お茶会&似顔絵会ダブルヘッダー(桜井玲香)参戦記

 お久しぶりのブログ更新となります。昨日は乃木坂46 18thシングル「逃げ水」のスペシャルイベントAコース、お茶会と似顔絵会のダブルヘッダー(桜井玲香)に参加してきたので、記憶が薄れぬ内に記事にしておこうと思います。

 

Ⅰ.応募の経緯

Ⅱ.当日の概要①イベント開始まで

Ⅲ.当日の概要②お茶会

Ⅳ.当日の概要③似顔絵会

Ⅴ.感想

 

Ⅰ.応募の経緯

 今回のスペシャルイベントはAコースとBコースがあり、Bコースはゲーム会とのことでした。事前に人から聞いた話だと、話をする分にはこのゲーム会の方が良いかもしれないという意見もあり、実際に推しメンとの会話(それもまとまった時間の)に飢えていた僕としては悩むところではあったのですが、やはりこの手のイベントに参加するからには何か記念になるお土産が欲しいなという思いもあり、結局似顔絵会に応募することにしました。

 

 当選通知は参加券となるハガキが郵送される仕組みですが、今回はいつもよりも到着が遅かったようでイベントの5日前と直前でした。仕事のある人や、遠征をしなければならない人もいるので、もっと早く通知があれば良いと思います。

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↑実際に届いたのがこちらです。

 

Ⅱ.当日の概要①イベント開始まで

 イベントはメンバーを何組かのグループに分けて交代しながら行われるので、参加するメンバーとイベント(AコースかBコースか)によってそれぞれ集合時間が違い、僕は夕方の集合でした。待機列に並び、手荷物検査と金属チェックを済ませたあと、会場となるホールに向かいます。その入り口で今度は参加ハガキと身分証の確認があり、ハガキと引き換えに参加券をもらっていよいよ入場です。

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↑ 2番の参加券

 

 以前イベントに参加した際は、ホールに入る前にまた列をつくって待機させられ、そこから自分たちの前の回のイベントを終えたメンバーたちが控え室に戻っていく姿を見ることができたのですが、今回はありませんでした。

 

 会場内に入ると、テーブルの島がいくつかあり、それぞれにメンバーの名前が貼ってあります。また、座席の背には数字が貼ってあり、先ほどの参加券の番号の席につくようにアナウンスがありました。ということで、僕は桜井玲香テーブルの2番の席を探します。すると桜井玲香テーブルは似顔絵会が行われるステージに最も近いところにあり(下手側)、そして2番はなんとメンバーの横の席であることが判明しました。よくある長方形のテーブルで、いわゆるお誕生日席にメンバー、その両隣が1番と2番、さらにその隣が3番と4番、メンバーの正面が5番です。テーブルの上にはお茶の缶が人数分とプラスチックのトランプが置いてありました。

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↑座席配置

 

  テーブルに他の参加者が集まったところで、自己紹介をしたり軽く雑談をし、それからスタッフさんから今回のイベントの簡単な説明があり、いよいよメンバーの入場です。この回の参加メンバーは秋元真夏生田絵梨花井上小百合衛藤美彩齋藤飛鳥桜井玲香白石麻衣高山一実西野七瀬松村沙友理という錚々たる顔ぶれ。最初に姿を見せたのは西野七瀬さんでした。首がかわいかったです。

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↑衣装はこの制服です。数日前の歌番組で前髪を出したりしまったり自由自在なことが判明した桜井さんは今回はおでこを出してました。

 

 あ、どうも…今日はよろしくね、みたいな感じで静か〜に席につくと、それまでは余裕のあった僕もうわぁ待って近い無理…となり、松村沙友理さんがスタッフさんからマイクを奪って何か言っていたことも全く耳に入りませんでした。知り合いのヲタクが違うメンバーについて、隣の席で良い匂いだったと言っていましたが、僕は全然記憶にないので緊張のあまり呼吸をしていなかった疑惑があります。ということで、ここより先は思考力や記憶力の欠如が著しいのですがご了承ください。


Ⅲ.当日の概要②お茶会

 お茶会では、最初に乾杯をし、そこから神経衰弱をやりました。ただし、厳密にルールがあるというわけではなく、乾杯の音頭とともに時間の計測をはじめ、テーブルごとに自由に神経衰弱をやり、終了時点で1番多く揃えた人が景品をもらえるということだけ決まっていました。

 

 粗相のないよう、様子を見つつ慎重に事を運ぼうとするヲタクを尻目に「はやくやらなきゃ!」と真っ先にトランプのケースに手を伸ばす桜井さん。僕なんて乾杯のときに缶をぶつけていいのかで躊躇して内心オドオドしていたのに。桜井さんにカードを配らせるわけにはいかないので、やります、と手を出すと、バッとそのまま渡されました。「渡すんだ笑」ときかれて「だってやってくれるんだもん」とニコニコ答えていました。はい喜んで。カードをバラバラっと並べ、それをみんなでテーブルに広げてゲーム開始です。桜井さんから時計回りで、僕は最後でした。

 

 本番を迎えるまでは僕も当然勝ちにいくつもりでした。でも、近くで推しメンを見ていたらカードの情報がなにも頭に入ってこなかったので早々にあきらめました。そしてそこからは推しメンがたくさんペアを取れるように、いままで開かれていないカードをたくさん開けようという新たな境地に行き着きました。桜井さんは桜井さんで、ヲタクがやろうというときに積極的に話しかけたりしてきて、あれは多分気をそらす戦術だったに違いありません。

 

 身を乗り出して遠くのカードをめくる大胆な姿に萌えたりしていると、もうどこに何のカードがあるかとかどうでもいい気がしてきました。カードがテーブルに貼りついてなかなかめくれないのをめくってあげたりすることに気を遣っている内に、神経衰弱ってなんだっけとなりました。推しメンとやる神経衰弱は神経衰弱の本質が変わります。それにしても桜井さんが次々にペアを取るので、思わず「めっちゃ勝ちに行くじゃん」と言ったら「当たり前じゃん」と言われました。というか軽く怒られました。

 

 そして桜井さんが勝ちました。おいおい…

 

 ということで、2位の方がトートバックにサインを入れてもらうことに。乃木坂のロゴの入っているオモテ面とまっさらなウラ面のどちらにサインを入れようかな、と悩んでいたので、「そっち(オモテ面)が良いんじゃない?」と口を挟んだらそうしていました。いま冷静に振り返ると、なんで勝ってないお前が口出ししてるんだ、という感じです。本当にごめんなさい…

 

 ゲームの時間は2分くらいでしたでしょうか。終わった後にスタッフさん(吉田さん)がメンバーの飲んでいた缶を回収にきました。桜井さんはほとんど飲んでいなかったようで、「これもう大丈夫?」と聞かれて「うん大丈夫」と答えていました。パパ?

