浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』(角川書店)

 主人公は周(29)、八王子市の公務員。警察官の彼女と婚約し、山梨県の実家を出ることになった。姉のあすなも結婚することになり、実家を解体することになったので、すでに家を出ていた兄の惣太郎も夫婦で手伝いにやってきた。父は「あの事件」以来、家にはほとんど居着かなくなった。あすなの婚約者もやってきて、母と一緒に6人で、最後の作業をする。実家の解体とともに、喜佐家は解散することになった。これが家族がそろう最後なのだ。
 そんなとき、青森の神社から忽然と消えて騒ぎになっている「ご神体」が、我が家の鍵のかかった物置から見つかった。返しに行かなければ・・・。

 本作はタイムリミットサスペンスであり、ミステリーである。ご神体を盗み、物置に隠したのは誰か? 容疑者は二転三転する。謎の男に追いかけられる。果たして犯人は誰なのか?
 本作はまた、ロードノベルである。山梨から青森までの道中で、そしてたどりついた十和田の神社で、まもなく解散する家族は、少しずつ心を開いてゆく。ほんとうにこの家族は解散してしまうのだろうか?

 しかし、本作品はそれだけではない。ご神体を盗んだ真犯人がわかったあと、まだ話は続く。残り4分の1が、本作のもうひとつの(そしてほんとうの)ミステリーである。

 長い長いセリフのやりとりが続き、ラストシーンは、周の結婚式だ。さて、その行方は・・・?

 ミステリーと思って読んだら、かなり違和感があるし、期待した読後感は得られない。むしろ家族のあり方というテーマに挑んだ小説なんだと思えば、それは成功していると思う。 

(こ)

山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書)

宮下英樹神聖ローマ帝国 三十年戦争』を読んで神聖ローマ帝国に興味を持ったのだが、なかなか手頃な本が見つからない。どうしたものかと思っていたところ、この4月に格好の本が出版された。山本文彦『神聖ローマ帝国』。

オットー1世の戴冠から850年、カール大帝まで遡れば1000年に及ぶ神聖ローマ帝国の通史である。副題は「『弱体なる大国』の実像」。

かつてヴォルテールが「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ではない」と評したように、歴史的評価は必ずしも良かったわけではない。他方、近年のEU統合が進展する中で、共通の歴史的経験として神聖ローマ帝国が取り上げられることもあるという。

本書はこの国の歴史をいくつかの視点から俯瞰していくが、中でもやはり「皇帝(皇帝権)とローマ教皇教皇権)の関係」という視点からの分析は興味深い。この二つの焦点は、常に緊張関係にあった。

その後、皇帝位はハプスブルク家がほぼ独占し、16世紀に最盛期を迎えるものの、宗教対立と三十年戦争を経て、ウェストファリア体制へと至る。やがてオーストリアブランデンブルクプロイセンの二強体制となり、最後は1806年8月6日、皇帝フランツ2世が自ら皇帝位の放棄を宣言。神聖ローマ帝国の歴史に終止符が打たれた瞬間である。

世界史の授業で初めて出てきたとき、何だこの国は、と思ったことを覚えている。「神聖」とか付いてたり、おおむねドイツなのに「ローマ」と名乗っていたり。「選帝侯」という存在も不思議であった。

山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書


(ひ)

藪下遊/髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)

働いていると本が読めないことの理由と対策はわかった気がしても、現実問題として、読めないものは読めないのであります。

 

今、学校現場では、不登校の生徒に対しては、登校刺激を与えず、ゆっくりと休ませることが大切だとされている。たしかにそれはそう思う。そうなんかなぁ、と思うことがないわけではないが、それも含めて生徒の葛藤なのであって、すべてをあるがままに受容することによって、生徒は少しずつ前に進むことができるのである・・・とはいうものの、やっぱり釈然としないことが、ときにはなくもない。

そして「叱らない子育て」「叱らない指導」の本は相変わらず次々と刊行されている。「感情的に怒る」ことと「叱る」こととは違うのに、なんか混同している人、多くないかい?、とは思いつつ、とにかく自己肯定感が大事、というのは理解する。

 

本書は今主流となっている不登校生徒への対処に対して、豊富なケーススタディにもとづいて、スクールカウンセラーの立場から疑問を呈する。
筆者によるば、多くの子どもたちに不足しているのが「世界から押し返される経験」なのだという。学校生活は思うようにならないことだらけだ。子どもたちはネガティブな自分を受け入れられない(その裏返しとしての万能感)し、親の中にも我が子の問題を本人でも親でもない外部の責任として納得する。

 

もう20年ほど前になろうか、「やさしさの精神病理」がベストセラーとなり、その後も何冊も「やさしさ」「傷つき」を批判する本が刊行された。個性尊重という方針のもとで進む学校現場での「叱らない」流れへの批判は「プロ教師の会」という不思議な団体の成立や反教育改革(教育を取り戻す)系の政治運動となった。

本書も、読まれ方によっては、過去に何度もあった「揺り戻し」の一種とも捉えられかねない。これが行き過ぎると戸塚ヨットスクールを再び生み出すことになる。

 

読み終わってすっきりするものではない。
難しいなぁ、という思いを強くした。

 

なお、髙坂氏は名前を貸してコラムとあとがきを書いただけなので、実質的には藪下氏の単著と考えた方がよい。

(こ)

山本 圭『嫉妬論』(光文社新書)

