ゆるっと解説:刑法の適用範囲とエロサイト

https://www.bengo4.com/internet/1074/n_5834/

今日は、このニュースをネタに、刑法の場所的適用範囲、特に国内犯の理解についてちょっと解説をする。
刑法は、日本国内で犯された犯罪すべてに適用される*1。これを国内犯と呼ぶ。
また、日本国籍の船舶・航空機内で犯された犯罪も、同様に国内犯として扱われる*2
国外犯処罰規定のある犯罪を除き、日本の刑法が適用されるのは国内犯に対してのみである。

犯罪が複数の国をまたがって行われた場合に、どの地点を基準とするかについては、幾つかの考え方がある。
極端な例だが、スナイパーとターゲットが国をまたいで存在している事例*3で考えてみよう。

①行為地基準
 刑法は犯罪行為に対する規範であることから、行為が行われた地点を基準とする。
 この場合、国内にいるスナイパーが隣国のターゲットを狙撃した場合には国内犯として扱われるが、隣国のスナイパーが国境越しに国内のターゲットを狙撃した場合には国内犯には当たらないことになる。

②結果地基準
 刑法は人の利益を守ることを目的とすることから、犯罪行為の結果が生じた地点を基準とする。
 この場合、行為地基準とは逆に、スナイパーが国内にいてもターゲットが隣国にいる以上国内犯としては扱われない。一方、ターゲットが国内にいる限り海外にいるスナイパーも国内犯として扱われる。

 しかし、このどちらを基準としても処罰に間隙が出来てしまうことは想像できるだろう。そのため、判例*4は犯罪を構成する事実の一部でも国内で生じた場合には国内犯として処罰ができると解している。
国内の犯罪行為を国外で共謀、教唆、幇助した者(要するに共犯者)*5や、国外の犯罪行為を国内で助けた共犯者*6も国内犯として扱われる。

 ここまでが前提の理解である。ここではスナイパーの事例(殺人罪)を例としたため、なぜこのような理解がなされているかはおわかりいただけたのではないだろうか。行為と結果のどちらかが国内で生ずれば、国内法を適用できるというのはシンプルな帰結のように思える。しかし、幾つかの犯罪において、この理解では不都合が生じる場合がある。その一つが冒頭のわいせつ物に関する犯罪である。

 行為が行われた地点がどこであっても、国内で結果が生じた場合には国内犯として扱われるとすれば、アメリカ人がアメリカ人向けにアメリカのサーバーでエロサイトを運営していたとしても、日本の国内法上アウトな表現を日本人のユーザーがアクセスして閲覧した場合、わいせつ物公然陳列罪に問われることになってしまう。
 無修正のエロサイトを運営するアメリカ人は、日本からのアクセスを遮断するか、逮捕されないよう日本旅行を差し控えるくらいしか無いことになる。アメリカでは完全に合法な活動であるにもかかわらず、である。

 このような例は極端だが、最高裁平成26年11月25日決定は日本で作成したわいせつな動画をアメリカのサーバーで運営している有料エロサイトで配信した事件において、日本で動画を作成した者と共に、アメリカでサイトを運営していた者を共犯者としてわいせつ物送信頒布罪に当たるとした。これがまさに本件のパターンである。
 このロジックはなかなか巧妙である。日本の当局としては、ぶっちゃけた話アメリカでエロサイトを運営している者にそれほど興味はないだろう。しかし、日本国内で無修正ものを製造し、海外を経由して日本で頒布することで法規制を回避しようとする者はなんとか捕まえたい。そうでなければ、ただでさえ形骸化しつつあるわいせつ物規制が有名無実化してしまうだろう。そこで、行為が行われているアメリカに居る者を犯罪行為の共犯者とすることによって、国内にいる業者を摘発する方法を取ったのである。ここでは、国内の業者は頒布販売行為には直接的には関与していないため、単独で検挙することは出来ないが、共犯としてなら検挙ができるのである。
 また、わいせつ物送信頒布罪は「陳列」ではなく「送信頒布」が問題となるため、公然陳列罪とは違って客による受信が犯罪の結果となる。それゆえ、最初にあげた「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のためのエロサイト」の事例よりは国内犯を認めやすいのである。