 

 そしてつづけて似顔絵会に移行します、というアナウンスが入りました。桜井さんは1番ステージに近かったので、まっさきにステージに上がり、それに他のメンバーも何人か続きましたが、そこでスタッフさんから「メンバーはファンの方と神経衰弱の片付けをちゃんとしてくださいね、最後まできちんとやって終わりです」というような注意が入ると、桜井さんが「あっ、やば」みたいな感じで一瞬ステージを降りようとしましたが、我々のテーブルが綺麗に片付け終えているのを見ると何事もなかったかのように席についていました。

 

Ⅳ.当日の概要③似顔絵会

 似顔絵会はステージ上に長い机と、それを挟んでメンバー用の席とファン用の席が置いてあり、1人ずつ参加券の番号順にメンバーの前に座っておしゃべりしながら似顔絵を描いてもらう、という仕組みでした。時間は2分と言っていましたが、結構過ぎても描いてるメンバーもいました。

 

 僕は2番でしたので2番目に描いてもらうことに。席につくと、早速描き始める桜井さん。描きながら割とじっくり何度も何度もこちらの顔を見てくるのですが、こちらはこちらですることがないので相手の顔をただ見つめるしかなく、この状況に心臓が飛び出そうでした。横にいたのは齋藤飛鳥さんと白石麻衣さんという豪華な面子だったので、そっちも見ておくべきだったのかもしれませんが、そんな余裕はありませんでした。欲張ってもなかなか上手くいかないものです。

 

 描いてもらいながら、おしゃべりをしました。椿屋珈琲店のバイトの話や、シンガポールの話を聞いたり、東京ドームの感想を伝えたりしました。あとは、握手会でも良くする映画の話も。最近の作品の話になったので「IT」を観たか聞いたら、気になるけど怖いから躊躇ってると言っていたので、単純なホラーとかでは収まらない素敵な映画だからとその良さを伝え、ぜひ観た方が良いとオススメしました。友達と観に行けば?といったら、でも一人で観たいと言っていました。映画は一人で観る派らしいです。即座にオレモーと言いました。セルゲイ・ポルーニンも出る「オリエント急行殺人事件」の話とかもしたかったのですが、残念ながらこのあたりでタイムアップ。最後に名前を書いてもらい渡してもらってステージを後にします。

 

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 他のヲタクからも似ていると言われました。よくわからない小っちゃい手も書いてくれました。記憶にないだけで、描いてもらっている間ずっと手を振っていたのかもしれません。

 他の方で、頼んでメッセージを書いてもらったという方もいらっしゃって、自分はそういう押しが欠けてるなと思いました。桜井さんの似顔絵はどれも特徴を捉えていて、上手だったと思います。

 

 最後の5番の方まで終わると、スタッフに促されてメンバーが退室します。積極的に自分のファンに手を振るメンバーや、会場を見渡すメンバー、いろいろいる中、桜井さんはお母さんが授業参観にきたのを恥ずかしがる小学生男子なみにこちらを見てくれません。と思いきや、パッと一瞬こちらを見て手を振ってくれました。ツンデレです。最高にかわいらしいエンディングでした。


Ⅴ.感想

 初めてのお茶会&似顔絵会はとても楽しいイベントでした。お茶会は確かにゲームとしてはわずかなターン数しかできませんが、なにより集団で推しメンと作業する経験はなかなかありませんし、桜井さんがガンガン仕切るという意外な面も見えておもしろかったです。推しメンのために何かをしてあげられる場面はそうそうあるものではありません。

 似顔絵会は思っていた以上に会話も楽しむことができたのが嬉しい誤算でした。絵を描きながらなので、まとまった話をじっくりというよりは、軽い雑談のような感じではありましたが、改めて推しメンとおしゃべりするのは楽しいと感じました。そしてあんなにじっくり顔を見る(そして見られる)機会も貴重なので、良い思い出になります。桜井玲香さんは写真や映像で見ても綺麗だけど、生で見るともっと綺麗なので引きます。見たことがない人は見るべきです。

 

 最後に参加した他の桜井さんヲタクのみなさん、そしてなにより桜井玲香さんありがとうございました。

 

おわり

 

「凝集力」から見るアイドルグループ −生田絵梨花と工藤遥の比較でわかること

はじめに

 異なるアイドルグループどうしを比較するとき、僕が重要だと考える要素に「凝集力」というものがあります。これは何かといいますと、ようするに「グループがどれだけまとまっているか」を示す基準であって、この「凝集力」は様々な面でそのグループの性格となって表れます。

 

 今回のブログでは、この「凝集力」について、それがどのように生まれ、そしてどのように発揮されるか、について考察し、その中で、生田絵梨花(乃木坂46)と工藤遥(モーニング娘。'17)をめぐるそれぞれのグループの動きの比較を例にとって、乃木坂46というグループの性格について分析してみたいと思います。

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凝集力とはなにか

 最初に「凝集力」について、もう少し明らかにしなくてはなりません。

 凝集力というのは、あるグループがどれだけまとまっているかを示す基準であると述べましたが、これは見方を変えると、そのグループがそれを構成する各個人についてどれほどの影響力を有するかを示している、とも言うことができます。ここには"個人と集団"という対比を見出すことができるのではないでしょうか。凝集力が高ければ高いほど、集団としてのまとまりは強固なものとなり、反対に個性というものは抑制される。逆に低ければ低いほど、個性が立ち、反対に集団としてのまとまりは弱くなる。

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凝集力はいかに構成されるか

 それでは、凝集力を左右する要因にはどのようなものが考えられるでしょうか。ここでは4つの項目に注目しようと思います。まずは①グループの構成人数。次に②共有した経験値。それから③統一された目標。そして最後に④束縛/自由度。それぞれどういうことか説明していきます。

 

 グループの人数については、単純に、構成人数が多いほどグループとしてまとまりにくいことは明らかでしょう。特に大人数グループの場合は、実際の活動に際してどのように分割され、そしてお互いにどれほど交流しているか、について検討することも必要かもしれません。なぜならそういったグループの場合は、常日頃から全員で活動するということはほとんどなく、いくつかのチームやユニットという単位で分割されて活動することが普通だからです。そこで、たとえば分割されたユニットどうしの垣根の低さ、つまり両者の間でどれだけ流動的にメンバーが入れ替わるか、というのも交流の具合を測る指標となりうるでしょう。

 

 共有した経験値というのは、上述のユニットごとの交流という点とも関連する項目です。どれだけ多く長く濃く同じグループの構成員として経験を共有し、困難を乗り越え、喜びを分かち合い、悲しみや辛さと向き合ったか、ということです。グループ全体での活動の頻度や量は、たとえばライブなどの回数からも分かりますし、活動年数なども大いに関係するでしょう。これらは、自分が構成員としてグループにどれだけ関与することができているか、という自覚につながります。また他にも、オフのプライベートの時間の共有というのも重要な要素かもしれません。

 

 統一された目標というのは、グループとして目的意識や目標が統一されているほどまとまりが強くなることを示しています。CDの売り上げ枚数や、ライブ会場のキャパ、有名な番組への出演、オリコンや音楽賞などの記録、知名度や人気、その他あらゆる指標が目標となるでしょうが、それが統一されている方が、グループの構成員として「何をがんばるか」を意識しやすく、ゆえに結束も固くなるでしょう。別の言い方をすれば、自分たちの立ち位置に関する理解の共有と言うことができるかもしれません。グループとしてこれまでに何を達成し、これから何を達成したいのか、という俯瞰的な動きを把握できているかということです。

 

