鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Damien Hauser&“Theo: Eine Konversation mit der Ehrlichkeit”/傷つけ傷つけられ、今ここに立って


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ネットにおいて常に議論されているものの1つと言えばセックスだろう。中でもセックスにおける“合意”についての議論は激しいもので、その複雑な議論に疲れ果てたのか“じゃあ全部レイプじゃないか!”と思考停止に陥っている人々も少なくない。だが今回紹介するケニア系スイス人監督であるDamien Hauserによる第2長編“Theo: Eine Konversation mit der Ehrlichkeit”はこの議論に一石を投じながら、さらにその先へと進んでいく力強い1作となっている。

今作の主人公はジミー(Jakob Fessler)という18歳の青年だ。彼はなるべく早くセックスをして童貞を卒業したいと熱望していたのだが、とうとうその時がやってくる。友人たちと赴いたクラブで彼はタマラ(Julia Tremp)という少女と仲良くなり、自宅でセックスをすることになる。だがそのセックスはジミーは初めての経験に有頂天になりながら、タマラは拒否の言葉はなくとも無言で視線を逸らし、早く終わってほしいという雰囲気でやり過ごすとそんなスレ違うものとなってしまう。こうして童貞を卒業したジミーははしゃいでこの経験を言いふらしていたのだが、タマラはセックスなんかしたくなかったと発言、これが原因でジミーは“レイプ魔”として学校中から非難されることになる。

こうして本作は長く険しいセックスへの思考を始めることになる。このレイプ事件に対して周囲の人物はやれジミーは最低の人間だ、やれタマラは無実の青年を陥れているなど身勝手な憶測を重ね、事態は悪化の一途を辿っていく。その渦中で当事者であるタマラはあれはレイプだったと結論づけながら、ジミーはレイプしていないと否定の一点張りだ。しかし裁判の場でタマラはセックスの拒否を言葉で示さなかったと正直に証言、これが決め手となってジミーは一応罪を逃れるのだったが、収まらぬ大衆の暴走によって精神的に追い詰められ、友人たちや家族と絶縁することにもなってしまう。

だがここから物語は思わぬ方向へと進んでいく。ジミーが自暴自棄のままに大麻を吸っていると、部屋にテオという瓜二つの男が現れる。彼はジミーの本心を司る存在らしく、レイプ事件は勿論、世の事象全てに対して歯に衣着せぬ発言を彼に対してとにかくブチ撒け、2人は自然と口論を繰り広げることになる。一方で彼はレオナ(Fayrouz Gabriel)という女性とも出会う。彼女はジミーが居候する部屋、その持ち主の娘であり、実は昔デートしたこともあった。大麻を通じて仲を深めるなかで、フェミニストであるレオナの言葉からフェミニズムについて学んでいき、凝り固まった自分の考えを解きほぐしていくことになる。

序盤は主にレイプ事件をめぐる大衆の煽動や社会の動静を大局的に描きだすものだったが、この2つの出会いをめぐる中盤はジミーという1人の青年の心を追う、より個人的な物語になっている。レオナという他者、そしてテオという自己との会話を重ねていき、彼は少しずつ誠実で正直な対話とは何かを学んでいく。こうしてジミーは自分に問わざるを得なくなるのだ。あれはレイプだったのか? もしレイプだったとするなら、だが何故タマラは何も言わなかったのか?

ここにおいて監督が見据えるものの1つが挿入主義の問題である。社会においては“セックスは性器を使う行為であり、特に異性愛者のセックスではペニスにヴァギナを挿入することが普通”とされている。日本語においては挿入行為が“本番”と呼ばれている部分に、その価値観が現れているかもしれない。こういった挿入の特権化/神格化は様々な形で人々を傷つけている。例えばジミーは“挿入=セックス”という思いからタマラに迫り、結果としてこういった事件が起こってしまう。そして事件後のジミーがそうなるように、ペニスを勃起させなければという思いに晒され精神的に追い詰められるという男性も少なくないだろう。勃起不全を興醒めと揶揄する女性も劇中には現れる。こうして性的不満が高まりレイプなどの事件が引き起こされるのではないか? 監督はこのように挿入主義を鋭く批判するのだ。

ここからは今作の演出についても見ていこう。こうも重苦しい、繊細に扱うべきテーマの数々を今作は持ち合わせているのだが、その演出は驚くほどに軽快で、娯楽的なロマンティック・コメディの様相すらも呈している。そしてその雰囲気も現実的には程遠く、むしろ現実離れした描写は数多い。例えばジミーの引き起こした事件がレオナにバレるという場面、シリアスなものになるとの予想は容易い。だが実際は一緒に大麻をスパスパ吸ったら、何故かレオナにテオが見えるようになってしまい、その勢いでテオが彼女に事件をバラすというシリアスもクソもない展開となっている。というか重要人物であるテオの存在自体がかなり大麻の妖精然とした妙なものであるわけで。

実は彼の前作“Blind Love”は鉄腸ブログで既に紹介済みである。Hauserのルーツであるケニアを舞台にした、目の見えない少年と耳の聞こえない少女の恋愛を描くロマコメ作品なのだが、これがなかなかブッ飛んだ映画だった。こっちも途中からかなりシリアスな展開になりながら、演出自体は驚きの軽快さが一貫しており、今作ではそれがさらに激化している。私はこの軽快さを観て、フランスのディアゴナル一派の1人ポール・ヴェキアリPaul Vecchialiを想起した。彼は殺人衝動や児童性愛など、人間心理のドス暗い部分を主な作品のテーマにしながら、その倫理劇をビビるくらい軽快な演出で描きだしていた。この作風を“Theo”を観ながら想起したわけだ。

