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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。こちらは[sd-script](「エスディー・スクリプト」)です。
管理人はと申します。
戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。
創作におけるものについては「感想」カテゴリで触れる以外はありません。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
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【更新履歴】NEW!!

  • 20240417:『成実記』15:人取橋合戦をupしました。長らく時間が空きまして申し訳ございません。私事になりますが、家族の者が死去したため、ここ一年ろくに歴活できておりませんでしたが、これからはもう少しあちこち行きたいと思います。
  • 20240103:『成実記』12:義継の頼み『成実記』13:粟之巣事変『成実記』14:二本松攻めと雪をupしました。
  • 20240101:あけましておめでとうございます。コロナ禍以降ろくに仙台にも北海道にもいけていませんが、今年こそは目がけて行きたいです。2022年分の更新履歴を過去の更新履歴リストにコピーしました。今年もよろしくお願いします。

これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

原文:

その他の政宗逸話記事:

『成実記』15:人取橋合戦

『成実記』15:人取橋合戦

原文

一、霜月十日ごろ。佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公。仰合され、須加川へ御出馬成られ。安積表に伊達御奉公の城々へ御働成られ。中村と申候城御せめ落城仕候。右之通俄に小浜へ申来候に付。政宗公岩角へ御出馬成られ。高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前。御旗本鉄砲三百挺差籠られ候。本宮城へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛。相籠られ候。玉井城へは白石若狭・我等事は二本松籠城に候間。八丁目之抱のため。渋川と申城に差置かれ候か。小浜在陣申衆何れも無人数に候間。早々参るべき由御状下され候條。渋川人数過半相残候而。塩松へ廻り小浜へ参り候処。はやはや御出馬成られ候。小浜の御留守にも御人数差置かれず候間。我等人数を残し申すべき候由仰置かれ候に付。青木備前・内馬場日向馬士三十騎程残し。岩角に於て御目見得仕候へば。御意には前田沢兵部も身を持替。会津奉公致し候間定而明日は。高倉か本宮へ働かすべき候間。罷通るべき由仰せられ候條。ぬか沢と申所に其夜在陣申。彼前田沢兵部は。旧二本松奉公之者に而。義継切腹之砌伊達へ御奉公仕候儀。佐竹殿出陣に付又違変申候。同月十六日前田沢南の原に。敵の陣を懸候定而高倉へ之働きに之在べき由。申来候に付政宗公も岩角より本宮へ御移成られ。本宮其ころは只今之町場。畑にて人居も之無く少川流之処。外やらひにて内町斗人居候。高倉へ差働くべき由申に付。助之衆の為に本宮へ人数観音堂へ打上。見合次第に高倉へ助入べし。高倉の海道山下に備を相立候。敵五十騎余に而三筋に押通候間。高倉に籠之衆申事には。本宮御無人数に而候間。人数を出し抱留候而見度由申され。成間敷と申され候衆も候得共。富塚近江・伊藤肥前申様には縦押入られ候へども本宮へ通候人数。留り申すべく候はば苦しからぬ由。両人申人数を出候処。其ごとく敵を押縮め候処。岩城之衆入替候而押籠候間。両小口へ追入られ二三十人討たれ候。敵の人数大勢故前田沢より押候人数は。観音堂より出候衆と戦候。又荒井を押候人数は。我等との合戦両口に而候。不合戦前下郡山内記我等備候向に。少高山之所へ乗上見候得ば。白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐。三人之差物見候得ば。馬上六七騎足軽百四五十斗に而。本宮への方高倉より参候。其跡に大勢人数参候敵とは存ぜず。扨又何者と疑ひ去乍ら敵と味方との境之様に見得。其間一丁余隔候間。不審と存候而見候得ば。其間に而鉄砲一ツうち候間。扨は敵味方之境之由存候而。乗返し山上より敵是まで参候。小旗をさせさせと呼候間。其時小旗をさし相待候所。若狭・伊豆・壱岐我等まとゐへ翔込。直々御旗元へ罷通られ候。観音堂より此人数太田原に備候処。敵大軍故こたへ候事成らず敗軍候而。観音堂を押下され御旗元近まで退還候。茂庭佐月を始めとして五十余人討たれ候。左月は験捕られず候。伊達元安同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬介・片倉小十郎。始として歴々衆相こたへ候故。大敗軍は之無き候より我等備は。味方は一人も続かず左は大川にて。七丁余敵の後に成候。我等十八歳に而何之見当も之無き処。下郡山内記我等に馬を乗懸而。馬の上より我等小旗を抜。観音堂の衆崩押切られ候間。早々除候へと申候て。小旗を歩候者に渡す我等思ひ候は。相除候ても討たれるべく候間。爰に而討死仕るべき由存引除かず候。然ば敵より自石若狭・高倉壱岐・浜田伊豆。三人を追立候而敵山の下迄参候間。我等人数を放懸候得ば。敵相除候爰に伊羽野遠江とて。七十三に罷成大功之者候が。真先に乗入敵両人に物討致し。一人内之者に首を取らさせ。山の南さがり五丁斗橋詰迄敵を追下候処。橋に而敵押返又味方山へ追上られ候処。羽田右馬助敵味方之境を。乗分乗分崩さぬ様に。馬を立まわしまわし相除候得者。鎗持一人進出右馬助をつき候処を。取て返し候につきはづし前へ走懸候を。右馬介一太刀に物付仕。其者も家中之ものに討たせられ。其身の家中も一人討たれ相除候て。本合之始り所へ又追付られ候。又夫より返し候て鉄砲大将・萱場源兵衛・牛坂右近両人。敵之真中へ乗入。馬上二騎充物付を仕候得共。具足之上に而通さず候哉。敵除口なり又本の橋本迄追下候て。北下野馬を立候処に。歩之者走参新介馬をつき候間。新介も罷り成らず引除候処に。味方除口に成候。伊羽野遠江味方崩れぬ様にと殿をいたし。取て返し余り味方に離候。其日は甲着候而は老人目見えずとて。すつふりにて罷出候故。敵乗懸あたまを二太刀切候間。こらひ候事成らず引除候。味方夫より又本之処へ追付けられ候。左候得ば観音堂も武別仕候間。敵引揚候我等も押さず。添人数を引廻打揚武別致す。観音堂は誰々如何様に仕候も。別筋に候間存ぜず候。遠江は罷帰相果候。不思議之天道を以一芝居も捕られず。観音堂同前武別致し候。敗軍は申さず候得共我等家中覚之者。伊羽野遠江・北下野を始めとし討捕られ候。敵の首も九討捕候。合戦の様子細には記さず候。あらあら書付候。観音堂の敵引揚候間。我等備は味方へ引添申候。其後観音堂へ敵備を上。高倉之海道川切に備を帰し候間。一戦之有るべき歟と存候処。政宗公御備五六丁程隔候故歟。何事無く打揚候此方之人数も御無人数故。押添えず彼下郡山内記と申者は。旧輝宗公へ御近御奉公申。相馬御弓箭の時分鉄砲大将仰せ付けられ度々の覚を仕候。其頃御勘当に而我等を頼みまとゐに居申候。其日も味方おくれ候時は。馬を立廻立廻味方の力に成。敵を押返候時は最前に乗入。敵に両度物付を仕家中に首をとらせ申候而。比類なくかせぎを仕候。<<

