若き外科医への手紙

〇〇××先生

 2年間の臨床研修修了おめでとうございます。オリエンテーション期間から外科ローテーションにかけて○○先生には大変お世話になりました。ERでは「内科はもう二度と診たくない」と毒を吐きつつ、救急車に翻弄されるわたしを何度も助けてくださり、感謝してもしきれません(笑)

 

(中略)

 

 さて、これで終わってしまっては心残りですので、少々長くなりますが外科医になられる○○先生には、私からお願いがあります。●●先生も同様のことを仰っていましたが、「外科医が患者を見捨てたら、その患者は絶望するしかない」、すなわち「外科医は治療における最後の砦」です。外科をローテーションして、外科の先生方は、日々知識や手技の研鑽を積むだけでなく、生死の境目で絶望の淵に立たされた患者さんやご家族と向き合い、最後の砦としての責務を果たされているとひしひしと感じました。私自身、身内で何人かがんになり、ある外科医の方には懇切丁寧に治療していただきましたが、一方で心無い外科医の対応で不信感が生まれたこともあります。外科医は患者さんにメスを入れることで、身体だけでなく、心にも深く侵襲を加えているということを、どうかいつまでも忘れないで下さい。

 先生も読まれていたV.E .フランクルは、『夜と霧』の中でこう言っています。

 

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」生きることにも耐えられるのだ

 

 手術をしても予後が厳しかったり、外科的適応がなかったりして絶望に追いやられてしまう患者さんやご家族も少なくはありません。それでも、医師には治療以外のことでできることはあります。むしろ、「最後の砦」としての医師の重要な仕事のひとつだと私は思います。ここにはエビデンスガイドラインも存在しませんが、外科医だけでなく、内科医でも、私が目指す精神科医でも、自分なりの医師としてのあり方をもって応えなければなりません。シビアな状況に立たされて絶望しそうな患者さんが、少しでも「生き続けることへの意味」に向き合えるように、外科医として、ひとりの人間として、考え続けていただければ幸いです。

 長くなりましたが、これをもちまして私から○○先生への贈る言葉とさせていただきます。大変お疲れ様でした。今後ともよろしくお願い申し上げます。

僕とチョコレートのテーゼ

もうすぐホワイトデーだなあ、と思いつつ今年も母親からもらったものしかないので、返しようもなく、自分で買ったほろ苦いチョコレートを今日も一つ。
チョコレートは美味しい、それは絶対的な善である。という信念は今も昔も変わりません。
そういえば、昔の自分はこの時期どうだったのだろうと思いつつ、振り返ってみました。

(以下は、筆者が20歳の当時、2007年02月06日にmixi書いた日記です)

 

 

 

チョコレートが好きで、また昨日も買って、食した。
僕がチョコレートを好きになったのも、不思議なことにこと一二ヶ月のことで、
でも多分「えたいの知れない不吉な塊」とは何の関係もないはず。
チョコレートは、あれこれ説明不要で、ただ善い。
でも僕は勝手に説明したい。拙いけど説明したい。
誰に説明するのでもなく、そういう衝動に駆られてしまう。
どんなチョコレートが好き?とか細かい趣向は問わないで欲しい。
端的に言って困るから。
音楽や小説と同じで、チョコレートも素人だから、
「ただ善い」としかまだ言えないのだ。どうかご容赦願いたい。
僕も頑張って、チョコレートを買うときは本やCDや服を買うときと同じく、
あれこれ相互に比較して、検討して厳選ではいるのだけども、
まだ、どういうものだか自分の好みが把握できてない。
(コンビニの細い通路で、長時間に渡り、菓子箱を手にとって、
成分表や原材料、製法などを厳しい目つきで参照しながら、
ああでもないこうでもないと苦悩する滑稽な男が、
冷ややかな視線を浴びせられるのは言うに及ばない)
ただ、一つ。苦いものが好きだというのは最近わかってきた。
甘いも勿論重要な要素だけど、あのカカオの薫り高い苦みが
程よく感ぜられないと、駄目だ。
そうなると高級志向になる。いけない、キッチュでも駄目だ。
まあ、大抵のものを食べても「外れは無い」と言える程度に
嗜好の範囲を広げておかないと、チョコレートそのものも楽しめない。
それはどんな対象でも同じ。


カカオの格調高い香ばしい匂いを、いやらしくならない程度に愉しむ。
けれども、手が早くそれを鼻から別な場所へ動かすことを求める。
あの黒い固形物を一口に放り込む。
パリッと音を立てて、ゆっくり咀嚼する。
そうするともう溶け始める。
この時歯に優しく当たる感触が堪らない。
ドロッとした液状のものが、すうっとした甘みとともに、口蓋の中を駆け巡る。
やがてその甘みは次第に勢力を強めながら、喉へ行こうとする。
でも僕はこのドロッとしたものをもう少し弄んでおきたい。
(最初っから噛まずに、舌で転がしてやるのもいい。
 その場合は、もう少しおしゃべりが許される)
ドロっとしたものと暫く戯れてから、唐突にぐいっと奥のほうにやる。
そうしたら、食す前の最初の香りが、最上級になって鼻のほうへ来る。
ほんの一瞬だけど、それが至上だ。
嗚呼、最後にして最高がやってくる。

でも、チョコレートを食べるのにそんなに多くの愉しみは要らない。
一つだけでいい。
梶井基次郎風に言えば、こうだ。


―つまりは、この食感なんだな―


その食感こそ常づね尋ねあぐんでいたもので、
疑いもなくこの食感はすべての善いものすべての美しいものを
味覚に換算して来た食感であるとか、思いあがった諧謔心から
そんな馬鹿げたことを考えてみたり―なにがさて僕は幸福だったのだ。
(引用、改変)


そういうことだ。
僕の「えたいの知れない不吉な塊」も、
チョコレートをただ食べるだけで癒される。
でも、チョコレートの善さにも、
「ただ」という言葉を僕は使いたくなる。それが、また寂しい。
一体、使わないほうがよいのだろうか?




そう言えば、もう直ぐバレンタインデーというものがやってくる。
このバレンタインデーというものに、今まで何か縁が
全くなかったわけではないけども、
どういうわけか、僕はこの日がクリスマス(イヴ)に次いで、
嫌いだった。
(今は、なんとも思ってない、多分。)
まあただの幼稚なルサンチマン、怨念だったと思う。
勝手にその日になると、心中では秘密弾劾裁判を行っていた
ような陰険馬鹿だったから、仕方ない。
チョコレートなんて貰っても、さっさと味わうこともなく、
胃袋に放り込むという暴挙に出ていた。
他の食べ物や菓子類と区別して特別な思い入れもなかったから。
チョコレートをあげる側も、もらう側も、こんなモノで
愛情確認(もしくは義理確認?)を目論む共犯行為が
そんなに愉しいのだろうか、ただのチョコレートで。
お目出度い人達が、日本には大勢いらっしゃることで。



まったく今から見れば、恥かしくなるし、馬鹿げてる。
今は、この日がとても待ち遠しいのだ。
別に、僕がチョコレートをもらえるから、というわけでもない。
僕は今はチョコレートがめっぽう好きだから、これは善い、
理由もなく絶対的に善いと思ってる。
だから、僕以外の人がチョコレートをあげたり、もらったりして、
それで喜ぶなら、これはなんて素晴らしいことだと考えてしまう。
じぶんの好きなものが、人に大いに受け入れられるなんて、
と考えただけでもわくわくする。
チョコレートごときで、いや、チョコレートだからこそだ。
チョコレートでこれほどまでにコミュニケーションに貢献できるなら、
なんと「お買い得」なものだろう。

