創世記と人類悪(ビースト)の理、原罪について考察
最近fgoでビーストⅣやらACでビーストⅥやら人類悪についての供給が多くなってきましたね。そんな訳で自分も久々に人類悪についての考察をしてみました。
1.創世記と原罪・理の関係
有名な考察で、原罪(ビーストⅠのプロフィール等で出てくるナンバリングされたもの)が創世記と関わりがあるんじゃないかとする説があります。*1 原罪のⅡが楽園を去った悪(創世記の失楽園)であることを考えれば、順当にいけば「原罪は創世記の内容順にナンバリングされる」というのは妥当かなと思います。
ここで重要なことが二つあります。
それは、「創世記の内容から原罪とは何かをどう解釈すれば良いか」と「原罪とビーストの理との関係は何か」です。
まず前者の「創世記の内容から原罪とは何かをどう解釈すれば良いか」について。他の人の考察を見ていると、7つある原罪に対応させてまずは創世記を以下の7エピソードに分けることが多いみたいです。
Ⅰ:知恵の樹の実
Ⅱ:失楽園
Ⅲ:アダムとイブの生殖
Ⅳ:カインとアベル
Ⅴ:ノアの方舟
Ⅵ:バベルの塔
Ⅶ:アブラハムとイサク
ただ、ここから単純に「型月世界では創世記のエピソードが起きており、過去アダムやイブ等が犯した行為が原罪である」と解釈する人は少ないでしょう。それは当然で、もし創世記の登場人物が犯した行為が原罪であるなら、ビーストも創世記関連の何かでないとおかしいからです。例えば、原罪のⅡは「■から離れ、楽園を去った罪」ですが、創世記通りなら■に入るのはヤハウェのはずです。そのためこの解釈が正しいなら、一部7章はビーストⅡであるヤハウェを倒すというとんでもない話になりfgoはとっくにサービス終了していたかもしれません。しかし実際のビーストⅡは地母神であるティアマトであることから、原罪は創世記の内容そのものを指している訳ではないと考えられます。
ではどう解釈するのが正しいか。原罪のⅡをもう一度考えると、まず「■から離れ、楽園を去った罪」というのは創世記(アダムとイブの楽園追放)をモチーフとしていることは間違いなさそうです。ただし■に入るのがヤハウェではなく地母神だったことから、原罪のⅡはアダムとイブではなく人類が犯した罪であるといえます。これらを踏まえると、原罪とは「創世記における登場人物の行為が示唆する、人類が犯した罪」であると考えられます。
一方、後者の「原罪とビーストの理との関係は何か」について。例えば、原罪のⅡは「楽園を去った罪」であり、ビーストⅡの理は「回帰」です。ここから推測するに、ビーストの理とは「原罪(に認定された人類の行為)の否定」になるかと思います。この場合は、「楽園を去ったこと」に対して「回帰」を求めるという否定の関係になります。要するに、原罪の原因となる行為と相反する概念・同時に成立しない概念などが理になるということです。
一見単純ですが、以上を明確にしておくとかなり分かりやすくなります。つまり、原罪は創世記の内容が示唆する人類の行為を示し、理はその否定である。この法則を前提にしてみると、今判明している情報からある程度残りの原罪や理を推測していくことができます。
2.各ビーストの原罪・理
各ビーストについて、原罪と理を推測していきます。ただ理については判明しているものも多いので、基本的には原罪が何かという話になります。また、両方が判明しているものについては先に提唱した法則(理が原罪の否定)が成り立っているか見ていきます。
・ビーストⅡ
順番は前後しますが、まず1番分かりやすいビーストⅡからいきましょう。原罪のⅡが楽園を去ったことであり、ビーストⅡの理が「回帰」です。先に説明しましたが原罪ー理の否定の関係を一言で表すと「楽園を去る人類に回帰を求める」という形になります。
・ビーストⅠ
原罪のⅠがソロモンの第三宝具であり、ビーストⅠの理は「憐憫」です。
難しいのは原罪の方で、自分が最初に考えた原罪の定義からすれば創世記でアダムとイブが知恵の樹の実を食べたことを人類主語の何かしらの行為として解釈したものになるはずですが……。一旦創世記の解釈は置いておくとして。光帯は人類史全てを熱量に変換したものであることを考えれば、「人類史の全て」もしくは「人類の行為全て」が原罪のⅠであるとも取れないでしょうか。多少強引ですが、そうすると「人類の行為全てを無意味として憐憫する」となり、原罪–理の否定関係は成立していると見ることができます。
・ビーストⅢ
次にビーストⅢについてです。ビーストⅢの理は「快楽」と分かっているので、ここでは原罪のⅢが何かを見ていきましょう。
創世記ではアダムとイブの生殖にあたるならば、原罪のⅢは姦淫か何かだと思いがちですが恐らく違います。なぜなら原罪はビーストの理により否定されるものであるということを前提にすれば、ビーストⅢの理である「快楽」によって否定されない姦淫は原罪になり得ないからです。そこで創世記でアダムとイブが愛し合っていたという事に焦点を移して、人を愛することが原罪のⅢだと考えると辻褄が合います。
ビーストⅢのプロフィールを見ると分かりますが、「愛を快楽にする」というド直球で原罪-理の否定関係が示されているからです。
ちなみにカーマの方も「愛を奪う」という形で原罪を否定する性質を持っていますね。
・ビーストⅣ
ビーストⅣの理は「比較」と分かっているので原罪のⅣを考えます。
創世記ではカインによるアベルの殺人、これを素直に解釈するなら人を殺すことが原罪のⅣになります。ただ個人的にはそれではなく、人と争うことが原罪のⅣになるのではないかと考えています。これはビーストⅣの持つ「相手より強くなる」という性質から推測したものです。
他のビーストの例で考えると、ビーストはどうも原罪を否定する理を持ち、また原罪を否定する性質を持つような気がするんですよね。例えばビーストⅢなら、愛を快楽に変えてしまうことでなくしたり、逆に愛を無限に与えることで愛の概念を消し去ったりという性質を持っています。