語句・地名など

人居(じんきょ/ひとい):人の住んでいるところ、人が住むこと
橋詰(はしづめ):橋のたもと

現代語訳

一、霜月の10日頃、佐竹義重公・会津義弘公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公が話し合わせて須賀川へ出陣され、安積方面の伊達に仕えている各城に戦闘を仕掛けられました。中村という城が攻め落とされました。このとおり、急に小浜へ知らせが来たので、政宗公は岩角へ出馬され、高倉には富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に旗本衆鉄砲300挺を置かれました。本宮城には瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を入れられました。玉の井城へは白石若狭を、私は二本松が籠城していたため、八丁目の支配範囲ないにある渋川という城に差し置かれましたでしょうか。
小浜に在陣した者たちはいずれも少人数であったため、早く来るようにと書状をくだされたので、渋川の勢をほとんど残し、塩の松へ回って、小浜へ参上いたしました。すばやくお出になられました。小浜の留守居にもあまり人が置かれなかったので、私の手勢を残しておくよう仰せになったので、青木備前・内馬場日向ら、馬侍30騎程を残しました。
岩角にて面会したところ、仰ったのは、前田沢兵部も裏切り、会津に寝返ったので、明日はきっと高倉か本宮へ戦を仕掛けるだろうから、行くようにと仰せられたので、糠沢というところに私はその夜在陣しました。
この前田沢兵部という男は、もともと二本松に仕えていた者で、義継が切腹したときに伊達に仕える様になった者でした。佐竹殿の出陣をしり、願ったのです。
同月16日前田沢は南の原に敵の陣を敷いていたので、きっと高倉へ戦闘を仕掛けるであろうと言って送ったので、政宗公は岩角から本宮へお移りになられました。
本宮はその頃は、いまの町場は畑であり、人の住むところもなく、川の流れも少ないところでした。外に矢来があり、内の待ちにだけ人が住んでいました。
高倉へ攻めかけるべきであることを申し上げたところ、援軍のために本宮に手勢を観音堂へ上らせ、様子を見て高倉へ援軍するようにと、高倉の街道の山の下に備えを立てました。敵は50騎あまりで、3つの筋に押し通ってきたので、高倉に籠もっていた者たちがいうには、本宮の手勢が少ないので、軍勢を出して留めておきたいと言ってきたので、それはしてはならないという人々もいたが、富塚近江・伊藤肥前は「たとえ押し入られたとしても本宮へ通る人数を留めるようにするならば、大丈夫ではないかと言ったので、二人が言う手勢を出したところ、その通り、敵を推し縮めることができた。
岩城の衆を入れ替えて押し込めたので、二つの小口へ押し入られて、2,30人が打たれた。敵の軍勢が多かったので、前田沢から出てきた軍勢は観音堂より出てきた軍勢と戦になった。また、荒井をせめていた軍勢は私との合戦となり、両口の戦となった。
合戦になるまえ、下郡山内記と私の備えの向こうに、高い山の少ないところに乗り上げて見てみると、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐、3人の差物が見えたので、馬上を6,7騎、足軽140~50騎だけであったので、本宮の方へ高倉より参じた。その後に大勢軍勢がきたが、敵とは思えず、さて何者であろうかと疑い、しかしながら、敵と味方の境のように見えた。その間は一丁あまり隔てていたので、怪しいと思って見たところ、その間にて鉄砲を一発撃った。さては敵味方の境であると思ったので、乗りかえし、山の上から敵がこちらまで来た。
小旗を差せ、差せと呼ぶのが聞こえたので、そのとき小旗を差し、待ち構えていた。