ただ、次の点を僕はチョコレートを、そしてバレンタインデー
を愛するものとして、強調しておきたい。
チョコレートをもらった人には、是非とも、
ただチョコレートそのものを味わうだけでなく、
そのあげた人のこともあの甘さや苦さと一緒にゆっくり考えてほしい。
本命だろうが義理だろうが、程度の差はあれ、
相手のことを想う、という点をどうか忘れないで。
そしてあげた人は、あげっぱなしではなく、
もらった人が何を思いながら食べているか、
ちょっとでもいいから考えてみてほしい。
それから、あげる人に対する想い入れの差はあっても、
「じぶんがある人にあげるあのチョコレート」に対して
何か特別な「とっておき」を、チョコレートを買うとき、つくるとき、
あげるときのどれかに、少しでいいからこっそりチョコレートと、一緒に込めておくと、善いなあと僕は思う。
(僕はチョコレートをあげたことがないから、なんとも言えないけど)

僕は、1人でも多くの人がそんなことを考えながら、
そんなことを考えながら、チョコレートを買ったり、つくったり、あげたり、もらったり、
それから食べたりして、みんなが幸せを感じる光景を想像しただけで、
本当に、すごく幸福な気持ちになる。
これも、僕のまことに身勝手な価値観で、当然論理的でもないけど、
絶対的に善いことだと思うから。
ここには、もはや「ただ」なんて言葉は付けたくない。
「絶対的な善さ」なんて定義できないし、存在しないけれども、
(それは、ある哲学者が言うように「語りえない」)
「絶対的に善いもの」はこの世のどこかにあると確信して、
それを探していこうとすること、その態度はとても大切だと考えている。
簡単に「これは絶対的に善い」なんて言葉を口にだすことは
憚られるけれども、ごく身近なところから出発して、
それ(=絶対的に善いも、もしくは「それはなぜ絶対的に善いものなのか」と問うこと)
を真剣に求めていきたいのだ。
これは最近ではなく、中学生の頃あるショッキングな事件を
目の当たりにしてから、漠然と考えてきたことなのだ。
(だから僕は哲学ではなく、倫理学という学問を専攻することに決めたのかもしれない、と今やっと気付いた)



ま、カタイ話はそこまでにして、改めてバレンタインデーの話。

そう言えば告白しておくと、
僕も、ある人からチョコレートをもらいたいと考えている。
本命だろうが、義理だろうが、高級チョコだろうが、五円チョコだろうが、
それはさしたる問題ではなくて、
ただ、その人から直接チョコレートをもらいたい、ただその一心なのだ。



わかってはいる、もうほとんどその望みは薄いということは。
でも、欲しい。
それが、「絶対的に善いこと」だなんて判断するのは、
あまりにも恣意的で独断的だけど、どうしても欲しい。
何故だろう、もしその人からもらったチョコレートを食べたら、
あの「えたいの知れない不吉な塊」は消え去り、
いつも「善い」ものに触れたとしても、けっして付ないではいられない、
「ただ」という言葉を自分に禁じることが出来るようになる気がするのだ。
そしてもう少し、僕は世界を真剣に生きるに値するものと捉えられるような気がする。
だから…




愚かな妄想がこれ以上暴走する前にチョコレートで一服しよう。



チョコレート効果99%」という、
とびきり苦いチョコレートを一切れ頬張ってみる。
(僕はこの他に無い苦さが好きで、たまに購入してはストックしてある)




よく分からないけど、この一つの絶対に苦いはずのチョコレートが、
何故だか口の中で溶け出す、ほんの一瞬、
かすかではあるけども、確実な、絶対に確信のできる
甘さを精一杯発揮したのだ。
これは不思議だけど、どうしようもない。認めるしかない。
まあ、そういうこともあるかもしれない。
味覚なんて当てにならないものだ。
というか、僕の味覚が異常をきたしたのではないか、
そうだとしたら大変だ、好みに関わる。
ここは確認しておかないと…

そこでもしや、と思ってもう一つ入れてみる。















やっぱり苦い。途轍もなく苦い。
僕が好きな苦さ、そのままだ。三つ食べても同じだった。


安心した。
そして、なにか思い違いをしていた自分に暫く苦笑して、もう黙った。
それから静かに、もう何も考えたくなかったので、
机にもう二度と目に触れないようにしてそのチョコレートを閉まった。
それが今日。

 

 

Tu me manques

「…君は強いね」

 

彼は紫煙をくゆらせたまま窓の外に目を反らし、苦笑とともに呟いた。

彼女はその何気ない科白を遮って続けた。

 

「強いとか弱いとか、そんなんじゃないの。結局、淋しいとかそういう思いはそういう思い自身によって助長されるようなものでしかないの。淋しさはそれだけで成り立つようなものじゃないわ」

「でも、だって、君、君だって淋しい思いをしたことはあるだろ。例えばまだほんの子供の時分とか…」

「違うの。“淋しい”ってなんだろうって、時折思い出したように私は考えるのよ。『あなたなしじゃ生きられない』とか『君がいなくなったら僕はどうすればいいんだ?』なんて陳腐な科白があるけれど、あれって嘘でしょう?実際、私達は特定の誰かを失っても生きていけるのだし、誰もがそうしているじゃない。相手に嘘をつくばかりか、自分に対しても嘘をついて、媚を売っているのよ」

 

急に挑発的になった彼女に興味を覚えたらしく、 彼は珍しく反駁を試みた。

 

「確かに僕らは誰かを失っても生き続けているし、いずれまた親しい関係を別の誰かと築くこともできる。けれども、突然これから一人で生きていくには淋しすぎるし、いま愛するひとを失うことは耐え難いだろう。だから、破局や死別の淵に立たされて、来たるべき相手の永遠の不在を嘆く時、狂おしいほどの愛が募ってくる…結局さ、淋しい自分を相手に訴えるのは、終末を悟った究極的な情愛のかたちなんじゃないかな?」

「そう言えば耳障りはいいかもしれないけれど、淋しい私、誰かのせいで淋しさを感じる私なんて歪曲した自己憐憫、あるいは感傷、もしくは依存心でしかないわ」

「やっぱり、君は強いんだね」  

「…」

 

沈黙のあと、彼は再び窓に目をやって苦笑した。

さっきから降り始めた雨は全くやむ気配すらない。地面に叩きつけられた抵抗の声だけが二人の間に流れている。 彼女はふうっと溜息を一つついた。

 

「本当に淋しさが埋められるのならね、私も慰めあう彼らに哀れみの眼差しを向けたりしないわ。でもね、淋しさはどこまでいっても淋しさなの。淋しさは“私”の内側からふつふつと沸いてくるもの。それを癒すのは、“私”の外にいる誰かではなく、“私”自身でしかないの。淋しさは孤独と一緒。外からの火ではけっして燃えない炭のようなものなの」

「外からの火では燃えない炭か。それじゃあ結局どんなにか温めあったところで、その温もりは身体の芯まで温めることはないんだね。熱源が去ってしまえば、また急に冷たくなってしまう」

