「カンカンカン」「S・O・S」

国会図書館で読んだ、志村志保子さんの短編。

「カンカンカン」
幼い頃母にもらった椅子をめぐる物語。
突然の母の死、死んだ母の若い恋人、残された何脚もの椅子。作品に漂う、温室にいるような人工的な空気感は、吉本ばななさんのキッチンや満月を思い出す。時代が近いからかもしれない。
鼻をかむ象、電車の汽笛、緑色の椅子に上る幼い私と母。酔った世界で、作中の小道具がゆるやかにつながりだす。重なり合うイメージの中で母の死が受け入れられ、母との関係のわだかまりがゆっくりと溶けてゆく、飲み屋から夜の踏み切りにかけての場面は夢のよう。
絵がストーリーを動かしていくような漫画とは対照的に、志村さんの特に初期の作品は静的で、漫画の中に(吹出しを含む)絵と地の文とが棲み分けている印象を受ける。けれども、二つが接近して共鳴を起こすことがあって、そんなとき、静かな強いクライマックスになる。


「S・O・S」
両親の離婚により父に引き取られた姉のせっちゃん、せっちゃんの新しい弟の荻ちゃん、須実。台所の暗室を中心に織りなす三人の物語。

物語の冒頭で交わされる荻ちゃんと須実との会話は、“はないちもんめ”の遊びのように、大好きなせっちゃんを取られないための引っ張りあいに終始している。それが、一人暮しをはじめたせっちゃんの部屋の台所で何度か鉢合わせするうちに、荻と須実はそれぞれの世界を少しずつ知るようになる。

「強くなりたいんだ。」かつて母にいじめられるせっちゃんを見て感じた罪悪感が、須実を縛ることになる。須実の通う学校と台所の暗室とを往復しながら、物語は深く深く、須実たちの過去に分け入ってゆく。緻密に描き重ねられる、家族の関係性を解きほぐしてゆく会話と独白。

ややネタばれになるけれども、物語のクライマックスは、二か所あると思う。台所の暗室で須実が荻に現像用スポイドの空気を吹きかけるシーンと、学校を訪れた荻が須実の求めに応じるシーン。(一つ目のシーンは目立たないけれども、いたずらをするというのは、ここでは「私はあなたを信頼しています。」という告白になっていると思う。)

あと、細かくて本筋には関係ないけれども、クライマックスのシーンでいじめっ子のサクライカヨコの表情がちゃんと描かれていること。嘲るでもなく悔しがるのでもなく、ただ驚いた表情で描かれているところが好き。ああ、やっぱり志村さんだ、と思う。

若菜晃子さん。
いくつかの場所で見かける文章は、あるときは山のことだったり、あるときは全然違っていたりして、山と溪谷社で働かれていたという経歴が、結びつくようで結びつかなかった。
若菜さんが独立して創刊した雑誌「Wandel」が気になって、読んでみた。ときおりはさまれる山の広告を除けば山の雑誌とは分からない、一見すると暮し&散歩の雑誌。けど、どこかアクというか、「やさしい暮し」みたいなのに還元されないものがある。
例えば、東京の一つの区をピックアップした地図。地元のお店、ちょっとした面白いものetcが万遍なく紹介されていて面白い。隅々まで歩かないと作れない、地図の「地」のほうを浮かび上がらせる面の地図。

多分、山は歩むごとに、発見があるのだろうな。山を歩くように、街を歩く 街を歩くように、山を歩いているのかも。

でも、やっぱり続かなかったのだろうなーとも思う。たくさんの本の中で、一冊。例えば、「東京近郊ミニハイク」は、小さいながらちゃんとしたすきま需要があったのだと思う。けれども、走り続けることが必要な商業雑誌という形で出すには、書き手が準備する時間も読み手の母数も足りない。暮しの延長に山がある。ありそうでなかったコンセプトは、真面目に取り組むもうとするととても大変。

山と街との接点を広げようと、どっちつかずの立ち位置を漂っている。(クウネルの鈴木るみ子さんみたい)。それでいて、若菜さんが綴る街の散歩は、どこか山の香りがする。

Wandel vol.3 (Jガイドマガジン)

Wandel vol.3 (Jガイドマガジン)