しかし世代が大きく違えば、その内実も大きく違ってくる。ヴェッキアリは根底において人間を信じていないような虚無的な態度が濃厚で、愛といった概念への皮肉もなかなか辛辣なものがある。全てをどこかで小馬鹿にしている印象すらある。一方でHauserは演出自体はヴェッキアリさながら遊び心マシマシだが、人間、そして特に愛に対する誠実さは果てしない。その途方もない複雑さをあるがままに抱こうとする姿勢に感動すらも覚えてしまうほどだ。

このような驚くほど軽快な演出を後ろ盾として、序盤においては社会への洞察、そして中盤においては個の心への洞察が綴られるが、本作の終盤ではこれらが常に入り乱れ、衝突を繰り広げることになる。今まで描き出されてきた全ての要素がここに集結し、ジミーという1人の青年を突き動かし、そして私たち観客は予期せぬ場所へと導かれることとなる。今作の題名は“正直さを伴った対話”と、そして“正直さとの対話”を意味している。この両方を同時に突きつけてくる終盤は正に圧巻の一言だ。“Theo”はセックスを中心として、社会を取り巻く無数の問題を描きださんとする野心に満ちた作品だ。あまりにも繊細で、あまりにも軽快、そしてあまりにも誠実だ。

最後に監督について少し書いていこう。Hauser、実は2001年生であり現在でも弱冠23歳、しかも今作の制作時には21歳だったそう。いやさすがにその若さにはさすがに眩さを覚えたし、Z世代はこういう映画を作るのか!という興奮もあった。さらに彼は多作な監督であり、今のところ毎年一本は長編を制作している。今作は2022年にプレミア上映が成されており、2023年には次回作“Baada ya masika”が既に完成&プレミア済みで、今年のロッテルダム国際映画祭でも上映されている。今作はヨーロッパで俳優になる夢を持つアイシャの物語を描いており、デビュー作“Blind Love”に続くケニア舞台の作品となっている。

こういうことを調べている中でビビってしまったが、実はその新作、監督制作脚本撮影編集音響キャスティングの全てをHauserが担当しているようだ。“Theo”も脚本と編集を兼任してはいたが、新作はそれどころの話ではない。全くとんでもねえ才能が突如爆誕してしまって、映画紹介者の私も嬉しい悲鳴だ。ということでHauserの今後に期待!

Hachimiya Ahamada&“Zanatany, l'empreinte des linceuls esseulés”/コモロ人たちの、その歴史と今と

さて、コモロ連合である。インド洋上、モザンビークマダガスカルという国に挟まれたこの連邦共和制国家の島国、日本ではあまり知られていない国かもしれない。斯く言う私も知られざる国の映画を探求する過程で、名前だけは知っていたのだが、肝心の制作映画は見つけることができずに時間が過ぎていた。だが私はとうとうコモロ連合映画作家によるコモロ連合映画というものを発見することができた。そしてその映画はコモロ連合の現代史を描きだす力強い作品であった。ということで今回はこの国の映画界を背負う映画作家 Hachimiya Ahamadaと彼女の短編作品“Zanatany, l'empreinte des linceuls esseulés”を紹介していこう。

まずは少し、映画にも関わるコモロ連合の独立について書いていこう。1975年7月6日、コモロ諸島のグランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島はフランスからの独立を宣言、ここにコモロ連合が誕生することになる。しかし独立から1ヶ月もたたずクーデターが勃発、早くも政権が崩壊してしまう。ここからクーデターが頻発、常に不安定な状況が続くことになる。ゆえに故郷であるコモロ連合から離れ、マダガスカルなどの周辺諸国に難民として移住する人々が多く現れる。これが“Zanatany”の背景となる状況である。

今作の主人公であるアリ(Soeuf El badawi)もまた不穏な情勢が広がる故郷を離れて、娘や妻とともにマダガスカルへと移住してきた難民の1人だ。彼はある町の製本工場で働くことになるのだが、その技術を買われ難民としては破格の待遇を手に入れることになる。娘にも恋人ができるなど、家族は少しずつマダガスカルでの生活にも慣れていき、いつの間にか平穏な日々を享受するようになっていた。

まず映画はこういったアリたちの日常をゆったりとしたテンポで描きだしていく。アリが工員たちに製本作業について指南していく、家族で町中を他愛ないお喋りをしながら歩いていく、隣人たちのちょっとしたトラブルを仲裁していく……Thibaut Verlyによる編集はとても緩やかで繊細なものであり、彼が紡ぎだす流れを見ているとまるで白昼に心地よく微睡むような感覚をも抱くことになる。

さらにCharlotte Michelによる撮影もまた繊細で美しいものだ。彼女が映し出す風景には、フィルムの粒子1つ1つに太陽光が練りこまれていると、まるでそんな暖かみが宿っている。この映像とVerlyの編集が交わりあう中で、アリたちの些細な日常はより切実さを以て迫ってくる。私たちは言葉よりもまずイメージからこそ、アリたちが手に入れた平穏さが本当にかけがえのないものであることも体感するだろう。

しかしその一方で、町には不穏な雰囲気もまた漂い始めていた。情勢不安がゆえに大量び流入してくるコモロ人たちに対して、マダガスカル人たちの不満が噴出しだしていたのだ。アリが勤める製本工場でも、コモロ人に仕事を奪われたとマダガスカル人たちが抗議活動を繰り広げていく。そしてここで不満の槍玉に上がったのが、難民でありながら出世を果たしたアリだった。有無を言わさず騒動の渦中に投げこまれたアリは苦悩するのだったが……

