(推理小説・探偵小説)覚書

読後の覚書(主に推理探偵小説)

『文学部唯野教授』 筒井康隆

 駄弁の効能(小説読み方談義4)

 イーグルトンの『文学とは何か』を訳したのは大橋洋一であるが、その大橋洋一の編集による『現代批評理論のすべて』という現代の批評理論を通覧するために便利な書籍がある。この書籍自体が膨大な文献紹介書みたいなモノなのだけれども、更に巻末に入門書ガイドが記されており、このガイドに最初に紹介されているのが『文学とは何か』で、その次に紹介されているのが、この筒井康隆による『文学部唯野教授』である。筒井康隆の小説だと、まあなんとなく変化球だろうなという気がしたのだけど、大橋洋一が薦めるのなら、という感じで読んでみた。

 この小説?はそれぞれの章が現代文学批評の各項目となっており、コメディ風味のドタバタ騒ぎの後に主人公唯野教授による文学講義が行われる。まず、一読してはっきり分かる事は、この文学講義の部分は完全にイーグルトンの『文学とは何か』のオマージュである。ははあ、成程、そういう意味に於いて大橋氏は文学批評の入門書の一つに本書を挙げたのだなと合点が行った。各章の題を列挙すると、「印象批評」、「新批評」、「ロシア・フォルマリズム」、「現象学」、「解釈学」、「受容理論」、「記号論」、「構造主義」そして「ポスト構造主義」となっている。『文学とは何か』で論じられている各現代批評理論の特徴や欠点がここでもそのままに論ぜられており、かつ、日本の作家を幾らか例に出しつつ解説している。読んでいて思ったのだけれども、最初の幾つかの唯野教授の講義は良くこなれていて、筒井康隆のモチベーションも高かったのだろうと感じるのだが、最後の方になるにつれて、段々とテンションが下がってきて、『文学とは何か』を単に縮約したような感じになって来てしまうのは結構残念である。「ポスト構造主義」の作中講義に於いて唯野教授は、「フェミニズム批評」、「精神分析批評」そして「マルクス主義批評」更に、唯野教授自身の批評理論について講義すると述べているのに、物語は「ポスト構造主義」の講義で終了してしまう。元々『文学とは何か』を下敷きにしているのだから、「マルクス主義批評」は『文学とは何か』から離れて書かねばならないし、唯野教授の方法論となるとこれは筒井康隆の方法論という事になるのかな?と期待していたので、これには落胆してしまった。これらの講義が結局物語として描かれなかったのはどういう訳なのだろうか? まあ身も蓋もない言い方をすれば筒井康隆が飽きてしまったのかもしれない。また連載ものだった様だから、何らかの出版業界的な事情もあったのかもしれない。この尻切れ蜻蛉になってしまっている処が本書の残念な処なのだけれども、大学の講義は大抵最終目的地に辿り着く前に一年が終わってしまうので*1、そんなもんと言えばそんなもんなのかもしれない。又、一つの物語が結末を迎えるとは限らないのが現代に於ける物語なのだと言われれば、それもそうかもな、と納得するしかない。

 この文学批評講義の部分の実際の効能に関しては、かるーく文学理論の雰囲気を掴むのにはまあ良いかもしれないが、実際に理論に興味を抱いた場合には直接『文学とは何か』を読んだ方が却って分かり易いかもしれないとも思った。結局短いスペースで説明しているので、どうにも理屈を追い切れない所が出て来ている。まあ、筒井康隆の書くものだからあんまり真面目になって受け止める物でも無いのだろう。

