「プロメア」に集中できない

「プロメア」がアマゾンプライムに入ってたので、観た。映画館でみたかったので嬉しい。なんで無料で見られるのだろう。ふしぎだ。

 

トリガーは好きなんだけど、中島かずきにはすこし苦手意識がある。高校のとき、中島かずき脚本の演劇をやることがあり、あんまり面白くなかったからだ。なんかたまたま、そのときの自分とその作品とがうまく合わなかっただけなのだろうから、そんなことは気にしなければいいのに、ちょっと気になってしまう。ウーム。たぶんあれでしょう、急にでかい話になったり、「おまえ、そうだったのか」みたいなの出てくるでしょう…。

 

そんなのは気にしなければ良く、じっさい「キルラキル」はすごく好きです。あれも中島かずきですよね。大丈夫、気にするな気にするな。

 

もっとよくないのは、知人、まああまり、好きではない人が、「プロメア」を絶賛していたのが、ちらついてしまう。ごめんな「プロメア」。君と対峙しているときに、嫌いなおっさんのことを考えちゃってごめん。嫌いってほどでもないんだけど、なんか合わないなあ、という感じの人。年齢の離れた若者と音楽や漫画の話をしたがるくせに、同世代しかわからないような話ばっかりするところや、意識高いことを言うときに堂々としてるところとか、いや別に全然悪いことじゃないんだけど、合わないんだよなあ。堂々とポジティブである人が全体的にちょっと苦手なんだろうなあ…

 

歳を重ねると、驚くほどいろんなことがわかるようになる。よくわかんなかった本も面白くなることがあるし、急にホットケーキを美味しく焼けるようになったりする。でも、こういう雑念みたいなやつも、めちゃくちゃ増えて、集中すること自体がすごくたいへんになっている。今だって、結局何が言いたかったんだっけ?えーとそうだから、堺雅人は凄い。

 

堺雅人の映画ですあれは。堺雅人が登場した時点でこいつ主役級悪役だ!ってわかるし、堺雅人がしゃべるシーンが待ち遠しくなる。堺雅人が大声を出すと嬉しいし、本性をあらわしたとこも嬉しい。すごいなあ堺雅人堺雅人ってあれだよ、そのへんの飲み屋とかに行くと全然忍ばないで、知らない人のテーブルに顔出しまくって、めちゃくちゃ盛り上げていくんだって。芸能人なのに一般人に積極的に関わりに行って喜ばせていくのすごくない?

 

ホットケーキはあんまり混ぜないで作ると美味しくなるよ。

生きてる

なんかまあ、生きている。それは病院の人や公務員、物流やインフラ、いろんな人のおかげであり、自分の頑張りによるところはごくごく少ない。「ありがたい」というほかない。自分がこの状況に対して貢献できることも僅かなので、できる限り寄付をして、家にいる。

 

買い物は、なるべくまとめて、世帯に一人がやるとよいということで、呆れるほどの荷物を抱えて帰ることになる。今日はそれに加え米5kgがあったので、首肩がギンギンに痛くなった。

スターバックスの前を通りがかると閉まっており、閉まっていることは知ってたけど、なんだかショックだった。ウッ、と鼻がツンとして、うっかり悲観的になりそうになる。

 

献立のことを考えるのがしんどくなってきた。近所のうなぎ屋がテイクアウトを始めたので、毎日うなぎということにしたらどうだろうか。そうすると一食2,700円かかる。せいぜい週に1回だろうか。週一でうなぎを食う生活。週うな。

 

面倒なので風呂に3日入らないでいたら、具合が悪くなった。体温調節がうまくいかず、寒くなったり暑くなったりして、最終的には風邪のようになった。風呂に入って寝たら治った。風呂は大事。

 

夕方公園に行くと、いつもなら学校や学童、友達の家、塾に行っているような世代があふれている。そんな中でも、なぜか人気(にんき・ひとけ)のない公園や、川沿い運河沿いの遊歩道など、人があまりいない場所というのは意外とあって、探し当てると嬉しい。

見つけられないときも、子供と一緒にただブラブラ歩いて知らない路地に入り、私はけっこう喜んでいる。

 

子供はYouTubeを一日中みていて、私としては、別にええやんと自分に言い聞かせている「理性」みたいな部分が弱くなってくると、「これではだめだ」みたいな気持ちになる。ほんとはだめだと思ってるふしがあるので、それが出てくる。子供本人も、「ほったらかしにされてる」とちゃんと感じているようで、テレビを見ながらも不満をあらわにするし、単純にテレビに飽きてきたのもあって、大声を出す・叩く・ハンスト などの蛮行がめだつここ数日だ。