 同じような問題は、賭博罪でも生ずる。賭博が合法な海外にサーバーを置くカジノサイトを運営している外国人を国内犯としてよいだろうか。

 このような事例で処罰に抵抗感を感じる理由には、大きく分けて二つあるように思われる。一つは、これらの犯罪が「被害者なき犯罪」であることに由来する。もちろん、わいせつ物もその製造過程において、被害者が居ることもあるし、賭博ものめり込んでしまった人を被害者と呼ぶことはできるかもしれないが、それぞれの行為、頒布販売や賭博そのものは原則的に人を傷つけるものではない。そのため、それを禁止する理由も、健全な風俗であるとか、勤労の美風であるとか、抽象的な理由になりがちである。そのため、そもそもの禁止規定自体に疑問を感じることがありうるだろう。
 二つめが、インターネットを利用した国際間で行われる行為に対して、国内法を当てはめることへの抵抗感だろう。今回解説したように、今回の事件は判例の理解を外れるものではない。しかし、その判例の理解自体にも疑問をもつ余地はあるだろう。テクノロジーの発展で、インターネット上においては国境の概念は曖昧になりつつある。それに法がどう対応するかは、今後の技術発展、文化発展に日本がついていくことができるかにとっても重要な要素である。(そこ、もうついていけてないとか言わない)

テクノロジーと刑事法ネタとして、近年アメリカで急速に発展しているバイナリーサーチ理論について、次回書くかも書かんかも。

*1:刑法第1条 この法律は、日本国内において罪を犯したすべての者に適用する。

*2:第1条2項 日本国外にある日本船舶又は日本航空機内において罪を犯した者についても、前項と同様とする。

*3:実際には、殺人罪は国外犯も処罰される。刑法第3条は海外で現住建造物等放火や強姦や殺人を犯した日本国民に刑法を適用するとし、3条の2は日本国民に対して強姦や殺人を犯したものに刑法を適用すると規定している。この辺の経緯もちょっと興味深いが、今日は割愛

*4:大判明治44年6月16日

*5:最決平成6年12月9日

*6:東京地判昭和56年3月30日

事例とメリットから考える集団的自衛権

二年前に集団的自衛権について書いたのを思い出し、あれから話が色々と進んできたので、追記として政府が提示する事例やメリットについて整理する。

邦人輸送中の米艦防護

安倍総理が記者会見で出した事例である。この事例は、「邦人輸送中だから」米艦防護ができるというわけではなく、その他の事情を鑑みた上で総合的に判断して防護ができる、すなわち、「邦人の有無は判断要素の一つだが、絶対的要素ではない」という風に7月26日の参院特別委員会で中谷大臣が述べている。
つまり、邦人が危険にさらされているからといって、それだけで集団的自衛権に基づいて自衛隊を出すということはないし、逆に邦人が危険に晒されていなくとも自衛隊を出すことはありえる、ということであり、この事例は次の武力攻撃を受けている米艦防護に吸収される。
お母さんと子どもが載っているかどうかというのは、お涙頂戴のための設定であり、事例検討には適さない余計な要素にすぎないということである。

武力攻撃を受けている米艦防護

そこで問題となるのが武力攻撃を受ける米艦防護の問題である。野党からのもっぱらの批判は米国に対する攻撃をしているだけの他国の軍隊に日本から攻撃を加えた場合、その国から見ればそれはまさに「日本からの先制攻撃」に他ならず、そんなことをしてしまえば元々攻撃の対象ではなかったかも知れない日本が攻撃対象とされてしまう、というものである。
ここではっきりさせておこう、これは法律上、国際法上の「先制攻撃」にはあたらない。国連憲章において認められる「集団的自衛権」とは、「自国が直接攻撃されていない」にも関わらず、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃」に対して反撃することを正当化するものである。したがって、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃」がある時点(これは法案の新3要件に含まれる。)で、それは法律上先制攻撃にはあたらない。
早稲田大学教授の水島朝穂氏は、この点が野党と与党の議論の食い違いの原因になっていると指摘する。『「先制攻撃」と「先に攻撃」を区別せよ――参議院でのかみ合った審議のために』
すなわち、「そもそも敵国として認識していなかった日本」が「先に攻撃してきた(先制攻撃ではない)」ことによって、新たに武力攻撃の標的として扱われる危険性の話と、国際法上認めれれない「先制攻撃」の話がごちゃごちゃになっており、野党は前者のつもりで聞いているのに、与党は後者の理屈でかわす、ということである。(これは野党の言葉の使い方に問題がある)
なお、「そもそも日本が攻撃対象として認識されていない場合」においても武力攻撃が可能かどうかという点について、新3要件においては言及がない。すなわち、「存立危機事態」であればその武力攻撃が日本に向けられる蓋然性のないものであっても3要件は満たすことになる。

弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護

アメリカ本土と日本を防衛するため、弾道ミサイル発射警戒にあたっている米艦を防護する事例である。上記の事例との違いは、日本もミサイル攻撃の対象となる危険性があること、という点だろう。これが何らかの理由からアメリカ本土のみが対象である事が明らかな場合、新3要件からも武力行使は許されないといえる。
ちなみに、アメリカ本土に向けられているが、日本に破片等が落ちてくる可能性がある場合、あるいは日本に対する攻撃かどうかわからない場合であっても、既に自衛隊法にはミサイル破壊措置命令という規定があるので、ミサイルの破壊自体は法的には可能である。