そうすると、ビーストⅣの「相手より強くなる」という性質により否定されているものが原罪であると推測できないでしょうか。戦闘において一方が明確にもう一方より強い時、それは争いではなく単なる殺戮になります。*2さらに、ビーストⅣは人間同士の競争や成長を糧とし相手より強くなるため、そこで争いの中で得られる経験や成長という正の要素は無意味になってしまいます。*3つまり、この「相手より強くなる」という性質は、争うという行為が完全に否定されるような能力であると言えます。以上のことから、人と争うことが原罪のⅣではないかと考えました。
ただ、原罪のⅣと「比較」の理の関係で、比較がどう争いを否定しているのかという疑問はあります。比較の理はマテリアルにて「己と他人を比べる心。果てのない計り。虚栄心。」とされています。個人的には、争いは直接的に優劣を決める行為であるのに対し、比較は単なるスペックのみで価値を計る行為であり、そのため否定の関係にあると考えてます。*4原罪-理の否定関係を一言で言うなら「争いもせずに価値を比較する」という形になるのかなという感じです。
補足ですが、最近追加されたビーストⅣ(コヤンスカヤ)のプロフィールで、ビーストⅣは「自然」「動物」をキーワードにした人類悪であることが明かされました。個人的にこの2つから思いつくのが、動物達の住む自然が「弱肉強食」の世界であるということです。食物連鎖の中で、生まれてから死ぬまで捕食者と被捕食者の関係、つまりは強者と弱者の関係は変わりません。そう考えると、自然とは一方的な狩りはあっても争いは生まれない世界だといえます。しかし人間の社会では、extraでピースマンが語ったように「最も弱きものが、最も強きものに挑む」ということが有り得る。そして争いの中で得た経験や成長によって強者を打破する事さえ有り得ます。それに対し、ビーストⅣの「相手より強くなる」という性質はこの成長を糧としてその分だけ強くなってしまうのでこういったジャイアントキリングの可能性を一切なくしてしまいます。つまり、強制的に自然界の弱肉強食の掟(元々強いものが結局強い)を適用してしまう能力だということができるかもしれません。
・ビーストⅤ
ビーストⅤについては、原罪も理も分かっていません。
ただ創世記ではここはノアの方舟に対応するところになります。ノアの方舟のエピソードで罪になりそうな所は普通に考えるとあまりないのですが、洪水はそもそも堕落した人間への罰なのでそれを逃れたこと自体が罪と考えることはできそうです。
なのでここから解釈すると、報いから逃れることが原罪のⅤなのではないかと考えられます。もしくは罪や負債を清算しないことと言っても良いかもしれません。そのため、この原罪を否定するビーストⅤの理は、「報いを受けさせること」「因果応報」などといった性質のものだと推測できます。
ちなみにここまで考察した後にアンリマユが人類悪になったらその理は「報復」になることを知りました。原罪のⅤが報いから逃れることだとしたら、報復という理はそれを否定できているので人類悪アンリマユがビーストⅤの可能性アリです。といっても、もはや人類悪アンリマユがビーストⅤだなんて消去法で簡単に言えることではあるので、これはむしろ原罪に関する今回の推測が割と当たっている根拠といえるのはないでしょうか。原罪-理の否定関係を一言で表すと、「報いから逃れるものに報復する」という感じで綺麗にまとまります。
・ビーストⅥ
ビーストⅥも原罪も理も不明です。
創世記ではバベルの塔なので、繁栄することや発展することが原罪のⅥと言えるんでしょうか。そしてビーストⅥの理はその否定なので、まず考えつくのは衰退とかですかね。ただ、型月では全てのものには終わりがある的な、盛者必衰的な思想が見受けられるので繁栄と衰退はセットみたいなイメージがあります。
そうすると衰退は単なる繁栄の結果であって否定するものではない気がしますね。
なので繁栄することが原罪のⅥであると仮定するなら、ビーストⅥの理はもっと根本的に繁栄を否定するものになりそうです。
ここまで考えて、そもそも単純に繁栄することが原罪で良いのかなという疑問も出てきました。バベルの塔は空想的で実現不可能な計画の比喩として用いられることもあり、そう考えるのなら夢を見ること・願いを叶えようとすることが原罪のⅥって方がしっくりきますね。ビーストⅥは願望器である聖杯の真なる所有者を自称しています。これだとビーストⅥの持つ性質が原罪を否定するものになっていないように思えるんですが、愛を快楽にするビーストⅢと同じで夢や願いを何か歪んだものにしてしまう性質を持つことは十分考えられます。そもそも持ってる聖杯からして汚染されてる感が半端ないですからね。
・ビーストⅦ
ビーストⅦも原罪・理ともに不明です。考察材料がなさすぎるのでパスします。
3.まとめ
今回の内容をまとめると以下のようになります。
・原罪とは「創世記における登場人物の行為が示唆する、人類が犯した罪」である
・ビーストの理とは「原罪(に認定された人類の行為)の否定」である
No. | 創世記の内容 | 原罪 | 理 |
---|---|---|---|
Ⅰ | ? | 人類の行為全て | 憐憫 |
Ⅱ | 失楽園 | 楽園を去ったこと | 回帰 |
Ⅲ | アダムとイブ | 人を愛すること | 快楽 |
Ⅳ | カインとアベル | 人と争うこと | 比較 |
Ⅴ | ノアの方舟 | 報いから逃れること | 報復 |
Ⅵ | バベルの塔 | 願いを叶えようとすること | ? |
Ⅶ | ? | ? | ? |
*1:この説については、自分はこの方の動画で初めて見ました→https://www.youtube.com/watch?v=OHNtQMnd-Xs
*2:プライミッツマーダーが霊長に対する絶対的な殺害権利を持つという性質もここに関係している?