移民の流入による排外主義の隆盛とは、いつの時代にも起こってしまう普遍的な社会問題だろう。特に北欧における中東からの難民流入による激烈な反イスラム感情、日本におけるクルド人労働者への差別など、今正に起こっている排外主義の問題だけでも枚挙に暇がない。今作はそれが1975年以降にコモロ連合マダガスカルの間で起こっていたと描きだしていく作品だが、コモロ連合独立後の動乱と国家の荒廃、フランスによる植民地支配による余波と分断など、この地域固有の要素がそこに織りこまれていく。Ahamada自身による脚本はこうして個人と社会の動き両方を丁寧に捉えていきながら、物語を展開していくのである。

そして労働問題に端を発したストライキは、コモロ人への憎悪を取りこんでいきとうとうマダガスカル人による暴動へと発展していくことになる。町では暴力の嵐が吹き荒れ、コモロ人たちが次々と殺害されていく。その様はもはや虐殺だ。アリは虐殺の巷を駆け抜け、マダガスカル人たちから逃げ惑いながら、必死に家族を見つけ出さんとする。

ここで印象的なのは、先述した心地のよい撮影と編集はそのままであるということだ。白昼の微睡みのようなゆったりとしたテンポ、太陽光の編みこまれたような美しい風景、その中にフッと、破壊された建物や虐殺されたコモロ人住民たちの死体が映しだされる。こういった乖離は衝撃的なものだ。あの平穏さがそれこそ白昼夢と化して、雲散霧消してしまったとそんな恐怖すら抱かせる。かけがえのない日常というのは、斯くも容易く殲滅させられてしまうものなのかと。

今作においてAhamadaは撮影や編集など技術の巧みな統合と、繊細かつ大胆な語りによって、コモロ連合とこの地域の血塗られた歴史を力強く描きだしていく。アリは虐殺によって家族も友人も失いながらも、自身は生き延びることとなる。物語は2022年まで生き長らえた彼の姿を映し、幕を閉じる。最初に観た際、この2022年のアリの描写は果たして必要なのかと訝んだ。しかし老いた彼の姿には、起こってからもうすぐ50年が経つ虐殺、それを語れる人々が少なくなっているという厳然たる事実を思わざるを得ない。そんな中で、この歴史を語り継いでいくこと。今作からはAhamada監督のそんな強靭な意志をも感じさせる。この意味で“Zanatany, l'empreinte des linceuls esseulés”は必見である。

最後に監督のHachimiya Ahamadaについて紹介していこう。彼女はコモロ連合にルーツを持つフランス人監督であり、これゆえ映画によってコモロ連合を描くという活動を行っている。例えば2008年制作の“La Résidence Ylang Ylang”は現代のコモロ連合が舞台、所有していた小屋を火事で失い、住む場所を探し求める男についての作品だそうである。そして新作“Zanatany”の紹介ページには、こういった文章が記されている。

“映画を通じてコモロディアスポラの様々な軌跡を描きだす、そんな活動の続きがこの作品でもある。Ahamadaはフィクションを作ることと現実を観察することの狭間で、ある1つの世界を築きあげていく映画監督なのだ。そこにおいて、語りというイシューや形式の提示こそが自身のルーツとの関係性をより深いものにしていくのである”*1

様々な形で挑戦を続けながらコモロ人ひいてはコモロ連合という国それ自体を描きだそうとしているAhamadaの今後から目が離せない。

Vladimir Bitokov&“Deep Rivers”/カバルダ・バルカル共和国、その現在

さて、カバルダ・バルカル共和国である。ロシア連邦の構成国家の1つであるこの国から、近年新たなる才能が多数現れている。例えば日本でも「戦争と女の顔」が公開されたカンテミール・バラーゴフ、さらにカンヌ国際映画祭ある視点部門で作品賞を獲得、その後に日本でもJAIHOで配信がなされた「アンクレンチング・フィスト」キラ・コヴァレンコ Кира Коваленкоが有名だろう。彼らはカバルディーノ・バルカリア国立大学にアレクサンドル・ソクーロフが設立した演出ワークショップに参加し、ここから世界へ巣立ったわけだが、今回は彼らに並ぶカバルダ・バルカル共和国の新鋭であるVladimir Bitokov (ロシア語表記:Владимир Битоков)と彼の初長編“Deep Rivers”(ロシア語原題:“Глубокие реки”)を紹介していこう。

今作の主人公はベスとムハ(Rustam Muratov & Mukhamed Sabiev)という兄弟である。彼らは父親(Oleg Guseinov)たちとともに人里離れたコーカサスの山奥に住んでおり、そこで木こりとして働きながら生計を立てる日々を送っていた。孤独な生活ではありながら、自給自足ゆえに食うには困っておらず、この生活は永遠に続くと思われていた。

監督はまず家族の仕事ぶりを丹念に追いかけることで、物語を紡いでいく。険しさの極みたる山岳地帯、そこでの生活に順応するためベスたちの体躯は隆々として巨大だ。彼らはその逞しい腕で以て斧を振るい、彼らよりもさらに数倍の大きさである木を伐り倒していく。伐採作業の末、巨木が轟音を立てながら倒れる姿は圧巻だが、男たちには日常ゆえ平然とその様を眺めるのみだ。家でもナイフの手入れなどを欠かすことはなく、常不断彼らは山の男であるといった風だ。