「だから、私には淋しいという気持ちが分からないの。もっと言ってしまえば、独り生まれ、また独り死んでいく定めにある私達は、その誰もが淋しさと共に生きているの。誰かと出会ったとしても、何れは絶対に別れなければならないでしょう。死の影の孤独という淋しさ、“私の痛み”のように、私しか知りえない淋しさを抱えているの。いくら温めたところで、炭は所詮炭どうし。そんな定めにある私達は、本来的に誰かを温めることなんかできっこない。だから、淋しさに泣くことも、誰かに依存することも、けっして淋しさをどうこうできるわけじゃないの。彼らは癒えることのない傷口を必死で舐め合っているだけ…」

 

彼は大きく目を見開いて彼女を凝視した。

 

「君には淋しいという気持ちが分からないの? 本当に…?」

「分からないわ。だって何かを、誰かを淋しがったところでどうにもなるものでもないでしょう? 自分を安売りして別の誰かに淋しさを紛らわしたとしても、そんな不貞は朝日と共に覚めてしまうでしょう? …私には絶対に分からないわ」

 

 彼女の顔を一瞥して、彼はおもむろに立ち上がった。もう振り返ることもなく傘を手にして、ドアのノブに手をかけながら言った。

 

「それなら、なぜ、さっきから君はずっと涙を流し続けているの?……」

 

 

<分裂>するわたしの医師像への処方箋 −臨床哲学的覚え書き−

1.はじめに−ケアにおける「適切な距離」はどこにあるのか?  

 

「だれかを助けたいと思ったら、わたしたちは何よりもまずその人がどこに立っているのかを見つけださねばならない。これこそが支援の極意である。それができないのであれば、他人を助けるなどと思うのは幻想に過ぎない。人を助けるというのは、その人以上にわたしたちのほうが多くを知っているということでもあるが、しかし、何よりもまずわたしたちはその人の知っていることを知らねばならない」  

 

 キルケゴールの言葉を引きながら、ドイツにおける緩和ケアの第一人者ジャン・ドメーニコ・ポラージオは、「これは要するに医学における全ての仕事の出発点です」と述べる。ここで「人を助ける」ことには、もちろんcure(キュア)だけでなくcare(ケア)についても含意されるであろう。

  

−ケアとは何か?  

 

 私たちは、またこの途方もない問いに答えなければならないのだろうか。『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』の中で、鷲田清一は、「『なんのために?』という問いが失効するところで、ケアはなされる」という。「こういうひとだから、あるいはこういう目的があって、といった条件なしに、あなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話、それがケアなのではないだろうか」と。ひとは苦しむ存在<ホモ・パティエンス>(V.E.フランクル)であり、他者の苦しみを苦しむことができる傷つきやすい存在(レヴィナス)である。わたしは、他者の苦痛を感じないではいられないからこそ、その苦痛に無関心ではいられない。そこに他者との関係性が生まれる。鷲田は、そう述べながら「ケアするひと」と「ケアされるひと」の関係について、「対象と一体化するのではなく、「切るべきところは切る」という距離感が必要」と釘をさす。自身の役割(職業)を超えた対象との同一性は、それが振れ幅の大きい感情と結びつくとき「燃えつき」を生むからである。緩和ケアを専門とするポラージオも、「自分自身の欲求を切り捨てるのは支援不可能に陥る手っ取り早い方法です。ですからわたしたちは、じぶんじしんのことを十分に気づかって当然です。率直に言えば、そうしなければたちまち他人の心配などしていられなくなるからです(職業としてでも私生活でも)」というケアの現場で起こりうる懸念を強調する。緩和医療では、心理社会的のみならず霊性(スピリチュアリティ)にも配慮したケアが求められる。死を前にした人々に対して、ケアする側(ここでは職業のみならず家族も含める)は、ともすれば「あれもこれも」ケアしてあげたいという気持ちが先走ることになり、患者自身の自立と自律が損なわれることになりかねない。

 役割を超えて実存的な交わりをすることと、距離をとること、その両者を調停させる途は簡単ではない。ここで、ジレンマをときほぐす手立てとして鷲田は、<歓待>、ホスピタリティの概念を持ち出す。歓待が歓待たる本質は主人ではなく、飽くまで客である。客を迎え入れるためには客をじぶん自身に同化させるのではなく、じぶんが変わらねばならない。すなわち、ホスピタリティは、<わたし>がじぶんの同一性への固執や帰属意識を棄却し、他者の呼びかけへと応える存在へと変容するところに成り立つ。

 

 「<臨床>とは、ある他者の前に身を置くことによって、そんなホスピタブルな関係の中でじぶん自身もまた変えられるような経験の場面であるのだとすれば、「実存的」な面と「職業的」な面、この二つが交叉するところがまさに<臨床>という場面だということになる」。 …はずである。

 

2. 医学を学ぶわたしの<分裂>  

 

 前項の「はずである」というのは、蛇足ではない。鷲田の文章をそのまま引用して断定することができない、医学部入学後のわたしの苦し紛れの接尾辞である。わたしは、ほんとうにそのような<臨床>を見出すことはできるのだろうか。鷲田をはじめ臨床哲学に関わる人々とのアクチュアルな関わりを経た後、わたしは「わたしにとっての臨床哲学」を医学で実践すべく、この医学部という場所に身を移すことになった。曲がりなりにも4年間医学を学んでいると、以前のわたしが胸に秘めていた「ケアする主体」としての将来の自己像が、恐ろしいまでにキュアモデル志向型として変容しつつあることに気づき愕然とすることがある。これは「転向」ではない、飽くまで変容である。しかし、変容しつつあるじぶんをわたし自身は受け容れることができないでいる。いみじくも臨床哲学を学んだ過去のわたしと、臨床医学を学んでいる現在のわたしが<分裂>しているのだ。この授業を受講するまでわたしはそのことを曖昧に認識しつつも「仕方ないこと」と納得して自己処理してきた。しかし、本稿を執筆するにあたってじぶんが医学部入学以前の原点から乖離していることはもはや疑いようがないと結論するに至ったのである。いったい、わたしはどこで<分裂>してしまったのだろうか。そして、これからこの<分裂>を修復し、なんらかの形でソフトランディングさせることは可能なのであろうか。

 

3.ただひとつの世界の終焉か、それとも臨床医学のまなざしか  

 

 およそ二ヶ月前に、同じサークルに所属するひとりの後輩がこの世を去った、まだ22歳という若さで。夏の終わりにある稀な感染症に罹患し、入院するも僅か4ヶ月という余りにも短い期間で不帰の転帰であった。この時、わたしは別のSNSで「そのたびごとにただ一つ、世界の終焉」というタイトルで以下のように記述した(以下、その抜粋を引用する)。

 

正直、対面するのは辛かったですが、しっかり彼に最後のお別れをしてきました。

安らかな最期とは言い難い表情は、言わずもがな彼の苦闘を物語っていました。

全く、神様は時としてとても残酷な仕打ちをされるものです。

自分より若いひとが、志半ばにしてこの世を去る。

そうした苦い経験を人生で初めて味わわされたのですが、 この道を歩み始めた以上、これからもきっと待ち受けていることは覚悟せねばなりません。

医学の進歩は目覚ましいのですが、悲しいかな現代医学では治せない病気の方が圧倒的に多いのです。

医学を学ぶとそれを嫌でも痛感させられます。

これから実習で現場に出て、彼よりもっとシビアな立場に置かれている患者さんにお会いすることでしょう。

そこで自分が見聞きしたこと全てがこれからの私の糧になっていきます。

もちろん、彼のことも別な仕方で私自身の人生の一部になっていくことでしょう。

(今はまだ、きちんと受け止めきれていないと思いますが)

memento mori(死を忘れるな)  