 大橋洋一が推薦しているから、文学理論の入門書的な使い方が出来るのかなと思って読んだのだけれども、予備知識無しに読んだ所為で、実際に衝撃的だったのは作中文学講義で無くて、それ以外のドタバタ喜劇の方であった。主人公唯野教授はやたらめったらに饒舌で喋りだすともう止まらない。次から次へと下らない事ばかり話しまくる。ある意味『吾輩は猫である』の迷亭先生みたいなもんなのだが、喋りのドライブ感が3段階くらいは速い。そのドライブ感で繰り出される駄弁と、小説内で描かれる大学という制度のどうしようもなさが絡み合って、社会から学問の聖地と看做されている大学という権威が木っ端微塵に叩き壊されるのである。唯野教授は大学内の出世争いに興味が薄いだけでなく、文学界の権威的賞にも無関心な姿が描かれている。小説内の主人公はひたすらに軽薄な表層を持ちつつも、大学界の制度にも文学界の制度にも迎合しない、ある意味超越した存在でもある。けれども、その様な超越者的な設定は、猛烈なお喋り、無駄口、冗談雑談、burble、banter、chatter、 chit-chat、chit-chat、dissension、 declamation、exclamations、 exaggerations、elephant talk、elephant talk、elephant talkに依って全て吹き飛んでしまう。

 Elephant talkはキンクリの名曲*2だけれども、そのグリグリとした異様さが歌詞の無意味さ言葉の上滑り感を出していて素晴らしく、その感覚がそのまま本小説の唯野教授によるelephant talkである。言葉遊びと無駄話。会話の機能は意味伝達では無くて会話その物にあるという言説が昔から散見されるが、この小説内に描出される会話のほとんどは正にその会話行為としての会話であるし、更に言えば、会話にすらなっていない一方的な独演の占める割合も相当に多いのである。唯野教授の饒舌は、意味を剥奪した発声、発話のための発話、空隙を埋めるための発語といった感じで、それこそ、言葉の異化作用を以ってして読者に迫ってくる。そしてその1フレーズごとの滑稽さが予想外の処から飛んで来るので、初読時には思わず何度か声を出して笑ってしまった。

 一つ引用しておこう。

「いやあ。これはすばらしい」唯野はのけぞって見せた。「ロマン主義的な女性観の原型が提示されております。セクシュアリティの分業による遊ぶ性としての女性。生殖から疎外された多くの近代主義的な女性の存在を日本人男性として否定すること。フェミニズムの真髄がここにあるんですよね。あたしゃもう、蟻巣川さんの男根を崇拝しちゃうんだから」何を言っているのか自分でもほとんどわからない。
-『文学部唯野教授』 筒井康隆

 ま、大体全部に渡ってこの調子である。

 筒井康隆は器用だなあと思うと同時に、この小説に関しては更に一周した不思議な体験を味わえる。確かに一読して面白い。抱腹絶倒という煽りが付いても良いかもしれない。一読して頗る面白いのだけれども、二度読めるかというと、ちょっと挑戦してみたところ今一つ面白く感じられない*3。ここの言葉遊びの消費の一回性と言うものが存在しているのかもしれない。言葉は案外に消費物なのである。一度読んでその逸脱の無軌道さを知ってしまうと、二度目にはその逸脱は逸脱では無く予想され得るものへと変容し、最早そこには初読時の衝撃は存在しなくなってしまう。一度経験しただけで言葉の作用がここまで変化するという事を認識できるという点で、本書は、文章の認知の不可思議さを味わうためにうってつけの書物である。その点で、もし本書を初めて読まれる方があれば、なるべくゆっくりと読まれる事をお薦めする。まあジャンクフードの如く一気にボリボリとやってしまうのも本書の適切な読み方かもしれないけれども。

 さて、ここでふと考えてみると、私の場合、同じ滑稽物語でも、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』やら漱石の『吾輩は猫である』なんかは割と息長く笑えているので、この小説とその辺りとの違いはどこから来るのだろうと、ちょっと考えてしまった。答えはまだ思い付かない。まあ好みの問題なのかもしれない。何にしても、本小説、『文学部唯野教授』は文学理論に興味があってもなくても(興味があれば尚楽しいとは思うけれども)、ちょっと下品な笑いを消費したい時にお奨めの一冊である。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)

*1:まあ現代の大学に於ける講義はきっちりとカリキュラムを消化する講義が殆どになっているだろうけれども。

*2:Elephant talkに限らずこの時期のBelewの歌詞は適当喋りが多くて楽しい。例えば名盤“Discipline”の曲であれば、DisciplineやらThela hun jin jeetのフリートーク気味の熱唱は堪らない。と、ここまで書いて、唯野教授の喋りは、Adrian Belewのそれよりも、Zappaの下世話MCの方が近いような気もして来た。まあそれはそれと言う事で。