ここにおいてAleksandr Demianenkoのカメラは徹底したリアリズムを以て、カバルダ・バルカル共和国の雄大な自然を映しだしていく。隆起に隆起を重ねた地形、そこに巨人の腕さながら突き立つ無数の木々、果てしなさに過ぎて恐怖すら覚える白い空。さらにそれらが映る画面は常に青みがかっており、そこに広がる全てを覆い尽くすような凍てが何よりも網膜にこそ肉薄してくるのだ。観客は戦慄とともに、畏敬の念すらも覚えざるを得ないだろう。

ある日、作業中に事件が起こる。父親が誤って重傷を負ってしまったのである。大黒柱を失ってしまったベスとムハは、労働力を補うために都市部に移住していた三男マロイ(Takhir Teppeyev)を呼び戻さざるを得なくなる。故郷に帰ってきたマロイは、しかし明らかに都会の文化に染まっており、木こり業にも反感を見せる。こうして必然的に兄弟は対立することになってしまう。

今作のテーマとは、価値観の対立である。まずは田舎文化と都市文化の対立がここでは俎上にあがる。ずっと故郷に住んできたベスとハムは峻厳たる自然のなかで生き抜くために、体を鍛えあげ、精神を鍛えあげてきた。それは男らしさの過剰なまでの発露によって象徴されている。だがマロイはどちらも“鍛えあげた”というには程遠い。伐採作業を満足にこなせないのはもちろん、ヘッドホンをして音楽に耽溺し家族を無視すらする。この態度が兄弟たちには惰弱の極みと映るわけだ。

この田舎に生きる人間と都市に生きる人間の対立というのは、おそらくどこの国にも存在する普遍的な衝突でもあるだろう。ここにおいて監督はどちらにも肩入れすることなく、さらにどちらに対してもより醜い部分をこそ浮かびあがらせようとしていく。どちらも等しく醜い、少なくとも互いを敵視し歩み寄れないという点においては。

そしてこの普遍的な対立に加えて、今作には特殊な対立も存在している。カバルダ・バルカル共和国の公用語の1つとしてカバルダ語という言語があるのだが、今作は全編この言語で撮影された初めての長編映画だそうだ。ということで登場人物たちは自身の母語であるカバルダ語を喋っているのだが、マロイだけは違う。彼はカバルダ語はダサいと言い、家族の前でロシア語で話すのだ。ベスたちももちろんロシア語を理解できるのだが、そんなマロイに対してロシア語で話すか、それともカバルダ語を使い続けるか、ここに登場人物たちの姿勢やその時々の思考が現れざるを得ない。だがどちらを使うにしろ、この状況は家族の平穏を乱すのである。

ここにおいては、普通のソ連/ロシア映画とはロシア語と地域言語の立ち位置が真逆である。いつもなら登場人物は基本的にロシア語を喋り、時折地域言語が話され、その話者が異分子として立ち現れることになる。だが今作においてはむしろロシア語が少数派の言語として描かれ、そのロシア語を話すマロイが家族の調和を乱す異分子として描かれるのだ。このようにして田舎文化と都市文化の衝突が、カバルダ語とロシア語ひいてはカバルダ・バルカル共和国とロシアの衝突に重なっていくのである。

そして監督はこのどちらにも肩入れすることなく、どちらもどん詰まりの状況にあると提示していく。前者は様々な理由から貧困に満ちており、少しずつ瓦解していく状況にある。ベスたち家族は生計が立てられているだけまだマシな状況で、近くの村の住民たちはその状況に嫉妬し、ベスたちの父親が怪我したのをきっかけに家族への脅迫を開始する。瓦解の中ですら手を取り合えず、仲間同士潰しあうというわけだ。

後者は後者で、国という単位では前者固有の文化を侵食していっている。周縁から若者を流出させていき生じる悪影響はマロイの存在が象徴しているだろう。実際“ロシア連邦構成国”というのは“ロシアの植民地”という言葉の体の良い言い換えでしかないのかもしれない。それでいて個人単位では、都市部に育まれた肉体や精神は過酷な自然において無力であるということが今作では提示される。自然のなかを生き抜けず、更には意識的にしろ無意識的にしろ文化侵食の担い手として機能してしまうのだ。

監督はこの対立を丹念に描きだすとともに、この対立の狭間に何か希望がないかと探しながら、絶望はあまりにも深い。家族という繋がりですらも、救いになることはないのだ。“Deep Rivers”はカバルダ・バルカル共和国の現在を通じて、そんな人間存在の愚かさと、それへのやるせなさを浮かびあがらせる1作なのである。

Alberto Gracia&“La parra”/この不条理がガリシアなんですよ……

2000年代後半から2010年代にかけて、今まで注目されてこなかった国の映画が注目を受け世界を席巻することになる。韓国、ギリシャルーマニア……韓国映画の活況は日本でも十全に紹介され、後者2国の映画に関しても少なくとも私の鉄腸ブログで何本も紹介してきた。だがこの国々に並んで世界でも注目されながら、日本においてはあまり紹介されてこなかったのが“ガリシア映画の新たなる波 Novo Galego Cinema”だろう。スペインの自治州の1つであるガリシア、ここから新たなる才能が既に現れ、ここ10年以上もの間に注目すべき映画を制作しているのだ。例えば東京国際映画祭で上映された「ファイアー・ウィル・カム」(ガリシア語原題は“O que arde”)のOliver Laxe オリべル・ラシェや、去年期間限定で上映された「サムサラ」Lois Patiño ロイス・パティーニョがこの波に属している。だが批評家である赤坂太輔による紹介を除くと、日本で得られるガリシア映画に関する情報はあまりに少ない。ということで今回はその穴を埋めるという意味で、“ガリシアの新たなる波”の中核を担う映画監督Alberto Graciaによる最新長編“La parra”を紹介していこう。