 束縛/自由度というのは、アイドルグループの運営陣(あるいは内部の構成員どうし)がどれだけキツく構成員を束縛しているかということで、規則の厳しさや、個人仕事(グループの一員としてではなく、個性に起因する仕事)への意欲(寛容度)などの要素から見ることができるでしょう。束縛度が高いほど(自由度が低いほど)当然、グループとしてのまとまりは強固になる。

 

 以上のことからも分かるように、凝集力というのは固定されたものではなく、あらゆる要素に応じて常に変化していくものです。したがって、同じアイドルグループについてであっても、時期によって凝集力は異なりますし、その発揮のされ方も違うでしょう。

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凝集力はいかに発揮されるか

 実際に、凝集力はどのように発揮されるでしょうか。①活動内容と②その質、③構成員の入れ替わり、そして④ファン層の計4つのポイントに着目します。

 

 まず凝集力が高いグループはそれだけ活動内容が固定化されます。グループとしてやることが決まっていたり、方向性が定まっているために、ライブが多いとか、なにかしら活動の軸が定まっている場合が多いからです。そういったグループにおいては、個よりも集団が優先される傾向が強いため、個人の外仕事は比較的少ないと言えるでしょう。

 

 次に質についても、凝集力が高ければ、それだけ練習の時間や質が確保されますし、実践の機会も多くなりますから、上がるでしょう。凝集力の低いグループで、各構成員のやりたいことが異なり、それを束縛する規則も空気感もゆるければ、それだけ特定の活動についてグループとしての質を確保することが難しくなるというのは容易に想像がつくはずです。

 

 構成員の変化、とくに卒業というのも凝集力の高低が大いに影響する場面であると言えます。凝集力が高いと、それだけ結束が固く、したがって卒業しにくいかと考えがちですが、実はそうではない。むしろ、凝集力が高いとそれだけ異質な存在に対する寛容さが失われるので、ひとたび逸れてしまったときに元に戻りにくいのです。つまり、凝集力の高いグループに在籍する場合、個人は集団に合わせなければならず、それをしたくなくなったら卒業しか選択肢がないのです。

 

 凝集力の高いグループと低いグループとでは、ファン層にも違いが現れるものです。アイドルオタクに関して、グループの中で特定のメンバーを推していることを「単推し」、グループ全体を推していることを「箱推し」と言いますが、凝集力の低いグループのオタクは「単推し」、高いグループのオタクは「箱推し」の傾向が強くなるのではないかと考えられます。これは、グループとして、集団に対してどれだけ個を重要視しているかが関わっています。したがって、たとえ「箱推し」とまで言えなくとも、凝集力が高いグループでは、推し以外のメンバーについての関心度も総じて高いと思われます。逆に、たとえば大人数グループで凝集力が低いと、ほとんど関心がなかったりすることが多々あります。なぜならば、オタクにとってみれば、凝集力の高いグループはその全ての構成員が互いに強く関連しあっていて、良くも悪くも無視できないのに対して、凝集力の低いグループでは、構成員どうしの関連性が低く、無視できるからです。

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乃木坂46の凝集力

 凝集力の高低は、グループの良し悪しやその人気とは比例しません。秋元康氏プロデュースの大人数アイドルグループ、中でも乃木坂46はそのことを示す模範的な例だと言えるでしょう。なぜなら、乃木坂46は数あるアイドルグループの中でも突出して凝集力が低く、それでいて同時にそれを武器として今日の国民的な人気を獲得するに至ったグループだと解釈することができるからです。

 ライブは少なく、48グループのように専用の劇場も持たない。活動にも統一性がありません。「乃木坂らしさ」の答えが見つからない、というのは乃木坂46がこれまで向き合ってきたグループの特徴です。それはある種の欠点であり、克服すべき点であるかのように言われることもあります。

 しかしながら、実はそうではない。キャプテンの桜井玲香ちゃんも今年の7月3日に発売された『別冊カドカワ 総力特集乃木坂46 vol.4』のソロインタビューの中で

『(略)一言で言えるようなグループというのもつまらないのかなって。

 だって、もともと"色がないグループ"になりたいですと言っていたので、最初の頃の私たち。それでいいんですよ。6年目にしてそう強く思えました』(p.25)

 と述べており、これはまさに凝集力の低さを指しているわけです。そして、それが強味であることを理解した発言なのです。

 凝集力の低さゆえグループとしてのパフォーマンスのスキルはあまり高くないかもしれない。もちろん弱点はあります。しかし、凝集力が低いグループであるからこそ、幅広い分野に個々のメンバーが進出することができ、それだけ裾野を広げることができる。アイドルという枠を超えた個々人の活躍が可能となっているのです。

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生田絵梨花工藤遥の比較にみるグループの凝集力の違い

 そしてその特徴を最も力強く体現するメンバーの1人が生田絵梨花ではないでしょうか。"ロミジュリ"や"レミゼ"といった名だたる著名ミュージカル作品への出演や、女優としての岩谷時子賞の奨励賞の獲得など、その活躍はめざましいものです。そして、これだけ"個"として活躍していながら、いまなおグループに居残っていることは非常に象徴的です。

 そして、生田絵梨花を思うとき、僕はモーニング娘。'17の工藤遥(くどう はるか)のことを同時に思うのです。なぜならば、この2人は凝集力に起因する2つのグループの性格の違いをこれでもかと言うほど分かりやすく示しているからです。

  工藤遥は今秋でもってモーニング娘。を卒業します。その卒業理由は女優を目指すため。モーニング娘。は凝集力の高いグループですから、彼女に女優になりたいという夢ができた時点で、卒業は半ば必然なのです。凝集力の高さにも起因するパフォーマンススキルの高さや、グループとしての統一性などの要素は確かに強味でしょう。しかしながら、あるいは、だからこそ工藤遥は卒業しなければならない。彼女の境遇もまた、モーニング娘。というグループの凝集力を体現しているのです。

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おわりに

 ここまで長くなりましたが、僕が言いたいのは、凝集力が高いグループが良いとか、低いグループが良いとか、そんなことではなく、それぞれに違った良さがあり、その違いを把握しないとその動きを見誤るよ、ということです。すでに述べたように、凝集力というのは常に変化します。乃木坂46だって、東京ドームという1つ大きな目標を達成したら間違いなく変化が起きるでしょう。3期生がグループの中にどのような交流を生むかも楽しみです。これから、アイドルグループを見るときに「凝集力」という視点を持ってみるのも面白いのではないでしょうか。

『あさひなぐ』感想 「訳し方」

 映画『あさひなぐ』を観てきたので感想を記しておこうと思います。ちなみに、僕は原作の漫画も舞台版も触れずに行ったので予備知識はゼロ、さらに言うと薙刀に関する知識もありません。それから、この場面の誰ちゃんが可愛かった、のような感想はツイッターでやっているので、そういうものを求めていらした方は申し訳ないですが、期待に添えませんのでお引き返しください。

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 観終わった感想として僕が正直に感じたのは物足りなさでした。それでは、その物足りなさの正体はなにか、と明かしていきたいところなのですが、そのためには、その前に「原作モノを映画化することの難しさ」についての僕の考えを示しておく必要があると思いましたので、先にそちらから書かせていただきます。