……みたいにドライを装っているが、精神的にはいっぱいいっぱいです。たすけて〜

 

そんなストレスもあって、いつもは飲まない酒も飲むし、まんがレンタルやKindleにどんどん課金している。ほんとはPS4でやりたいゲームがいくつかあるけど、ハードを買ったり、それを置くのがすごく面倒に思えて、やってない。そうやってどんどん、取り残されていく感じがする。やり始めたり進めたりする気力や時間がすごく、すごく少ない。

 

画面越しに、他の人の変化も気になっている。

普段は小難しい書評ばかりして高級店にばかり行く知人が、急に家で一生懸命料理をして、ラーメンを作った!おいしい!みたいのを毎日SNSに投稿してて、なんかいいなあと思っている。

いつもは殆どFacebookに投稿しない医者の友人たちが、現場の詳しい状況を投稿してくれるのもありがたい。

 

多くの人が急に政治批判をやるが、でもまあ普段やらないのでルールもマナーもあったもんではなくて、見ていてしんどいこともけっこうある。

もっとしんどいのは「今だからこそ!」みたいな感じで売り込みをかける勢で、お前が今安全地帯にいるのは誰のおかげだと思ってんだ、その人たちは今どういう状況だと思ってんだなどと考えてしまう。

…というようなことを愚痴ったが、あんま共感されなかった。

 

そんな感じで。なんとかやっています。そちらはどうですか。

混沌の中の息つぎのように

あと数日で子どもが3歳になり、生後0日のときからほぼ毎日「そろそろ自立してくれないかな?」と期待しながら、わたしもよく頑張っていて、まわりの人もそれを褒めてくれるのですが、ほんとはあと5万倍ぐらい褒めてもらわないと困るぐらい頑張っている。事前の想像の10万倍くらい頑張っている。はたして頑張りと関係があるのかないのか、おかげさまで元気に育っています。

 

3歳ってまだたぶん長期記憶もないし(3歳より前のことを殆どの人は覚えていない)、めちゃくちゃ何もできないけど、急に物凄い「できる瞬間」があってウワーッ!?となる。でもそれは、本当にできるようになったわけではなく、数多の試行錯誤の一つがたまたまヒットしただけで、本人は周りがどんなに褒めようが、あんまりヒットの自覚もないまま、また混沌とした試行錯誤に戻っていく。

 

今日は「ぼく、先生になろうかな…保育園の先生かな…」と急に将来について語りだした。今までになりたがったものといえば、消防車、パトカー、ショベルカー。車体だった。ひどいときは「『クレーン車ショベルカーはしご消防車ヘリコプター』になりたいんだよ」と、重機のヌエみたいなものになろうとしていた。車から人へ。化物から職業へ。これはすごい急成長と思って聞いていると、「やっぱり、バスの先生かな…ウーン、救急車、消防車、あとクレーン車も、ほしいんだよ〜」とただの物欲の話になってしまった。

 

先日は、絵を描いてるのをのぞいたら、めちゃくちゃよく描けていたので大声をあげてしまった。ワーッ!これ、何を描いてるかわかる!今まではグジャグジャーって、芸術家が作品を気に入らないときにやるやつ、もしくはボールペンのインクがあるかどうかを確かめるときに書くやつを描いていた。

喜んで写真を撮っていると、「まだ途中だから!」と怒られ、ごめんごめんと返して数分後。「できたよ」というのを見ると、黒く塗りつぶされ、他の絵と判別のつかないグジャグジャがあった。

 

そういうのを面白がるくらいの余裕がようやくできてきた。よかったね。頑張ったね。


f:id:rannn:20200210002352j:image

奇跡の一枚。

読書メモ 2019

本を読んだら内容を自分なりに要約してメモしておいたほうがいいなと、36歳になって気づいた。おそい〜〜〜〜。おそすぎた〜〜〜。

 

メモしなかった理由は、①覚えているから②忘れていたら、その程度のことだから③また読めばいいから だ。

しかし、最近気づいたのだが、①びっくりするほど忘れている②大事なことも余裕で忘れている③また読んだときにはもう理解される内容や受ける印象が全く変わってしまっている。

 

③が特にメモしたほうがいい理由なのだが、とにかく私の理解は浅薄なので、一度読んだくらいでは全然何もわかってないぐらいのことがよくある。

昔、谷川俊太郎さんの名作「朝のリレー」が教科書に出てきたとき、「時差のあるAB二地点があり、Aが夜ならBは朝、地球上のどこかが常に朝であり、朝である地点は順番に交代していく」という詩の骨格に気づかなかった。「なんか色んな地名が出てくる平和的な情景だな、知らない都市のことはよくわからん」ぐらいに思っていたし、タイトルについてはスルーしていた。かなりやべー奴だ。ぼんやりしすぎじゃない?偏差値3くらいじゃない?