今作の主人公はガルシア(Alfonso Míguez)という中年男性だ。彼は失業中の身であり、家賃を滞納しているどころかスーパーでまともに買い物もできないほどに困窮していた。そんなある日、彼の元に父が亡くなったとの報せが届く。そして彼は故郷であるガリシアはフェロルという町に里帰りするのだったが……

ここからガルシアの道行きは奇妙なものとなっていく。モニター越しに父が火葬されるのを見届けた後、少しの間この町に滞在するため泊まれる場所を探す。ここで彼は気の良い老婆に出会い快く居候させてくれるのだが、何故だか彼女はガルシアを“コスメ”という名前で呼ぶのだ。誰か別人と間違えているらしい。さらに居候先の奇妙な下宿人たちや、町行く人々からも“コスメ”と呼ばれてしまう。一体“コスメ”とは誰なのか?

監督と脚本を兼任するGraciaの演出と物語運びはかなり思わせぶりなものだ。ガルシアがコスメと間違えられる事件を皮切りに、彼は奇妙な事件に幾つも遭遇することになる。だがこれらの事件、何だか裏がありそうなのだ。まるでその全てが何らかの形で繋がっているかのように……というのを観客に仄めかすことで、映画に対する緊張した注目を保とうとするわけである。

実際こういう“思わせぶり”な作品というのは、特に映画祭映画なんかだとかなり多く、そうして引っ張って引っ張った挙げ句にコケオドシしか出せず撃沈する作品には何度お目にかかったことか。今作も割合そういった作品に似ており、どこか“思わせぶり”が何かを表現する手段ではなく、もはやこれ自体が目的という印象すら受ける。ただ観客を当惑させるがために、これをやっているんじゃないかと。しかし他の作品と今作で明確に違う点は、前者がかなりシリアスな作品ばかりなのに対して、今作は妙な現実離れ方をしたコメディであることだ。

例えば監督がVelasco Brocaとともに手掛けている編集は、観客から笑いを引き出さんとする類の、シュールなお笑いコントさながらの抜け感を常に志向している。随所で期待したリズムを外され、そのギャップが笑いを生むといった風だ。ここにおいて、なかなかに惨めな生活を送り故郷においても変な出来事に見舞われる、ガルシアといううだつあがらぬオッサンの姿やその苦虫潰したような表情がトホホなユーモアに昇華されるのだ。

さらに特徴的なのはJonay Armasによる音楽である。彼がここで解き放つのは劇伴として流れるよりもクラブで爆音で流れている方が適しているんでは?と思わされるゴリゴリピコピコのEDMである。映画の随所で劇伴としてなかなかのうるささを以て響くのに最初気圧されたが、ガルシアのトホホな姿には一聞似合わなすぎるこの響きが、新たなギャップとして活きている。トホホがEDMで誇張されることによって、ユーモアの深度が増幅するような感覚があるのだ。更に劇中にはラップを披露する謎の男まで現れ、聴覚までもその奇妙な笑いにくすぐられることになる。

このようにして今作は展開していくが、徐々に浮かびあがってくるのがガリシアという地域の現在である。ガリシア語という固有の言語が話されるこの地域には、他とはまた異なる文化や歴史が広がっており、その一端が今作に織り込まれているのだ。例えばガルシアがフェロルへ帰ってきた際、彼を迎えるのはガリシア語の高らかな歌声だ。ガリシア文化を誇るような歌は聞くものを畏敬の念で打つほどの力を持っている。一方でテレビで流れるニュースには、住民たちが不平不満を口にする様が映しだされ、この地域の現状がそう理想的ではないことを示している。

スペインは失業率、特に若年層の失業率がかなり高く、現在も改善はされながら2023年12月付けでその失業率は11.76%となっている。ガルシアはその煽り喰らっている形となっているが、一地域であるガリシアにもそんな世知辛い状況が広がっており、さらに固有の文化や歴史がそれを独自の不条理にまで高めている様を観客はここで目撃せざるを得ないわけだ。そして不条理に巻き込まれガルシアのどん詰まりが極まるごとに、映画というか作り手自身のガリシアへのイライラも高まり、その物語は酔っ払いの管巻きを彷彿とさせる妙さへと突き抜けていく。

そして画面からはいつしか、この不条理が、このダメダメさこそがガリシアなんすよ……というぼやきすら聞こえてくるが、ここからは自分の故郷への憎しみと愛着の狭間の複雑な感情すら見えてくる。こうして“La parra”はなかなかどうして妙なコメディという形で、ガリシアの現在を私たちに伝えてくれるわけである。

楊國瑞&“好久不見”/運命の人魚に惑わされて

何というか時々“妙な映画”としか呼称できないような映画に遭遇することがある。例えば演出があまりにも変な映画だったり、物語の展開があまりにも不可解なものだったり、登場人物の行動原理があまりにも理解できない映画だったりする映画に出会うと“妙な映画”だと言わざるを得なくなったりする。そういう映画にはそうお目にかかれるわけではない。さて今回紹介する映画はそんな最新の“妙な映画”である、シンガポールの新鋭である楊國瑞 ネルソン・ヨーによる初長編“好久不見”(英題:Dreaming & Dying)である。