 

 たとえば、原作で名言とされるセリフがあるとします。それが名言となるのは、そのセリフそのものの力はもちろんあるでしょうが、加えてそこに至るまでの「流れ」を受けてこそです。だから、ある特定のセリフやシーンだけを切り取っても、「流れ」を踏まえているかどうかで、その重さや良さに対する共感の度合いは変わってしまいます。

 いわゆる原作モノ、それも人気のある原作を映画化する際の難しさの一つはここにあると思います。すでに物語に理解のある人間、「流れ」を踏まえている人間は、時にそのことを自覚せずに、クライマックスとなる名言や名シーンが再現されているかどうかだけにこだわってしまう場合がある。しかし、これに対して、そうした予備知識のない人間は、切り取られた(あるいは「流れ」の十分に描かれていない)その一部だけを観ても、その名言の名言たる所以を把握できないのです。

 もう少し説明を加えましょう。たとえば、マンガと映画では当然、それぞれの中で使用される「文法」が違います。単純に「時間」という側面だけを観てもそのことはわかるはずです。原作では悠々と丁寧に描けていた物語を、映画では90分なら90分という短い時間の中に収めなければいけない。原作モノを映画化するというのは、つまりは翻訳作業で、こうした「時間」に限らず、あらゆる側面に注意を払いながら、いかに映画の「文法」に直して原作を描き直していくか、という作業ではないでしょうか。それは何も特定のセリフや特定のシーンに限らず、登場人物のキャラクター(性格)やビジュアル、その印象、重要度など、すべてに及びます。

「あの登場人物は原作で重要な役を担っていたのだから、映画でもそうあるべきだ」

 こうした意見は絶対に出てきます。ここで僕が言いたいのは、これらの意見が間違っている、ということではありません。しかし、「翻訳」という作業において、全ての要素をそっくりそのままコピーできないとき、何をどの程度、どのように取捨選択して訳すのかが重要だ、ということです。

 どの登場人物をどこまで掘り下げ、どのシーンを選び、どのセリフを言わせるのか。物語はどこから始まってどこで終わるのか。全て取捨選択です。その過程において、言語の翻訳作業と同じように、逐語訳にするのか(元の文を忠実に一語一語たどって訳していくこと)、意訳にするのか(全体のニュアンスや意味をくみとって字面にとらわれずに訳していくこと)、これら両者のバランスが難しいのです。 ここに技量やセンスが問われる。原作モノを映画化するとき、作る側も、原作を踏まえて観る側も、こうしたバランス感覚に対して、事前に先入観を抱いてしまっている(あるいは要望に応えるために抱かざるを得ない)のです。 だから先の例で言えば、「名言」や「名シーン」を切り取る、というのはいわば「逐語訳」的であって、言語におけるそれが時として意味を不明瞭にしてしまって効果的でないように、映画においても必ずしも効果的だとは限らないのですが、予備知識や先入観があるから、時にその判断がズレてしまう(映画で初めて物語に触れた人と)のです。

 この「訳し方」に対する評価というのは、好みの問題と言い切って差し支えないかもしれない。どの程度まで逐語訳して、どの程度まで意訳するのか。原作のファンで、あのシーンのあのセリフは、原作の通り忠実に再現してくれ、と思っている人と、映画だけ観に来て、映画作品として無理なくおもしろいものであることを望み、そこにおいて無駄な格好つけたシーンは排してくれ、と思っている人とでは、まるで好みが違います。

 だから、これ以降、僕はようやく本題に入って、最初に書いた「物足りなさ」について具体的に明かしていくつもりですが、それは僕の「訳し方の好み」に従って行われるものであり、その訳し方の好みが違えば、見方も評価も違うでしょう。

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  さて、僕はなぜ「物足りなさ」を感じたのでしょうか。それは、物語の軸がブレていたこと、それから登場人物の掘り下げが浅かったことの2点に起因すると考えられます。なお、これら2点はお互いに関連しあっていて、完全に切り分けられない側面もありますが、便宜上分けて説明します。また、反対に、この2点に組み込むのが多少強引と思われる要素があるかもしれませんが、そちらについても便宜上そうさせていただきます。

 

1.軸のブレ

 マンガと映画で「文法」が異なることを意識しなければならない要素として、「物語の軸」という側面に注目したいと思います。複雑な要素・場面をはらんだ物語を「この話は、こういう話である」という風に要約することを考えてみてください。周辺の装飾的な要素を取り除いていって残るもの、それを「軸」とします。マンガにおいては、たとえこの軸が多くても、一つを丁寧に描いて、終わったらまた次、というようにして対処できます。実際、多くのマンガにおいて、主人公がいても、それと異なる登場人物に焦点が当てられ、その成長を描くエピソードなどが丁寧に時間をかけて描かれ(つまりそこでは違う軸が扱われている)、物語に厚みを与えています。しかし、映画ではそうは上手くいきません。軸を増やしすぎて、描きたいものが多すぎてしまうと、短い上演時間の中で観客は焦点を合わせられず、感情移入したりすることに困難を覚えるのです。 劇場では一時停止して考えたり、前の場面に巻き戻したりできませんから。実際、本作において僕がそうした観客の1人でした。

 いわゆる、スポ根と呼ばれるジャンルにおける物語の軸として扱われやすいのが「成長」です。それは大きく分けると、精神的なものと技術的なものの2種類あって、前者がたとえば仲間との絆の大切さに気づいたり、諦めない意志の強さを身につけたりで、後者が体力がついたり、新しい技が使えるようになったり、とかであります。映画『あさひなぐ』においてもこれは例外ではないのですが、いかんせんその対象が多すぎた。主要キャストの二ツ坂高校薙刀部の6人全員について、この「成長」という軸が用意されていました。人によって、技術面がフォーカスされてたり(八十村)、精神面がフォーカスされてたり(宮路)、あるいはその両方だったり(東島)、いろいろではありますが、いずれにせよ僕には焦点が合わせにくかった。もう少しメリハリをつけて、あるいは、なんなら思い切って2人とかに絞って描いた方が良かったのではないかと思うのです。

 主要でない登場人物の描き方についても、僕は無駄が多いと感じました。これは原作を踏まえた人とそうでない僕のような人とでまた見方が分かれるかもしれないのですが、たとえば宮路の弟、薙刀の理事(?)などの周辺の物語は果たしてそれほど必要性があったのか疑問です。なにも、主要じゃない登場人物に存在価値がないなんて言っているわけではありません。それらの人物が主要人物を修飾したり、あるいは対比的に描かれたりして補うことで、物語の軸が太くなるということはたくさんありますし、本作でも一堂なんかはそうした役で必要であったと思っています。しかし、住職と理事との小競り合いなどについてはどのような効果を期待してのものであったか不明です。

 軸と直接的には絡んでいなくても、進行上の理由とかテンポの問題とかで必要とされる登場人物もいるとは思います。本作で言えば顧問の先生がその役で、実際に彼はとても面白かったですが、それにしてもそういう周辺人物はなるべく最小限に抑えるべきであって、やはり指摘した人物や場面については不要であったと感じるのです。

