スホ症とは吊り橋効果のこと

多数の人間を介した言伝が徐々に変容していく現象を「伝言ゲーム効果」という。伝言ゲームになりたい。伝言ゲームになって善意や無意識や低能や創造性やその他馬鹿みたいな理由で多様な解釈をされながら大勢にインプットされアウトプットされたい。嘘。私は自分のことにしか興味がない。自分のことに興味があるから他人に興味があるとも言える。背景を描くことで対象を描くみたいなこと。先日アマプラで「ラヂオの時間」を観た。良かった。生きて生活しながら作品を作ることそのものだった。大小様々な問題が起こるけど、それを全部クリアしてできたものは、ドラマだ。私はドラマチックな体験をするために絵や漫画を描いているのかもしれない。全然見返さないから。ペン入れも楽しいな。少し手を抜くことにも挑戦してみている。今までは手を抜くことが悪いことのように思えて仕方なかった。でもそれも、だんだん解消されつつある。力を抜いた、シンプルな絵に目が行って仕方ない。一番の理想は、アニメーターさんの描くらくがきかもしれない。手を抜いた状態が、本質的なもののような気がする。そういえば、人に「無理をしなくていい」とよく言われる。私は、無理をしてでもやるべきことをしていれば、成長や進歩が見られるはずだと思っていた。でも、あまりにも言われるので、「確かに、無理をしない範囲でできることをすることでできるようになることもある」と思い直した。これは、近年稀に見る大発見だった。そんなことがあるなんて思いもよらなかった。私は、どういうわけだか全力しか出したことがなかったように思う。そうして疲れたところで終わってきた。でも、力をセーブすることができるようになると、まだ見ぬ世界の幕開けである。すごい。そう思うとまた全力で頑張ってしまいそう。

水魚

最近、暮らしが幸せなのでそのことについて書く。

結婚して一年以上が過ぎた。昨年、実家暮らしへの不満がピークに達したため、結婚して家を出ようと思い立ち結婚相談所に入会したところ、一か月程度で成婚退会でき、そのまま入籍して二人暮らしを始めた。現夫と初めて会ったとき、生まれも育ちも違う初対面の異性と、こんなに楽しく意思疎通することができるものなのかと驚いた。彼は技術職で、私が絵や漫画を描く話をしたら興味を持ってくれた。彼は非オタクではあったが、友人にオタクが多いらしく偏見はなかった。

彼はとても寛容な人だ。私の奔放な振る舞いを許し、一緒に楽しんでくれる。そのおかげか、今日は新たに3曲もできた。作曲をしているわけではないしなんと説明していいか分からないけど、例えば「ぼんぼんじりじりぼんじり」みたいな、二人が好きでかつ語感の良いリズム重視の歌。多分パッヘルベルのカノンをピアノでよく弾くからできたんだと思う、カノンは前のフレーズをちょっとずつ変えながら進むので。あとは私が急に何かの場面やセリフを思いついたときも、一緒にその世界に入ってきてくれる。

私は突発的に昔の嫌なことや、反省すべきこと、あるいはなんでもないようなことを思い出しては奇声を発する癖があるのだけど、最近ではその度に同じように彼も奇声を発して相呼応してくれるようになってすごく救われた。こんな解決策があるなんて知らなかった。いや、私の奇声自体は解決してはいないのだけど、最悪な気分になるところを「あいつも発した」と思うことで楽しくなるか、どうでもよくなるので、精神衛生上良いと言う方が正確。

「この先生きのこる」の見事なダブルミーニングに相当する日本語を最近新たに発見した。「そんなのはなくそのかわりに」だ。何かに使っていきたい。

話が逸れた(逸話ではあった)。私はいつからか、全く新しい、今まで誰も知らなかったものにずっと興味があった。それを手に入れる簡単な方法は自分で何かを作ることで、完成するまでは苦しくもあるけど楽しくて、「私が真にやりたいのはこれだ」という確信があった。でも、調子が悪いとそれができなくて、それが何よりストレスだった。

実は少し前まで調子の悪い時期ではあったのだけど、それが明けて毎日が楽しくて素晴らしく感じるようになったとき、改めて、夫が私の人生になくてはならない存在なのだと気付いたので、一度きちんと書き記してみたくなったのがこれだ。