たしかに、日本が明らかなミサイルの危険にさらされており、それを防御するために活動しているアメリカの艦船が危険に晒されていて、それが無力化されれば日本の防衛に重大な影響があるような場合であれば、そのアメリカのイージス艦を防御する事に合理性はあるように思える。ただ、私は軍事的知識に乏しいのでこの点については定かではないが、ミサイル警戒をするにあたってアメリカがイージス艦の防御措置を取っていないということがどの程度ありうるのか、というのは疑問として残る。
これが、「元々アメリカ軍が日米安保条約に基づいてアメリカ軍の責任で行うはずだったイージス艦の防御任務を、日本の自衛隊がかわりに請け負う」というものであるとするならば、これは日本の防衛に対してはプラスになるものではなく、単に米軍の負担を軽減し、自衛隊の負担を増やすだけ、ということになる。

また、このような日本が明確な武力攻撃の対象となっている事が明らかな場合につき、維新の党は存立危機事態の文言を厳格化した「武力攻撃危機事態」を要件化することを提案している。

「条約に基づき、我が国周辺の地域において、我が国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃(我が国に対する外部からの武力攻撃を除く。)が発生し、これにより、わが国に対する外部からの 武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」

がその内容である。この提案についての深入りは避ける*1が、いずれにせよ与党がこの提案を受け入れるような気配はない。

ホルムズ海峡における機雷掃海への参加

まず、ホルムズ海峡そのものにおける戦時中の機雷掃海ということの現実性に関しては、既に様々な指摘によりほとんど現実的でないことが明らかになっているため、以下の記事を紹介するに留める。『話題のホルムズ海峡で起きた”タンカー戦争』
しかし、問題は同様の事案、例えば、南沙諸島周辺のシーレーンで同様の事態が起こった場合だ。例えば、中国とベトナム、あるいはフィリピンとの南沙諸島における軍事的緊張が高まり、シーレーンを通ることができなくなったような事態を想定してみよう。ホルムズ海峡で集団的自衛権の行使が可能であるとするならば、南沙諸島でも可能ということになり得えるだろう。(ただし、ここでいう密接な関係にある他国にフィリピンなどまで含まれるか、あくまで米艦への攻撃が必要かは問題となる。)ここでも、直接的に日本に対する攻撃をする意図のない国にたいして、「日本から先に武力行使をしかける」という事が可能になるというリスクが、同事案におけるメリットとどちらが勝るかということになる。

日米同盟の深化による抑止力強化

上記事例に一つ一つ疑問が呈されていく中、政府与党からより多く聞こえるようになったのが抑止力という言葉である。すなわち、個別事案はさておき、「日米同盟」を強化することは他国が日本へ攻撃をする抑止力になるではないかという主張である。確かに、このメリットはどうやっても否定しがたい。否定しようにも、メリットがあまりに抽象的すぎるためである。上記事例の検討で分かる通り、本法案は日本を守る間隙を埋めるというよりも、日本周辺で活動する米軍の補助をするという意味合いが強い。確かに感覚的に言えば、「日本はアメリカと仲がいいんだぞー」というアピールになりそうではあるが、肝心のアメリカがその見返りに何をしてくれるかは当然ながら本法案には書かれていないのである。
集団的自衛権に関する誤解の中に、「個別的自衛権だけでは日本を守れない」というものがあるが、日本はキチンと集団的自衛権によって守られている。日米安保条約とはアメリカが集団的自衛権に基づき日本を防衛する義務を負い、そのかわりとして日本がアメリカに東アジアにおける重要拠点を提供するというものだ。日本は集団的自衛権の義務を負わないが、集団的自衛権によって守らているのである。その中で、今回の法案で日本は集団的自衛権の義務的側面を自ら進んで負うのである。
これによって、アメリカが喜び、より日本防衛に力を入れてくれる、もしくは、日本防衛に興味を失いかけていたところを再び注意してくれるようになる、それは理想的な展開であるが、そんなことわかりはしないだろう。アメリカの大統領がトランプなんかになった日には、「そんなもんで足りるかボケェ、お前も一緒に戦わんかい」と言ってこないとも限らない。