 しかし反面、逆に説明不足と感じられるシーンも多く、特にこの映画で描かれている薙刀という競技はまだマイナーですから、僕のような浅学の身として説明が欲しいところで無くてもどかしく感じたことが数回ありました。「上段の構え」や「八十村の剣道経験者特有の間合いの取り方」などについてがその例であります。さも当たり前のように進めて知識のない観客が着いていける(あるいは着いていけなくても気にならない)ものと、それでは置いてけぼりにされてしまうものとは、もっと丁寧に仕分けるべきです。説明といっても、全てが全て言葉による必要はないのですから、それこそたくさんあった試合のシーンの映像なんかを効果的に利用すれば、決まり手や気迫などについては言葉がなくても伝えられたでしょうし、たとえば「残心」についてはそもそも触れる必要はなかったのではないでしょうか。あれだけ試合数が多いなら、何本取ったら勝ちで、みたいなところの説明もわざわざ別個ですることはありません。試合の進行を見ていれば分かりますから。

 ようするに、この映画『あさひなぐ』においては、これらあらゆる理由によって物語としての軸のブレが気になり、ゆえに、物足りなさを感じたのです。

 

2.描写の浅さ

 そして、上で主要人物をめぐる物語の軸が多すぎる、と書いたのと重なるのですが、人物描写の浅さについても指摘しておきたいと思います。一人一人の描写にかけられる物理的な時間がそもそも短いのに、その限られた時間すら効果的に使っていたとは言えないと思います。

 それを特に感じたのが、合宿後の試合のシーンです。合宿であれだけの時間をかけてそれぞれの成長を示唆したにも関わらず、また振り出しに戻すかのような見せ方は今回効果的とは言えません。あれは、作品全体を通して東島に焦点を絞っていたりした場合など、もっと時間をかけて描けるときに使うべき見せ方ではないでしょうか。

 だからこそなのか(と単純にまとめてしまうのはどうかとも思いつつ)、肝心のそれぞれの「成長」の中身について、かなり段階を飛ばしてしまっているな、という印象を受けました。人は経験からか、鍛錬には時間がかかることを知っていますし、心の変化が一朝一夕におこるものでないことも知っていますから、それこそ「成長」というものは丁寧に時間をかけて描く必要があると思うのですが、ビフォーアフターのように変化の結果だけ見せられても、単純には気持ちが入らないものです。

 たとえば、良く言えば戦略家、その実逃げ腰の野上が己のそうした弱さに立ち向かう「成長」は紺野に強く当たるシーンで描かれましたが、あそこで触れられていたのは、その弱さをかすかに自覚してもがくという初期の段階であって、それをどう乗り越えたのか、という描写が不足しています。

 すべては書きませんが、このような、人物描写の浅さも物足りなさを感じた要因ではないかと思います。

 

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 さて、最後に少しだけ、八十村役の桜井さんについての感想を書きたいと思います。といっても、今回のように描写の浅い役についてその演技の良し悪しを語ることはあまり好きではないので、短めですが。

 上演前の舞台挨拶において桜井さんは、自分と八十村がまるきり違うからこそ、役として入って演じやすかった、と言っていました。これは本当でしょうし、確かに八十村の乱暴で品のない立ち居振る舞いなんかは桜井さんのそれとはまるで違います。桜井さん本来の気の抜けた感じが出ては役柄的に東島を潰してしまいますし、キャプテンとしては野上がいる。八十村はザコでもなければ、強者でもない。非常に中途半端な立ち位置にいるキャラクターであったと思います。

 しかし、そういう人物なのにも関わらず、繰り返すようですが掘り下げる描写が薄かった点は、女優桜井玲香を楽しむにあたっては物足りなかったと言わざるを得ません。八十村が作品世界の中で何か人間的に変化したかというとそういうわけではなく(特に彼女は技術面にフォーカスした成長だった)、あの作品の中で八十村として生きるのは難しかったのではないかなと思いました。桜井さん自身、内面的な演技というよりも、剣道経験者のくせが出てしまう薙刀さばきに苦戦したと、技術面での苦労を語っていましたし。

 次の作品は、そうした内面的な変化を魅せられるものであったら良いなぁと思います。

 

おめでたいお話

 スヤスヤと寝ている間に、推しメンである乃木坂46桜井玲香さんの嬉しいニュースが発表されていました

 NYLON JAPANのレギュラーモデルに選ばれたようです。おめでとうございます。

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 振り返ってみると、ファースト写真集の発売、NHKハングル講座の生徒役など、今年は彼女個人としてのお仕事がとても順調で、そこにきてこのモデルが加わったということです。個人仕事ではありませんが、さらにこれから映画「あさひなぐ」の公開も控えていますし、まだまとめるには早すぎますが、今年は良い年だなぁと感じます。

  NYLON JAPANは僕は読んだ記憶がほとんどないのでどのようなものかは存じあげないのですが、公式サイトでモデルおよび連載陣を見たところ(NYLON JAPANをいつも賑わせてくれているitなモデルたち - nylonjp)、なんとも個性的な濃ゆいメンツが集まっていて、「乃木坂46において、誰よりも芯の強さを感じました。高い能力に裏付けされた強いメンタリティーは読者にとっても、きっと良い影響を与えると感じます」という同編集部の桜井さん評(画像参照)からもそのスタンスの一貫性がうかがえます。

 僕も、桜井さんはまわりを見つつも流されない、自分なりのこだわりや強さを持った人だと思っていて、そのようなことは以前このブログの記事にも書きましたので、この評には嬉しく思いました。

 ただ一方で、自分が自分がと前に出るタイプではなく、あまり語らない(特に自分のことに関して)彼女は、分かりやすく「芯の強さ」や「強いメンタリティー」を表に出していたかというと、そうでもないと思いますので、それをこれからファッション誌という場でどのように発揮していくのかを見るのが本当に楽しみです。

 また、ファースト写真集以降、以前よりあった「撮られること」に対する苦手意識を徐々に克服してきているらしい桜井さんが、モデルという被写体になることで、表現者として自分の魅せ方の幅をどう膨らませていくのかにも注目したいです。

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 今年、これまでに桜井さんの切り拓いてきた仕事は、どれもそれぞれに違っていて、その多様性が今後の彼女にとっての大きな糧になるのではないかとファンとしては期待せずにはいられません。「今後の彼女」というのは、広く抽象的にいえば、それこそ彼女の人生ということになりますが、より具体的には女優としての彼女、ということです。

 僕が桜井さんを好きになったきっかけ、そして常に1番見たいと思う側面が女優としての彼女ですし、また、彼女自身、今後の夢として女優を掲げています。多様な方面の仕事ができることはアイドルの強みだと思いますので、それが彼女の表現の幅を広げることに繋がったり、あるいは、多くの層の人々に知られるきっかけとなったりしたら、これからの女優としての彼女にとって嬉しいことではないでしょうか。

アイドルのキャラ

 お久しぶりです。
 いろんなアイドルグループを見て、よくいるキャラクターを羅列し、偏見ありきでその特徴を書きました。順番に特に意図はありません。ほとんどのアイドルは、どれか一つのタイプに当てはまるというより、これらの複合と思われます。ネーミングセンスのなさはごめんなさい。