自分が偏差値3という自覚もないので、本を読み終わったときはハー読了読了などと思っており、自分が理解していない可能性についてはあまり思い至らない。

何年もたってたまたま読み返し、「あれ…?なんか印象がずいぶん違うな、こんな内容だっけ?」とボンヤリ思うくらいだ。

 

まあ朝のリレーは極端な例だが、自分の理解・思考・視点がどのように移動しているのかというのは、けっこう得難い、そして面白い情報だと思う。「以前はなかったが、今はこういう視野があり、こういう情報を拾える」「いまの自分はここに重心があり、こういうことを大事にしている」というようなことが、わかる。そういうことは、印象や感想だけをメモしてもあまりわからない。大事だと思う箇所を要約してこそだと思う。映画とか美術鑑賞とかもそうなのかもしれない。

 

あと、①②についても軽く言い添えると、一度読んでえらく感心したのに論旨を丸ごと何も覚えていない、みたいなこともあり、本当にやばい。普段はそれにも気づかず幸せな毎日を送っているのだが、でもたまたま何かの拍子に気づくと結構落ち込む。

図書館で借りた本とかだと、また借りるのも面倒だしな…と後回しにする間、喉に骨がつかえたような気分になる。(まあそれもすぐ忘れるし、人はいずれ死ぬ)

 

そういうわけで書いた読書メモです。各スレッドに続く。

 

 

 

 

 

10代くらいから書いてたらかなり面白いと思うんだけど、自分が若い頃に読書メモを勧められたら嫌だったろうな。ていうか、多分勧められたし、嫌がったし、その結果がこれなわけで、あのとき勧めていただいた理由がわかりました、どうもすみませんでした。おそい〜〜〜〜。あと誰がいつ勧めてくれたとかも、全く覚えてない〜〜〜〜。さよなら〜〜〜〜。

一汁一菜と「レシピを見ないで作れるようになりましょう。」とレイチェル・クー

突然ですが、「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴、グラフィック社、2016)が好きな人は「レシピを見ないで作れるようになりましょう。」(有元葉子、SBクリエイティブ、2017)も好きだと思います。読んでみてほしいというか、最初の方に載っているキャベツ炒めやほうれん草炒めだけでも作ってみてほしい。

私は最初この本の通りにほうれん草炒めを作ったとき、仰天しました。工程を追うごとに、ほうれん草がどんどん美味しそうになる。フライパンからいい香りの白い煙が上がる頃には「おいしそう…」とつぶやいてしまう。食べてみると二度見するような旨さ。

キャベツやほうれん草を(何も見ずに)単体でおいしく炒められる。それだけで、料理の自由度がすごく上がります。なんていうか、献立で悩む要素が減る。だって、キャベツがあれば、それだけ炒めればうまいのだから。

献立に悩まず気楽にやれるようになるというところが、一汁一菜と近いなと思うのです。気楽にやれるというのは、「気楽に作れる料理を作る」というよりも、「気楽に作れる力(つくれるりょく)がつく」というような感じです。

ところで「レイチェルのキッチン」シリーズという料理番組がNHKでたまにやっていて、この番組のすごいところは、レイチェルが料理するときに計量を一切しないのです。塩をパラパラー、豆をドサドサー、「ここで味をみて塩加減を調節してね」と言う。それでいて、色鮮やかで素敵な、キレイな、かわいい、写真を撮りたくなるような料理ができあがる。

たとえば製菓みたいな、絶対に事前に計っているはずの料理でも、かたくなに計量カップは出てこなくて、そのへんの瓶や器に入っている生クリームをダーッとボウルに入れる。番組中には、材料一覧も調理工程も、ささやかなテロップさえ一切出ない。

これが物凄く美しい番組に仕上がっていて、ずっと見ていられる。そして、しみじみと「こういうふうに料理したいものだなあ」と思わせる。雰囲気がいい。気楽に作れる力を感じる。(ちなみに、完璧に再現したい人のためには、番組ホームページにレシピが載っています)

それはそうと、チヂミは、ここのサイトのとおりに材料をきっちり計って作るとめちゃくちゃ旨いので、そりゃまあそういうこともありますわ。今年もよろしくお願いします。

www.kateigaho.com

 