東京近郊ミニハイク

東京近郊ミニハイク

ザ・なつやすみバンド

横浜のB.B.STREETにて。わー楽しかった。初めて聴く生の演奏。
なつやすみ(終)から始まり、モノノケ大行進に収録される新曲も披露。(楽しい曲だ。)
薄々気づいていたけれども、まだほとんど学生さんなんだ。なんだか遠いなあ。「毎日がなつやすみだったらいいのになあ」というコピーは、だから自分にとっては、二重の意味を持つ。毎日がなつやすみ、という現実逃避、あの長かったなつやすみを想う逃避。
遠いけど近いというか、近くて遠いというべきか、ぴったり合うバンドは、空気公団以来なので、追っていきたい。

小谷元彦展 幽体の知覚展

森美術館で日曜まで開催中の小谷元彦展 幽体の知覚展。予備知識なしに行ったけれども、期待していた以上に面白かった。

幽体の知覚。現実にはありえない感覚、痛覚を引き出そうとする。作品は、骸骨や矯正具といった素材を用いながら、悪趣味なところがなく、不思議に静謐な雰囲気。髪の毛で編んだワンピースが印象的。ほつれた裾に女の人の愛憎が見えるようで、ゾクリと怖かった。

小谷さんのインタビューも映像や音声で聞くことができたのだけれども、繊細な作品のイメージと異なり、本人は関西人ぽくて(しかも、出身地である京都というよりは大阪の人)ギャップがある。天才って、こういう人のことをいうのだなー。

森美術館は、展望台込みの入館料の高さに辟易して、(特に学生の頃は)絶対行くものかと思っていたけれども、実際に行ってみると、音声ガイド貸し出しが無料だったり平日夜間も開いていたりと、意外と使い勝手がよかったり。

コミティア95&読書会

読書会と連携して行っている米澤記念館ツアーに参加させてもらう。驚いたのが、週刊雑誌のストック。蔵書が増えてきたらその家を倉庫にして、また別の家に住んで…としていたそう。デジカメのメモリースティックみたいに家を住み替えるのかよオイって思った。すごい。

ここ数回で、コンスタントにヒットしているのが、すこやかペンギンさん。コミュニケーションのとり方がずっとテーマなのだと思う。ファンタジーやSFの要素が物語のテーマと密接に関係していて、ハッピーエンドの話もビター成分多めの話も、ふわっとした独特の読後感がある。地に足が着いた(着かない?)ささやかなファンタジー。定期的に記憶がリセットされるアンドロイド、ビター成分多めの「ユキミレコード」は、お話だけでなく、タイトルのつけ方からオチの勢いまで隅々までツボだった。

今回のティアマガ表紙の田中混さん(誰がそれを)もさることながら、個人的に好きなのがペアを組まれている柳田人徳さん(めこ)。いつも新刊が楽しみ。柳田さんの漫画で特徴的だと思うのは、吹き出しや描きこみの密度の濃さと、ざらっとした暖かさがある太い線。(吹き出しの枠まで太い。)語られる大量の言葉たちは遠回りして、肝心なことに安易に触れるのを避けているよう。でも、積み重なった言葉の間からそっと伝えられる。

DOCUMENTARY of AKB48 to be continued

たぶんかなりのネタばれ。DOCUMENTARY of AKB48 to be continued

アイドルはいつまでアイドルであり続けられるのだろう。インタビューで圧倒的だったのは、終盤の前田敦子篠田麻里子といった初期メンバーの面々。

「外の世界を知らないと、小さな世界で争うことになる。」
「自分たちがいなくなってから、5年後、10年後もAKBが存在していればと思う。そのためにも、自分たちが今しっかりとした土台を作らなくてはいけないと思う。」

いまやAKB48を代表する彼女たちの視線は、AKB48の只中を生きている中期メンバーたちとは対照的に、確実に外に向けられている。同時にAKBを客観的に眺めてもいる。それはどこか、失われつつあるものを愛しむ感情に近い。たぶん、彼女たちは心の中で、既にアイドルであることをやめているのではないか。

彼女たちのインタビューを経ることで、それまでの他のメンバーのインタビューはなおさら、儚く、微笑ましく映る。(そう、観ている瞬間よりも、次のエピソードに移り時間が上書きされるたびに、それまでのエピソードの輝きに気づかされる。)ポジションを獲得するための真っすぐなまでの欲望。大所帯の中で埋もれないために何とかして個性を出そうとするしたたかさ、いじらしさ。一方で、彼女たちもまた、この時間が永遠には続かないことを自覚しながら、今を生きている。