更にもう一つ、抽象的メリットに抽象的批判を加えてみよう。日米安保条約とは、先述の通り、片務的な防衛義務によって成り立っている。これを、日本を仮想敵国とする第三国から見るとどうなるだろうか?その第三国が日本を攻撃する場合には、日本の自衛隊と米軍がそれぞれ防衛にあたってくる。対して、第三国が日本からの攻撃に備える場合、自衛隊のみを想定すれば良い、また、アメリカからの攻撃に備える場合においても、自衛隊の戦力は考慮の外において良い。すなわち、防衛の場合と攻撃の場合とで、戦力に差があるのだ。となれば、第三国は過度に「日本を警戒」して軍拡をする必要はなく、アメリカと争う場合のみアメリカを主眼において自軍を強化すれば良い。これが「日米安保条約の抑止力」である。しかし、日米同盟の強化となればどうなるか?自衛隊アメリカ軍が一体となって作戦行動をする頻度が増えれば、当然脅威の対象は「日本だけ」でも「アメリカだけ」でもなく、「日米同盟」になる。東アジアにおける影響力をアメリカと争っている某国からすれば、その違いは大きいだろう。抑止力というよりは軍拡競争になってしまうおそれも十分あるのではないか。

国際貢献

だんだん疲れてきたので簡単に述べる。国際貢献は軍事的貢献に限らない。最近よく「日本は汗を流さない」というフレーズが聞かれるが、アフガン復興支援、PKO等、日本人が現地にいって汗を流している事例は枚挙にいとまがない。では、何を流していないかといえば、「血」にほかならないだろう。「日本人も汗を流せ」というフレーズは確かに聞こえはいい。しかし、それが「日本人も血を流せ」となれば、どうだろうか?

湾岸トラウマは誰のトラウマか?

また、この問題に関してよく耳にするのが湾岸トラウマという言葉である。湾岸戦争の際、日本が多額の援助を出したにもかかわらず、クエートが戦後だした感謝決議において、日本が含まれていなかったというものである。しかし、これはその「多額の援助」一兆円超のほとんどがアメリカに行き、クエートに入ったのは僅か6億円だったことも要因であると言われる。クエートはアメリカの軍事活動を通して日本の援助の大部分を間接的に受け取ったので、アメリカにお礼をいい、アメリカが日本にお礼を言った。それだけのことである。
そもそも、このトラウマとやらは誰にとってのトラウマなのだろうか?一生懸命お金を出したのに感謝されなかったと嘆く日本国民がいるだろうか?感謝を受けなかったことでショックを受けるとしたら、外務省か時の政権だろう。すなわち、巨額の援助に対して自分たちが想定していた見返りを得ることが出来ず(外交政策の失敗)、それを「汗を流さない自衛隊」という図式に転化、矮小化することで責任のがれをしているに過ぎない。

日本の様々な「汗を流した援助、支援」を拡大し、その成功を「日本にしかできない国際貢献」として世界に示していくというのは、理想論に過ぎないのだろうか?

*1:政府案より厳格な要件ではあるものの、集団的自衛権の領域を超えていない。もし個別的自衛権と言い張るならば、国際法上も違法とされる先制的自衛権にあたる。

業務上過失を殺人に繰り上げるためのハウツー

具体的にどの事件のことを扱っているか言ってしまうと色々怒られそうなので、以下に仮想事例を挙げてみよう。

「客船の船長であるAは、自身が監督する船が事故により転覆した際、乗客を救う等の措置をとることなく、真っ先に船から逃げ出した」

このような事例で、どのように殺人罪を構成するのか。今回は日本の刑法をベースに考えてみる。

第一の関門、作為性

まず問題となるのは「人を殺した」といえるだけの行為があったかどうかである。例えば、意図的に船を転覆させたり、避難しようとする人を押しのけて自分が逃げ出し、結果その人を死なせてしまった場合は「人を殺した」と言いやすい。
しかし、沈みゆく船から何もせずに逃げ出したことを「人を殺した」と評価することが出来るだろうか。

真っ先に思い浮かぶ解決策としては、「助けることが出来た人を見殺しにしたら殺人だ」という結論である。
しかし、
「昨日あなたが募金箱に金を入れるのを渋ったがために、アフリカで幼児が1人亡くなった」
として、あなたは殺人犯だろうか?おそらく違うだろう。

となると、「人を殺した」と評価するにはもう少し絞りが必要となる。それが次に来る義務の問題だ。すなわち「あなたにはこの人の命を守る義務があります。それを怠ってその人を死なせてしまった場合には、それは殺人と同視されます」というレベルの義務がある人には、義務違反によって殺人罪の行為性を肯定できる。

第二の関門、義務

助けることが出来た人を見殺しにすることを「殺人」と評価しうるだけの義務がどのような人に課せられるかは、国によって異なる。
海水浴場で子どもが溺れていたとする。彼が死ねばいいと思いつつ彼を助けないことで殺人扱いされるのはどこまでか。
1「彼の母親」2「海水浴場のライフセーバー」3「溺れていることに真っ先に気がついた赤の他人」
日本の場合、様々な事情を考慮するものの大体1〜2の間あたりに基準があると考えられる。業務契約があるから即座に重大な義務を負わされる、とは限らない。タクシー運転手が車の安全点検を怠った結果乗客を死なせても、おそらく殺人罪は成立しない。

