エネルギー

自分の中の力が、回路がうまくいってないせいで変なとこにいってる。それで行き場をなくして消化不良をおこしてる。それに本来持ってるエネルギーが眠ってる。エネルギーを溶け出させる。振動させる。熱をもたす。振動させると動いてくる。エネルギーはそこにある。刺激させないと眠ってる。力をぬく。だらーっと。心も力をぬく。しがらみを溶かす。ときほぐす。感情も体も不感症になってる。ときほぐす。もたれかかる。自分のなかのエネルギー、そこかしこのエネルギー。太陽の光も、風も水も、木も、石も。味わう。言葉も、感情も。人生はエネルギーを使い果たすことじゃない。エネルギーの循環の中にいること。もらって、流す。与えられて、流さなくちゃいけない。溜めても、留めない。

愛したい

『愛しています』という言葉がよくぽろっと出るという話は前に書いた。そこでまた最近思ったこと。『愛しています』と自分が言うのは、とてつもなく心の底から人を愛したいからだと思う。愛して、愛して、とことん大きな愛で愛したい。自分の中に今はない愛というものを実感したい。愛というものを自分の中に芽生えさせたい。それもとてつもない程大きく。狂おしいほど愛したい。自分がなくなるくらい愛したい。愛の実感がほしい。愛というものを、知りたい。

もちぷにゃという人

もちぷにゃがおいしい。

セブンのもちぷにゃが、おいしい。

もちぷにゃっていい名前だと思う。

もちもちしてるから「もち」は分かるけど、「ぷにゃ」って。ふざけてる。いいネーミングセンスだ。思わず二度見せずにはいられない。そして買ってみたくなる。そして、おいしい。セブンのシュークリームもミルク多めで軽くおいしいけれど、これも甘すぎず、生クリームのように重くなく、しかしさっぱりしすぎている訳でもなく、しっかりとした味わいでクリームの役割を果たしている。皮は名前の通りもちもちでしっとり柔らかく、クリームと皮との配分もいい。


おちゃめな上に可愛く、甘すぎない。大人でもなく、子どもでもない。そして人を満足させ、笑顔にさせる。こういう人に、わたしはなりたい。

劣等感2

ひとりで過ごすことに慣れてきた。

ひとりになると、人と話すことで消費するエネルギーがなくなって、他のことにそそげるようになると思う。

でも、未だに態度はよくない。ここまでズルズル引っ張っているのは、素直になれない意地と、あの人の気を引きたいからだろう。けどもうやめよう。ひとりになることは、人を拒絶することじゃなくて、ただひとりの時間を多くするだけ。ひとりの時間は、最初は寂しかったけど、噛み合わない歯車を調整するのには必要な時間だった。私は、あの人が大好きだ。自分の心のわだかまりさえなければ素直に好きといえる。けど、少し距離をとったことも間違いではないと思う。私はある種あの人に依存していたと思う。あの人の対等な存在でありたくて、特別な存在でありたくて、けどあまりの違いに、自分に対する劣等感がつのっていって。あの人は何も悪くないのに、妬みを抱いてしまった。嫌いにならなくていい人を嫌いになるところだった。