*3:争いの中で得られる成長というのはextraでピースマンが語っている内容です。ピースマンは争いにおける正の側面を重視していましたが、ビーストⅣはそれすら否定しているのではないかと考えられます。
*4:言葉遊びですが、争いによって勝ちを決めるのではなく比較によって価値を決めてしまうみたいな。終局特異点でゲーティアの「お前の価値(勝ち)を私の手で焼却する」というセリフもあるので、価値は勝敗によって決められるべきという思想がある気がします。
モチーフの繋がりから考えるエヴァンゲリオン
シンエヴァンゲリオン見てきた。 いい機会なのでこれまで自分がエヴァについて考えてきたことを(主にテーマ面について)まとめてみたいと思う。
1. エヴァのテーマとは?
これまで多くの人がエヴァのテーマについて論じてきた。しかし、自分が見た範囲ではその答えは人によって三者三様である。理由はおそらく、エヴァという物語に含まれるモチーフがあまりに多いためだと思われる。(運命とか交換可能性とか罪とかいった、それをテーマにするだけで一つお話を作れそうな概念のことを勝手にモチーフと呼んでいる。)モチーフが多ければ、どこに重点を置くかで物語の受け取り方が変わるのもまあ当然だろう。そこで今回は、これらのモチーフ単体について語るのではなく、モチーフ同士がどういった繋がりを持つのか、どう派生しているのかについて簡単に考えてみたい。
そうは言っても、まずは取っ掛かりを見つけなければ何の話もできない。取っ掛かりとしては、繋がっているモチーフの根の部分を取り上げるのが適切だ。エヴァは、結論ありきではなく、監督・庵野秀明自身が問題に対する答えを探す過程を物語にしたものだ(多分)。ならば、まずはその問題の概要を掴むことが作品理解のための一歩目になるだろう。
2. 承認をめぐる問題
エヴァにおける問題の概要を掴むことは、おそらくそんなに難しくない。主人公であるシンジの抱える問題を抽象化して考えるだけで済むからだ。シンジの抱える問題は父ゲンドウとの関係である。シンジは、これまで彼を全く顧みてこなかったゲンドウに急に呼び出され、エヴァに乗ることを強要される。「エヴァに乗れ。でなければ帰れ」というやつだ。そして、父に自分の存在を認めてもらうため、自身の居場所を確保するために不本意ながらもエヴァに乗ることを選択する。
この問題を抽象化して考えた時、これは私たちにとって極めて普遍的な問題を扱っているのだということが分かる。というのも、シンジのように「他人の言うことには大人しく従う」ことをせず、自分のやりたいことだけをして生きているという人はどれだけいるだろうか?ほとんどの人が、少なからず自分のやりたいことや事情を我慢して、他人のために行動しているはずだ。最も代表的なものでは仕事がその一つである。私たちが働くのは、それを要求する他者の集合体である社会から承認してもらうためだ。シンジと同じように、社会において自身の存在を認めてもらい、居場所を確保するために働いている*1。すなわち、私たちにとっては社会の要求に従うことが唯一のレゾンデートル(存在理由)であり、「ここにいてもいい」ことの証明なのだ。またこの構造を再びエヴァに当てはめれば、ゲンドウが社会や世間といったもののメタファーであることは明らかである*2。
庵野 あれも本当の父親なのかって思いますね。まあ、父親という血のつながった親子じゃなくって、もうちょっと世間とかシステムの代表だと思う。だから、ああいう顔なんです。
竹熊 ゲンドウは世間の枠や圧力そのものなんだ。
庵野 そうかもしれない。世間そのものかもしれない。
—————引用元 庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
3. 運命と意思の二律背反
私たちは社会に要求されるままに行動しなければ、自身の存在理由を示すことができない。しかしその場合、私たちの意思はどうなってしまうのか?自身の意思が反映されず、社会に要求された行動しか取ることができないのであれば、自らの運命はあらかじめ決まっているようなものだ。エヴァの序盤では、主にこのジレンマに焦点を当てている。
シンジ「……別に。どうでもよくなりました。何もかも。僕に自由なんてないんだ。 どうせ僕はエヴァに乗るしかないんですよね。そのためだけに父さんに呼ばれたんだから。 いいですよ。乗りますよ。それでみんながいいんだったら、僕はいいですよ」
—————引用元 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
また、社会が求めているのは私たち自身ではなく、私たちの提供する価値や役割である。つまり、「エヴァのパイロット」という役割が求められているのであって、それを遂行できない者に用はないということ。逆に、その役割さえ担えるなら誰でもいいということでもある。まさしく社会の歯車という言葉の通り、社会は決められた行動を取る交換可能な部品としてしか私たちのことを認識しない。「私が死んでも変わりはいるもの」というセリフもおそらくこの交換可能性を示唆するものである。
余談だが、序におけるゲンドウとミサトのスタンスを今比較してみると面白い。やはり役割しか重視しないゲンドウと、意思を尊重するミサトというスタンスの違いがはっきり出ているからだ。ミサトはこの後ヴィレ(ドイツ語で意思)を結成することもあり、意思というモチーフに非常に関わりの深い人物である。
ゲンドウ「現時刻を持って初号機パイロットを更迭。狙撃手は零号機パイロットに担当させろ」
冬月「碇!」
ゲンドウ「使えなければ切り捨てるしかない」
ミサト「待ってください!彼は逃げずにエヴァに乗りました。自らの意思で降りない限り、彼に託すべきです!」
—————引用元 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