すると、若狭・伊豆・壱岐が私の円居へ駆け込んできて、直接政宗の旗の下に通っていった。
観音堂から軍勢が太田原に備えたが、敵が大軍であったため、応えることができず、敗軍した。観音堂を押しくだされ、政宗の旗のそば近くまで知り沿いた。茂庭左月を始めとして、50人あまりが打たれた。左月の首は捕られずに済んだ。伊達元安同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬助・片倉小十郎をはじめとして、名だたる武将たちが抗戦していたので、大きな敗走はなかった。私の備えは、味方は一人も居らず、左は大川であったので、七丁ほど敵の後ろになっていた。
私は18歳で、何の見当もなかったのだが、下郡山内記は私に馬を乗り掛けて、馬の上から私の小旗を抜いた。観音堂の勢が崩れ、押し切られたので、早く退きなさいと言って、小旗を徒の者に渡した。私は退いたとしても、きっと討たれるだろうから、ここで討死にしてやろうと思ったので、退くことはしなかった。
すると敵から白石若狭・高倉壱岐・浜田伊豆の3人を追いたて、敵は山の下まで迫ってきた。私の手勢を放し、取り掛けさせたところ、敵は退いた。このとき、伊場野遠江という73になる大きな功労を上げてきた者が、真っ先に乗り入れ、敵2人に取り付くかかり、1人の者の首を取らせた。山の南を下がり、5丁ほど橋のたもとまで敵を追い下し、橋のところで敵を追い返し、また味方を山へ押し上げた。羽田右馬介は敵味方の境を乗り分け乗り分けて、くずさぬように、馬を立ち廻して敵を退けさせた。槍持ち1人が進んで出て右馬介を突いたので、取って返し、外して前へ走りかかったのを、右馬介は一太刀でそれを斃した。その者も家中の者に討たせた。その家中も1人討たれそれぞれ退いたところ、本合戦がはじまったところへ、また追いつけた。またそれから帰ってきて、鉄砲大将の萱場源兵衛・牛坂右近の2人が敵の真ん中へ乗り入れ、馬上2騎にむけてとりかかったのだが、鎧の上であったから通らなかったのだろうか。
敵は退却してまたもとの橋のたもとまで追い下って、北下野馬を立てたところに、徒の者走ってきて、馬を突いたので、新介もならず、退いたのである。味方がまた退却しなくてはいけないかということになった。伊場野遠江は味方が崩れないようにとしんがりを務めた、取って返しすぎたため、味方と離れてしまった。其日は甲冑を着たら、老人は目が見えないと言って、兜をかぶらずに出陣していた。
敵は乗りかかり、頭を二太刀切ったので、堪えることができず、退却した。味方はそれからまた元のところへ追い詰められた。すると、観音堂も戦闘が終了したので、敵は引き上げ、私も押さず、添えられた軍勢を集めて戦を終えた。
観音堂はどのようになったかということも、道が違ったので、わからなかった。伊場野遠江は戻ってきて事切れた。不思議な天の摂理によって、一つの場所も取られず、観音堂と同じように戦闘終了となったが、負けはしなかったが、私の家中の名に覚えのある者も、伊場野遠江・北下野をはじめとして討ち取られた。敵の首も9討ち取った。合戦の様子を詳しく記述することはせず、ざっと書き付ける。
観音堂の敵が引き上げたので、私の備えは味方へ付けた。その後敵は観音堂へ備えを上げ、高倉の街道の川のそばに備え戻したので、また一戦在るだろうかと思い、政宗公の備えも5,6丁ほど隔てていたからだろうか。何ごともなく、引き上げた。こちらの人数もあまり多くはなかったので、追いかける事もできなかった。
この下郡山内記という者は、もともと輝宗公に近く仕えていたものである。相馬との合戦のとき、鉄砲大将を命じられ、たびたび活躍していた。その後政宗から不興をかって私を頼って軍に居たものである。その日も味方が遅れたときは馬を立ち廻し立ち廻しして味方の力となり、敵を押し返すときは一番前に乗り入れ、敵に2度つかみかかり、家中の者に首を取らせるという比べる者のない活躍を見せた。

