーを観て号泣し、昨日のイベントが終了したら観ようとダウンロードしておいた20センチュリーウーマンを観ました。3作とも主に「女」の映画ですね。

1人で道を歩いているときに「私は女が嫌い女が嫌い女が嫌い」とブツブツ心の中で呟いてしまう私も、この3作がグサグサ刺さってしまうということで、結局女なのだ。

女が嫌い、という前提がありながらも女の好きなところはたくさんある。女の身体はとても好き。男の体よりずっと興味深いし、どんなに見てても飽きない。銭湯に行くと他人の身体をジロジロ見てしまう。自分の少し醜目の身体を眺めるのもそれなりに好き。鏡で自分の顔を見るより、身体を見ている方がずっと面白い。多分これは人類全般的に割と普遍的なことなのでしょうね。裸婦の絵を描きたくなる巨匠たちの気持ち、分かります。

女には、美しき醜さのようなものがある気がする。生活感と美が混じっていて、見たくないものは基本的にいつも隠されているからこそそれらが露呈した時の衝撃と感動がある。あと隠されたものを見たいという欲望を引き起こす。パンチラもその類ですか?なんですかねコレは。よくわかりません。

 

でもその女の美しき醜さは、客観的視点からこそあり得るもので、私が女であるということは関係のないことである気がしちゃう。本当は絶対に関係しているし、私もきっとそれを持ち合わせているのだろうと思いますが、私にはそれが見えないよ。

だから遠くにあって絶対に客観で見ていられる男性的醜さを追いかけてなぞろうとする。なぞれるはずは絶対にないのにね。結局人間は無い物ねだり、という月並みな結論に終わる。

 

いやあ、ハニーなんとかラテ、マジで甘すぎてキッツイでぇ。飲みきれん。残します。

 

 

2020

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お久しぶりのような気がする1日休日!14時まで寝倒して、ラッキーを観ました。アメスピオレンジを吸うカウボーイの90歳じいちゃんがカッコよくて思わずコンビニに同じの買いに行っちゃった。今日から数日はアメスピスモーカーです。

 

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昨日最重要友人と飲んで、たくさん自分の近況と秘めた欲望などを言語化して吐露したら、迫り来る2020がとても楽しみになってしまいました。2019年が終わりその後すぐ21歳が終わるわけだけど、終わることよりも始まる何かに期待出来るなんてとても健全でよろしいね。

 

なんのために生きてんねん、と度々バッドに入るここ最近だけど、1ミリでも触れたいと思う世界があるなら触れるべきだし失うものはないから飛び込むべきだな。

失うもん、ホントないっす!ヨカッター!失うもんなくてヨカッター!!!

 

わたくし、どんどん向上していっている!ので、私に愛と興味を持ってくださっている皆様乞う御期待!がんばるね〜

 

 

はい

タバコ臭い手でニベアを顔に塗りたくる

生きること自体のさびしさを、自覚がなくとも抱えている人間以外言葉が通じないと思っている気がする

安い発泡酒で緩んだ脳みそから流れる液体を、声にならない叫びとともにベランダで吐く

煩悩を取り去るのではなくて煩悩に苦しむ己を眺めて哀笑できる人間の方がよっぽど釈迦より悟っているのではないでしょうか。

つまりなにがいいたいのか

つまりなにがしたいのか

何のために明日に備えて寝るのか

明日なにがあるのか、知ってますか?何もないです。今日と同じように何もない。今日、初めての経験をして初めての感覚を味わったように、明日も初めての経験をして初めての感覚を味わうだけ。つまり何もない。新しいとか初めてとか、そんなことは本当はなんでもない。無です。

それじゃあ何のために生きているのか?私は無のために日々変形しながら生まれ持った美しいなにかを削りながら死に向かって進んでいるのか?イエス。その通りです。しかしそれが快感なのかもしれないという気づきが少しばかりあるために、それを確信に変えるために、非日常を含めた日常をやっているわけだ。

と、結論を出したら生きることが終わる

 

あーあー面倒くさい。言語化できない感情を言語化したいという欲望があるので、ずっと満たされないままきっと死ぬ。

ああ満足したこれで死ねる、と思いながら死ぬことを望みながらそうならずに煩悩に苦しめられながら死ぬことを欲している(?)