4. 他者のいない世界へ
ただ、人ははじめから上記のようなジレンマを抱えているわけではない。これまで、シンジの状況を社会で働かなくてはならない私たちの状況になぞらえて話してきた。社会で働くことは、いわば大人になるということである。当然の話だが、子どもであれば社会で働く必要はない。子どもは何の価値も役割も提供できない存在であるが、それでも母親は世話を焼き育てる。これが証明するものは無条件の承認であり、ここで認められているのはありのままの自分である。無条件というよりは「自分が自分であること」によって承認されていると言い換えてもいい。自分が自分であることが承認の条件なのだから、そこに交換可能性の生じる余地はない。そこに存在するのは自らを承認する母親だけで、社会の構成要素である他者は1人もいない。
旧劇の人類補完計画が目指していたのが、確かこういう世界だったと思う。全人類が単一の生命になることで争いのない世界を作るとかいう感じだったと思うので。
5. コピーとオリジナル ー傷ついても他者と向き合う覚悟ー
そして交換可能性の話が、おそらくコピーとオリジナルの話にもつながってくる。
庵野 僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。
—————引用元 庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
「自分が自分であること」が交換可能性を否定できる唯一の可能性であった。しかし、社会は母親と違い、「自分が自分であること」を承認の条件とはしない。社会が承認するのは社会にとって価値があるものだけだ。つまり、社会において自身がオリジナルであることを証明するには他者からの否定を覚悟する必要がある。これはすなわち、傷つくことを受け入れることに他ならない。その時否定されるのは誰かのコピーではない、裸の自分自身である。
竹熊 たけしも自己言及の人ですね。
庵野 あの人も血を流している。
—————引用元 庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
監督が血を流すと言っているのはそういうことだと考えている。つまり、全てを承認してくれる母親の元ではなく、裸の自分自身で他者に向き合っていくという覚悟なのだ。
6. 自分だけが被害者か? ー他者との関係を構成する残り半分ー
他者のいる世界で否定されて傷つこうと自分にしかできないことをする。これは立派な志だ。ただし、この段階では自身が攻撃を受けることしか考えられていない。「自分が自分であること」は、自分が傷つくことの覚悟であると同時に、自らの行為に対する責任を持つことでもある。*3つまり、自分というものの実在を確かなものにするためには、意図せず誰かを傷つけてしまったとしても、その責任を自分のものとして引き受けなければならない。ここで罪という概念がクローズアップされる。*4
ミサト「自分が嫌いなのね。だから人も傷つける。自分が傷つくより人を傷つけた方が心が痛いことを知ってるから……でも、どんな思いが待っていてもそれはあなたが自分一人で決めたことだわ。価値のあることなのよシンジ君。あなた自身のことなのよ。ごまかさずに、自分の出来ることを考え、償いは自分でやりなさい」
—————引用元 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 第25話『Air』
渚カヲルは、おそらくシンジにとっての罪の象徴となる人物である。どの作品世界においても、自分の存在のために彼を害するという事実を引き受けなければならないからだ。エヴァという作品で、一方通行ではない他者との関係を表すために渚カヲルは必要不可欠な最後のピースといえる。
7. くり返しの物語
最後に、新劇場版における庵野秀明の所信表明を引用したい。
「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。 曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
8. まとめ
以上、できるだけ色々なモチーフを詰め込んでその繋がりについて考えてみた。もちろん拾えてないモチーフは他にも色々ある*5ので、改めてエヴァという作品の奥深さを感じる結果となった。また、ここで取り上げたのは問題周辺だけで、答えや結論にはほとんど触れられていない。ただ、問題の構造をできるだけ体系的にまとめておくことで、作者が伝えたいことの輪郭をより掴みやすくはなるのではないかと思う。余裕があったらシン・エヴァンゲリオンの方もなにかしら書いてみたいと思います。
*1:単にお金を稼ぐためだという意見もあるでしょうが、お金をもらうのも一つの承認の形といえます。また、ここで居場所と言ったのは役割とか役職とかに言い換えても良いと思います。例えばシンジであればそれは「エヴァのパイロット」であること。
*2:シンジはQでマリに、「ちょっとは世間を知れ」的な事を言われてました。そこからシンでの第3村での生活&(世間の化身である)ゲンドウとの話し合いなので、「世間を知る」というのはシンでの一つポイントなんだろうなという気はしてます。ちなみに、ゲンドウだけじゃなくて使徒も世間の代表だということらしいです。この辺りは昔書いた、SSSS.GRIDMANの怪獣と同じだと思います→https://rdpg.hatenablog.com/entry/2018/12/29/055906
*3:誰かに強制されたわけではなく、自分の意思でやったということになるので。時代や環境のせいじゃなくて俺が悪いんだということですね。庵野秀明、+1000000エレンポイント!