環境になる

自分が人生の主役みたいに考えたことはあるだろうか。私はある。ずっとそうだし、今も基本的にはそうなんだけど、最近少し捉え方が変わってきたので、別に面白くない話なんだけど書いておく。

 

子供が生まれてから、自分はこの人にとっては環境なのだなとふと気づいた。私がちょっとしたことですぐ怒鳴ったり手を上げれば、こいつが将来どういう人間になるかとか、そういうのが決まってくる。

 

考えてみれば子供以外にとっても私はずっと環境なのだった。会社の同僚、隣人、いまレジで私の買ったものをレジ打ちしてくれている人。その製品を作ってる会社…になってくると「私が環境」という意識は希薄になるけれど、まあ理屈で言えば環境の一部を確かに成している。

 

そうすると、もしかすると、自分がずっと抱いていた「環境がこうだったらいいのに」という思いを、実現できるのは自分だということじゃないですか。

お母さんはもっとほっといてくれたらいいのに。会議は短かったらいいのに。必要がなければなくせばいいのに。もっとお互い優しくしたらいいのに。お店の人にもビル清掃の人にも、丁寧にお礼を言ったらいいのに。

 

その考えにもとづくと、「主役の私がやりたいようにやる、気に入らなかったら違う環境へうつる」というやり方とはちょっと違って、私は環境にこうあってほしいというのを、自分で体現していくことになる。そこには一定のキツさがあり(子供に優しくするのは想像よりずっと難しい)、でもほこらしさというか、美意識みたいなものがある。

 

「環境」というのはでかすぎる言葉で、文化とか政治の状況とか国とか、あとまあ社風とか、そういうのを背負い込むつもりはない。隣にいる人がどういう気持ちになるかとか、これをやり続けると将来的にはどうなるかとか、それに関する本質だったり法則だったり、私が考えを及ぼすことができる範囲は今のところ、その程度のことだけれど、さしあたり適当な言葉が見つからないので、ここでは環境と呼んでいる。

 

ちょっと前に東京ステーションギャラリーのルート・ブリュック展を見てきた。ブリュックさんは、30代くらいまでは奔放というか、めちゃくちゃな作品を作っている。思いのままにギザギザーっと描いたり、作品の切断面もいかにも伸びやかで、荒い。

でもある時急に、パターンや反復、均質、ルールに従った、緻密な造形になる。一見「どうしたの?何かあったの?」みたいな感じになるが、年を取るごとにその凄みがどんどん増していき、まさに環境というか、世界を構築しているような感じになり、圧倒される。最晩年は巨大な作品も多くて圧巻なのだが、サイズ的に小さい作品でも環境力(としか言いようがないもの)が強すぎて絶句する。わかりやすくモチーフもでかくなっている(20代の頃は静物や動物だが、40前後で都市、最晩年は流氷など)。

 

勝手にのびのびやってるとこからの転機、みたいなのが、ブリュックさんにもあったのだろうか。あなたにもありますか。こういうぼんやりとした未熟な話を、誰かとダラダラとできたらいいなと思うのだが、その環境はまだないのだった。

今日いいことあった?

海苔弁 山登りのナムル改めて食べたら全然違った。なんかほうれん草をいっぺんクシャクシャにしてある。あと全体的に味が濃い。訂正レシピはそのうちに。

 

最近は「今日いいことあった?」みたいなことを聞かれるとゼロ秒で「あったあった!」と前のめりな答えをするように決めている。

これは覚悟を持って「やる」と決めていることであって、実際にいいことがあったかどうかは関係ない。まあ、なければ適当なこと言えばいいだけなんで、覚悟とか言っても大層なことではないです。

 

それというのも今年の誕生日に同僚からハーブティーを戴き、プレゼントを渡す前の段階で「ハーブティー好きですか?」と聞かれたので咄嗟に「モノによる」と言ってしまった。

そのことをそこそこ悔いていて、本当は「大好きー!」みたいな屈託ない応答をしたかった。

よく考えてみると、ミントティーは大好き、カモミールティーは普通に好き、ほかも大概いける、唯一ハイビスカスは(あれはハーブではないか)別に普通、という感じで、「ハーブティー大好き」と言っても全然過言ではなかった。

おまえハーブティー大好きじゃん。そのくせ「モノによる」ていう、なんかスカした正論みたいなつまらない返答をしやがって……。

 

それでもうあまり何も考えず、大概の質問には前のめりに全肯定の回答をしようと決めた。決めたらすごい気がラク。別に今までも辛かったわけじゃないけど、会話するとき必要な何かが、確実に楽になっている。真面目に答えるよりぜんぜん楽しいし。はいライフハック一丁。