「夢がかなっちゃったから、すごく悩んでいる。アイドル辞めたら私何もできない。」
「進路の悩みとか、恋の悩みとか、そういった普通の高校生たちが通る悩みを体験していなかった。ただAKBだけがあった。」

選抜メンバーが主なインタビューイの中で、これからを予感させる横山由衣と篠田のエピソードもよかった。ふとした言葉の端に垣間見える互いの信頼関係。また、全く別の文脈で語られながら繋がる二人の言葉。(あと、努力の人のエピソードに僕は弱い。)

「歌手になりたくて、そのためにAKBが一番いいと思って。」
「AKBに入ることが目標になっている子が最近は多くて、ちょっと違和感がある。」

そして、最後のインタビューイ高橋みなみ。たかみながいるから今のAKBがある、と口をそろえるメンバーたち。たかみなへのインタビュー、というよりも、メンバーのインタビューの中に彼女は像を結ぶ。個としてのインタビューが中心だったそれまでと異なり、たかみなはひとり、劇場や練習場を背景にAKBの歩みとともに自らを語る。名実ともに、AKBとともにある存在。


映画を観終わって、もう一度振り返ってみる。つかの間の休憩時間だろうか、冒頭、柔らかな光の中、数人が一つのテーブルを囲み、昼食を取りながら他愛なく談笑しあう。岩井俊二らしい映像回しの中の彼女らは、イメージとしてのアイドル。多幸感という言葉が似合いそうな、幻想的なこのシーンから背を向けて、映画はドキュメンタリーへと向かう。AKBの只中にある子、巣立とうとする子、憧れる子とインタビューは積み重ねられる。(この間、穏やかなピアノの旋律だけが冒頭のシーンから変わらず流れる。)そして、エンドロールでやはり皆が(今度は演技でなくただひたすら)食べているというのが、またいい。AKBを描くのに、ドキュメンタリーという形式は必要にして十分なのだ。

映画の公式HPやいくつかのエントリーを読んで、ピンとくるものはあった。けれども正直、自分でエントリーを書くことになるなんて思っていなかった。(それまでチーム構成すら知らないくらいの音痴だったので(汗))2回観てしまった。1回目は、ただ情報量に圧倒されて、どこから手をつけていいのか見当がつかなかった。1週間空けてもう一度観直して、やっとぼんやりと感じたことを言葉にできた。
最後に蛇足をいくつか。
・良質の素材、周到に練られた構成。これは正しく映画だと思う。(まあ、自分のオタの部分が反応したのは間違いないけれども。)
・個々のインタビューを通して浮かびあるのは、抽象的な、AKBそのものとでもいうべき存在。おおよそ少女性と言い換えられるのかもしれないけれども、一方でAKBという場は、その言葉には収まりきらない、混沌とした原始の海のようでもある。幾多の物語がその中で育まれ、また、育まれた物語の総体としてのAKB。
・そのような物語の源泉としての劇場。
・印象に残った他の言葉

「ピークはいつか来る。(メディアに出られなくなっても、)それでも劇場があって、そこに通うお客さんがいれば、何とかなる。」

は、まったく実感から出た言葉なのだと思う。(それにしても、秋葉原はいつからこのような物語の舞台になったのだろう。ここ何年か遠ざかりがちだったけれども、見逃していた自分が悔しい。)

SEE MORE GLASS

原宿のカフェシーモアグラスで、絵本を何冊か。
小さな店なのに、壁といいカウンターの棚といい絵本がぎっしり。新しい本も更新されているし、配列もよい。雰囲気作りの道具くらいなんだろうなあと心のどこかで思っていた。全然違う。本当に、絵本の読める喫茶店だ。

「わたしのワンピース」
空想とリズム。言葉で考えはじめる(言葉を意味で捉え始める)前の子どもが楽しめる絵本。
軽快なテンポでワンピースの柄と場面がかわる序盤、ワンピースの柄が話を牽引する中盤。終盤、段々言葉が減ってきて、夜になって、夜の間もワンピースは変わっていって…。で、また朝になる。物語の流れがとても好き。

わたしのワンピース

わたしのワンピース

「ごろごろにゃーん」
長新太さん。この本も、リズムとしての言葉の面白さと、絵によって(言葉ではなく、絵の連なりで)お話が進む絵本。

ごろごろにゃーん (こどものとも傑作集)

ごろごろにゃーん (こどものとも傑作集)