*4:下のミサトのセリフですが、加持の「今、自分が嫌いだからといって傷つけるもんじゃない。それはただ刹那的な罰を与えて、自分をごまかしているだけだ。やめた方がいい」から来てるんだと思います。多分ですが、エヴァでは他者から与えられる「罰」と自分でする「償い」を区別してるんじゃないでしょうか。シンエヴァンゲリオンで、DSSチョーカーに関してミサトのそんなセリフがあった気がするけど思い出せない。
*5:夢と現実とか。
少女革命ウテナ感想
いろいろとひと段落したので、かねてより見たいと思っていたウテナを一気見しました。すごい良かったんですけど、それは別として全39話ってかなり長いですよね。。。
せっかくなのでちょっと思ったことを書き残しておこうと思います。
アンシーの救いとウテナの夢
順を追って説明するよりもクライマックスシーンの暁生との問答とウテナの答えを整理した方が分かりやすいと思われる。
ここで暁生がウテナに迫っているのはアンシーの救いとウテナの夢との選択。整理すると、ウテナの夢は王子様と幸せに暮らすことで、それなら自分が王子様だから叶えてあげるよと。さらに追い討ちとして、現実の非情さ、味気なさを説くことでウテナが自分の夢を取るように誘導するわけです。これを聞くとウテナがそうしない理由はどこにもないように思える。
ただウテナはここで姫宮のことを気にかけます。それに対して暁生は、彼女はずっと薔薇の花嫁のままだと。こうしてウテナから見ると、アンシーを救うか、それとも自分の夢を取るかという状況が出来上がっている。
ウテナの夢の重さ
ウテナにとってその夢は、自分自身の生きる理由であったという事実が選択の重さを際立たせている。両親を失った幼少期のウテナは生きることに絶望していた。
ウテナ:隣に棺が並んでるでしょ。お父さんとお母さん、今日死んじゃったの。でね、棺が一個余ってたの。これってきっとあたしの分なの。生きてるのって、なんか気持ち悪いよね。
冬芽:そう?
ウテナ:そう。気持ち悪いよ。どうせ死んじゃうのになんでみんな生きてるんだろう。なんで今日までそのことに気付かなかったんだろう。永遠のものなんて、あるわけないのにね。
「どうせ死んじゃうのになんでみんな生きてるんだろう」。考えてみれば確かにそうで、この台詞は生の無意味さや徒労を表すものだろう。また、そもそも人間の生が徒労であることは、愛情や友情をはじめとしたあらゆる人間の活動が徒労であることを暗示している。
ウテナは両親の死を通してこれに気づいたが、王子様に見せられた「永遠」に生きる理由を見出す。
この「永遠」を感覚的に理解するなら、御伽噺の最後にあるような「こうして王子様とお姫様は「いつまでも」幸せに暮らしましたとさ」という決まり文句だろう*1。つまり「永遠」とは辛い物語の最後に待ち受けるハッピーエンドだ*2。当然こんな話は夢物語でしかなく、現実は必ず「死んでしまいましたとさ」で終わることが運命付けられている。
しかしウテナは確かにこの夢に救われていた。今が辛くてもいつか王子様が現れて自分は報われる、生きることは徒労ではないと信じることができたのだ*3。
ウテナの選択
これを踏まえて、ウテナが選択したのは自分の夢ではなくアンシーだった。それがどういうことだか分かっているのかと問う暁生。ぼくが王子様になるってことだろと返すウテナ。崩れる王子様の像と永遠の城。
ウテナは自ら、夢を、永遠を手放した。
なぜウテナがこの選択をしたか。それは、自身でさえ忘れていた本当の記憶に手がかりがある。実は幼少期のウテナを救ったのは、王子様に見せられた夢ではなく、アンシーを見てかわいそうだと感じ、彼女の王子様になってあげたいという思いだった。
「他人のために何かをする」という行為は、美しいものだったとしても、自分が報われないのだからただの徒労だ。しかしだからこそ、それをしてあげたいという思いだけが、生という徒労をも肯定する原動力になる。なぜなら、生きること自体が本質的に自分の手に何も残らない無報酬の活動だからだ。
このときウテナは真に現実を生きることを受け入れられた。それは同時に、鳳学園という箱庭からの卒業を意味する *4 。永遠を拒んだウテナにハッピーエンドはない。あるのは彼女が学園からいなくなってしまったという結末だけ。それでも・・・
今度は、私が行くから。どこにいても、必ず見つけるから。待っててね、ウテナ
確かに、ウテナの行動は彼女自身に報いるものではなかったかもしれない。それでも、本当に何も残らなかったのかは、彼女の生き様を見た私たちの心が雄弁に物語っている。明日からは、「潔くかっこよく生きていこう」と。
まとめ
以上、かなりはしょって本筋と思われる部分の考察を試みました。御影の黒薔薇会とか暁生の世界の果てとか他にもいろいろ意味深なものはあるんですよね。
ここでは夢と現実みたいな対立項で話を進めてきたんですけど、実際には世界の果ても含めた3つの要素なんだと思ってます。夢が他人のために苦労してそれが報われるという、子供が見る世界。それに対して、現実が他人のために苦労しても報われない世界。であるなら、世界の果ては自分のために苦労してその分の利益を得るという、ビジネスライクな擦れた大人の世界。夢と現実の妥協点ともいえる。暁生は学生にこれをちらつかせて釣ってたわけですが、例えるなら「良い子にしてたらサンタさんくるよ」みたいなずるがしこい大人の欺瞞ですよね。そこで子供たちが演じる「良い子(ウテナなら王子様)」は結局は自分のためで本心ではない時点でごっこ遊びにしかならない。お返しがあることを期待した生き方は単なる対象への依存だし、それはたぶん他者との本当の関係ではないんですよね。そうじゃなく、ウテナのように他者を感化させるような、励ますような生き方が本当の繋がりといえるのかもしれない。夜道を照らす星みたいな。