*3:この辺りは人に依るかもしれない。3回くらいは楽しめる人もいるかもしれない。

『殺人鬼』 浜尾四郎

 日本における本格推理長編の嚆矢

 こないだ、東西ミステリーベスト100に選ばれていた高木彬光の『刺青殺人事件』を読んだ処、やっぱり中々楽しめたので、また東西ミステリーベスト100のうち日本の作家の手に依る古い推理小説を、という事で、1931年に新聞連載された浜尾四郎の『殺人鬼』を読んでみた。

 大正の初めくらいの頃は小説家の中でも特に推理探偵小説を書く様な作家というものは随分とその地位が低かったようだ。江戸川乱歩が随筆『悪人志願』で「探偵小説と云えば子供や女の読物で、大人の齢すべきものでないとされ、外国物の下らない恋愛小説を見ても、探偵小説を読むものは大抵淫売婦と相場が極まっていて、探偵小説と云えば俗悪下劣の読物の代表物の如く見られていた。」と書いている。まだデビュー前の乱歩は探偵小説を取り巻く状況を苦々しく思っていた訳であるが、段々と探偵小説を愛好する人々は様々な層に広がって行って、文壇で言えば谷崎潤一郎だとか佐藤春夫、所謂、エスタブリッシュメント層からは東京帝大医学部卒で元東北帝大医学部教授の小酒井不木なんかも推理探偵小説を書き始めたのである。これらの事実が乱歩を勇気付けたし、実際、推理探偵小説の地位向上に繋がり、推理探偵小説の知的遊戯という側面が随分評価されるようになったようだ。この乱歩以降の大正の時期の推理小説作家は結構肩書が華々しい人々が多いのだけれども、その中でも今回読んだ『殺人鬼』の浜尾四郎は小酒井不木と並ぶいやむしろ不木を凌ぐ華々しい肩書の持ち主である。なんとまあこの浜尾四郎は東大総長・加藤弘之の孫でかつこれまた東大総長・浜尾新の養子なのである。浜尾四郎自身も東大法卒であり、元検事で後に議員にまでなっている。勿論エスタブリッシュメントだから偉い何て事を言う積りは毛頭ないが、こういう人達が推理小説作家となっていると推理小説が広く受け入れられる切欠になるというのもまた事実である。

 さて、この『殺人鬼』は中々の長編である。新聞連載されたにしてはしっかりと伏線が張り巡らせられ、そしてそれがきっちりと解決されている処などからは浜尾四郎の理知的な完璧主義を伺い知る事が出来る。荒筋はこんな感じである。辞め検の名探偵藤枝真太郎の元へ資産家・秋川駿三の娘ひろ子が訪れ、父親が脅迫されている事、家族に危機が迫っている予感がする事を告げ事件の捜査を依頼する。秋川駿三は駿三で別な名探偵林田に事件の捜査を依頼し、藤枝・林田の両名探偵が事件の解決に向けて奔走するのだが、秋川家の人々は次々と魔の手に殺められていくのであった......

  読めばすぐ分かる事なのだけれども、この小説は強烈にヴァン・ダインの作からの影響を受けている。犯罪を芸術になぞらえ、それを計画し実行した人間の性質をそこから推測する処なんかは正にファイロ・ヴァンスの受け売りであるし、そして小説内の登場人物が実際にヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』を読んでいるというオマケまで付いている*1。実際、ヴァン・ダインの日本の推理探偵小説家に与えた影響はとてつもなく強大であって、この『殺人鬼』に加えて小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や高木彬光の『刺青殺人事件』やらも明確にヴァン・ダインの影響下にある。ヴァン・ダインの推理小説の特徴は基本的にはトリックに凝るのではなくて、心理的推理を重視するという建前と長大で重厚で無意味な蘊蓄の数々である。この蘊蓄の方は扱いが中々難しくて、あとまあ評判も結構悪いので、作家達が主に利用するのは心理云々の方なのだが、これも実際に使うとなると中々難しい。