では、船の船長はどうだろうか。船長は法令上も乗客の命を預かる立場である。また、事故の際には自ら指揮をして避難を誘導する義務もある。しかし、それが「怠った場合には殺人と同視される程の義務」といえるかどうかは国や文化によっても判断が分かれるだろう。

第三の関門、故意

次に、殺人の故意の問題がでてくる。殺人の故意とは、日常用語でいえば「殺意」に近いものがあるが、殺人の故意の概念はもう少し広い。例えば、「このままこの狭い路地を車で突っ切ったら、もしかしたらあの人をはねて殺してしまうかもしれない。でもまぁいいか」という「可能性のレベルでの結果の認容」もギリギリ故意と認められる。しかし、「この狭い路地を車で突っ切ったら、万が一人が飛び出してきた場合には非常に危険である」という「危険性の認識」ではギリギリ足りない。この際どいラインのどちら側に入るかで、過失と故意が分かれるのだ。

では、船長は乗客の死を認識していただろうか。「自分が真っ先に逃げたら人が死ぬ。でもまぁいい」と考えていたと推定出来るだけの状況があったのかどうかは、事実認定次第である。

第四の関門、結果回避可能性、期待可能性

さらに、問題は残っている。結果の回避可能性と、期待可能性の問題だ。
まず、刑法は不可能なことを人に強いない。泳げない母親が溺れる我が子を助けなかったとしても、自分の命を捨ててまで子を助けることまでは要求できない。また、助けようとしたところで助けられなかったであろう場合に、「助ける努力をしなかった」ということだけを理由に処罰を科すこともない。

本当に船長が残って指示をしていれば助けられた命があったのか、また、船に残った場合にも船長は命の保障があったのかどうかという点にも、きちんと判断すべき争点が存在する。

以上4つの問題をクリアして初めて、救助義務違反の船長を「殺人罪」で罰することが出来るのである。



また、実は日本では生じない問題もかの国では生じる。
例の事件での求刑は死刑である。しかし、実はあの国はアムネスティの分類においては「事実上の死刑廃止国」ということになっている。
あの国では、死刑制度自体は残っているものの、死刑の執行も、死刑の宣告も十年以上行われていないのである。
死刑判決を下すということは、その十年の「先進国の仲間入りをするための努力」をぶち壊すということである。
すなわち、裁判所があの事件で検察の求刑通りの罪を言い渡すためには、先程上げた非常に際どい4つの関門に加え、人権上の巨大なハードルを一つ超えねばならないのだ。

集団的自衛権と日本国憲法について

私は憲法の専門家ではないため、憲法に関しては素人に毛が生えた程度にしか理解していない。それゆえ、本記事も解説や分析というより、私自身の疑問を書くことになると思う。

そもそも自衛戦争とは

誤解の多い点だが、そもそも国際社会でも侵略戦争は禁止されている。国連の加盟国は国際紛争を交渉や司法などの平和的外交手段によって解決することが義務付けられている。つまり、現在の国連成立後の戦争はすべて「一応は」自衛戦争の建前を持った戦争である。もちろん、それは戦争を始めた国の言い分であって、イラク戦争のように国際社会の多くがその正当性について疑いを持っている戦争もある。というか、イラク戦争に関しては米国内ですらアレは正当な戦争ではなかったという主張がよくなされる。にもかかわらず、「平和主義」を掲げながらあの戦争に加担した日本の国内ではあまりそういう議論を聞かないのは不思議な事だ。
いずれにせよ、現代の「戦争」(地域紛争への武力介入などはまた扱いが微妙なので除く)は基本的に自衛戦争である。

集団的自衛権とは

集団的自衛権がどういうものかについては、芦部先生の言葉を借りよう「自衛権には、個別的自衛権国連憲章で新しく認められた集団的自衛権の二つがあるが、後者は、他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利であり、日本国憲法の下では認められない。日米安保条約の定める相互防衛の体制も、日本の個別的自衛権の範囲内のものだ、と政府は説いてきている。(芦部,2011,p.60)*1
自分の国が実際に脅威に晒されていなくても同盟国等が自衛権を発動するときにはその脅威に対して共同で対処できる権利である。今回解釈改憲の対象とされようとしているのはここだ。