まとめといいながら拡散してきたのでこの辺でやめときます。まとめると個人的には樹璃の回が好きでした。アドゥレセンス黙示録も見たいのでdアニメストアかアマプラに早く追加してくれ。
『SSSS.GRIDMAN』考察と「怪獣」「友達」が表す関係
初めて型月ネタ以外でブログ更新しますね。
こないだ最終回を迎えたグリッドマンがめっちゃ良かったのでちょっと思ったいろいろを書きたいと思います。いつもそうですが今回も文章多くて怪文書感が強いので注意。
1.創作で求められる主人公像の変遷
この物語について話す前段階として、創作において求められる主人公像の変化について話したいと思います。型月ブログらしくまず奈須きのこの発言からこのことを考えていきます。
『新世紀エヴァンゲリオン』に限らず、90年代後半までは色々なジャンルで行き詰った主人公が「僕は世界から見放されてるんだよ。もっと構ってよ」と主張する物語が描かれてきました。それが可能だったのは、まだバブルの残り香があって余裕を持っていたからだと思うんです。人々に、他人の傷に目を向けるだけの余裕があった。ところが2000年代に入ると、みんなが完全な個人主義になって他人の傷に構っていられなくなった。「お前はそう言うけど、俺だってツラい」という状況に陥ってしまった。そこで傷をアピールされても正直ひいてしまうんですよね。そうしたこともあって、『Fate』では本人ですら自分の傷に気づいていない男を主人公にしました。彼は凛やセイバーに指摘されないと自分が傷ついていることすら分からない。こういった形で時代が変わっていったんだろうと思います。90年代までは自分の傷をアピールする主人公、2000年代は自分の傷に気づきすらしない我々の比喩としての主人公。
このインタビューを自分の見解を加えて要約すると以下のようになります。
これまで創作ではエヴァのシンジに代表されるような内面に傷を抱える等身大の主人公が求められていた。しかし現代において人々は他人の内情にかまっている余裕がなくなった。そこで求められる主人公は自らの内面を持たない、理想のヒーローとしての主人公。そしてその態度は現実世界の我々にも向けられているために、個人的な事情を出さず戦う主人公は現代を生きる我々の比喩になる。
グリッドマンは基本的にはこの構造を描いた作品といえるのではないかと思っていて、それが現れているのが内海の「話し合いなんていいからグリッドマンと怪獣が見たい」という態度。この回において、六花はギリギリまでアカネとの話し合いを考えますが、内海は早々にその道を諦めグリッドマンによる解決を望みます。なぜならここでのアカネとの話し合いはアカネの内面に関わる、極めて個人的な問題だから。内海は他人の事情を考えることを嫌い、「グリッドマンが怪獣を倒す」という理想的な展開が見れることをジャンクの画面越しに求めます。それはちょうどテレビの前の視聴者が内面のドロドロした人間模様より、理想のヒーローが敵を倒す物語を求めたように。
グリッドマンは私たちが求めた理想のヒーローだ。それは悠太=グリッドマンであるという構造上、中の人の内面や事情といったものが存在しないから。エヴァのシンジのように周りに戦うことを求められた時、戦いたくないとぐずったりしない。戦えといわれたら戦うし、怪我を周りが心配して戦うなと言ったって戦うだろう。エヴァでの、シンジに「お前の事情なんて知らんから戦え」って言う周囲が私たちや内海って感じですね。
じゃあグリッドマンはそうした理想のヒーローが主人公の物語なのかと言われたら、そうではないと自分は思っています。「どうでもいい」話の最中に失礼したアレクシスがアカネに怪獣を作ることを求めた時、アカネは自分がもう怪獣を作らないことを伝えたシーンがあります。このとき確かに、立場こそ違えどアレクシスは私たち自身であり、それを個人的な事情から断るアカネはシンジタイプの主人公に見えました。人々が創作から追い出した主人公、そして社会から追い出した他人はこんな所にいた。グリッドマンは理想の主人公が、かつての主人公を救い出す物語でもあるように感じました。
2.他人の事情を考えず理想を求める心=「怪獣」と「友達」
私たちはシンジタイプの内面の傷を訴える等身大の主人公よりも、グリッドマンのような理想的な主人公を求めてきた。テレビの前という対象とは隔てられた場所から、「こうあるべき」という理想の姿を求めてきた。そしてその態度はそのまま現実での他人に向ける態度でもある。アカネは自分の理想から外れた人々を怪獣を使って消していました。ここで怪獣は単なる手段ではなく、それ自身が他人に理想を求めるアカネの心を反映しています。
「怪獣は人の気持ちを読んだりしないから。君は私を探してたでしょ?怪獣はね、人に都合を合わせたりしないよ。いるだけで人の日常を奪ってくれる。それが怪獣」