 

 彼の死は、紛れもなくわたしにとって「ただ一つの世界の終焉」であった。デリダのように気の利いた追悼文を書くことはできずとも、夭折した彼の世界の終焉をじぶんの世界へと迎え入れること、すなわち歓待することこそがわたしにとっての喪の作業であった。他者の死を受容するために、あえて「書く」という行為(エクリチュール)をし続けることは、その他者に対してじぶんがなしうる最後のそして、最大の歓待の形式ではないだろうか。  

 しかし、わたしはここで、じぶん自身の喪の作業の中である呵責を感じていることを表明しなければならない。それはわたしが「医学を学んでいる」ということである。先のSNSでの投稿を行った時にはほとんど意識していなかったのだが、わたしは彼の死の原因となった疾患が、ある著名人がその疾患で同じく不帰の転機をたどったというニュースにかこつけて、簡略ながらも臨床医学的に記述していたのである。

(以下、同じSNS記事から抜粋)

 

 彼の場合も初発は、この方と同じ「慢性活動性EBウイルス感染症」でしたが、 最後は、血球貪食症候群という非常に重篤な病態に陥りました。 簡単に言えば、免疫細胞が暴走して自分で自分の血球を攻撃、貪食してしまうという恐ろしい状態です。 こうなればもう、幹細胞移植に賭けるしかない。 そこで、前処置として非常に厳しい抗がん剤による化学療法を受けていたようですが、 彼の身体は残念ながらそこまで持ちこたえられず。。  

 

 この記述には、それを読むひとにとって医学的な意味は多少あるかもしれない。しかし、彼の死を悼むことで受容し歓待したり、実存的な反省を加えたりといった意味を読み取ることは困難である。なぜ、わたしはこんな無愛想な文章を仰々しく差し挟んでしまったのだろうか。いま正直に告白すると、彼の死を悼みながら、それに劣らず「症例」として少なからぬ関心を寄せていたじぶんに気づくのである。稀な疾患に罹患した当初から、関連する症例報告や論文をひそかに読み、治療法や予後を推測していた。そして、死後に対面した彼の表情やご家族から伝え聞いた病状経過から「症例」としての彼の発症−死を分析しようしていた−これは、『臨床医学の誕生』の中でフーコーが 指摘していた、臨床医学の死を前提としたまなざしのもとに彼を遇していたのではないか。  

 

病というものを自然との関係において考えるならば、病とは所属不明のネガティヴなもので、その原因や形態や表現は、斜めにしかあらわれず、しかもつねに遠くの背景の上にしかあらわれなかった。ところが病を死との関係において知覚するならば、病とは完全に読みつくせるものになり、ことばとまなざしによる、至高の分析に対して余すところなく開かれたものとなる。死が、医学的経験の、具体的なア・プリオリとなった時にこそ、病は反自然から離れることができ、個人の生きた体の中で、具体化することができたのである(M.フーコー臨床医学の誕生』神谷美恵子訳)  

 

 解剖=臨床医学的方法によるまなざしは、疾患の原因を特定し適切に診断・治療するキュアモデルの前提条件である。そして、わたしは知らぬまに彼をそのまなざしの下で見ていたのだ。「ただ一つ世界の終焉」と言いながら、一方では「症例」として取り扱い、記述を試みるスタイルは、もはや臨床哲学の営みとは言えないかもしれない。そして、恐らくわたしはわたしが今後接することになる多くの人々を同じようなまなざしの下で捉えざるをえないだろう。このような形でしか過去と現在の<分裂>を埋めることができないとすれば、それはごまかし、偽装にすぎないのではないか? 

 

4.医学教育モデル・コア・カリキュラムという罠

 

(都合により省略)

 

5.医学概論は処方箋になりうるか

 

 医学教育で履修すべきカリキュラム(医学教育モデル・コア・カリキュラム)が最低限度であり、出発点であるならばの先には「よりよい医師」になるという目標も考慮されるべきであろう。みずからが「よりよい」職業的存在へとなるべく希求する者は、その職業、学問が「よりよくある」ためにはどうするべきか、あるいはそもそも「よりよい」とは何を意味するのかなど反省を加えるかもしれない。

 そこで想起されるのは、医学概論を創始した沢瀉久敬である。医学概論を一言でいえば「現在ある医学を反省することによって、よりよい医学を創造するための学問」である(杉岡良彦『哲学としての医学概論』)。沢瀉は医学概論が必要な理由として、学問の立場から「科学的医学の分散性に対して、哲学的求心的な反省的統一が必要」、医学教育の立場から「医学の本質を知る事こそ医師・医学者たろうとする者には欠く事の出来ぬ根本問題である医学の本質を知る事は医学の限界を知る事であり、それは医学そのものの正しい進歩のために必要」、国民的見地から「医学概論とは、医学や医療はいかにあるべきかを根本的に追求しようとするものであり、それは医学や医療の現場に満足せず、よりよいものを作ろうとするものである。つまり、医学概論とは単に学問の問題ではなく、国民全体の福祉に直結する最も生々しい課題なのである」と述べている。

  医学概論は、よりよい医学あるいは医療従事者(広義のケア・ワーカー)を創造することを目的とするが、医学のように答え(例えば診断、治療)を出すことを仕事とはしない。そうではなく、つねに「問いを立てる」という哲学の仕事をどこまでも基盤としていく。対象にある具体的な作用を及ぼす応用科学である臨床医学に対して、その限界を明らかにすることで医学と社会の接点をあぶり出したり、他の学問領域との橋渡しをコーディネートしたりする。ここでは沢瀉−杉岡の医学概論について詳しく検討しないが、医学概論はそれを学ぶ者自身の営みにも反省を促し、その営みを変容させうる。それは、臨床哲学臨床医学のあいだで<分裂>を引き起こしているわたし自身へのひとつの処方箋となるかもしれない。

 

6.結びにかえて 

 

 「哲学とはおのれ自身の端緒が絶えず更新されてゆく経験である」。これは、鷲田が度々引用するメルロ=ポンティの言葉である。能力や属性や素質などを所有する<わたし>ではなく、他者からの呼びかけという事実のなかで、そのつど確証される<わたし>。これは、ケアするひとを、さらにはケアするひとをケアしようとしているひと(《臨床哲学》を試みる者)にもひとしくあてはまると鷲田はいう。  