何が問題になると思われるか

ここからは、私の疑問である。もしかするととっくに言われていることかもしれないし、既に答えの出ている問題かも知れないが、ご容赦願いたい。また、それ以前の問題として解釈改憲集団的自衛権を容認することは無理であり、また外交的な意味でもマイナス面しかないというのが私の立場であるが、それを踏まえた上での疑問であると言うこともご理解願いたい。
先程述べたとおり、現代の国際社会における戦争は程度の差こそあれすべて自衛の目的をもって行われる戦争である。しかし、その自衛の程度については各国間でかなり大きな開きがある。そして、おそらくその差が最も大きいと思われるのが日本の自衛基準と米国の自衛基準である。
まず、アメリカという国がどれだけ他国の戦争に首を突っ込む国かはもはや常識のレベルであろう。イラク戦争にしても、かなり強引な「自衛」の建前のもと武力攻撃に踏み切った。一般的に自衛権行使には必要性・違法性・均衡性の三要件が必要であるとされるが、ここに関してもかなり適当な国であると言わざるを得まい。
対して、日本の自衛権行使の基準は非常に厳格である。いまだにミサイルが実際に着弾してからでないと自衛権を行使できないのか、それともほぼ確実に当たるとわかった時点で自衛権を行使できるのかというレベルで議論がなされている国であるから、その厳しさは他国の比ではない。
二国間の自衛権行使基準の差を際立たせるものとして、先制的自衛の可否がある。アメリカの理解では、自衛権の行使に必要な「武力攻撃」とは、武力攻撃の脅威で足り、それが認められさえすれば自衛権を発動して良いとしている。イラク核兵器を製造しているという理由でイラクに攻め込むことが出来たのはそれが理由である。(結局イエローケーキは存在しなかったわけだが)対して、先程述べたとおり、日本は現実に武力攻撃が発生しなければ自衛権は発動できない。実際に実害を被らないと反撃できないとする見解もあるくらいである。
となると、問題となるのはこの二国における集団的自衛権の際、どちらの理解で集団的自衛権は発動されるのかということである。

パターン1 日本の自衛基準における集団的自衛権行使

アメリカに対する武力攻撃の脅威に対しても、実際に武力攻撃がなされなければ集団的自衛権は行使できないと解する。
これは比較的平和的な方の集団的自衛権解釈である。日本の基準に基づき、実際にアメリカが武力攻撃されたら日本もアメリカと共同して防衛をするということになる。もちろんこれですら現在の憲法の規定からすると不可能に近い読み方であるし、ないによりこうやって少しづつ自衛権の範囲をちまちま広げようとするのは卑怯であるとも言えるだろう。また、アメリカが先制的自衛権を発動し、それにたいする防衛行動として相手国がアメリカの基地を攻撃する等した場合には日本は集団的自衛権を発動するのかどうかといった問題はなお残る。

パターン2 米国の自衛基準における集団的自衛権行使

アメリカへの武力攻撃の脅威に対しては、アメリカが脅威を認め、自国の自衛権を発動した時点で日本も集団的自衛権を発動できると解する。
これはかなり危険である。先程述べたとおり、基本的にすべての戦争は「自衛戦争」であるため、アメリカの戦争のほとんどに日本は集団的自衛権を発動する可能性を持つことになってしまう。また、アメリカが日本への脅威に対して集団的自衛権を発動するのは日本の基準に基づくことになるため、日本は自国に対する自衛権よりも米国に対する自衛権の方が広く認められるというおかしな自体になる。その先に待っているのは、間違いなく個別的自衛権の基準の見直しであろう。そこまでくると、9条は実質的な意味を完全に失うことになる。

と、ここまでが私が抱いた疑問である。
そもそも論として日本と同じくらい平和的な国と「万が一の時のために」相互防衛協定を結ぶならまだしも、世界の喧嘩屋のために集団的自衛権を認めるメリットがおよそ日本にあるのかなど、疑問は絶えないがとりあえずはここまでにしておこう。

*1:芦部信喜憲法(第5版・20011・岩波書店

刑事訴訟法的に職務質問のハウツーを考える

たまにネットの書き込みなどで職務質問との闘い方的なハウツーを見かけます。しかし、そのどれもが少し乱暴に法律や判例を解釈しているせいで、実際にやると本人に思わぬ不利益をもたらす可能性があるので、今回は刑事訴訟法的に正しい職務質問のされ方について考えてみましょう。
先に断っておくと、結論は「逆らわず協力しとけ」に終始するので、面白おかしい警察とのバトル方法を知りたい方は、2ちゃんねる辺りで「職務質問」と検索なさることをおすすめ致します。

まず、職務質問とはなんでしょうか。警察官職務執行法二条一項は「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪をおかし、もしくは犯そうとしていると疑うに足る相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者を停止させて質問させることができる」と規定しています。この法律を根拠として警察官が挙動不審者を停止させて行う質問が職務質問です。その場で職務質問を行う事が本人にとって不利であったり交通の邪魔になると認められる時は、付近の警察署、派出所、駐在所に同行を求めることができます。