感想

本宮合戦——のちに人取橋合戦と呼ばれるようになる戦の様子です。
伊達家全体では茂庭左月良直の活躍と死が有名ですが、成実の家中にも伊場野遠江という老人がいて、兜をかぶらずに戦い、敗死したことが書かれています。
伊場野以下、家中の者たちの活躍を詳しく書いているところが成実らしいなと思います。
下郡山内記もそうですが、本家(政宗)から勘気を蒙り、首になった人たちが大森・亘理伊達家へ流れてくるケースがわりと多くておもしろいです。

『成実記』14:二本松攻めと雪

『成実記』14:二本松攻めと雪

原文

一、十月十五日。二本松へ御働成られ候得共。内より出ず堅固に抱候間。何事も無く打揚られ川を越高田へ。惣人数引上野陣を相懸けられ候。明日之御兵議承るべき由我等に於いても高田へ参候。拙者其夜之陣場はほう田と申て。二本松より北に而高田よりは各別之処に而候。夫は八丁目の抱に而目付迄差置候。双方数多討死致し候。高田之衆も相返され候に付。城内より出候人数遠やらひ迄押入武別仕候。十五日之夜半時分より。大風吹出明方より大雪降。十六日より十八日迄昼夜共に降続候。故。馬足叶わず御働も成らず二十一日に小浜へ御引籠。雪中は御働成らるる間敷由に而境之衆残り無く相返され御休息成られ候。

語句・地名など

高田:高田:二本松市平石高田
ほう田:『政宗記』では伊保田(伊保田:安達郡安達村硫黄田?油王田?)