 わたしは来たるべき将来一人の医師として、治療を求める他者からの呼びかけに応じる義務がある(「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」 医師法第19条第1項)。そのときに、誰でも交換可能な役割としての医師を演じようとするのであれば、わたしはキュアする者としては合格でも、ケアを担当する資格はおそらくないであろう。何度呼びかけに応じたとしても「おのれ自身の端緒が絶えず更新されてゆく経験」も得られないであろう。目の前の助けをもとめる人を「患者」や「症例」という捉え方でのみ把握しようとすると、冒頭で引用したキルケゴールの言葉通り「その人がどこに立っているのかを見つけだすこと」はできない。そこで、《臨床哲学》を試みる者のひとりとしてわたしができることは、おそらく知識や技術で十分な備えをしつつも「相手がじぶんに何を求めているか」を考え、相手の言葉と存在に耳を傾けること、もっと言えば無防備な状態で「待つ」というスタンスであろう。キュアを前提しつつ、よりよい医学を行うためにじぶんが変容しうるケアの関係性へと踏み出していくこと。そのための視座や立脚点をこれからの職業人生で絶えず探していくことが、わたしの臨床哲学臨床医学との<分裂>を修復、いや<分裂>という捉え方自体を少しずつときほぐしていくだろう。

 

引用・参考文献

鷲田清一(1999)『「聴く」ことの力−臨床哲学試論』阪急コミュニケーションズ

鷲田清一(2006)『「待つ」ということ』角川選書

・ポラージオ, CD(2015)『死ぬとはどのようなことか−終末期の命と看取りのために』佐藤正樹訳、みすず書房

デリダ, J(2006)『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉』土田知則・岩野卓司・國分功一郎訳、岩波書店

フーコー, M(2011)『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳、みすず書房

・杉岡良彦(2014)『哲学としての医学概論−方法論・人間観・スピリチュアリティ新曜社

書評『断片的なものの社会学』

www.amazon.co.jp

前の大学で、とある学生団体に所属していて「自分のおもろい人生、趣味を車座になって語る」という趣旨のイベントをやりました。
その中で、「コミュニケーションが趣味」という人がいて、暇なときによく新世界とかそこら辺のおっちゃんに話しかけたり、電車で見ず知らずの人に変顔して反応が返ってくるか(または返ってこないか)を楽しんでおられるようです(なかなか挑戦的ですね)。

その方、ある日通天閣近くで昼間から酒をあおって半ば酔いつぶれて寝転がっているおっちゃんがいて話しかけてみたのですが、大半の歯が抜けているので何を言っているのかほとんど分からない。その場で30分ほどインタビューをしてみて今日は「失敗」やなと思って、そろそろ切り上げようとしたとき、
「明日な、30年ぶりに娘が孫連れて会いにくんねん、それでな嬉しくて飲んでんねん」(大意)とおっちゃんがずっと言い続けていていたと分かって、ほんの僅かだけ通じ合えたことにニコッとしてくれたと。
その瞬間、何故か涙が出るほど感動してしまったということです。



というエピソードが読書中、鮮やかに脳裏を掠めてしまいました。

何でもない、本当に些細で断片的な記憶でしかなかったのに。

この本には、日々忘れられ省みられることない「断片的なもの」についての著者と他者(インタビューや記憶、そして過去の自分や家族)の記録、エッセイの集積です。

学術的な意味での「社会学」という営みからは程遠いかもしれませんが、いま・ここに佇んでいる偶然な存在としての私と、他者の「無意味さ」を見つめ直し光を当てたい、そんな著者のささやかな希望に頭が下がります。

なんだか、この本を読むといろんな人と話をしたくなってたまりません。
そして、久々に「他の人にも是非読んでもらいたい」と強く思わせられた本でした。

句集(2011-2012)ー附 どうして私は俳句をつくるようになったかー

昔俳句をやっていまして…と呟いたらとある方に「是非ご紹介を」と言われまして昔のPCをまさぐって発掘作業。 

 

分かりやすくも、デスクトップに保存してありました。いつかどこかに投稿でもする積もりだったのかしら笑

 

一部の方ならご存知かもしれませんが、私は再受験で2回目の浪人をしていた時分に一時期俳句に没頭していた時期がありました。
きっかけは、勉強の休憩がてらに散歩していたとき、ふと路傍に咲く儚げな花(もちろん、このときは花の名前なんて知らなかったので、もう思い出せないのが至極残念)にこころを奪われたこと。

 

私は、あまりにその花の美しさに息を呑んで暫く放心して見とれていたのですが、我に返ると、何とかそれをことばで表現したいと猛烈に思うようになりました。
丁度一年目の医学部受験があえなく失敗し、また徒刑のような(ではなかったけれど)受験勉強の日々を送っていた頃です。
先が見えない漠然とした焦燥感に駆られる一方で、「人間のこころを取り戻したい」という鬱屈を抱えていたように思います。

 

そんな中、こころの奪うような路傍の花を見つけてしまったわけですが、どうにも自分には適切な語彙や文体を見つけることができず、悶々とするしかありませんでした。

 

別に美しい花を見て、頑張ってことばにしようなんて思わなくてもよくて、かえって下手な美辞麗句を並べると折角の美しさが台無しになってしまうでしょう。

小林秀雄は「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない」と言っています。「そうか、これこそが『美しい「花」がある』という感動なのか」とその場で納得すれば良かったのかもしれません。

けれども、その時の私は、「いや、違う。「『花』の美しさ」についてひとは言及したいのだ。それを自分でことばにしなけば納得できないし、ことばで伝えられてこそ、深く感動することもまた可能になるのだ」と何故か頑なに考えていました。

 

そうして行き着いたのが、散文ではなく、俳句でした。創作なんて小学校以来も全く経験していなかったのに…

 

ー俳句のどこが凄いのか?

 

 

それについては、また別の機会に書きましょう。
発掘作業を機に、少しまた俳句の勉強も復活したいと思います。

 

以下、記念に?発掘した句を掲載します。
(当時は練習を兼ねて駄作だと思いながら毎日一句は作っていました) 

 

 

 

待ち人や針の進まぬ秋の先

 

胸に満つ秋本番や都人

 

賀茂の水冴えて一睡京の秋

 

秋刀魚焼く家路辿るも唯独り

 

仮初めの秋刀魚となりしか不寝の番

 

初秋刀魚童あらそひ煙立つ

 

秋空や雲の間に間に漸近す

 

スケッチに微分せんとや秋の風

 

路地裏や残る暑さの一輪車

 

中秋や峠向こうの宿いずこ

 

名月やコーラかざして歌舞くかな

 

にゃあと啼く月見愉しや鴨河原

 

サッカーボール団子に代へて供へけり

 

きりぎりす独り草球蹴り返し

 

沈黙に別れて尚も後の月

 

恋果てに虫の訪う鴨河原

 

レインコート秋のはざまは騒々し

 

秋雨や紙飛行機はしまひけり

 

独り寝に耳を澄ませば秋の雨

 

くれなゐの相合い傘にて秋を往く

 

新畳のにほひたつなり秋時雨

 

鈴虫や仮寝にたへず御所南

 

ギムレット宵には早し名残月

 

皺深し父寝言する敬老の日

 

長雨や紅葉饅頭刈るに惜し

 

るんるんるん颱風の跡虫の音

 

豆腐売り笛の響けり鰯雲

 

秋焼けや窓に股がる翁かな

 

秋分やをとめ歩めり思ひ出の道

 

彼岸花 only oneこそ哀しけれ

 

還暦や問わず語りの衣替え

 

秋風にややも遅れて異国の便り

 

秋晴れに靴の浮き立つ御堂筋

 

長き夜の待ち受けもせず丑三つ

 

母の手の小さきことよ青蜜柑

 

秋燈下珈琲の底しづまれり

 