私が現時点で学んだ人生訓は、「現時点では到底無理だと思われる、描いてみたい作風や絵は、ずっと思い続けていると、ある日突然できるようになる」。

これからも健康で文化的な楽しい生活をしていきたい。

2017年コーナー

1月
新しいクロッキー帳に、丁寧な文字が書かれている。いわく、「丁寧な字を書くと、思考も丁寧になる」。なるほど。その結果が「怪我(怪しい我)」であり、「ワクワク→〇スヌスヌ、ノレルノレル、コユコユ、ハメハメ、マヤマヤ、セヤセヤ、アマアマ ×サケサケ、エキエキ、(書き順が違う)」なのですね。
人間の生活はどんどん進んで、「無駄」の範囲がどんどん広くなって、「無駄」がどんどん悪者になって、「無駄」に付随していた無駄じゃないものまで排除されて、そうしてできた時間で、我々は何をしようとしているのか。
「無」って書くとあみだくじ始めそうになる。「互」は顔を突き合わせている二人に見える。
ミスティフィカシオン:人を煙に巻くこと。神秘化。しんぴかツヤピカ。

2月
2年半ぶりくらいに同人誌を書く。漫画は一つ一つの作業を丁寧にやり過ぎる癖を矯正するのに最適。

3月
ルーターのような人間になりたくない。
素敵な文章を見てその一部をいくら切り取っても、それはきれいな画像をスポイトしたときのようにまるで無意味で、「それでも何か残したかった」という執念めいたものしか残らない。

4月
同人誌を描いているもよう。

5月
オリジナルのプロットを考えて四苦八苦している様子。
クロノクロスの楽譜が届き子供のように嬉しかった。あんな素晴らしい音楽を、このピアノで、この指で奏でることが物理的に可能になったから。

6月
アニメに感動してアニメに関する本をいくつか読む。仕事で絵を描いて趣味で絵を描く人間は格好いい。
オリジナルプロットにまだ苦しめられているのかよ。

7月
オリジナル44p漫画ずっと描いてる。

8月
オリジナルは6日に完成。即次の36p同人誌着手して22日に完成。手は早くなったと思う。
20日にオリジナルのイベントがあって編集者さんに見せたらいい雰囲気になって、翌日即簡易プロットをメール。さらに翌日返事が来て色々見てもらうことに。でもまたすぐに36p同人誌を描き始める。

9月
同人誌を描く。

10月
2日に完成。28日に編集者さんにキャラ表をメールしOKが出る。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」を長野富山旅行中読む。「大和魂、神々の守る国日本」を後ろ盾に、アメリカとの実に10倍もの物量の差を凌駕できると信じていた日本にもたらされた無残な敗戦。そのときに、自然に対する信仰や、生活は貧しくとも豊かな心という科学的に説明のつかないものを「まやかし」と一蹴し、経済成長、科学・技術の向上を希求し現在があるという。頭の中は咀嚼できないものばかりで車窓に流れる長野の田舎風景がとても素朴で、わだかまりをわだかまりとして持って抱えてそのまま帰ってきた旅だった。でも理解しきれないって感覚は素敵です。ずっと引っかかり続けることができるなんて贅沢だと思う。いつか腑に落ちてしまわないか心配、だって腑に落ちるということは、諦めるってことだと思うから。
この本を読もうと思ったのは、日本の田舎のことを知ってから旅行をしたほうが吸収力が違うんじゃないかと思ったからと、元々禅の精神が好きだからの二点。この一件でより日本の昔の暮らしについて興味が湧きました。作れば作るほどもっと作りたくなるし、知れば知るほどもっと知りたくなるというのは本当です。
それから初めて趣味の友達ができました。

11月
漫画浸けの反動で遊び散らかす。
8月にメールしたオリジナルプロットを詳しく書き始め全然違う話に帰結。
論語物語の「天に対する冒とくじゃ」というセリフに、夏に梅干し作っておいて良かったと思った。梅干しは塩漬け後に三日ほど天日干しするんだけど、干す度に梅干しらしく皺が寄り香りが変わり、これ全部太陽のお陰なんだと思ったら(陰でなく光だけど)、本当に私たちは太陽が無ければ生きていけないんだという当たり前のことに気付いて、一定のリズムで日が出ては沈むという恐ろしくシンプルな天体の営みに畏敬の念を覚えずにはいられなかった。私がちょっと梅干しを作っただけでこれだから、農作物なんか作った日にはどうなるのか…。昔の自給自足の暮らしをしていた人たちは、こういう風にして自然との関係を築いていたんだと、触りだけでも理解できて良かった。今「天に対する冒とく」なんて言って心に響く人間がどれだけいるんでしょう。

12月
同人友達と初めてイベント以外で会い登山。私は初めての登山で、なぜ登山なのかというと推しの公式趣味だから(本編に登山描写無し)。体力の限界を超える厳しい登山だった、難易度1の初心者コースだったのに転んだら大怪我するレベルの山だった。最高に楽しかった。
オリジナル漫画のペン入れにようやく突入。果たしていつ終わるのか!?そして1月は2月のイベント用同人誌も書かなければならないぞ!大丈夫なのか!?