今作はまずある3人の再会から幕を開ける。劇中で名前の明かされない妻と夫(卓桂枝 ドリーン・トー&何榮盛 ケルヴィン・ホー)は、幼馴染であるヘン(俞宏榮 ピーター・ユー)と久方ぶりに会うことになる。再会を喜び、キリンの一番搾りを飲みながら旧交を温めあう3人なのであったが、妻の方はどこか落ち着かない表情を浮かべている。その裏側には何か言いしれぬ思いがあるようなのだが……

この映画がまずもって描きだすのは、そこはかとない三角関係というやつである。妻はつまり未だに独身でフラフラしているらしいヘンのことを想っているわけだ。海岸で独りでいる時には、彼にそれとなく恋愛について聞く時の問いかけを予行練習して、彼と二人きりになったなら練習してきたその問いかけを実際に口にしてみるのだが、彼はそれを飄々と躱してくる。その風景に夫は何も知らぬ風を装うのだが、彼女の心が自分からはとっくに離れていることは彼だって知っている。さてさてこれからどうなるのか……

今作でまずかなり独特なのがLincoln Yeoの担当する撮影である。まず、彼が紡ぎだすショットが相当に美しい。フィルムの粒子によって世界から鮮やかな色彩を引き出していき、それをスクリーンに焼きつけるとそんなショットの数々は、単純に溜め息が溢れてしまうほどに美である。印象派の絵画を想起させるほど、Yeoは光を使いこなしていると感嘆するほどだ。

だが彼の持ち味はそれだけではない。冒頭、彼のカメラは妻の不安げな横顔を映しだすのであるが、徐々にズームが引いていき、フレーム内にヘンが現れたかと思えば夫も現れ、そうして必然的に世界も広がっていく。彼が印象的に使いこなすのはこのズームである。冒頭のようにズームが寄り世界が広がっていくような感覚を観客にもたらすこともあれば、逆も然り、最初はロングショットで風景を映していたと思えば徐々にズームが寄っていき、フレーム内にはヘンと妻の上半身だけという構図になる。ここにおいてはつまり2人だけの親密な世界がここには広がるというわけだ。この何ともズームを自在に駆使されることで、今作の空気感、英題が示唆するような白昼夢的な雰囲気が築かれていくことになる。

そしてこの風景に呼応するように、物語自体もまた夢のような感触を宿していくことになる。そもそもの三角関係が、愛が表立って語られることが一切ない未分化なものであり、水墨画さながら見えない部分にその豊かさが表れるといったものとなっているのだが、その合間に全く別の物語が挿入される。ウェンジンとジウファンという男女が再会を遂げる。ここでウェンジンはずっと隠していた秘密をジウファンに打ち明ける、自分は実は人間ではなく人魚なのだ……

これは妻の持っている奇想小説の内容なのだが、妻や夫がこれを読む際にその縦書きの字幕としてスクリーンに浮かびあがるかと思えば、加えてその映像もまた映画に挿入されるのである。そしてウェンジンとジウファンはヘンと妻の姿で描かれることになっている。妻はこの奇想を愛おしげに読み進めていき、夫は意味が分からんと拒否し、本を乱暴に閉じる。ここでは一体何が起こってるのか?おそらく登場人物にすら分かってないような形で、物語は気ままに進んでいく……とか思ったら、また別の話が始まるのである。その物語においてはあの夫婦が再登場する。彼らは森で散策をしているのかと思いきや、夫の方は何か箱を抱えており、この中に入っている何かを森の奥へと運んでいくことが目的らしい。

この森パートにおいては、Yeoの撮影の鮮やかさがさらに極まっていく。覆われた鬱蒼たる自然はまるで豊穣な影に満ちた冥界といった感じで、スクリーン越しに眺めているだけでも、東アジアに満ち満ちるあの濃厚な湿気を感じさせられる。そして先にも書いた白昼夢のような雰囲気が湿りの中で、また別の幻惑的な何かへと変わっていくのにも観客は気づかざるを得ないだろう。

ここにおいてやはりというべきか、その脚本の奇妙さを増していくのだ。森の旅路の合間に、あの人魚の話が引き続き介入してくるのだが、旅には見当たらないヘンの姿をしたウェンジンの存在感がどんどん艶めかしいものになっていく。見た目は安っぽい青い布を下半身に着け、それで人魚と言い張るような妙な姿なのだが、むしろそれが異界のモノ感に繋がっている。彼を演じるピーター・ユーの色気は絶品も絶品で、再会パートでも夫妻を惑わせる運命の男オム・ファタールとして説得力に満ち溢れていたが、森パートでは俗世を越えたゾッとするような艶を誇っている。

これらの幻惑的な要素が組み合わさることによって、今作には観客を煙に巻くような感覚が常に宿っている。私も観ながら、自分は一体何を観ているんだ?と狐ならぬ、人魚に摘まれる感覚を味わわされた。こうして長く文章を書いていても、言語化してある程度理解できたと思いきやその理解をスルッと躱される、そんな思いをも現在進行形で抱かされていると言ってもいい。こうして思うのは、演出が云々、テーマ性が云々と延永と語るのはこの映画には野暮かもしれないということだ。皆さんもその機会が来たなら、“好久不見”という奇妙なる白昼夢にただただ身を委ねてほしい。