複数のメディアの書評欄で紹介されていたため、興味を持って読んでみた。山本 圭『嫉妬論』。

嫉妬という情念を、政治思想の観点から多角的に考察した本である。政治思想の本は多々あるけれど、こういう切り口で論じたものはなかなかないように思う。

第1章「嫉妬とは何か」は嫉妬論の総論ともいうべきもの。嫉妬についての概括的な分析や、ジェラシー、ルサンチマンシャーデンフロイデとの異同について論じる。

第2章「嫉妬の思想史」は、プラトンから近現代に至るまでの政治思想史における「嫉妬」をピックアップ。意外にも、様々な文献において「嫉妬」は記述されている。

第3章「誇示、あるいは自慢することについて」における思索の深掘りを経て、第4章「嫉妬・正義・コミュニズム」では主としてロールズの「正義論」における嫉妬の扱いについてやや批判的に論じる。ロールズは、正義にかなった社会では、嫉妬は存在するとしても、決して深刻な問題にはならないという。しかしそれは果たして説得的なものなのか。

第5章「嫉妬と民主主義」は、この本の中核部分であり、オリジナリティあふれる論考である。一般に嫉妬感情はデモクラシーにとって有害なものであり、民主主義を腐敗させてしまうものと考えられてきたものの、果たしてそうだろうか、と著者は投げかける。「嫉妬の行き過ぎは、他者への信頼を損ない、社会を分断するかぎりで、民主主義を脅威にさらすに違いない」が、「民主主義こそ人々の嫉妬心をいっそう激しくかき立て、それを社会に呼び込む当のもの」ではないかという(204、205頁)。なかなか興味深い考察である。

著者は「あとがき」で「どれだけ偉くなっても、嫉妬やルサンチマンは消えないんだよ」という、懇親会の席でのある人物の発言を引用している。僕にも思い当たる節がないではない。嫉妬というものは、なかなかやっかいな感情である。

山本 圭『嫉妬論』(光文社新書


(ひ)

羽田圭介『滅私』(新潮社)

 ミニマミストだとか断捨離とかよく耳にするが、この小説の主人公は、そんなミニマミストたちである。持たない暮らしのインフルエンサーとして収入を得ていたり、(持たない暮らしという欲望を駆り立てて)ブランドを立ち上げてビジネスしていたり、持たない暮らしを突き詰めすぎてこれ以上捨てられなくなっておかしくなってしまったり、ミニマミストにもいろいろとある。

 作者は文中で主人公に語らせる。「捨て思考」になると、自分にとって大事なことの意思決定能力は高まるが、それ以外の曖昧なもの、混沌、難しいものが苦手となり、どちらかに振り切ったもの、わかりやすいものしか受け付けなくなる、と。
 たしかにそうだ。

 結局主人公たちは、それぞれの事情から、ミニマムライフから離れていく。そういえば、こんまりさんも最近は片付けから離れているんだったっけ。

 

 主人公の立ち上げたブランドはMUJOUという。
 しかし、諸行無常諸法無我、世間は虚仮なりという世界観は、ミニマミストが発見するよりもはるかに昔から、長い長い年月を超えてたたき上げられて、確固たる思想の体系として厳然と存在している。
 そう思うと、浅い、んだよな、ミニマムライフの哲学って。

滅私

滅私

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(こ)

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)

発売前からちょっと気になっていた本。早速読んでみた。三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。

いや、そりゃ、働いていると本を読む時間なんてなくなるでしょ――では終わらない。本書は近代日本の読書史と労働史からその「謎」に迫っていく。

序章で引用されるのは、映画「花束みたいな恋をした」。社会人となった主人公が徐々に本や漫画を読めなくなり、虚無の表情でパズドラをする。長時間労働に追われる中で、「パズドラ」はできても「読書」はできない。その理由を分析するため、本書はその時々のベストセラーを紹介しながら、近現代日本の読書と労働の歴史を俯瞰していく。

時々差し挟まれる著者の分析が興味を引く。「読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越を示すための道具になりやすい。」(160頁)との指摘は新鮮で、辛辣でもある。

転換点は1990年代。著者はここで、「読書とはノイズである。」と断言する(176頁)。本を読むことは、働くことの「ノイズ」となる。それこそが1990年代以降の労働と読書の関係ではなかろうか、と著者は投げかける(182頁)。

最終章は、今後のあるべき社会、すなわち「働きながら本を読める社会」について。「全身全霊」をやめませんか? 燃え尽き症候群は、かっこいいですか?――そう著者は問いかける。

本書のオビには「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」とある。思い当たる節がないではない、というかかなりある。疲れてしまうと本とか読めないもんね。無理をしない。健康第一。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書


(ひ)

早見和真『アルプス席の母』(小学館)

高校野球がテーマの小説というと、球児が中心と相場が決まっている。この小説でも、神奈川県のチームで全国制覇を成し遂げた中学生・航太郎が主役・・・ではあるのだが、もうひとりの主人公はその母・菜々子である。夫を事故で亡くし、息子は大阪の山藤学園をめざしている。しかし、家計がそれを許さない。そんなとき、大阪の新興校・希望学園の佐伯監督から、特待生での入学のオファーが届く。航太郎は入学を即決する。菜々子は航太郎を支えるべく、南河内に居を移す。親子ともども、理不尽は覚悟していたものの、想像をはるかに超える理不尽また理不尽。航太郎はケガで1年を棒に振り、ベンチからも外れてしまった。

後半は、筆致ががらりと変わり、高3の春、そしていよいよ最後の夏の大会を迎える。希望学園は甲子園に向けて、選手も監督も「負けたら終わり」の一戦を戦い抜いてゆく。ラストはとても心地よい。

もっとも、ドラマ化はどうだろう。高校野球の裏側にあるドロドロもそれなりに描かれている。保護者会の闇も、寄付という名の監督への心付け(=裏金)もしっかり登場する。産経新聞での連載だったというが、このあたりNHKや朝日新聞毎日新聞は扱うことはできるのかな・・・?

ともあれ、父と言えば門井慶喜、母と言えば早見和真、というふうに、これからはなるのだろうか。次回作にも期待したい。

(こ)