 

只ならぬ鯖

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言葉にしたいことがたくさん溢れてくるのは、天井を見上げるか床を見つめるしか出来なくなるほどべろべろに酔っ払ったときなので、ケータイを開いて文字を入力せずとも文章が書けたらいいのにね。

この世界で私とあなた以外にとって無意味で全く興味がないような自分語りとかをダラダラと非生産的に語り合えたら幸せだろうな、と妄想をしますよね。その「あなた」であって、他の誰でもないんですよね。特別でハイパー特別な人。そんな存在ってあり得るんですか?酔っ払ってヘロヘロに精神が弱っている私にとってはあり得るものに感じるのですが、昼間の、最強な自分には幻想に思えるらしいのです。

 

孤独をひしひしと感じているときに限って、夢物語を信じ込みやすい。だから酒を飲む。酒を飲んだ孤独はとても繊細で尊くて弱くて、守ってあげなければ、という意思が働くのかもしれない。先日の酒飲み論とは全く正反対のことを言っている。ダブルスタンダード

 

昔は家族という存在、最強だったよね?私は末っ子だから尚更なのかもしれないが、自分は一番馬鹿で無知でアホで、でも家に帰れば「絶対的正」な人間が居て、しかもその人たちが自分のことを無償で愛していてくれて、無敵だったよね。自分の知らないこと全部知ってて、聞いたら教えてくれて、私の間違っているところを愛を持って正してくれるという最強存在。私無敵だった。

その最強存在とはかけ離れたところで、家族も知らない経験をたくさん積んで、ハタチを過ぎ、彼らと同じ一人の人間として立ち上がったとき、家族なのに!!!生きるスタンスがこんなにも違うのか、とか、私の疑問に対して満足のいく答えを与えてくれない「元最強存在」に絶望をした。悲しすぎるよなこんなの。じゃあ私は今後何に縋って生きていけば良いのじゃ。

 

あいも変わらず、無償の愛情を与えてくれていて、私は本当に恵まれている。自分が生まれてから不幸だと思ったことがないのは、この家庭のおかげだと心から思う。でももうなんか、違う。違うと思っている自分は、とても罪悪感がある。悪い意味での背徳感。私は彼らを心の何処かで小馬鹿にしているのか?

最強存在であった家族にさえもそんな感情を抱いてしまう私は、果たして、何か他人や対象に対して心からのリスペクトを永遠に保つこと出来るのか?

これってもしかして…遅れてきた反抗期???遅れてきたせいでこんなに捻くれてしまっているのですか?もしくは私は家族信仰をし過ぎていたのだろうか?

 

どうすりゃええんや。

悲しみでいっぱいの水曜日

 

酒についての考察1

酒は私の人生に多大な影響を与えている存在なわけだが、それと面と向かって見つめ合い言語化したことがない気がする。そんなことは私なんかよりもっと酒に溺れ、言葉に深い人が既にやっていることだし、何よりも今後ともお世話になる存在なのだからたかだか酒と出会って2.3年の現在の私がしなくてもよいだろうと思っていた。しかしなんだか今、酒について考察がしたいのです。

何故私は酒を飲むのか。酒によって私は何を得ているのか。なんだろう。忘却?眠りか?

眠りかもしれない。起きている間は思考を自分の意思によって続けなければならず、それに対する自己反省も己の意思を必要とする。それが面倒。苦しいし、傷つく。己を一番傷つけるのはいつだって己なので、その己を眠らせれば傷つく心配も無かろう。こういう思考さえも面倒だし、自分から見ても気持ち悪い。さっきまで読んでいた三島の文章からの影響が見られて、これを第三者に読まれる可能性などを考えると恥ずかしくてたまらない。恥をかくまえにさっさと思考を眠らせたい。そういうワケも酒を飲む一因であるかもしれない。

 

今日は夜早くから500缶の発泡酒を2本飲みながら読書をして、たった今、先日ボトルで買った安ウイスキーの水割りを飲んで早く眠りたいと願っている。ある1日が夜に差し掛かると、その1日を早く終わらせたいと心のどこかで願っている気もする。私は人生が嫌いなのですか?

 

いろんな人たちが心を病んでいる。酒を飲めばいいのに、と私は思った。酒を飲めば、眠ることができるから、心を病ませる問題から逃れることができるじゃないですか。何故飲まないのだろう。

きっと私が知り得る苦悩よりずっとずっと根強いものを抱えていて、酒による眠りなんかでは解決しないものなのかもしれない。実際、私が眠りによって忘れ去ろうとしている苦悩だって、酒を飲んだからといって解消されるわけではなく、次の日目を覚ましたら眼前に立ちはだかっている。だけどひとまず、寂しい夜にその苦悩と一対一で向かい合うよりは清々しい朝に対面する方がまだマシな気がするし、もしかしたら朝は来ないかもしれないという希望を抱きつつ眠るのかもしれない。

私は昔から、問題から逃れる術は眠りだったらしい。今朝中学や大学受験期の日記を読み返してそれを知った。眠りがいろんな問題を解決してくれると思っていたらしい。もしくは、理性ではそう思っていなくとも、身体が本能的に眠らせていたらしい。

 

何故現在の私はシラフで眠らず、飲酒によって眠るのか。理性が成長しすぎたのかもしれない。強い理性を抑えて眠るためには酒の力を借りねばならないのかな。

 

酔いが回ってきて、考えることがどんどん億劫になっていく。眠ったら、1日がこうやって無意味に消費されていくから眠りたくないという気持ちと、早く眠って新しい1日を迎えたいという気持ちが葛藤している。どうしよう。

 

酒の力を借りて生きている人間の話を聞いて、この考察をもっと深めたいなと思い始めた。