Chloé Aïcha Boro&“Al Djanat - Paradis originel”/ブルキナファソ、フランスが刻んだその遺恨

ブルキナファソは西アフリカに位置する内陸国であるが、隣接国であるマリやニジェールなどともにフランスによって植民地化された国でもある。その影響は公用語がフランス語であることや法システムがフランスに則っていることなどからも理解できる。そんな国でここ数年クーデターが連続し、政情不安定な状態が続いているが、この裏側にあるものの1つが旧宗主国であったフランスへの国民の反感でもある。今回紹介するChloé Aïcha Boro クロエ・アイシャ・ボロ監督作“Al Djanat - Paradis originel”はそんなブルキナファソにおける反フランス感情の源を見据える1作となっている。

今作の発端は監督の叔父が亡くなったという知らせである。彼はブルキナファソのデドゥグという町の有力者であり、広大な土地の所有者でもあった。しかし彼が亡くなってしまったことで、10人以上もいる彼の子供たちの間で土地の権利問題が浮上することとなってしまう。監督はこれを受け帰郷、ここで起こる出来事をドキュメンタリーとして残すことを決意する。

そうして映し出される光景の数々は世知辛いものばかりだ。この土地を売るか売らないかで子供たちの間で必然的に激論が巻き起こる。先祖代々受け継がれてきた土地であり、手放すことなどはあってはならない。自分の妻が妊娠中であり金が必要だから、土地を売ることでそれを用意したい。こういった各自の言い分が現れては消えていき、議論は収拾がつかなくなっていく。

さらに事態を複雑にするのは、この土地に住む人々の存在だ。土地には様々な場所から流れてきた人々が住んでおり、身を寄せ合いながら暮らしている。子供たちは彼らから家賃を徴収するなどもしているが、この土地が売られてしまえば住む場所がなくなってしまう事情もある。こうしてこの土地には利害関係者があまりにも多すぎるがゆえ、解決の糸口が掴めないのである。

こういった時のためにこそ法は存在しているはずだが、ここにも落とし穴がある。ブルキナファソの法システムはフランスのそれを模倣したものであり、この国の文化や風土に則したうえで設計されたわけではない。ゆえに、特にこの国の伝統的な相続方式と完全に衝突してしまうのだ。そしてこれがブルキナファソにおける反フランス感情の源の1つとなっているのが今作では描かれる。劇中においても利害関係者の1人が、白人の押しつけた法のために伝統を放棄するのか?と激昂する場面が存在している。フランスが残した“遺産”によって何をするにしても、あちらを立てればこちらが立たずという状態が生まれてしまうのである。

監督であるBoroはブルキナファソ出身であるのだが、移住先のフランスを生活拠点としている境遇にある。これが故に、こういった反フランス感情が存在する祖国で監督の存在は良く思われていないようだ。昔は愛情深く接してくれた叔母の態度が、フランスに移住してしまった今は余所余所しくなってしまったと吐露する場面も劇中にはある。それでも今作はインサイダーとアウトサイダーの狭間にいる異物という独自の立場からそんなブルキナファソの光景を見据えており、だからこそ描けたものもあるのだろう。

ここからは少し現在のブルキナファソ情勢について書いていこう。今作完成の前年である2022年は軍事クーデターが2度も起こるという激動の年だった、まず1月にブルキナファソ国軍が機能不全の政府に業を煮やしクーデターを実行、そのリーダーであるポール=アンリ・サンダオゴ・ダミバ中佐が政権のトップに就くこととなる。だがこの政権も現状に上手く対処できず、不満を持ったクーデター参加者の一部が9月30日に新たなるクーデターを実行する。そうしてイブラヒム・トラオレ大尉が暫定大統領に就任、今も彼の政権は続いている。

この2回のクーデターは、政府がイスラム武装勢力を鎮圧できないことへの不満が原因の1つであるとされている。政府は反乱を恐れて自軍の強化を怠り(それで結局はクーデターを起こされたのだから何とも虚しい結果だ)、フランス軍に鎮圧の任を担ってもらっていたが、フランスへの不信感からその支援を十全に活かすことすらできなかった。トラオレ大尉はこの現状を抜本的に変えるため、2023年3月には何とフランス軍を自国から追放してしまう。これは反フランス感情を持つ国民の支持を得たいという側面もあったのだろう。そしてその勢いでブルキナファソ政府はロシアの民間軍事会社であるワグネルに接近する一方で、自国軍強化のための住民たちの総動員をも宣言、今に至るというわけである。

今作はこの混迷のブルキナファソ情勢を直接的に描きだしているわけではない。しかし土地の権利問題と法制度の矛盾を通じて、クーデターの背景にある国民の反フランス感情、そしてその複雑さを観客に伝えてくれる。そしてそれを生んだものこそが植民地化という近代ヨーロッパの原罪であることを、私たちは理解せざるを得ないのである。

Salam Zampaligre&“Le taxi, le cinéma et moi”/ブルキナファソ、映画と私

さて、ブルキナファソである。この国は例えばイドリッサ・ウエドラオゴ Idrissa Ouedraogoガストン・カボーレ Gaston Kaboréなど日本で作品が上映されるほど著名な映画監督にも恵まれている。さらにこの国ではアフリカ映画のある種メッカとも言えるワガドゥグ全アフリカ映画祭(FESPACO)が開催されており、日本未公開映画を探し求める私のような人々でもその存在を認識している人はかなり多いだろう。だが今回紹介するのは、様々な事情からそんなブルキナファソ映画史から消えてしまった人物を描きだすドキュメンタリー、Salam Zampaligre監督作“Le taxi, le cinéma et moi”だ。