けど、もっと柔らかくていい。大らかでいい。あの人はあの人でやっている。わたしはわたしで頑張っていく。

『偏らない、拘らない、囚われない』

劣等感

未練を断ち切ろうとした。人との距離を深めることを諦めようとした。遠ければ遠いほど、接することは楽になる。いい顔ができる。自分のだめなところをさらけ出さないですむ。その孤独に耐えて、そのパワーを違うところにむけられると思った。けど違った。諦めるのは、いい顔をしようとする自分だった。さらけ出すことを恐れる自分だった。自分より心の深い人に、迷惑をかける勇気をもたない自分だった。人の過ちや失敗を許すことは得意なのに、他者に慈愛をかけられる自分が許せなかった。目上の人なら許せた。けれど同じ立場にいる、最も対等でいたいと思う人から与えられる情けは、何よりも悲しかった。それを与えられる自分が情けなかった。対等でいたいと思った相手は、自分にないものをたくさん持っていた。明るい、人から好かれる性格、かわいい笑顔、人の痛みをわかる心、頑張る姿、外見もいい、運動もできる、頭の回転は速いけど、少し抜けているところ。異性からも同性からも好かれた。慕われた。可愛がられた。この環境になってから、いつもこの負い目と闘ってきた。これまでも、その人の優しさに救われてきた。そしてその人のことを好きだと思う反面、いつも自分という存在の置き場の無さを感じ、しかしそれに蓋をして、見ないふりをしてきた。けれどもう、耐えられなくなった。離れよう、負い目を感じないぐらい遠くの存在にしよう、そしたら自分は自分でいられる、そう思った。そして離れた。この環境の中で、少し距離をおいた。その時何も言わずに離れたこと、そして離れ方でも不快な思いをさせてしまったけれど、そこに配慮できるような自分ではなかった。その結果、自分は一人で過ごすことが多くなった。その人から離れることは、他の近い人たちと離れることでもあったから、喋る機会がかなり減った。喋らないというのは、思った以上に心の負担を大きくした。一人で黙々というのは、息抜きがうまくできない。たとえ息抜きに音楽を聴いたとしても、運動をしたとしても、晴れない。またそんな鬱々とした気持ちの側でその人が過ごしていて、こんなにも良い人を身勝手に離した罪悪感、そして離した上で見当たらない気持ちの置き場、なくならない自分への失望感。埃が積もっていくように、何かが自分の中に少しずつ、着々と積もっていった。何か感情の発露を見つけないとまずいと思った。その一つとしてブログをはじめた。けれど、何かしらでその埃が少し払われても、またすぐ積もっていく。自由になったはずなのに、自由じゃない。息苦しい、閉塞感、何かに縛られている感覚。もう抜け出したい、と思った。やっぱり結局仲良くしたい、前みたいに笑いたい。けれどまた、情けをかけてもらうのか、対等でいたかった自分は、大人が子どものちっぽけな意地を全部許容するように、その人の優しさに許されてしまうのか。そしてまた、比べて落ち込むのか。それならこのままの状態で、意地をはりっぱなしの状態で、さびしさや息苦しさを持ったこのままの状態で、それをエネルギーに変えて頑張った方がいいのではないか。しかし実際経験してみて、そのエネルギーはひどく自分を疲れさせてもいる。自分はどうしたらいい。

人が一人になること

人が一人になることを人が邪魔をしてはいけないと思う。

その人は一人になりたくて、一人の時間が必要だとしてるのに、

一人はさびしい、って思い込んで、勝手に助け出そうとしないでほしい。

いつかこの一人の時間が必要じゃなくなると思う。

一人はさびしいけれど、今はこのさびしさも友達としていきたい。

今の満たされていない状態の、鬱憤のようなものがエネルギーになる気がする。

 

『愛してます』

私の口癖(?)が最近判明しまして、それは何かというと

『愛してます』

だったんです。

言う相手なんかいませんけどね。過去においても「愛してる」なんて人に対して思ったことはなくて、だから言ったこともなくて、けど、一人でいる時にポソッとでるのが「愛してます」だったり、「好きです」だったりなんです。

なんで敬語かは置いといて、つまりきっと言いたくてたまらないんでしょうね。相手がいないだけで。

うん。相手がいないだけで。

相手がいないこともだけれど、そもそも「愛してる」って感覚がよくわからなくて。

愛してるってどんなんなんでしょう。「好き」ならわかります。この人が好きとかこのキャラクターが好きとか、恋愛の好きも、好みの好きもどっちもよく分かります。けど愛してるって?愛があれば平和になるらしい。愛することで強くなるらしい。けど愛ってどうしたら経験できますか。当たり前でわからなくなってるだけなんでしょうか。......まぁいいか。いつか分かるかな。