上記の総ては任意において行われるものであり、対象者の意思を制圧して行うことはできません。なぜなら、そのような処分は強制処分と呼ばれ、原則として令状が必要となるからです。(例外は現行犯逮捕等です)従って、令状が要求されない職務質問は強制処分ではありえません。

では、相手の承諾なしには、職務質問に伴って停止させたり、所持品を検査する行為は一切許されないのでしょうか。もしそれが厳格に許されないと解すると、本当に捕まえるべき「アヤシイ」人物は当然断ってさっさと歩いて逃げてしまいますね。よって、一般的に学説や判例では(一部の例外を除き)一定の「有形力」つまり物理的な力の行使を認めています。

では、この「有形力」の行使が何処まで認められるかというと、実は事案によって異なります。それは恣意的な運用がされているという意味ではなく、相手の行為態様やその場の状況によって何処までの有形力を行使していいかが変わるのです。
例えば、近くで殺人事件があり、道を歩いていた男性に職務質問をしようとしたところ、相手がすぐに振り返って走って逃げたとしましょう。このような場合、判断にもよりますが相手の前に立ちふさがったり肩に手をかける程度の有形力の行使程度は大抵認められています。
つまり、1)関わっていると疑われる「何らかの犯罪」の重大性と2)その嫌疑の強さが強まるにつれ、使う事のできる有形力の大きさも変わるのです。よく見る「ここまでされたら違法なので云々」みたいな職務質問ハウツーは、ここが間違っている事が多いです。個々具体的な事案に即して妥当な判断をするので、態様の外形だけでは警察官の職務規定違反とはいえません。

では、これに基づいて「正しい」職務質問の応対の仕方を考えてみましょう。
まず、所持品を見せるのを頑なに拒む、「警察官職務執行法」を振りかざすといった所謂職務質問ハウツーに書かれているような行為は、違法薬物所持の嫌疑を強め、警察官の側から有形力を行使する(たとえば、ポケットを上から触るなどは認められるケースが多いです)口実になります。よって必要最低限の協力的態度を取ることが大事です。上記職務質問も趣旨を考えると「なにしてるの?」「どこ住んでるの?」くらいまではキチンと答えるべきでしょう。
しかし、協力的な態度をとった上でも横暴な警察官というのは居るものなので、そういう場合には逆にキチンと警察手帳の提示を求め、近くの警察署に連絡をしましょう。その際、相手の手を払いのける等、相手に触れるような反抗はしないこと。公務執行妨害はそもそもの公務が「正当な公務」であることが認められないと適用できない法律なので、裁判まで行って公務の違法性が認められて逆転無罪というケースもあるにはあるのですが、今の日本では逮捕されるという事実が社会的に大きなダメージとなりうるので、そもそも手を出さないほうが賢明です。

とまぁ、キチンと法律にのっとった解決法を書くと、かなりアタリマエかつ普通の対処法になります。ネットなどでみかける警察官と(物理的な意味ではなく)格闘してる動画のように「あからさまに怪しい行為」をする人間と同じ感覚で職務質問を受けると痛い目見ることもありますのでご注意ください。



でも、やっぱムカツクよねぇ、なんかタメ語だし。

科学主義と刑事政策 Evidence basedの罠

死刑の是非を語る上で、どうしても外せないのが死刑の抑止力の議論である。今回死刑の抑止力とその実証的研究について語っても良いのだが、じっくりとやりたいテーマでもあるので、それ自身は今後に回すとして今回は科学主義そのものについて少し述べておきたい。

一般抑止効果を測るということ

結論から言おう。死刑の一般抑止効果、つまり刑罰によって一般人に犯罪を思いとどまらせる効果は、科学的、統計学的に証明されていない。
誤解のないように言っておくが、抑止力がないという事も証明されていない。犯罪統計の暗数、統計上発露しない多数の変数の存在など、死刑と犯罪を結びつける統計は非常に難しいのである。

科学主義は総てに優先するか

純粋な科学主義に立った場合、死刑の効果が科学的に証明されていない以上、根拠なく人の命を奪うことは許されない。科学主義=死刑廃止なのである。

当たり前のことだが、刑事政策に限らずあらゆる政策、経営判断も含めて、その全てを科学的証拠に基づいて物事を決めるなんてことは不可能である。とはいえ、人はどうしても物事をシンプルに理解したがる。そういった視点も大切であることは否定しないが、わかりやすい正しさばかりを追い求めては見えてこない本質もあるということを忘れてはならない。

刑事訴訟法475条二項但書の読み解き

平田容疑者の出頭

年明けのトップニュースといえばこれに尽きるだろう。すでに様々な報道がなされているが、今回は平田容疑者の出頭の理由ではないかとも疑われている、死刑執行の遅延について着目したい。