現代語訳

一、10月15日、二本松城へ戦闘を仕掛けられたのですが、内からはまったく出ず、固く籠城していたので、何の成果もえられず、川を越え、高田へすべての軍勢を引き上げ、野陣をしかれました。明日の戦について聞くために、私も高田へ参りました。
私がその夜陣を引いたのはほう田という、二本松より北で、高田よりは行きやすいところにありました。八丁目の監視の範囲内でしたので、目付をおいたのですが、双方たくさん討死しました。高田の衆も戻されたので、城からでてきた者たちが遠矢来まで押し入り、戦闘終了になりました。
15日の夜中頃、大風が吹き始め、明け方から大雪が降った。16日より18日までは昼からよるまでずっと雪が降り続いたため、馬が歩くこともできず、戦闘することもできず、21日に小浜へ引きこもられました。雪の中では戦をするなといわれたので、境の衆は残らず戻され、お休みになられました。

感想

二本松城攻めが降り続く大雪で中止になったことが書かれています。

『成実記』13:粟之巣事変

『成実記』13:粟之巣事変

原文

一、十月六日の晩。輝宗公政宗公の御陣屋へ御出成られ候而。御台所へ家老衆へ召寄られ。義継御詫言之様子御訴訟成られ候。我等若輩に候得共召加えられ候事は。御使者親仕候間。義継へ之御使仕るべき由輝宗公仰付られ候。我等申上候は。若輩に而万事十方なき体に候。ヶ様之大事之御使仰付らる之儀。迷惑之由頻に申上候得ば。実元扱之首尾に候間。御使仕るべく御差引万事輝宗公ならるべき由仰せられ候間。是非に及ばず御意候。義継我等を以て御訴訟には。右のごとく北なりとも南なりとも。一方召し上げられ下さる候様にと御詫言に候。罷り成らず候に付左様に候はば、唯今迄差置候家来共乞食に致しせしめ候事迷惑之由。左様に候つつ本々の知行を仰せ下され召し使われ、下さるべき由仰上候共。夫も罷り成らず候に付爰元へ与風伺公申候上は。切腹を仕候共。御意を背ましき覚悟仕参候間。何分も御意次第之由申上げられ候に付相済候。義継御申には。身上相済忝存知候條。御目見申度由仰せられ候間。其通申上候所尤御参会に成られるべき由御意候而。義継我等陣所へ七日の八時分御出。彼是時刻移蝋燭立候而。会御申成られ二本松へ御帰。輝宗公御かせきを以て相済候。此御礼をも申上度候。又見廻申支度をも申度由仰せられ候間。輝宗公御陣所へ我等伺公致し候処。伊達上野其外家老衆数多宮森へ参られ。二本松迄落居目出度由。輝宗公へ申上能序候間。義継我等所へ仰越候趣申上候得ば。早々御出候様に御左右申すべく候由御意候條。其通申上候得は。義継輝宗公御陣所へ御出候。義継供之衆高森内膳・鹿子田和泉・大越中務三人。御座敷へ召出され候。和泉参候時義継へ耳付に何と歟申候間。御座敷につき候に輝宗公御下に。我等上野も居申候。御雑談もこれなく御座候処。御門送に御立内に而御礼成られ候。其左右には御内之衆居候。捕候事も成らず候哉。表之庭迄御出なられ候処。道一筋に而両方竹から垣に而。御脇を通すべき様も之なく詰候処へ。御庭まで御出成られ候。我等上野両人計御庭へ罷出候得共。通申すべき処之無く御後に居候処。義継手を地へつき今度色々御馳走過分に存候。左様に候得ば。我等生害成らるべき由承候由仰せられ。輝宗公之御胸之召物を。左手に而御とらへ。脇差を御抜候兼而申合と見得。義継供之衆後近く居候者共。七八人輝宗公の御後へ廻り。上野我等押隔引出申上候。脇を御先へ通すべき様之無く門を立候得と。呼候得と左様にも仕合かね急出候間。是非に及ばず各々御跡をしたひ参候。小浜より出候衆は武具を以て早打出候。宮森より御供候衆は。武具を着候隙もなく候まま。素肌に而候打果申すべき由申衆も之無く。あきれたる体に而取捲十里余。高田と申処迄御供申候。政宗公は御鷹野へ御出御留守に候故。御野へ申上御帰候。二本松の道具持は半沢源内と申者一人。遊佐孫九郎と申者弓持一人。其外皆抜刀に而輝宗公義継取り捲参候。然処に取捲参候内より。鉄砲一うち候打果申すべき由。申者も之無く候得共。惣之者共懸候而。二本松衆五十人余り打果。輝宗公も御生害成られ候。政宗公も其夜は高田へ御出馬成され候。各々家老衆申上候は。先小浜へ御引籠御吉日を以て。二本松へ御働然るべき由申上候に付。九日未明に小浜へ御帰成られ候。輝宗公御死骸其夜小浜御供申候而。長井之資福寺に而御死骸御葬礼也、遠藤山城・内馬場右衛門追腹仕候。八日之晩義継御尋ねさせ成られ方々切放候を。藤を以てつらね小浜町之外へ。張付に御上ヶ数多番代を相付けられ候。義継抱方地本宮・玉の井渋川八日の晩に。二本松へ引除候。米沢へ人質に差越さるべき由仰合され国王殿と申。十二に成候子息を譜代之衆真守り。義継いとこに新城弾正と申者。兼而おぼえの者に候。彼者武主に成籠城致し候。