 その点、本作に於ける心理トリックは中々巧みに仕組まれている。読んだ事のある人なら分かると思うのだけれども、『月長石』やら『リーヴェンワース事件』に於いて、善意の人間が、思い込みから誰かの罪を疑いその人物を庇う為に嘘を吐く事で捜査状況を混乱の極致に落とし込むという小説上の仕掛けがある。ヴァン・ダインの推理小説に於いてもしばしば、誰かを庇う為に登場人物達が嘘を吐く。ここで顕れる「善意の嘘」というものは、全て偶然の勘違いやら思い込みに依って、生じるのであるが、ここを一捻りしたのが本小説『殺人鬼』ひいては浜尾四郎の中々切れ味のある処である。どう一捻りしたのか? 実は犯人はこの誤解に依る「善意の嘘」が生じる条件を巧みに誘導し、かつ犯人自身も何食わぬ顔でその嘘の共犯者になる事で自らのアリバイを作成するという心理的荒業を駆使したトリックなのである。これは凄い、確かに良く出来ているし、ここ迄来るのであれば、心理的トリックと呼んでも差支えなさそうだ。只、まあ弱点は、証言者が何時までも嘘を吐き続けるとは限らない所にあって、ここに関しては致命的だとも言える。手品の強度という点に於いてはちょっと苦しい事は否めない。そうは言っても、これは中々良く出来ている物だと結構感心した。これに加えてもう一つ強いトリックがあれば、『殺人鬼』は現代でも話題に上る推理小説になっていたかも知れない。

  本格推理小説の肝であるトリックに関しては、上述の通り、かなりの工夫が見られるのであるけれども、同じく推理小説の肝の一つである犯人の動機面の描写がちょっと頂けない。解決編になってから「実はこんな因縁がありましてこれが動機です。」と突然説明されるのである。最後に、実はこれこれこうでした、という説明は推理小説では一番よろしくない説明の付け方である。というのもこれを許してしまうと、一見確定したかに見える事実が幾らでもひっくり返す事が可能になってしまう為、メタ的無限に裏の犯罪動機やら裏の犯人やら裏の証拠やらが生まれてきてしまう。勿論この小説の場合は犯人と目される人物が自白するかの様に自殺してしまうので、一応の処解決したかに見えるのだけれども、「実は──」の論理を持ち出してしまえば、実は単独犯では無く、別な犯人が裏でほくそ笑んでいるという可能性だとか、また更なる別な可能性だとかを否定出来なくなってしまう。であるからして、物語の「真実」の発散を避ける為にも本格を狙う推理小説に於いては、様々な可能性はなるべく中盤までに遅くとも物語の2/3までには読者が納得する形で全て提示され確定されている必要があるだろう。解決編に突入してから「実は──」というのは本当に頗る拙い。勿論、クイーンや島田荘司の様に神の一声で、現況確定を行いそこから後に裏は無いと宣言する遣り方なら、解決編突入ギリギリまで色々捻くり回しても構わない。この遣り方が本格推理小説にとっては一番問題の起きない遣り方かもしれない。

 苦しいながらも中々一捻りの利いた心理トリックに挑戦した美点と構成描写的に残念な処が同居したこの長編推理小説は、抜群の出来とは言いにくいけれども日本長編本格推理小説の最初期のものとして一読の価値はあると思う。推理小説的側面の問題点の他に、文章全般の淡白な処も人に依っては好みが分かれる処だろう。個人的にはややあっさりし過ぎている様な感を受けたが、まあ私の好みは怪奇寄りのコッテリしたものであるから一般的な感想とはずれているかもしれない。本書は今の所kindleの場合は青空文庫を変換したものでしか手に入らない様だ。紙媒体であれば、創元推理から出ている日本探偵小説全集の物が手に入り易くかつ浜尾氏の作品が良く纏まって収録されている様に思える。

殺人鬼

殺人鬼

 

 