日の出前酔ひを醒まして内定式

 

秋寒や猫の寄合邪魔をせず

 

金木犀見返しうなじに三十路あり

 

秋雨や願書に愁ひも込めやりて

 

齧らざる林檎のかほり跡にして

 

たけなわの残り葡萄の渋みかな

 

静けさや秋の蚊の鳴く自習室

 

秋の暮蛍雪時代は老い易く

 

止まり木をまだ探してゐる秋の蝉

 

体育の日寝坊にピストル撃ちてやりて

 

答案を紙ヒコーキにして秋空

 

軒渉る痩鴉の秋思かな

 

薄闇夜白粉花の濡れ重し

 

毒虫に身をやつすかな神無月

 

ゆく秋や試験の曜日に朱を入れ

 

降りしきる銀杏の影に猫二匹

 

猫じゃらしをんなという字にありにけり

 

虫の音絶えても分け入る空地かな

 

咳の声押し黙りし頃小鳥来る

 

水澄みて髭男爵の睨めっこ

 

一とせや時代祭の夢ごとし

 

 

マヒドン大学熱帯医学研修プログラムへの参加報告 −The Report of Elective Program in Tropical Medicine by Faculty of Tropical Medicine, Mahidol University − (研修期間2014年8月4日〜2014年8月29日)

1.今回の短期留学プログラムの概要について

 マヒドン大学熱帯医学研修プログラム(Elective Program in Tropical Medicine by Faculty of Tropical Medicine, Mahidol University,以降本報告において「本研修」と記す)

は、マヒドン大学熱帯医学部のOffice of International Cooperation (OIC)が主催し、タイ以外の国々の医師、医学生そのた医療従事者を対象とした、tropical medicine(熱帯医学)を学ぶための短期研修プログラムである。今回私が参加したのは2014年8月4日から2014年8月29日までの夏期研修であり、研修期間には、旭川医科大学の夏期休暇および、休暇終了後の約2週間(研修該当期間は欠席届の受理に基づく)が充てられた。前半2週間では、タイの首都バンコクにおいて、座学講義を中心に熱帯医学の総論および各論(寄生虫学や微生物学などの基礎医学および、マラリアデング熱HIV/AIDSなどの感染症学、皮膚科や小児科領域における熱帯病の症候学など)を学び、後半2週間では、タイ南部の地方都市ラノーンにて、中核病院である公立ラノーン病院での病棟回診や外来、派出診療所での診察に参加した。

 同様の研修プログラムは毎年行われており、例年旭川医科大学からは医学科3、4年生から数名が参加している。事前募集で参加者を募ったが、今年度の本学からの参加者私1人であった。

なお、本研修における他の参加者は、イギリス、ニュージーランドオーストリアから医学生が1人ずつ、スペインから小児科レジデントが1人、ニュージーランドから心理学者(精神科医)が1人、マカオから医工学者(medical engineer)が1人、台湾から看護師が1人という構成で、全体で8名(うち、後半2週間のプログラムに参加した者は6名)であった。私が知り得た情報によれば、今回の参加者は国籍も年齢もバックグラウンドも全て異なる大変稀な例であるという。後述するが、この多様性に富んだ参加者から私が学んだことも非常に大きい。

 

2.本研修の参加動機について

 本研修の存在を最初に知ったのは、2年前の医学科1年生の頃、親しくしていた前年度前々年度の参加者から聞かされた時である。私自身は、入学まで海外留学への関心がそれほど高かったわけではない。しかしながら、先輩方から話を聞いて以来、私はタイでの短期留学を渇望するようになっていった。本学においては、医学教育のコア・カリキュラムに基づき、低学年次では基礎医学を学び、3年次から臨床医学を学習が始まる。私自身は、臨床医学の科目を学ぶにあたって、「どうしても実際の臨床現場を一度よく見ておきたい」という気持ちが強く、自らの学習動機を高める上で、座学講義以外に地域医療実習などのプログラムへの自発的参加を考えるようになった。本学においても学年を問わない地域医療実習のプログラムが行われており、私も何度か参加を検討していた。しかし可能ならば、それ以前によりチャレンジングな環境で様々な経験から知見を得て今後の展望の視座としたいと考え、まず短期での海外留学を希望した次第である。

 また、2年生で微生物学寄生虫学を学習したことや、個人的に医学史や感染症関係の書籍を読んで、本研修で学ぶ熱帯医学という分野に強い関心を抱くようになったことも影響している。熱帯地域は、有史以来感染症を始めとする疫病の起源であり、現在もその罹患者はむしろ増加している。また温暖化に伴いこうした熱帯地域に限定された感染症が世界的に流行する可能性がある。確かに、熱帯医学で学ぶ疾患の相は、日本で一般的に見られる疾患の相とは異なっており、日本で医療従事者として活動する上で、必ずしもすぐに役に立つ知見を得られるというわけではないだろう。しかしながら、熱帯医学の概念や疫学的なアプローチを学ぶことは、パンデミックへの対処や、公衆衛生政策を理解する上で重要であるし、また将来的に海外で医療活動に従事する可能性も考えれば非常に有益であろう。

 もちろん、副次的な動機として、語学力の養成や、他の参加者や現地での医療従事者との交流、観光的側面から異国文化に触れることなども挙げられる。特に、語学力については後述するが、本研修では医学英語学習を強烈に動機付ける体験を何度も得た。1ヶ月という短期間であるから、本研修での劇的な語学力の向上は望めなかったが、研修終了後には英語という言語への見方が変わったことで、語学学習の動機付けも以前より明確になったと言える。

 

3.バンコクでの研修

 先述した通り、バンコクでは熱帯医学の基礎的な知識を座学で学ぶことが中心である。しかしながら、座学以外に実際に大学付属病院や市中病院で病棟回診に参加したり、病理標本を観察したり、解剖学博物館を訪れたりする実習型プログラムも数多く用意されていた。バンコクで学んだ内容のうち、とくに強く印象に残ったことを以下にまとめた。

 

・熱帯医学を学ぶ意義について

 熱帯医学は、「熱帯地域およびその周辺地域に関わる健康問題を扱う医学分野」と簡潔に定義される。ここでいう「熱帯地域」とは赤道±23.5度を指し、現在144の国々と世界人口の約40%が暮らしている。なお、2050年には50%を超えると見られており、この地域における公衆衛生上の問題が、国際保健全体に与える影響はかなり大きい。熱帯地域では、乳幼児死亡率が高いために、それ以外の地域と比較して平均寿命は8年ほど短くなっている。この地域で多く見られる疾患は、マラリアデング熱寄生虫といった他の動物(多くは昆虫)によって媒介される感染症である。特にマラリアは現在も全世界で2億人を超える人々が感染し65万人以上の人々、特に乳幼児が犠牲となっている。また、Neglected Tropical Disease(NTD,「省みられない熱帯病」)によって、毎年5億人の人々が命を落としているという深刻な問題もある。NTDは費用対効果が乏しいために、治療法や薬剤の開発が遅れている疾患であり、多くが熱帯地域で局所的に流行している。

 では、こうした熱帯地域で見られる疾患を学ぶことには、どんな意義があるであろうか。それは、非熱帯地域に在住する医療従事者−おそらく私自身も将来はその可能性が高いのであるが−にとって、有益と言えるであろうか。「今日の世界では、熱帯医学が対象とする疾患はもはや熱帯医学の領域を大きく超えている」という事実がその疑問へのひとつの回答となるであろう。   