語句・地名など

台所(だいどころ):普通は炊事場の意味だが、東北方言で囲炉裏の奥の板の間などの意味があるのでそちらか。

現代語訳

一、10月6日の晩、輝宗公は政宗公の陣屋へお越しになり、台所へ家来衆を連れてきて義継の謝罪の様子について訴えになった。私は若輩の身であったが、そのうちに呼ばれたのは、使者を父の実元がやっていたことであったので、義継への使いを担当すべきであると輝宗公にご命令されたからでした。
私は、若輩であるので、何につけてもやり方がわかっていない状態であり、このような大事な使いを命じられるのは、困りますと何度も申し上げたのですが、実元が担当している事柄なのだから、使いをするようにといわれ、すべての責任は輝宗公がとるからと仰せられたので、仕方なくそのとおりにしました。
義継は私を介して「前にいったように、北であっても南であっても、片方だけを召し上げていただければと」と訴えました。それは却下されたことをいったところ、「ただの今まで従ってきた家来たちを乞食にさせるようなことは大変苦しいことであります」と申し上げられました。
そうではあるが、もともとの知行をくだして、奉公させるようにと申し上げたが、それも却下されたので、私のところへきたのは、切腹をし、ご意向に背く覚悟で来たので、どうにか言っているとおりにしてやるべきだと申し上げられたので、それに同意なさった。
すると義継は「領土保全の問題が片付いたこと、忝じけなく思いますので、是非ご面会したい」と仰ったので、そのとおり申上、面会に来るようにと仰せになった。
義継は私の陣所へ7日の八つどきごろ来られた。かれこれ時間が経ち、蝋燭を立てた。お会いになって、二本松へお帰りになった。
「輝宗公のおかげで無事に済み、この御礼を申し上げたく思います。また領土の見廻りをして、支度をしてきたい」と仰ったので、輝宗公の後陣所へ私が伺ったところ、伊達上野政景ほか家老衆が多く宮森へ来ていた。二本松までが落ちたことはめでたいと輝宗公へ申し上げ、良いついでなので、義継は私のところへやってきて、そのことを申しあげたところ、早々と出発するよう決断するようにとお考えになられたので、その通り申し上げたら、義継は輝宗公の陣所へやってきた。
義継の供は高森内膳・鹿子田和泉・大越中務の三人であった。かれらは座敷へ呼ばれました。鹿子田和泉がやってきたところ、義継へ耳打ちに何とか言ったようでした。
座敷につき、輝宗公の下座に私や上野介政景もいました。雑談もあまりなかったので、門まで送ろうと、お立ちになり、御礼をされました。その左右には、お身内の衆がいましたが、捕らえることもできなかったのでしょうか。
表の庭までお出になられたとき、道一筋で両方が竹垣になっており、脇を通るべきこともできないところを通って、庭まで出られました。私と政景の二人だけが庭へ付き添ったのですが、通るところがないので後ろにおりました。すると義継は手を地面に付けて、「このたびはいろいろ丁寧に対応してくださり、過分なることと思います。なので、私は殺す」と仰り、輝宗公の着物の胸を左手でしっかりと捕らえ、脇差を抜きました。まえもって話し合わせていたようで、義継の家来は後ろのそばにいた7,8人が輝宗の後ろへ回り、政景と私は押し隔て引き出し申し上げたが、脇を通ることができず、門を閉めろと人を呼んだが、そうすることもできず、急いで出ていったので、仕方なくそれぞれあとを慕って追いかけた。
小浜より来た者たちは武具を以て早々にやってきたが、宮森から供してきた者たちは武具を着ける隙もなかったので、すはだであった。討ち果そうという者もおらず、呆然としたようすで取り巻き、十数里を追いかけ、高田というところまでやってきました。
政宗公は鷹野へ鷹狩りに出かけられ、留守でございました。そこへ申し上げ、お帰りになられました。
二本松の義継側で武具を持っていたのは、半沢源内という者一人と、遊佐孫九郎という者が弓を持っておりました。そのほかは皆抜刀し、輝宗公と義継をとりまいておりました。
そのとき取りまいていた者たちの中から、鉄砲がひとつ打ち懸けられ、誰がいうでもなかったのですが、すべての者で戦闘が始まり、二本松の者たちを50人以上打ち殺しました。輝宗公も殺されました。
政宗公もその夜は高田へお出になりました。それぞれの家老衆は「まず小浜へひきこんで、吉日を選んで二本松と戦に入るべきである」といったので、9日の未明に小浜へお帰りになられました。
輝宗公のご遺体はその夜小浜へお連れ申し上げ、長井の資福寺にてご遺体を弔いました。遠藤山城・内馬場右衛門が殉死をいたしました。
8日の晩、義継の遺体をお探しになり、あちこち切り離したものを、藤を使ってつなげて、小浜の町の外へ磔になされ、多くの目付を付けられました。
義継の持っていた地である本宮・玉の井・渋川にいた者たちは、8日の晩に二本松へ引き上げました。譜代衆は、米沢へ人質にだすようにとおっしゃられていた国王殿という12になる子息を守り、かねてから名の知れた義継の従兄弟である、新城弾正という者を対象にして、籠城いたしました。