刑事訴訟法475条の基礎知識

刑事訴訟法475条
一、死刑の執行は法務大臣の命令による
二、前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

このブログの読者がどの程度の法律知識を持っているかは不明(そもそも読者がいるかどうかという疑問もあるが、定期的に回るカウンターから見ている人は居ると推定したい。)であるので、簡単に条文の構成から解説しよう。
まず、475条の下にあるのが一項二項と言う括りである。条文によっては、この下に号という、列記、列挙に用いられる項目があることもある。*1
さらに、項の文章のなかに但書と呼ばれる、後段の文章がある。475条二項の場合、「但し、」以下の文章がこれに当たる。この場合は丁寧に「但し」と断りがあるが、これがない場合も例外等を示す後段の文章は但書と呼ぶ。
この但書が今回のテーマである。

刑事訴訟法475条の趣旨

そもそもの本条の趣旨は、刑事訴訟法472条の「裁判の執行は、その裁判をした裁判所に対応する検察庁の検察官の指揮のみをもっておこないうるもの」という裁判の執行指揮に関する原則規定の例外規定である。死刑が人の生命を奪い極刑であり、一旦執行されると回復が不可能であることから、その執行手続を特に慎重にし、法務の最高責任者たる法務大臣において死刑判決にたいし改めて再審、非常上告等の非常救済手続をとる必要の有無を確かめ、また中央更生保護審査会の審査を通じた恩赦をすべきかどうかを調査した上で執行をするための規定である。
同時に、本条二項により、原則として判決確定の日から六ヶ月以内にしなければならないという期限を付して、確定判決がいつまでも執行されないまま放置されないようにしたものである。この規程は、いつまでも死刑執行の命令をせず、恩赦を与えることもなく、長期間にわたって死刑確定者に不当に死への恐怖を与え無い為と、法的理由なくその執行をいつまでも遅延させることを確定判決尊重の観点から防止するためのものである。なお、前者の立法趣旨に関しては、団藤教授をはじめとする死刑廃止論の学者からは疑問とされている。

刑事訴訟法475条2項と法務大臣の問題

ニュース等でご存じの方も多いだろうが、この刑事訴訟法475条2項は全く守られていない。基本的に法務大臣がサインをするのは6ヶ月をゆうに過ぎた死刑確定者ばかりであり、6ヶ月以内に執行されることはない。この条項自体が、「訓示規定」つまり、いつまでも執行を遅らせるなという訓示を示したものに過ぎないと解する人もいる。(というか、そう解さないと法務大臣の行為は違法である。)また、再審無罪のニュースが飛び交う中で、執行に慎重を期すこと自体はそもそもの立法趣旨には反しないので、それほど大きな問題とはならない。

刑事訴訟法475条2項但書

やっと今回の本編である。まず、本項但書の条文を素直に解すれば、本項所定の期間をこの六ヶ月の期間に算入しないとあるだけで、その間における執行命令を禁ずるものではない。しかし、執行を差し控える法的理由がある場合にその執行を命ずる限りではないことは当然と言える。
実は、これに関連した高等裁判例がある。本条二項但書に「共同被告人であったものに対する判決が確定するまでの期間」は執行命令の原則的期限である六ヶ月に算入しないとあるが、共犯者が未逮捕の場合はその規定を必要としないとする。(大阪高判昭28・5・19高判特28−30)
また、恩赦出願や再審請求についても、それによって何時までも死刑が先延ばしになる事例があるために、三回以上行われていた場合は、請求中であっても死刑の執行が行われる運用体制になっている。

平田容疑者の出頭と死刑執行

では、平田容疑者の裁判中に松本智津夫の死刑を執行できるか。平田容疑者が裁判にかけられる事件とは別の事件で死刑が確定している松本智津夫は、平田容疑者の裁判によって死刑判決がひっくり返ることはありえない。よって、平田容疑者の裁判に松本智津夫の証言が必要となるか否かが問題であるといえる。しかし、ニュースなどを見る限りにおいては、彼は証言など出来る状態ではないようである。つまり、厳密に言えば松本智津夫の死刑を回避する法的理由は薄いといえる。もちろん、条文の規定の趣旨と、現状の運用方法を鑑みると、このタイミングで死刑を執行するとするならばかなりの政治的意図が働いていると言わざるを得ない。

内閣改造の影響

先日新内閣の顔ぶれが発表され、一年間死刑の執行の無い年を作った平岡氏が、小川法務大臣と交代になった。小川氏は元検察官である。防衛大臣や副総理の人事ばかりが注目されているが、この法務大臣にも野田総理の大きな意図を感じる。

*1: 憲法第七条なんかがわかりやすい