 現代において、人間の行動範囲は飛躍的に拡大し、ヒト・モノ・カネの流動性が著しく増加したのは言うまでもなく、また温暖化をはじめとする気候変動状況は、熱帯病の世界的な拡大に大きく寄与している。気候変動、旅行者の増加、食糧供給のグローバル化によって、局地的な熱帯病が、世界的な流行すなわちパンデミックとなるリスクは有史以来最高レベルと言ってよい。

 

・種々の感染症について

 熱帯病の悪名高い媒介者であるカを例にとってみると、一般にカは高温多湿な環境では、繁殖速度が早い。すなわち、地球温暖化によってカが媒介する感染症マラリアデング熱西ナイル熱日本脳炎、チックングンヤ熱)が、温暖化やヒトの移動に伴って非熱帯地域で流行するリスクが高くなっている。奇しくも本研修中に、日本では約70年ぶりにデング熱が大流行となった。帰国後にデング熱に関する報道や、報道に接した一般市民、医療従事者の反応を見ていると、こうした感染症を「正しく理解し、予防する」ことがいかに重要かを痛感する。タイではデング熱は全く珍しい疾患ではなく、ほとんどの医療機関で正しく診察、治療を受ければ軽快する感染症である(もちろん、デング出血熱に至った場合は、致命率が高くなるので注意を要する)。

 病棟回診では、実際にデング熱マラリアなど患者を診察する機会があり、患者のCBC(全血算)や生化学検査の結果を医師や看護師が示し、それに答えるという実習が行われた。時には、問診、触診や画像読影も求められ、それに基づいて症例をディスカッションする。これは、留学前に予想していたよりもはるかに高い水準であったが、双方向的な学習機会であり、臨床実習が始まる前の3年生では貴重な体験になったといえる。回診で特に印象に残ったのは、市中病院でのHIV/AIDS病棟である。タイでは、1980年代末にHIV/AIDSの感染爆発があり、現在判明しているだけでも成人人口の約1%が感染し、感染者数は100万人以上と推定されている。したがって、HIV/AIDSもまたタイでは「ごくありふれた」病気といえる。

 私自身2年生で学習した微生物学ではHIV/AIDSについて主にウイルス学的な感染、発症機序は学んだが実際に臨床現場で患者と接するのは、もちろん初めてである。病棟回診では、主にAIDSを発症した末期の患者の合併症について様々な所見、および治療方針を学んだ。AIDS患者は、免疫力の低下に伴って様々な日和見感染症にかかりやすくなる。実際に回診では、結核、ニューモシスチス肺炎、サイトメガロウイルス肺炎などの呼吸器病変や、疥癬や帯状疱疹などの皮膚疾患の合併症例を見ることができた。末期患者の多くは、AIDS発症時点でCD4の値が200未満であり、予後は非常に悪い。また、医療資源が限られている中では、用いることができる抗ウイルス薬、抗菌薬も多くはないという現状である。医師や看護師をはじめとする医療従事者も十分とはいえないので、病棟では末期患者の身の回りを家族が行っているケースも多々見受けられた。本研修では訪れる機会はなかったが、バンコク郊外には、身寄りのない末期AIDS患者のためのホスピス寺院がある。そこでは、都心から人目を忍ぶように、ひっそりと余生を過ごす患者が今でも後を絶たない。感染者が多くとも、感染者に対する社会的な差別は未だ根強いという。

 

4.ラノーンでの研修

ラノーン(Ranong)について

 バンコクでの2週間の研修後、われわれ研修参加者は南部の県ラノーンへ移動して、病院での実習に参加した。ラノーンの県西部はプーケットとつながる山脈があり。この山脈にモンスーンが当たるため雨が非常に多く降る。ラノーン県はタイの県の中で一番雨の多い県といわれ、雨期も長く8ヶ月も続く。本研修期間中も雨季の真只中であり、スコールの激しさはバンコク以上であった。緯度的には赤道に近いものの、日中の気温は20℃代半ばから後半と、バンコクに比べて過ごしやすい日が続いた。

 ラノーンは人口40万人弱のであるが、温泉があり、少し離れたリゾート地の孤島ともアクセスが良いので、国内外から訪れる観光客は少なくない。しかし、多くの住民にとって外国人は物珍しいようで、街中や病院、温泉に行くと、ジロジロと見られることがあった。ラノーンには昔ながらの家屋が立ち並んでおり、スーパーやコンビニも少なく、個人商店が並んでいる鄙びた風景が広がっている。人通りは日中も多くはなく、夜は飲食店やホテルの一歩外を出れば静かである。人や乗り物、屋台が昼夜問わずひしめき合って喧騒漂う雰囲気のバンコクとは何もかもが対照的と言っていいだろう。

 このラノーンにおいて注目すべきは、ミャンマー(旧ビルマ)との国境という地理的特性である。住民の約半数がビルマ人(女性は特徴的な化粧をするので容易に判別可能)が占めている。ビルマ人はパスポートなしででも国境は行き来できるが、彼らは語族的に異なるビルマ語を話すため、タイ語を日常的に話すことができる者は少ない。しかしながら、ミャンマー側からタイ側へは仕事を求める移民労働者が絶えず流入しており、後述するようにこの地域における教育や医療サービスの事情を複雑にしている。

 

・国立ラノーン病院(Ranong Hospital)について

 ラノーン病院は、ラノーン県唯一の公立中核病院として、毎日約1000人の来院者を受け入れていれており、常勤医師はインターンも含めて約30名である。診療科は、確認できた限りでは一般内科、一般外科、小児科、産婦人科に属する医師が多く、また、眼科、皮膚科、耳鼻咽喉科、形成外科のトレーニング受けた医師も勤務している。本研修の後半2週間、私たち参加者は主に日替わりで病棟回診や外来、手術、プライマリーケアのクリニックなどを見学した。バンコクで学んだデング熱マラリアなど熱帯医学が対象とする疾患の臨床例には、残念ながら実習で学ぶ機会は少なかったが、外来で結核HIV/AIDSを詳しく学ぶ機会を得た。

 

 ・結核HIV/AIDS外来

 結核は、タイにおいては未だ新規患者が絶えない感染症である。ここラノーンでも、毎年100名が結核を発病している。外来担当医師からは、抗菌薬の処方方針や、X線画像読影、薬剤耐性化へのアプローチを詳しく聞くことできた。また、肺結核以外にも脊椎カリエスの患者も来院しており、全身疾患という観点から結核を理解する重要性を学んだ。同日午後に見学した、HIV/AIDS外来では、バンコクで見学した病棟回診とは異なり、HIV感染初期の比較的元気な患者から、CD4が一桁の末期患者まで幅広い人々の臨床例に触れた。患者はほぼ隔月ごとに訪れ、必要であれば血液検査を受け、それをもとに医師が多剤併用に用いる治療薬の選択と、服薬指導を行う。患者相は老若男女様々であるが、AIDSを発症し合併症の治療を受けるのは40歳代以上が多い。中には、両足を鎖で繋がれた少年受刑者(麻薬静注により感染、肝炎も併発)や、僧の姿も見受けられた。

