「頭が悪い」のは、世襲ではなく自分のせいだ。

「良い大学に行きたければ、恵まれた家庭に生まれなさい」――成人の自由にもとづく新しい“世襲制” - シロクマの屑籠

あなたの頭の悪さは、あなたのせいではなく、家族のせい、社会のせい、というと気が楽に感じるからか、この手の記事は受けがいい気がする。あと、自分よりも頭の悪い人が世襲でより不幸になっているという事実をみて安心するとか。

ある程度本当のことだろう。ただ、頭が悪いことを悩むというのも、世の中的には、頭がいいほうの部類には入っているだろう。ただ、中途半端な頭のよさだ。中途半端なひとが、さらに頭がよくなろうとする、社会的に成功しようとするから、苦しむんじゃないだろうか。

その中途半端なひとが、みんな自分と同じで頭がよくなりたい、格差を是正したいと、思っていると、思い込んでいるのは、間違いだろう。頭が悪いとみなして半分馬鹿にしながら使うマイルドヤンキーという定義に属するひとたちは、そもそも、既に幸せだ。

子供の資質は、親から世襲されるのは事実としてあるだろうけど、子供も馬鹿ではない。与えられた環境のなかから幸せになれる要素を選び出し身につける。そして彼らは地方で、仲間と幸せになれる能力を身につけた。動物的な幸せだ。

どんな環境でも、与えられたカードの中から、一番幸せになれるカードを引き抜く力は、世襲ではなく自己決定によるところが大きいと思う。こういう記事で、溜飲を下げるまえに自分なりの幸せになれる方法を悟ったほうがいいんじゃなかろうか。

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と、ここまでは、個人ベースの話で。社会の持続性ということを考えたときには、その人なりの幸せを追求するだけでは、結構こわい。たぶん、個人はしあわせでも、全体でみると崩壊に向かうというのは想像がつく。衆愚やファシストなどの例をあげるまでもないし、政治の無関心もそうだろう。

やれることとしては、個々人には、与えられたカードで幸せなものを選び取る努力はしてもらいつつ、与えるカードのなかにその人だけでなく、社会を維持するのによい能力アップのカードも混ぜこむようにする、それも選ぶように仕向ける活動は、社会維持に関心のあるひとたちによって激しくされるべきだろう。

そうした意味で世襲制を問題にするのは、有効だとおもう。その視点でみるとマイルドヤンキーの方法論が世襲されるのは止めなければいけない。

個人の幸せベースではいらぬ世話だが、社会全体としては意味がある。ここを無意識にまぜて、個々人の幸せかまそこなわれるから、同情するふりをして、問題と叫びつつ、実際のところ、頭が悪いやつは社会的問題なんだよ、自分と同じように社会的に良いとされる方向をめざせよという、ちゃうと半端なインテリ層の本音を隠しているのは気持ち悪い。あなたのためだから、といあながら自分の理想を笑顔でおしつけてくるおせっかいばばあとおなじことをしている。

理想は、理想ではっきりと認識すべきだ。社会的維持の障害をなんとかしたい。そこに認識が、明確であれば、それを廃除するのが、単なるヘイトでもだめでなのは馬鹿でもわかる。実質的無意味。また、こういう記事をかいても実際にはその解決したい、頭の悪くて問題ないと思っている人には届かないということにも気づくと思う。

中途半端に頭がいい人が、何故苦しむかって、自分が幸せになれるカードに加えて、ちゃんと社会がよくなるカードも選び取ろうとしているせいだと思う。それは相当むずかしい。動物的幸せだけを選び取るほうが簡単だとおもう。だから、中途半端なひとは、動物的ヤンキーを、必要以上に憎むのだとおもうのだけど。身の丈にあわないなと思えば素直に動物になればいい。それでも自覚的に、社会のことまで考えるなら、ヘイトしている場合ではなく、事実ベースの記事に安堵している場合ではない。なんらかの具体的実効性のある、アクションにつなげられればもっといいなとおもう。




幻のおたくの街をもう一度

オタクの街秋葉原に「おたく」の居場所がなくなっているという問題 - ボンタイ
なんというか、おたく民族が秋葉原を武力によって占拠、実効支配していたわけでもないのだから、素直にオタクに明け渡せばよいのだろうとは思う。要はおたくは金づるにならなかったのだろう。街の景色を決めるのは、武力か、権力か、金なのだから。
おたくは、街の支配に失敗したのだ。おしいとはおもう。別の街のあり方はあったのではないかと思う。金に従い、動物的に行動するのではない方法。思うにそれは、政治に向かうことじゃなかったのだろうか。おたくの定義にあげられているように、社会的に足りてない人々にとって土台無理な話なことはもちろんそうなのだけど、でも、もし深い見識をもったといわれるおたくが、コミュニケーションをとりながら、その情熱を保ったままコミュニティを発展させていたとしたら、どーだったのたわろう。間違いなく彼らには、普通の人よりも考えていた。それはマイノリティー故の、処世術的な知見もそうだし、また、それ以上に単純に寝食を忘れるほど傾けている趣味への関心もそうだ。そうした動きは、今の日本人に足りていないイノベーションを引き起こす力につながっていたと思う。じぶんの利害関係をこえた、動物的な本能もこえた、働き。
それは、象牙の塔からでてきさえすれば、古代ギリシアのポリスで行われていた、自分の利害関係をこえて、世の中のあるべき姿を議論しあう本当の意味での政治と重なる。
秋葉原を、アゴラととらえ、リアルな政治につなげることがおたくにできていれば、面白かったのだろうなと思う。何か政治的アクションをとるのはかっこ悪いというのがはやりだったし、神の見えざる手に身を任せることが、時流だったし、しょうがないとおもうけど。
でも今のオタクのなかにも、その仮面を被っているだけで、おたくはたくさんいると思う。ほとんどの活動は!ネットでおこなわれ、リアルな活動があったとしても、ゲリラ活動的な、オフ会、ミートアップ、ハッカソンなどになっている。固定的な活動の場所を、まぼろしの、おたくのための街を、リアルな場所に向上的に作り上げることはいまからでも可能なのではないだろうかと思う。議論をしあいながら、官僚的なおしつけではないおたく文化を作り上げるための場所が、きっとできるはずだ。

説教広告が悪いわけでもないんじゃないか。

衰退しつつある産業がやりがちな「お説教広告」について - ココロ社

本当のところ、どっちなんですかね。お説教広告って衰退してるのか、それとも微妙に復活してきてるのか。世情が不安になるにつれ、共通感覚の土台を少し前の日本的風景に求めるようになり、その結果、旧態依然とした大人、女性感を明言することがうけるようになる。って流れのなかの広告かと思っていましたが。

まあでもそんな懐古主義に溺れる大人なんて、日本のなかでもごく少数で、ニッチなマーケットであることを想像すると、そこをターゲットにしたマーケティングはそもそも失敗だろうというきはしますが。ただ、件のブログでかかれているようにお説教広告がだめというより、お説教の根拠となる思想が、ロートルすぎるというのが問題なのではないかと。

共通感覚の土台を求めているのは間違いないにせよ、その求め先は、年賀状ではなく、あくまでLINEでのあけおめメッセージなのでしょうから。昔の大人像を語るのではなく、エクザイルかなんかに、兄貴的に、おれらのつながりは大事だぜ、挨拶は大事だぜ、手書きのメッセージも嬉しいよなとか、そんなかんじの説教なら日本のメジャー層にはひびく広告にはなるんじゃないですかね。まあ個人的には、そんな広告見たら死んでしまえとおもいますが!

でも、たまには説教うけたいなあとか思う時もあるのよねえ。。