①プロ
 己のアイドル道を徹底していて、可愛さに対する探究心が強い。俗にいうぶりっ子。甘いものとピンク色が好きなことにしている。髪型(前髪や触覚)・服装などに異常なこだわりがある。いつも変わらないスタイルを持っている。悪く言えば融通が利かない。決めゼリフや決めポーズ、必殺技などを作りがち。メンバー間で本当にかわいいとされるメンバーが他にいて、よく引き合いに出されてイジられる。その徹底した意識の高さゆえ熱心なファンと熱心なアンチを同時に抱える。

②明るいバカ
 一般常識や基礎学力が足りていないが、口はよく回る。むしろMCなどでは他のメンバーよりも喋れる。正解不正解関わらず質問にすぐに答える(というか言葉を発する)ので重宝される。ただ通訳が必要な場面がある。ちょっとしたことですぐ感動しがちで、周りのメンバーを褒めることが多い。語彙が少ないので「すごい」「やばい」「マジ」などの単語を連発する。メンバーから可愛がられ、内輪のイベントでよく活躍するが、なかなか1人で外仕事には出してもらえない。

③器用貧乏
 歌、ダンス、トークあらゆることを卒なくこなすが突出した実力や個性はないため、特に目立たない。しかしいなくなるとその存在の大切さに気づく。MCを回したり、ユニゾンを支えたり、非常に重要。アンケートの「裏方の仕事が得意そう」なメンバーなどに選出されがち。メンバーの相談に乗ったり、アドバイスをしたり、好きな人にとっては響くが、やはりどうしても地味なエピソードが多い。変な趣味を持っているが、あまりお披露目する機会がない。なかなか人気が出にくく、ファンがもやもやしている。

④スキルブス
 あまり可愛くない(失礼)が、やたらパフォーマンススキルが高い。歌が上手い、ダンスが上手い、あるいはその両方。ビジュアルで出遅れていることを自覚している。ただ諦めているわけではなく、メイクや自撮りが上手いなどのスキルを後発的に身につけがち。ときどき異常に可愛い自撮り写真を上げて「確変」などと言われる。パフォーマンスについては自信がある。向上心が強い。自分の長所と短所を自覚しているので、多くの場合やることが明確で推しやすい。一度好きになると中々抜け出せない。

⑤ギャル
 髪色が明るく、メイクなどあらゆるビジュアル面において男ヲタ受けというものを捨てている。女ヲタが多い。InstagramやWEARを個人でやっていて、服装が派手。肌を露出しがち。他にもメイクポーチの中身やメイクの仕方をブログで自発的に公開するので、握手会で似たような見た目の女ヲタが多数発生する。ノリが良く、普通は言いにくいことをズバズバ言うが場の雰囲気を悪くしない。意外と萌えセリフ企画などを嫌がらずにやる。根は真面目、実は優しいなどのギャップがある。

⑥癒しマイペース
 この人のまわりだけ時の流れが遅い。平和主義で滅多に声を荒げない。感情の起伏がゆるやか。よく、イジられて「なんでですか!」と返す。エピソードトークが苦手で話の着地点が見えない。結構ミーハーで周りのメンバーの影響を受けがち。だいたい犬を飼っていて家族と仲良しエピソードがある。
 
⑦ビジュアルエース
 シンプルに見た目が可愛いためにあらゆる点で「許されている」。パフォーマンスなどに欠点・弱点があって、保護欲を刺激する。だいたい1番人気になる。可愛いと褒められるとやたら謙遜する。メンバーの中に、なぜか1人妙に舐めている人がいて、よくイジる。わりと気が強く好き嫌いはハッキリしている。バラエティ番組で置物と化す。一度打ち解けた相手にはとことん甘えるが、基本的に人見知りで壁を作りがち。アピールはしないがメイクやパフォーマンスなどに強烈なこだわりを持っている。発言する機会は多いが発言は少ない。

⑧オールマイティ
 ビジュアル、スキルなど全てがトップクラスの水準で備わっており、万人に好かれ、常に目立つところにいるが、かといって1番人気にはなれない。目立つ欠点がないところが逆におもしろくない、俺が支えなくても、などと言われるため。高嶺の花。周囲から尊敬され憧れられているが、イジりにくく、本人が積極的に道化ないかぎり、メンバーの中で浮きがち。後輩との絡みが極端に少ない。

⑨水着要員
 体つきがエロいので、実人気以上にグラビア人気がある。アイドルという特性ゆえ、なかなか面と向かって他のメンバーもファンもイジれないが、みんなわかっている。本人は積極的には脱ぎたがらない。どちらかといえばぽっちゃり気味で、むしろ痩せたいと思っている。しかしほとんどのファンがそれを望んでいないという乖離がある。多くの場合、自分で努力して勝ち得た体型ではないので、グラビア以外の自分の実力を認めてもらいたがる。

⑩重い
 よく心を病んでいて、自虐傾向がある。やたらナイーブで、ファンが気を遣う。長文が好き。心の弱みを見せているので、ガチ恋が多い。ただ重すぎてついて行けなくなったファンに推し変されることも多い。友達は数より質という考えがあって、派閥や仲良しグループなどには参加しないが、メンバーの中に2人くらい親友がいる。インドア派のヲタク気質。不器用で、なかなか報われない。

⑪芸人
 アイドルらしい清楚さや大人しさに縛られていてはグループの中で埋もれてしまう、と戦略的に芸人気質の行動をとる。頭脳派で裏では真面目にいろいろ試行錯誤している。変顔をやたらする。持ちギャグがあって、周りを巻き込んでフリをきかせる。素がおもしろいというより、意図的にスイッチを入れてやっているので、ステージと楽屋でのギャップが大きいメンバーなどで真っ先に名前が上がる。バラエティ番組に早い段階から呼ばれる。しかし根が真面目なので、ハッチャケきれず、そのことで悩みがち。

⑫あざとい
 ぶりっ子タイプとは違って、好かれたいが、同時に心の奥底であまり嫌われたくないとも思っている。そのため、さりげなく魅力的な行動をとろうとし、また、実際にとれていると思っている。だが、大抵みんな気づいている。自分の思い通りにイジられることは厭わないが、思わぬ形でイジられると反発する。逆に人のことはよくイジる。「こう見られたい自分」という理想が強く、自己中で目立ちたがり。こう書くとメンバーからもファンからも嫌われそうだが、こうした一連の要素が一周回って可愛いく見えてくるので、そうでもない。
 
⑬みんなの妹/お姉さん
 グループの中にあってこそ活かされるキャラ。甘え上手、面倒見がいいなどの特徴があり、グループの人間関係の中で見ていると非常に魅力的に写るが、個人として勝負できる実質的な個性や能力とは言えないので、本人は葛藤している。似たようなものに、最年少/最年長がある。どのアイドルグループでも最年少はたいてい「年のわりに案外しっかりして」いて、「たまに年相応の子供っぽい一面をのぞかせる」。それはそう。

⑭脱力系
 基本的にテンションが低い。しかしやる気がない、などと怒られるような感じではなく、キャラとして認められている。ひな壇で立ち上がったり、移動したりすることを億劫がる。笑いや服装などのセンスがある。スキルもある程度ある。ただ脱力系だからそう見えているというパターンの可能性もある。一方で自分の好きなテーマについては急によく喋り出す。実は熱い、努力家、などのエピソードを他のメンバーから出されがち。