今作の主人公となるのはDrissa Toure ドリッサ・トゥレという映画監督である。彼は1952年にブルキナファソで生まれた。そんな彼が若い頃に出会ったのが、日本でも「黒人女」「エミタイ」といった作品が有名な、セネガル映画界の巨匠センベーヌ・ウスマンの作品だった。当時、彼の作品は既にヨーロッパ圏で評価されていたわけだが、それらに衝撃を受けたことことをきっかけに映画監督を志し始めたのだという。

その時期、先に名前を挙げたウエドラオゴやカボーレが映画界でキャリアを築こうとしていた時期であり、彼らとの知遇を得たトゥレはパリへと留学、ここに創設されていたAtrisという組織で映画製作を学ぶことになる。短編制作などで着実にキャリアを積み重ねていった後の1991年、彼は待望の初長編“Laada”を完成させる。故郷の村と都市を行き交う青年の苦悩を描きだした本作は、何とあのカンヌ国際映画祭に選出されることになる。当時は先輩格であるウエドラオゴが「ヤーバ」「掟」と連続でのカンヌ選出と賞獲得(前者は国際批評家連盟賞、後者はグランプリ)でブルキナファソ映画の波が来ていたゆえの、大抜擢だったのかもしれない。今作は好評を以て迎えられ、トゥレの名は一躍有名となる。

そして2年後の1993年には第2長編“Haramuya”を監督、西側から流入してくる文化とブルキナファソ古来の伝統の狭間で翻弄される家族を描いた作品で、カンヌ筆頭にロッテルダム国際映画祭などでも上映され、話題を博す。ドキュメンタリー内ではトゥレがテレビ出演した際の映像が流れる。他の出演者から“語りが支離滅裂”と批判を受けるのだが、彼は“これは自分なりの語りを目指した結果だ”と堂々たる反論を行い、映画監督としての風格を漂わせているというのを印象付けられる光景だった。

こうしてトゥレはウエドラオゴらとともに、ブルキナファソ映画界の未来を背負って立つ存在としての地位を確立するのだったが、そこから約30年が過ぎ、彼が作った長編数は……0本である。今は故郷で運送屋として働きながら、家族を養っている。ウエドラオゴやカボーレが着実にそのキャリアを積み重ねていった中で、何故トゥレは映画を作ることが出来なくなってしまったのか?ここから今作はその問いに迫っていく。

そこには様々な不運が存在していた。自身の作品がニューヨークで上映された後、トゥレは映画製作の拠点をアメリカに据えるため、この都市への移住を試みる。しかし家族からの猛反対に遭ってしまい、移住を断念、彼はブルキナファソへと帰ることになる。そこで映画製作を再開しようとするのだが、ここで再び悲劇が起こる。パリにおいて自分の活動を支援してくれたAtrisが解体されてしまい、その他ブルキナファソ政府からの支援なども一切なくなってしまったトゥレは映画が制作できなくなり、そのまま約30年もの時が経ってしまったというわけである。

もちろん本人の問題もあるとは思われるのだが、今作はその批判の目をむしろブルキナファソ社会にこそ向けていく。あそこまで将来を嘱望されていた映画監督がその後1作も映画を作れなかったのは、ブルキナファソ政府がいかに文化を軽視し、数少ない文化振興に関しても明らかな機能不全が見られ、不平等が生まれてしまっている。この影響を致命的なまでに受けてしまったのがトゥレなのだと今作は語るのだ。

ここでなかなか複雑な立ち位置にいるのがワガドゥグ全アフリカ映画祭である。“全アフリカ映画祭”と称する通り、アフリカ映画のメッカとして華々しい活動を誇っているが、当のブルキナファソの映画人に対する支援などがここで行われているのだろうか、他国からの支援を取り繋いだりということをしているのだろうか……トゥレの実情を見るのならば状況はあまり芳しくないもののように思われる。

しかしそんなワガドゥグ全アフリカ映画祭を愛する者の一人が何を隠そうトゥレその人なのである。カメラの前で映画祭への憧れを語った後、彼は撮影クルーとともに久方ぶりに映画祭へと赴くのである。映画を楽しむのは勿論、満員で作品が観れなかった時にも「シネフィルの情熱はすごい!」と笑顔で語るなど、映画祭を心から楽しんでいる様子がありありと伝わってくる。映画への情熱は彼から一切失われてはいないのである。

“Le taxi, le cinéma et moi”Drissa Toureという、ブルキナファソ映画界が忘れ去ってしまっていた1人の映画人への、そして彼がかつて背負っていたブルキナファソ映画史へのオマージュである。そしてその深い敬意があるからこそ、監督は現在のブルキナファソへと鋭い批判を向け、これを世界の観客に問うている。トゥレが再び映画を作れるようになる未来のための一助に、この紹介記事がなることを願っている。

最後に少し。劇中でも重要な役割を果たすワガドゥグ全アフリカ映画祭、私がこれを知ったのは懇意にしている日本未公開映画の伝道師チェ・ブンブンさんを通じてだった。彼はブルキナファソひいてはアフリカの映画を熱心に探求し、その魅力を伝えようと活動している。例えばこの記事では友人が撮ってくれたという写真を通じて映画祭を紹介、下部にはアフリカ映画関連記事つきだ。この記事も含め、ぜひチェブンさんの映画ブログ“チェ・ブンブンのティーマ”を読んでくれたら幸いである。

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