*1:『グリーン家殺人事件』を小説中の人物が知っている、読んでいるというのはこの時期の推理小説にしばしば描写されるのだけれども、本小説に於いては単にメタ的に紹介されるのよりは意味のある小説内に於ける小説の登場である。一応読者への心理的トリックとなっている部分がある。

『ロビンソン・クルーソー』 デフォー 平井正穂 訳 

 労働と信仰と西洋社会の拡大と

 池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』を読んでいる時に、当然、ロビンソン・クルーソーを思い出した。子供の頃に福音館書店から刊行されている古典童話シリーズで読んだのは覚えているのだが、細かい所は当然の様に忘れてしまっている。忘却の彼方にうっすらと漂う記憶を探ってみると、子供心にはその心躍る設定の割には淡々としたお話だった様な記憶がある。まあ、せっかくなので良い機会だ、設定上は同様の漂流譚である『夏の朝の成層圏』と比べてみたい気もするので、岩波文庫の『ロビンソン・クルーソー』を読んでみた。

 岩波文庫の平井正穂訳による『ロビンソン・クルーソー』*1は上下2巻からなるのだが、その内上巻が所謂皆が親しんでいる孤島でサバイバル生活を送るロビンソン・クルーソーの物語、即ち、『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719年)であり、下巻はその冒険の続きにあたる『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』(1719年)となっている。

 ロビンソン・クルーソーのお話は非常に有名であるけれども、その孤島での生活以外の冒険の荒筋に関しては案外知られてい無いのではないだろうか? 物語の荒筋は以下の通りである。中産階級に生まれたロビンソン・クルーソーはその心に湧き起こる冒険心に導かれるままに船乗りとなる。最初の航海は無事に成功し富を手にする訳であるが、その次の航海では実はムスリムの海賊に捉えられ奴隷生活を数年強いられるという出来事もある。この後にブラジルに渡り農園経営を行いそれを軌道に乗せた処でアフリカに奴隷を掻っ攫いに出掛け、そして、その航海の途上で漂流し、カリブの孤島*2に辿り着き、28年にも及ぶサバイバル生活が行われるのである。ここまでが上巻で、下巻では再度この孤島へ訪れ、その後にマダガスカルを経由しインド、中国、ロシアを旅して再びイギリスへと帰郷するお話である。

 この小説で描かれているロビンソン・クルーソーの冒険は正に封建的社会制度から脱しつつあった当時の中産階級労働者の生き様であり、そこには幾つかの強い信念が示されている。まず、その根底に明らかに存在する物の一つが勤労への強い信頼である。

 ロビンソン・クルーソーは流れ着いた無人島でひたすらに労働に励む。彼は勤労の齎す結果に絶大な信頼を寄せている。そして、ひたすらに忍耐を以ってして何事もやり遂げてゆく。例えば、小説内の記述に依れば、板一枚を大木から作り出すのに、42日、大木から船を作り出すのに3ヶ月、といった具合であり、最終的には農場を作り牧場を作り、島を開拓して君臨統治するのである。このロビンソン・クルーソーの忍耐と勤労はやはり驚嘆すべきものであると言わざるを得ないが、これは当時芽生えつつあった自由労働者達の目指す姿勢の窮極の形でもあったのだろう。

 勿論、勤労と忍耐を信じ続けるという事自体は現代で言う処の努力教への狂信に近いモノがあると思う人もいるだろう。当然、開拓精神と冒険心を抱いていた当時の野心的なイギリス人の全員がこの様な忍耐を持ち合わせていた訳では無い。例えば、イギリス人最初のアメリカ入植の試みであったロアーク入植は二度試みられいずれも失敗に終わっている。小説内に於いてもロビンソン・クルーソーのその精神構成に並外れたものがある事はやがて島で暮らすスペイン人達からも指摘され驚きを以って語られている。只、この時代のこの状況に於いて労働に精力を注ぐという事は、先の見えない勤労ではなく、その努力と忍耐が報われる可能性の高い賭けでもあったのである。16世紀から始まる大航海時代に於いて、ヨーロッパの各国は世界各地へと交易に乗り出し、かつ帝国主義的領土拡張にも余念がなかった。世界はどんどんと拡大して行っていた。ヨーロッパで手に入らないモノは当然相当な価値があるし、新たな植民地での新規事業は古い共同体的構造に未だ規制されていたヨーロッパと異なり、制約は少なく土地の取得も容易であった。彼等新時代の労働者達は正に長らく続いた封建的社会の支配構造から逸脱し、自らの才覚と勤労と勇気を以ってして、選択の増大による新たな自由を手にしつつあった。労働に依って新たな人生を切り開く事が可能になってきた新時代、これは正に労働者の「労働自体」に価値が生まれつつあった証左だと思われる。