⑮元気な子ども
 落ち着きがなく、よく動き回って、声が大きい。ボリュームの調整が苦手。年齢よりも幼い印象を与える。特典映像などでオフ時にカメラを回していることに気づくとやたら映りにくる。ただし、疲れた時や、自分の興味の薄い時にあからさまにテンションが下がる。ロケ企画などでオーバーオールを着せられがち。お姉さんタイプを慕ってくっつく。

⑯セクシーお姉さん
 童貞殺傷力が高い。水着要員が多くの場合自らエロを狙っていないのと違って、こちらはわかった上で狙ってやっている。直接的でなくとも、連想させるような言葉を放ったり、行動をとったりする。たいていそんなに胸が大きくないが、デコルテの美しさや、虚ろな目つき、口を半開きにするなどのテクニックでカバーしがち。年少組のメンバーにエロい!と言われるとそんなことないよ、と言いながら嬉しそうにする。

⑰常識人
 あらゆる感覚が一般的なファンに近い、庶民派であるという親近感を強みとする。SNSなどで巧みにプライベートを明かし、利用する。流行り物には積極的に乗る。ときどき手料理の写真をアップしたり、そうでなければ有名店に並んで行ったりする。周囲のぶっ飛んだキャラに視聴者目線のツッコミを入れることが使命。外仕事でバラエティ番組に出た際、大御所の一挙手一投足に大げさにリアクションをとりがち。

⑱迷い人
 個性的なキャラになろうとして失敗している。特筆すべき個性を自ら見出せていない、という点では器用貧乏と似ているが、あちらはそれを受け入れてうまくやりくりしているのに対して、こちらはもがいてあらゆる方向に手を出しすぎて残念になってしまったパターン。案外、本人が意図していない、あるいは避けている部分に個性がすでに確立しているが、本人に理想があるので、そのことをまだ受け止められていない状態。真面目で不器用。


 

「墓場、女子高生」を観た。

  東京ドームシティシアターGロッソにて10/14-22まで上演されていた舞台「墓場、女子高生」を2度鑑賞した感想をつらつらと書き留めておこうかと思います。

 1度目は16日ソワレ。モバイル1次応募で確保したB列下手側の席でした。2度目は19日ソワレを当日券で確保し、X列中央付近の席でした。

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 B列は肉眼でも表情はよく見えるが、全体が見渡しづらく、X列はその逆。マスクをかぶるヒーローショーならともかく、表情を見たければ、X列(というか後方)は双眼鏡があった方が良いかもしれません。まぁ、そういうわけで、前後に極端な2席で観劇した次第です。


 Gロッソは高さのあるハコです(ちなみに、したがって、座席も前後で高低差が大きく、視界は確保しやすいです。)。その特性を存分に利用したセットが組み立てられていました。

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 同時に多数の演者が登場しても、それほど窮屈に映りませんし、動きが出やすいセットでした。上下方向も利用することで距離を取れるので、そういったところが演出にうまく生かされているとおもしろいと思います。


 さて、感想です。正直なところ、少し物足りなかった。おもしろい花をつけそうな種をまいたのに、その後の成長を観察しないような感じ。いくつか具体的に見ていきたいと思います。

・人物描写の浅さ
 まず登場人物が多すぎると思います。日野が主人公となっていますが、日野はメタ的には作品世界に能動的に影響を及ぼす人物であって、この作品はむしろそれによって影響を受ける日野以外の残された者たちの物語といった方がしっくり来ます。日野だけは作品を通じて変化がありませんから。よって、高校生7人と教師1人会社員1人の計9人(!)が、日野が作り出すきっかけ(自殺、復活、そして2度目の自殺)によって変化していく物語と言い換えてもいい。これを2時間の公演時間の中で描くには、人数が多すぎる気がします。人物間で描写の濃淡に差があればまとまったかもしれませんが、そこまでの差はなく、全体的にぼやけた印象を受けました。

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 たとえば、執拗に日野の墓を破壊しようとする納見や、オカルト部に転部した西川などの行動は、そこに至るまでの心理がもっと丁寧に描かれていたらおもしろかったと思います。西川と残された合唱部員たちが、日野の死との向き合い方をめぐって口論をするシーンも、それぞれの向き合い方、「整理」の仕方が十分には伝わってなかったので、セリフの迫力だけが独り歩きしているように感じました。日野の死がそれぞれに落とした闇に、深みが感じられなかったのです。
 

・高校生である必要性
 高校生、という年齢設定はもう少しいかされても良かったのではないかと思います。教師や会社員といった「大人」との対比としての「高校生」というニュアンス。確かに、自分たちのルールで自分たちだけの世界を作り出し、自分たちだけに通じる言語で遊ぶさまは、いかにも高校生らしい。すじょいせん!のようなフレーズは象徴的です。しかし、もっと負の側面といいますか、あの時期ならではの葛藤や不安も描いてほしかった。恋愛や友情、テストの結果や、親との仲。他の人からすればほんの些細なことでも、それによって世界がまるきり変わってしまうと信じて疑わないような、そんな多感な時期。種はたくさんあったんです。メンコの性の葛藤、西川の社会への漠然とした不信、武田のいじめ、などなど。しかし、ほとんどが浮ついて、本筋に絡まずに、ただその場限りの笑いに転換されて終わってしまっていました。合唱部ならではの悩み、ハモりがうまく行かないとか、そういうものもあっても良かったかもしれません。
  悩みの中身は別に何でもいいのですが、なぜこうした負の側面をもっと掘り下げてほしかったかというと、残された者たちがそれぞれ日野の死に責任を感じていた、という部分がより重みを増し、したがって、そこにつづく日野の、自殺の理由になるほどみんなとは仲良くなかったよ、というセリフがより強烈になるからです。それぞれが死の理由を美化するにも、元が汚れていなければ、その美しさは際立たない。ようするに、作品を通して、物語にもっと激しい起伏が欲しかったのです。
 
・笑いのバランス
 作品全体にわたるユーモア、笑いの要素の過度であったことも、私には疑問です。人の死を扱うにあたって、笑いという対照的な要素を利用することの効果は抜群であります。しかしながら、バランスが悪ければ、お互いの魅力を薄めてしまう。笑いによって、死が落とす影が薄くなってしまう。今作品は個人的には、そうした状況に陥っていた気がします。ひとつひとつのネタがおもしろくなかった、ということではありません。作品全体に及ぼす効果が、いまひとつ掴めなかったということです。たとえば、幽霊になった日野が冒頭から出演し、観客に見えている、という状態は、彼女の死のインパクトを弱めてしまっていたと思います。

 日野がひとりひとりに、自らの死の理由を美化させるよう問いかける場面は、私も好きな場面です。あそこにおける笑いの要素(ガンジーやら、クライドとボニーやら、フランダースの犬やら、なにもかもすべて)は絶妙だと思います。あそこの場面で、死の暗さと笑いの明るさの対比による面白さがピークに達する。しかし、その効果は、日野の死が落とした影が濃ければ濃いほど効いてくるものなので、惜しいなぁとも思いました。