感想

輝宗の死、いわゆる粟之巣事変の詳細です。
他の記述と重なるところもあり、興味深い一節です。

『成実記』12:義継の頼み

『成実記』12:義継の頼み

原文

一、同月二十六日。政宗公小浜城へ御馬移され候処。二本松義継より我等親実元へ仰され候は、代々伊達を頼入身上相立候得共。近年会津・佐竹・岩城・田村へ御弓箭に候。我等も清顕公へ御恨之儀候て会津・佐竹御味方を仕度候。御同城に致併跡々の御首尾迄輝宗公を以て。相馬へ御弓箭之時は。両度御陣へ参候て御奉公仕候間。身上別儀無く相立られくだされ候様にと御頼候に付て、親実元右之通輝宗公へ申上候得ば・相馬御弓箭之砌御越候も。御覚成られ候。併今度大内備前御退治之砌。小手森両口之合戦に於いて一口は義継先手に候。大場之内へ御働之砌も。二本松籠人数を出し端合戦之間。大内同然之敵と思召候條。二本松へ御働なさるべき由仰払われ候。然りと雖も種々御詫言に付。左様に候はば南宮杉田川限に明け渡され。中五ヶ村に而相立らるべく候。其上御息人質に米沢へ差越さるべき由仰せられ候由。義継御申越候は。南なりとも北なりとも一方召し上げられ下さる候様にと。御詫言に候得共。罷り成らず候に付。輝宗公御陣所宮森と申所へ。十月六日翔入られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、同じ月の26日。政宗公が小浜城へ移動なされたところ、二本松の畠山義継から、私の父の実元のところへ「代々伊達を頼り、身上を立ててきたけれども、近年会津・佐竹・岩城は田村へ戦をしかけられましたた。私も田村清顕公へ恨みがありましたので、会津・佐竹へ味方をしたいと思いました。同じ城に援軍を送ったりもしていましたが、あわせて後々の処理まで、輝宗公を頼みにしており、相馬へ戦を仕掛けられたときは、二回とも参陣して、奉公をしておりました。わたくしの身代については問題なく領土を保てるようにどうにかしていただきたい」と言って、頼んでこられました。
私の親の実元はその通りに輝宗公へ申し上げましたところ、相馬の戦の際に参陣したことも覚えておられました。あわせて、今回大内備前を退治の際も、小手森の二方面での戦いになったときも、片方は義継が先手をしておりました。大場之内へ戦を仕掛けたときも、二本松に籠もった手勢を出して、小さな小競り合いになったので、大内と同じ敵とお思いになったので、二本松へ合戦になるだろうと言い払われました。
しかし、そうであってもいろいろと謝罪を述べられたので、そうであるならば、南宮杉田川を区切りにこちらに手渡し、中5ヶ村に領土を減らし、そのうえ子息を人質に米沢へ遣わすよう仰られた。
義継は「南であっても北であっても一方のみの召し上げで容赦してほしい」と訴えてきたのだが、それを却下した。すると、義継は輝宗公の陣所である宮森というところへ10月6日に駈け入ってこられました。