2017年は漫画本5冊とweb用いくつかの絵や漫画を描いて読書も漫画含め67冊くらいはしたもよう(amazon注文履歴より)。私の尊敬するすごい人は大きな目標をいくつも掲げ、マルチタスクに少しずつ進めているようなので、私もそうできるよう忍耐強い人間に今後なっていく予定。

雑駁

静かでないと死んでしまう。

年を取ると癖が強くなるというのを実感している。私はどうやら、思っていた以上に個人的な人間だった。自分の意識を常にコントロールしていたいというか、他者から意識を乱されるのが耐え難いというか。例えば食事の時にテレビを点けないでほしいと思う。テレビが点いていることによって、意識が全部テレビなんか(テレビなんて「なんか」です)に持っていかれるのがくだらないと思う、自分の時間が勿体ない。テレビさえ点いていなければ、これから何をしようとか何をすべきかとか、季節の移り変わりとか静寂とかを味わっていられるのに。

自立しないといけない。いい加減、一人暮らしをしていないからこういうくだらない問題にぶち当たるのだ。実家とくだらない問題はセットなのだ。自分の能力で金を稼がなければ。

世の中の90%くらいは無難な人間なことに腹は立たなくなっていた。誰かに自分の方向を示してもらわなければ何もすることができない人間が多いのは社会的に自然なことだった。

静かな時間がたくさん必要だ。

自分の成長に合わせて世界の見え方、感じ方がレベルアップしていくゲームが楽しい。今が人生で一番楽しい気がする。摩擦はあるけど、トータルで見れば自由度高いし希望はあるしで、なんかいい感じだ。漫画を描く能力と物語に潜っていく才能があってよかった。

自分の悪口を言われていると気付いた瞬間の熱が体内を移動する感じのとき実際には何が起こっていると観測されるのだろう

同人誌の原稿が大詰めを迎えている。絵や漫画を描くときに音楽をかけるのよくあると思うんだけど、私も今日もかけていた。なんならけっこう歌っていた。先日何気なく「私はこのウォークマンをもう6年は使っているのに色んな機能を全然使っていないぞ」と急に気付いたので、手始めにトップのアイコンを色々押してみたら「エモーショナル」とか「朝用」とか、機械が勝手にそう判断した曲をランダムでしかもサビから再生してくれるというワクワク機能があったので今日もやってみた。6年ぶっ通しでプレイリスト再生しかしてこなかった私は、一体どんな曲が繰り出されるのか全く想像がつかない。自分では出せないとんがったセトリで頼むぞ。で、来たのがベースボールベアーの「ドラマチック」。

かつて「ドラマチック」が収録されている「十七歳」というアルバムを姉が買って母の車に入れてたんだけど、cdを取り出せなくなってしまったのでその車ではいつもそのアルバムが流れていた。私はいわゆるサブカルっぽい音楽(個人的定義:ぼんやりした男がぼんやりしたことを歌っているそれ)が好きでないことが多いんだけど、あまりに繰り返し聞くものだから(あまりに私が遅刻しそうになるから)サブリミナル的にそれなりに親しみを感じるようになっていたのだった。それを聞いていた期間というのが、高校の毎日が辛くて理由も分からない不安でいっぱいで、己を取り巻く何もかもが全部分からなくなっていたときだった。そのときの気分をありありと、まるでその日に戻ってしまったかのように思い出してしまって、そんな気分になるのは久しぶりで、まだあの頃のことが現在の私にも残っていたんだと思って、何かを不足に感じるのは何かを探そうとするから悪いことじゃないなと思って、当時からは考えられないような未来に自分はいるんだと思って、そんな感傷に浸りながら締めのBLキスシーンを描いてるって一体何なんだと思って、混乱して思わず原稿投げ出してブログ書いてるってワケ。

つーか私よ、キスシーンなげえよ。「なんだこの尺!」って言っちゃったもん。1p削りたい。展開に全く問題ない。削るぞ!