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 ひとつひとつのシーンを細切れにすれば、おもしろい部分はたくさんありましたが、それに糸を通してひとつ大きな流れとして見たときに、不足を感じてしまった、というのが感想です。
 

川尻松子という人物をいかに観客に納得させるか。

 30日の夜、品川club EXシアターにて桜井玲香さん主演の舞台「嫌われ松子の一生」(赤い熱情編)初回公演を鑑賞してきました。本記事では、この作品についての僕なりの解釈を書きます。演技についてはまだ触れていません。また後で別に書くつもりです。

以下の内容はネタバレを含む気がしますので、神経質な方などはご遠慮ください。










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 絶望というものは希望のあとにやってきます。希望が間に顔を覗かせるからこそ、絶望はより深く、重くかさなり、のしかかっていく。

嫌われ松子の一生」はそんな話です。

一言でいえば、松子が堕ちていく絶望の話。しかし、それは希望との対比の中で描かれています。決して絶望だけの話ではない。

 ツイッターを見ていたら、「嫌われ松子というけど、松子は愛されていたんだ」というような感想がいくつかありました。それはこの「希望」に焦点を当てているわけです。だから当然といえば当然。

 しかしながら、私の感想としては、結局これは絶望の話であるということに変わりはありません。作品の焦点は希望ではなく絶望に当てられている。

 松子はなぜ絶望の波にのまれていくのか。いかにしてのまれていくのか。それがこの作品の本筋です。

 そしてもうひとつ。作品紹介の中には「松子と彼女を取り巻く6人の男たちとの愛憎劇」というようなものもあり、松子と6人の男たちが作品世界において同等の価値の存在であるかのように受け取られかねませんが、これはあくまでも松子の話です。男たちの話ではありません。そんなことは分かっている、と思われるかもしれませんが、これが大変重要で、極端な話、男たちというのは松子の希望と絶望を演出するための装置でしかない。それらのきっかけとなる事象を産み出せばそれで良いのであって、作品世界において松子を「食う」存在であってはいけないのです。男たちの感情は、あくまで松子の感情を彩る飾りとしてとどまらねばならない。どこまでも松子が中心にいることがこの作品を成立させるのです。そうでなければ、話の軸と魅力がブレてしまう。また、上演時間の制約からも松子だけにフォーカスが当たるべきなのです。

そういうわけで、主役の松子は想像以上に"主"役なのです。

それでは、そんな絶対的な中心人物である松子とはどんな人物なのか。僕の解釈では、彼女は依存の人です。不器用で、一つのこと、一人の人に病的なほどに依存してしまう。どうしようもなく愛してしまう。愛情深い性格だから、優しいから愛を与えるというよりも、愛にすがって生きている、そんな人物です。人との繋がりに生かされている。誰しもそういう面はありますが、その程度がはなはだしいのです。劇中の表現でいえば、燃え尽きるように生きているのです。

 忍者漫画「NARUTO」の中の印象的なセリフに「己にとって大切な者が必ずしも"善"であるとは限らない…(略)たとえそれが"悪"だと分かっていても人は孤独には勝てない」というものがあります。

 これが松子という人物をうまく言い当てられると思います。「なんでこんな男を好きになるの?」という感想を持つのはおそらく松子という人間をよく理解していないのだと思います。人を愛するということについての捉え方が違うのです。

 作品世界の中でこの松子が絶望にうたれて変貌していきます。最後、元来は孤独では生きられなかった人が孤独を選ぶようになる。その移り変わりは注目すべきポイントです。そして孤独を選んだ松子の結末。ただ6人の男が順々に出てきて、希望と絶望を繰り返して、というわけではありません。一人ひとりにしっかり役割があります。

 松子が男たちになぜ惹かれていくのか。松子の悲痛さを魅力的に(※ポジティブにという意味ではない)描く上で、この点は観客に納得させなければなりません。共感はさせなくとも。なぜなら絶望への助走として大変重要なのですから。この作品のおもしろさは蓄積していく色濃い絶望にあり、それが美しく描かれるためには、希望はまぶしいほど輝いていなければならないのです。だから、「そのとき、私は神様はいると思いました」と希望を見つけるシーンは、本当に救いがなければなりません。 なぜ救いになるのか、なぜ松子にとってその男が希望たりえるのか。一人ひとり理由は異なりますが、そこが納得できなければ、作品はつまらないものになるはずです。

 松子を演じる上で難しいなと思うのは、変化の蓄積をいかに表現するか、という点です。一回一回の絶望が全力でなければならない。それは松子の人物像、依存性を考えても必然であるのですが、一方では、単純に男に捨てられることへの絶望に加えて、積み重なる絶望に対する絶望という新たな要素も表現しなければなりません。全力の上にさらに積み重ねていく。それをいかにして、殺人、入水、あるいは、龍とのシーン、執拗に自分に対する愛を確認するあの行動といった、変化が顕在化していくシーンにつなげていくか。積もっていく負の感情をどう見せるのか。

 松子が絶望の人生とどう向き合っていくか。立ち向かっていくのか、はたまたあきらめてしまうのか。

 僕が好きなシーンは、入水自殺を止めた島津との幸せな生活が始まろうとした矢先、松子が小野寺殺しで警察に逮捕されるシーンです。髪を切って「生まれ変わり」、過去のことを見ないと言ってくれた島津との希望の生活。これまでの希望よりも確実に見えた希望(ところでこの一連のシーンの玲香さんがなんとも幸せそうで大変かわいく、それが後の悲しみとの対比においてもいい効果を発揮しています)。しかし、松子は絶望からは逃げられないのです。島津は忘れても、過去は松子につきまとい、絶望は警察に連れられてやってきます。必死にかばう島津。しかし、松子は「わかりました」と罪を認め連行されていきます。このときの悲しみたるや。他のシーンと違ってさりげない表現となるシーンですが、印象に残ります。「なぜ偽名を使わなかった?」松子は松子以外の何者にも生まれ変わることはできていなかったのです。このシーンはある意味で「"嫌われ"松子の一生」を象徴するシーンだと思います。

 反対に、僕がイマイチ気に入らなかった点をあえて挙げると、教会において龍が岡野に対して「松子は神だった。愛だった。」というシーン、そしてラストの終わり方です。

 松子が愛の人であることをわざわざセリフにするあのシーンは蛇足に感じます。それは、男たちとの希望のシーン、松子がいかに男たちに惚れているか、というところで見せるべきであって、セリフにされると冷めます。

 ラストの終わり方は、龍が松子の遺骨を抱くというもの。終盤はむしろ龍の視座に物語が移行していくのですが、これには納得できません。それこそ前述したようにブレています。松子の劇的な死で終わるのが美しいと思います。作品が龍と岡野の会話に基づいて過去が回想されていくという体だからこそ、ああいう終わり方なのかもしれませんが、あまり美しくない。

 というわけで最後には少し苦言を呈してしまいましたが、しかしながら総合的には、松子の悲惨な人生が観る者の心にも重くのしかかるほどしっかり描かれていて、桜井さんの命を削るような演技表現にも魅せられ、大変満足しました。

あと何公演か観に行き、なにか新たに感じることがあればまたブログを更新したいと思います。