 勤労への強い信頼に加えて、一個人としてのキリスト教的価値観への強い信念も描かれており、この姿もまた、18世紀の自由人達の新たな信仰の形を描出したものだろう。本書の解説に依れば、この小説で描かれる信仰の形はまるで「日曜学校的」だとも批判されていた様だ*3。ここで言われる「日曜学校的」という言葉の意味するところは、キリスト教の教義を幼稚な解釈で薄めたものでしかないという意味であって、この小説に描かれる信仰が余り高度に思惟したものではないと批判しているのであるけれど、解説に書かれている擁護はともかくとして、私はこの単純化されたある意味幼稚な信仰というものは、教会支配による秘儀と化した神学的教化からの脱出、つまり信仰的柔軟性という自由の表れだと捉えた。労働に依って選択を増やし、自由を勝ち得た当時の前衛的人々は同時に、教会からの支配ではなく、聖書を通じた神との個人的対話へと変化した新たな柔軟な信仰を手に入れつつあったのだろう。この信仰は労働で得た自由を道徳心に依って制御する役割を果たしており、例えば、小説内でのロビンソン・クルーソーは、商取引に於いて、正直で誠実な取引がやがて最大の成果を生むという思想を抱いている。又、異民族との衝突に於いても、主人公が唾棄する小説内で云う処の所謂「野蛮人」といえども、殺人は最終手段としてほとんどの場合にはそれを行わずに済むように行動している。これに加えて、ロビンソン・クルーソーの行動で興味深い所が、労働の齎す絶対的な力を信じつつも、同時に自らの力ではどうにも制御できない運命(これをある意味に於いて神や神意と捉えても良いのかもしれない)をも常に認めている処にある。勤労は必須であるが、同時に、人の行いには限界がある。この考え方は、趙甌北の有名な七言絶句と同義に思える。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天
-『論詩』 趙甌北

 個人の努力による労働の齎す自由と宗教的道義心による行動の制約、これらが合わさったものがこの小説で描かれるロビンソン・クルーソーであり、これは原始的なリベラル・ヒューマニズムと看做して良いだろう。

 しかし、ここに明確な西洋中心主義もその姿を顕してくる。現在に於いては様々な書物で指摘されるように、このロビンソン・クルーソーの冒険は西洋の帝国主義、植民地主義の正に典型例でもある。先住民族である若者を救った際に彼に最初に教えた事は主人公を「旦那様」と呼ばせる事であり、彼の名を聞く事無く、“Friday”という英語名を独善的に押し付ける。英語は教えるが、彼らの言葉を学ぶ姿勢は無い。彼らの宗教を否定し、キリスト教を強制する。これらは正に文化的帝国主義の顕われであって、小説内のロビンソン・クルーソーはこれを「善意」でやっているのであるから、独善的思考の恐ろしさが垣間見える。この文化的帝国主義に加え、領土的帝国主義・植民地主義も明らかである。ロビンソン・クルーソーはやがて島で暮らす人々に彼を「総督」と呼ばせる。何故総督なのか? 実はこの大航海時代にはヨーロッパ人の不在の土地は最初に見付けたヨーロッパ人が総督となり支配権を持つという事が慣習化されていたのである。つまり、ここで総督と名乗る主人公は明確にこの土地を西洋的価値観で自らの物と帰属せしめた訳で、これは植民地支配の典型である。この他にも、下巻で描かれる交易に於いて相当な富を得る描写は、物資の価値の勾配を利用した非西洋諸国からの搾取に他ならない。また同時に中国人・日本人を侮蔑し、シベリアの先住民族の信仰対象を破壊する描写などは、西洋中心主義の発露以外の何物でもない*4