今年に入って人生の目標が増えた。殿堂入りは「自由になる」だけど、「価値の分かる人間になる」が仲間入り。まあ価値が分かれば自由になれるんだけどそれはいいことだから。大好きなものがある人というのは、それが大好きな分だけその物の価値が分かるってことだと思う。だから大好きなものがある人間が好きだ。「器用貧乏だから何も極められなくて~」とか言ってるぬるい人間とは縁を切ろうと思う。

この原稿が終わったら、自転車で半日は出かけて柏餅食べてカラオケに行く。

小4辺りでみんな自由帳を持ってこなくなる現象への怒り

安全で平和なものが一番大事なマジョリティーの方々には到底受け入れられない考えだと一蹴されるヴィジョンが既に見えているけど言わねばなるまい、私はお前らが嫌いだと。

「なにか楽しいことはないか」って口では言うくせに、そのためにできることを頭ではなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんも考えてないだからなにもしない娯楽で時間をすり潰して終わり。「じゃあ言うなよ」って怒りがすごい。あと自分からは絶対死んでもなにがなんでも発案しない。なんならそれが協調性だとすら錯覚している。「しない」ことによって得られる系カタルシスが絶大な人気を博している。楽で得だからだ。

待ってるだけで誰かが楽しいことを運んできてくれると本気で信じてるその怠惰が嫌い。というかいい年した大人がなんでそんな簡単なことさえ分からないかがわからん。本当に生きてきたの?って感じ。頭使う機会なかったの?心の底から楽しいこととかなかったの?

「だって忙しいし」「なんか夢中になれないんだよね」とか言うじゃん、忙しいは論外だからもう何も言わないけど、「夢中になれない」は「しない」とほんとうにおんなじ意味で、現象として全く同じこと。やらない理由だけはちゃんと用意してきて、客観視できてる立場弁えてる感バリバリで、ほんとうに醜い。

そういう人間って大抵、というか多分100%、その分野において下手な自覚があって、下手なことは悪いこと(自分が不利になること)だと勘違いしている実に薄っぺらい思考の持ち主だ。肥大化した自尊心。いっそ虎になればいいのに。ものごとを楽しむのに才能なんて必要ないと私は思っている。だって子供の頃は誰だって毎日楽しそうにあそんでたから。だんだん偏った物の見方に毒されて曇っていくだけなんだと思う。上手い下手より、楽しいか楽しくないか、好きか嫌いかのほうがよっぽど大事だろう。目に見えるものにとらわれ過ぎてる。自分で自分を不自由にしてることに気付かないほどの不自由。

ネオ不自由EX。

改行するほど面白くない事実が面白い。自分で「面白い」を付けるだけで私の中ではすでに面白いことになってる(町田さわ子風)。

人生においてもまったく同じことだ。自分で自分が面白くなるような伏線をモリモリ仕込んでいくのだ。回収できるとサイコー。回収できないかに見えても、自分が苦労して張った伏線ならけっこうがんばって回収しちゃうもんだ。それが人情だもの。

漫画にボコッとハマってるんだけど、設定の粗を探しては突いてるクソみたいなやつってどのジャンルにもいるでしょう。嫌いだ。完璧じゃない人間が、完璧じゃない絵や言葉や仕組みを使って、それでも時間を、心を、人生をつぎ込んで作品を作ってる。お前が見つけた粗だって、実は至る所に、この世のどこにでもあるもので、それでも我々はそれらを補って生活している。

自分が積極的に楽しむことでしか、完璧じゃない作品を自分にとって素晴らしいものにすることはできない。それは、人生も同じことなのに、という怒り。

ウォー

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6:00ごろ目が覚め「あ…朝食はピクニックにしよ」と急に思い立ち、昨夜のみそ汁とおにぎり(具:おかか+とろろこんぶ)とスイートポテト(具:クリームチーズ)とお茶持って海で食べた。スイートポテトに200gのクリームチーズをそのままぶち込んだのでかなり漢気ある。

昨日テルマエ・ロマエ読んだんだけど、「山を見ながら風呂とはなんて贅沢な」的なセリフあって、私は今日海を見ながらおにぎり食べたんだけどって思いましたね。

日曜の朝は釣り人が等間隔にずっと遠くのほうまで続いてて、素晴らしいこともくだらないことも一緒くたの世の中でそれでも健気にささやかな楽しみを見出して生きているのだ…と思った。ウォーウォーDon't worry~ウォーウォー be happy~ウォーウォーハッピーサンデーウォーウォーイツマイライフだ。昨日初めて聞いた曲がまさか今日の伏線だったとは…。

自転車道通るたび19歳の自分のこと思い出すしあの頃の自分今にして思えば存外嫌いじゃないのでとうとう思い出補正かかった。

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漫画描くとき漫画参考にし過ぎ。