感想

二本松の畠山義継へ強硬姿勢を取る政宗と、それに苦慮する義継の様子が書かれています。

『猫の日本史』政宗関係記述

昨年こんな本が出ておりまして、いろいろな日本史上の人物たちがどのように猫と接していたかを集めた本なのですが、読んでみたら政宗の記述が載っていたので、引用します。

 島根県立古代出雲歴史博物館が令和四年(2022)に公開したその史料とは、元和六年〜七年(1620〜1)頃に野々村四郎右衛門に送られた伊達政宗の直筆書状である。野々村四郎右衛門は江戸幕府の旗本で、幕府と政宗の連絡係を務めていた人物。政宗とは個人的に親しかった。
 さて書状の内容だが、簡単にいえば子猫をもらったことへの礼状である。「猫子たしかにいただいた。男ぶりが見事です。其の身より大きなネズミを捕らえたと家臣から聞きました。首輪もおしゃれです。お会いして御礼を申し上げたいと思います」といったことが書かれている。

渋谷申博『猫の日本史-みんな猫が好きだった-』出版芸術社/2022 p43~44より

政宗が猫を飼っていた! 雄だった!! だいぶかわいがっていた!! という事実が判明します。
書状ありがたいですね。首輪はどんなものをつけていたのでしょうね。

『成実記』11:塩松を入手

『成実記』11:塩松を入手

原文

一、小浜に於いて助之衆相談には。岩角取られ候はば。引除候事。成間敷候由申候。会津衆大内備前へ異見申候は。今日政宗公岩角を通御覧成られ候。彼城をとらせらるべき由に。思召候と現見得候と。申され候はば。何れも引除候事成間敷候間。今夜引除然るべく候。会津に於いて松本図書之助跡明地に候間。是を下され会津の宿老に罷成候様に申上ぐべく候條。罷除べき由頻に異見致し。其使には中目式部平田尾張を以催促申候に付。大内備前も通路を大事に存候而。抱之城共小浜残りなく。其夜二本松へ引除塩松分は落居仕候。

語句・地名など

現代語訳

一、小浜において援軍の者たちが話し合い、「岩角をお取りになったなら、退くことはあるまじきである。会津衆が大内備前へ意見したのは、今日政宗が岩角を通り、御覧になった。彼の城を取らせるようにと思っているのだろうと今思われる」と相談になったので、いずれも退くことができなくなってはいけないということで、今夜退くのがよいということになった。
会津の中で、松下図書助がいなくなった地が空いているので、この地を下され、会津の宿老にしていただけるように申し上げようと思ったので、退くようにしきりに意見し、その使いには中目式部と平田尾張を遣わし、催促をした。
大内備前も通路が塞がれてはと大事に思ったので、治めていた城と小浜の衆は残りなく、その夜に二本松へ退き、塩松領は政宗の支配下となった。

感想

とうとう塩松を手に入れました。