 ロビンソン・クルーソーは局面局面に於いて矛盾し得る多面性を持つ正に「人間」を体現している。 現在からみると独善的に見える姿と自らの自由を切り拓き人間の生を尊重するリベラル・ヒューマニストとしての姿とが混在している。

 独善的な部分は眉を顰める醜悪さである。ただし、私が抱く価値観から見て独善的に見えると云う事が、私の価値観の優位性を保証するものではない。実際問題、この小説に顕われるもう一つの価値観、リベラル・ヒューマニズム的な価値観は、他人を尊重しつつも、固定化された社会構造から逸脱する原動力と成り得るだろう。独善的な部分を持ちつつも自由を希求する姿、これはしばしば矛盾を抱えて暮らす、人間としての在り方そのものである。リベラル・ヒューマニストだからと言って常に妥当な行動が出来る訳ではない。この部分は常に認識しておくべき課題だと言える。

 やがて時代と共にキリスト教的価値観はその姿を次第に柔軟に変容させていき、個々人の価値を尊重する人権思想が西洋に於ける第一の価値観の座につく事になった。現代に於いて、発展した西洋由来の人権思想と自由主義は一般に良いものと看做されているが、それが一個人や人類共同体にとって常に最適なモノかどうかは分からない。大航海時代以来、拡大する西洋的思想が世界を覆い尽くしつつある。その結果、辺境に存在する思惟やまた別な大きな共同体例えばムスリムの世界観等との衝突が激化している。日本に於いても外形上は一旦西洋の人権思想と自由主義を受け入れたに見えたが、深く浸透している様にも思えない。 西洋的思想の積み重ねの上に成り立つ思考を形成した人々は私を含めて、恐らくこの人権思想と自由主義に共感を抱いていると思うのだが、それらが所謂処の「野生の思考」を征服して良いのか?というディレンマは確かに存在する。只単にリベラル・ヒューマニズムが良いものであるからそれを世界に広めるというのであればそれは文化的帝国主義と紙一重になってしまうかもしれない*5

 ここら辺りまで考えると、池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』はほぼ同様の漂流譚であるけれども、その描く処はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と真逆である事が良く分かる。両者の文化の捉え方は全く異なっている。個々の辺境化と帝国主義的一般化との相違。ただし、私は池澤夏樹の描いた感覚により共感する人間であるけれども、デフォーの描くまた別種類の生活力にも尊敬と驚嘆を感じざるを得ないのである。

 

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 上 (岩波文庫)

 
ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー 下 (岩波文庫)

 

 

*1:相変わらず岩波文庫電子書籍版の出来栄えは良い。丁寧で豊富な注釈が施されており、全てがリンクとなっているのでワンタッチで参照できる。訳者平井正穂による前書・解説もしっかりと収録されていて尚良い。因みに、平井氏の訳で一ヶ所「なんぼなんでも」というフレーズを見付けたのだが、「なんぼ」が訳に使い得る言葉だったとは! まあ方言が出てしまったのかもしれないが珍しいものを見た気がする。

*2:実は南アメリカのオノリコ川河口付近、トリニダード島の南の辺りに位置し、大陸からそれ程離れていない事が後に明らかになるのだが。

*3:ウォット著、『小説の勃興』中にこの様に記されているらしい。

*4:この段に書いた事は、山田篤美著の中公新書『黄金郷伝説-スペインとイギリスの探検帝国主義』から相当に影響を受けている事をここに記しておく。同書は大航海時代に始まる西洋帝国主義の南米に於ける影響を概説した非常に面白い書籍である。

*5:とは言っても無批判な文化相対主義も無意味なモノであるからして、どこに着地するのかどの様な相互理解を形成するのかに関しては多くの対話が必要となるだろう。マジョリティ的な圧力を利用しない事も重要な点かもしれない。