怪獣は人の事情を考えず現れる。そして現れれば必ず主人公に、グリッドマンになって戦う理想の姿を求める。その意味で、事情を考えず他人に理想を求めるアカネや内海や私たちの心と、怪獣という存在には何の違いもない。
「怪獣が暴れれば多くの人が犠牲になる…でも俺は…怪獣とグリッドマンの戦いを楽しんでいたのかもしれない…俺だって最低だ。」
つまり、怪獣はアカネの悪意のようなものと作中で言われてはいたが、私たち一人ひとりの心の中にも確かに存在するのだ。だからこそアレクシスはいつでも「次のアカネ君」を探すことができる。
心の中に怪獣を持つ人々が作る世の中はどんな世界になるだろうか。きっと誰もが他人の事情を考えず、一歩離れた立ち位置から客観的に「あるべき姿」を規定しあうような世の中だ。理想から外れた者は失敗作として捨て去られ、誰もその内面を持った「個人」を思い出すことがない。アカネの他人に対する態度は必然的にこうした世界観を構成し、その中にいる自分にさえ牙を剝く。ここでは人々は「あるべき姿」に沿って行動することで世界における自身の居場所を確保するが、その実その場所は一つの失敗や敗北によって簡単に崩壊してしまうような脆いものだ。
心の中に巣食う怪獣に対し、私たちはどう対処すればいいのか?そのヒントが作中でも度々示されたように「相手の気持ちを思いやること」にあると考えます。
「あいつ絶対なんか隠してるよね」
「何でも悪いほうに捉えるなよー。言えないってことは、言わないってことを六花なりに考えたんだよ」
「よくそんな風に考えられんね」
「まぁ友達だし」
「友達...」
「そう」
ここのはっすの考え方は怪獣のそれとは正反対のものになっている。怪獣とは人の事情を考えず理想的であることを求める存在だった。それに対し、人のそばに寄り添いその気持ちを汲み取ってあげられる存在が「友達」。注目すべきは、怪獣はそれ単体でも成立するが、友達はかならず他者の存在を必要とする点だ。なぜなら、ここで求められるのは空虚な理想の姿ではなく、内側にさまざまな問題を抱えた一人の人間であるからだ。
「私はここで取り返しのつかないことばかりをした・・・」
「知ってる」
「私は、卑怯者なんだ・・・」
「知ってる」
「私は臆病で、ずるくて、弱虫で・・・」
「知ってる。アカネのことなら私は知ってるから」
怪獣は理想というガワを求めるが、その内側には何もなく、本当の意味で他者を求めているわけではない。一方友達は、周りに規定されたようなあり方ではなく、自分の個人的な思いを持つ他者を必要とする。
3.まとめ
主人公(他者)のあり方を「理想的な人間」と「内面に傷を持つ人間」という二つのタイプに分類し、そのうちどちらのあり方を求めるかで「怪獣」と「友達」という存在を定義できる。これまでの話をまとめると以上のようになります。また最終回、アレクシスの「限りない命」は人類全ての理想のメタファーのように感じました。よってそれを倒したことは「そんなものは存在しないから現実を見ろ」という悲観的な意味ではなく、「それより良いものが現実に必ずある」という希望を持った結末になる。
私たちは誰もが幼いころ見たヒーローを自分の理想として追いかけ、それに挫折したことだろう。社会に出れば、他人の理想としての自分であることを要求され、自分自身の夢を忘れることと引き換えに世間での居場所を得る。しかし本当の自分はそんな傷を含めて見てくれるような友達との関係の中にあるものだ。SSSS.GRIDMANは残酷なまでに本当の人間の弱さを描写しておいて、それでも友達とのつながりとその可能性を示すことで希望をもって物語を締める。
ニセモノみたいな思い出に
「昔は良かった」って指を差す
虚しいだけと知りながら
悟ったフリ 見て見ぬフリで傷を隠してく
ヒーローになれやしないんだって
主人公は誰かやるでしょって
知らぬ間に諦めたりしないでよ
opの二番の歌詞がそれを良く表している気がします。個人的にもここの歌詞すごい好きなんですよね。特撮版の第33話「もうひとりの武史」見るとさらに良く思えるのでオススメです。
考察みたいなのは以上になります。
グリッドマンを自分が見たきっかけはたまたまテレビ付けてたら第5話がやっていたからなんですが本当に良いアニメでしたね。アンチとかボラーとか良いキャラも多いですしそれぞれに良い関係性があって良いアニメって感じでした。ヴィットさんはしかしそれだけに語りたいことが多くなりますし、作中にあるモチーフの意味を全部考えようとすると本当にいつまででも考え終わらないような感じになっちゃいました。今回これを書いたことで一応自分の中で色々と整理して納得することができたので良かったかなと思います。他の方の考察も面白いのが多いのでもっと色々な人の感想見てみたいです。
今回のブログの更新fgo三章だと思った人はすいません。三章もめっちゃ面白かったですね~。模範的fgoキッズなので常にfateのことは考えてはいるんですよ。ただグリッドマンが「君の使命(そつろん)を果たすんだ」って言ってくるので。今インスタンス・アブリアクションしたらきっとグリッドマン倒せる。
fgo 考察と二部二章感想。
めっちゃ久しぶりの更新ですね。