後日のプログラムである小児HIV/AIDS外来を見学した際、母子感染の多さに私は少なからず衝撃を受けた。中でも、水平感染(性交渉)によってHIVに感染した10代女児が、妊娠、出産を経て垂直感染(母子感染)が起きてしまった臨床例には、タイにおける深刻なHIV/AIDS禍の一端を垣間見たといえる。その薬剤の大きさや副作用から、服薬を中断する患児が少なくなく、医師もこうした患児への服薬指導には苦慮せざるを得ない。集団カウンセリングでは「きちんと薬をのむために守るべきこと」を患児自身が考え、模造紙に書かせる指導が行われていた。

 

NICU、産科、小児科

 NICUおよび小児科病棟、外来では、ラノーンが直面する特殊事情が如実に反映されている。先述した通りラノーンではミャンマー側からビルマ族の人々が常に流入しており、病院の来院者も関係者の話では、過半数を超えているという。したがって、ラノーンの病院やクリニックにおいてはタイ語ビルマ語を操ることが出来る医療通訳の存在は欠かせない。産科や小児科では、特に緊密なコミュニケーションを要するために医療通訳者の数も他科より1人以上は多く配置されていた。ある資料によれば、出産数はラノーン病院ではミャンマー人比率が 50%(月に約200 ケース中約100ケース)に達している。ラノーンでの研修期間中は、産科の帝王切開の見学は、可能であればほぼ毎日見ることが出来、1回につき15分とかからないほどである。母子ともに健康であれば、出産後3日ほどで退院できるが、そうでない場合、例えば未熟児や感染症の危険性がある場合はNICUへ送られることになる。NICUの保育器は10個程度であったが、とても数が足らないとのことで、中には乳幼児用のベッドにケースを被せて改造を施すという苦肉の策が講じられていたものもあった。とにかく、出産数が多いため産科医、小児科医は常にきりきり舞いを迫られるのが現状である。

 小児科の外来で印象に残ったのは、週に1回行われている小児発達外来である。この外来では、ADHD自閉症アスペルガー症候群などの発達に問題を抱えている、もしくは何らかの発達障害が疑われる子ども達とその保護者が通院する。こうした、子どもたちは概して非常に活発的であるが、発達期になっても言葉をなかなか話そうとしなかったり、両親であってもコミュニケーションが困難であったりする。小児科医の話では、こうした子どもは、学校でも教師や他の生徒から、疎外されたりいじめられたりすることが多く、保護者も我が子の将来を悲観しがちであるという。地方ということもあって、特殊学級のある学校も少ないため、病院が唯一の拠り所になっているようである。近年、タイ人だけでなくビルマ人もこうした問題を抱える子どもが増えており、小児発達外来の需要は増している。こうした背景には様々な要因があると考えられるが、ある小児科医は、「親がスマートフォンタブレットのとりこになって、子どもと密なコミュニケーションをしようとしないこともまた、子どもの発達を妨げる大きな問題である」と、述べている。

 

・タイの医療制度について

 タイでは、2001年、タクシン政権が低所得者向け医療制度と地域保健医療の拡充を目的として,いわゆる 30 バーツ医療制度を導入した。同制度下で患者は,1回の通院ごとに 30 バーツのみを支払えばよい(30バーツは日本円で約100円に相当する)。またタイ在住の移民は,住民登録をする際、健康診断を受け(診察料 600 バーツ),健康保険料 1,300 バーツを支払えば,健康保険証が交付され,30バーツ医療制度に加入できる。本研修中に、このビルマ人の住民登録を見学する機会を得たが、ほぼラノーンでは毎日のようにどこかの集会所や室内運動場で、軍、地方自治体、政府、医療従事者が移民登録に立ち会うようになっている。健康診断の際には、結核などの感染症の抗体検査も行われていた。健康保険証をもつビルマ人妊婦の場合、7,000~8,000バーツ(帝王切開は 15,000 バーツ)の出産費用を 30 バーツで済ませることができる。これはHIV/AIDSや結核などの外来でも全て同じである。

 病院の医師らが往診で出かける、プライマリーケアのクリニックでも、同様に30バーツで治療が受けられる。見学した限りでは、主に高齢者が多く、肥満や高血圧、糖尿病、高脂血症などの生活習慣病の患者が多数来院していた。ラノーンのクリニックでは、タイ人医師以外にも、ビルマ人医師が働いている。ビルマ人医師は、ミャンマー政府が認めた医師免許を保持しているが、本来タイ国内で医療行為を行うことができないため毎年特例での医業許可を得ているという。ビルマ語を自由に扱える医師はここラノーンでは非常に需要が高く、クリニックへの患者も絶えないのであるが、彼らの給与はミャンマー政府ではなく、ラノーン病院の予算から支給されている。とはいえ、ラノーン病院はタイ国立であり、予算配分はタイ人医師数に準じて行われているので、ビルマ人医師の給与は病院関係者にとっても悩ましい問題である。

 

・タイの医学教育について

 ラノーン病院では、大学を卒業したばかりのインターンの医師が多く働いている。本研修中に見かけたインターン医師は10人ほどであった。彼らから聞いた話、およびバンコクラノーンの医師への質問から浮かび上がったタイの医学教育について簡単に記しておきたい。

 タイの医学教育は6年であり、ほとんどが18歳からストレートに進学、国家試験を経て卒業し、その2年間政府の指定病院でインターンとして前期研修を行う。学部教育では、1、2年は全て座学、3、4年では座学と病院実習が半分ずつ、5、6年では全て病院実習であるという。5、6年になると、採血、問診や便検査、グラム染色、診断と治療の見立てなど、日本の初期研修医の仕事に近い内容を実習で行うという。

 タイの医師、医学生は特に若い人であるほど、英語に堪能であるが、学部教育の段階から英語の教科書を使い、実習でのカンファレンスや症例報告でも英語での教育が行われている。実際に本研修中に、インターン医師が上級医へ英語で経過報告を行ったり、また臨床推論をプレゼンテーションしていたりする場面を目撃した。日本では学術の翻訳文化によって、日本語で医学を学ぶことができるが、タイではそうではないため英語に通ずることが必須となっている。医師、医学生が英語を学ぶモチベーションも、タイと日本では大きく異なっていることを実感した。

 

5.本研修の総括

 熱帯医学研修プログラムを通じて、非西欧圏での初の海外生活経験、また初の海外での学習経験を得られたことは非常に貴重なものとなった。総括として本研修を要約すれば、—第一に、熱帯医学というトピックが今や全世界的なものであり、マラリアデング熱といった熱帯病を学ぶことは将来日本で医療活動を行う上でも有益であったこと。第二に、外国の医療現場で実際に学んだことで、医療の多様性や、国際保健活動、公衆衛生への理解が深まったこと。第三に、他の研修参加者、およびタイでの大学スタッフ、医師、インターン医師らと交流を持ったことで、今後も積極的に国内外に学びの場を拡げていく大きな動機付けとなったこと—である。

 

 6.謝辞

 本研修は、学生海外留学助成制度に基づき、学術振興講演資金への寄付金を利用させていただきました。本制度の寄付者の方、ならびに関係者のみなさまに厚く御礼申し上げます。

 

(参考文献)

藤田幸一ら(2013).タイにおけるミャンマー人移民労働者の実態と問題の構図―南タイ・ラノーンの事例から― 東南アジア研究 50,194−198.