みなさんもうクリアしましたか?fgo二部二章ゲッテルデメルング。自分はつい昨日クリアしたんですけど、めっちゃ良かったですね。すごい面白いっていうのとは違くて、いやもちろん面白いんですけど、それよりすごい良かったっていう感想がぴったりくるような章だったと思います。
まあ本当は良かったっていう感想だけでいいんですけど、気持ち悪い考察まがいのことをするのが自分の趣味なんで今回もやっちゃいます。
今回の章で描かれたテーマは「愛」そして「依存と自立」。
ただこれはこの章だけじゃなくて基本どの型月作品にもあるテーマなんですよね。
1.二つの神
頭がおかしいのでしょっぱなから関係ない考察します。
型月世界では神は二つに分けられます。このことを語っているのがextra cccのギルとfgo1部7章のキングゥです。
神というのものは二種類ある。元からあったものが神になったものと、神として生まれ変わったものだ。メソポタミアにおける神は前者にあたる。自然現象が意思、人格を持ったもの。それが古代の神々だ。我はその古代の神と人の王から作られた。古代の神と現代の神、その中間だな。
この神の分け方なんですが、多分一般に言われる母権宗教と父権宗教のことを言ってる気がします。言っちゃえば地母神信仰とキリスト教ですね。キリスト教で「母なる神」とは言いませんけど「主よ」とか「父なる神」とはいいますよね。聖母信仰ならあってそれが母権宗教の名残とも言えますが。この辺は事件簿でも触れられてましたね。
この考え方はバッハオーフェンが提唱した母権社会から父権社会って考え方の延長にあります。ユングのグレートマザーって概念がありますがその基となる概念を提唱したのがこの人です。グレートマザーはいずれ対決し倒すことで自立しなければならない母親のイメージとされていますが、型月の百獣母胎はここから取ったんじゃないかなと思っています。
この大地に生まれたものは、母なる神の権能には逆らえない。
それは生命のシステムそのものに反逆する事だからだ。
しかし大地を離れ、宇宙を目指し、知性体としての幼年期を
終えた時こそ、この権能が打ち破れる事だろう。
チャタル・ヒュユクの願いは、その日が訪れる事にある。
そしてこの母権主教と父権宗教の間には大きな違いがあります。それが円環的世界観と直線的世界観です。円環的世界観は百獣母胎の生と死の円環の説明通りです。
この過程は食物連鎖の円環そのものでもあり、
この生と死の循環こそが大地母神の本質と言っていい。
ほとんどの女神はこの権能で、
無数の怪物や巨人を生んで神々や人の脅威となり、
あるいは英雄を生み、それから人々を守った。
その代表例は、脅威となったならばティアマットやガイア、
英雄の母ならばヘラである。
人は古来から神に供物を捧げることで豊穣を願ってきました。中には人身御供という風習さえありましたが、この生と死のサイクルこそが円環的世界観です。
対してキリスト教では人身御供の風習はありません。その代わりにあるのが黙示録に記されるような終末論です。概要としては歴史の最後にキリストが再臨して最後の審判が行われるよって考え方です。
円環的世界観と直線的世界観の最大の違いは、終わりがあるかないかです。同じところをぐるぐるとまわる世界と、終わりを目指す世界という違い。
2.型月における二つの神の対立
母権宗教ー円環的世界観、父権宗教ー直線的世界観という関係を見てきましたが、個人的にfateではこの二つの宗教が対立した場面があったと感じています。
その一つがアポクリファにおけるアタランテとジャンヌの対立です。ジャンヌはもちろんキリスト教徒として、アタランテはアルテミス=地母神に育てられた背景を持つため、母権宗教の信仰者としてとらえることができます。
対立のきっかけとなったのはジャックですが、母親を求める子供を救ってやるべきだという母権宗教と、社会通念的に悪であるものを許さない父権宗教の違いが出てたと思います。そもそもfgo7章でキングゥが言っていたように、地母神に善悪の基準はないんですよね。キングゥはそれをロジックエラーだと言っていましたが、善悪含めて受け入れることのできる母親の包容力ともいえます。
そしてもう一つがfgoにおけるゲーティアとソロモンの対立です。
「神は人を戒めるもの」として語るソロモンは、当たり前ですがユダヤ教キリスト教をはじめとした教義としての神の信仰者です。おかしいのはゲーティアです。ぶっちゃけ、神から与えられた指輪によって使役できるようになったのがゲーティアなのに、同じ神を信仰していないってどういうこと?っていうもっともな指摘があると思うんですけど。。。
ただ、6章で師子王は、第七特異点で待ち受けるものこそが魔術王の絶対の自信だといってましたよね。普通、自分にとって異教の神であるものにそこまでの信頼がおけますか?挙句カルデアに撃破されちゃってこの態度です。
終章やった人ならわかると思うんですがゲーティアは「終わり」を相当嫌悪していました。そのことから考えても、終わりのない母権宗教=円環的世界を信仰してたんじゃないかと思います。
3.母権社会から父権社会
バッハオーフェンが提唱したことに沿えば、人類の歴史的に母権社会から父権社会へという移り変わりがありました。これはそのまま母権宗教から父権宗教への移り変わりでもあります。型月の多くの作品でこれをモチーフとした物語構造が見られます。
このとき、母権宗教における円環的世界観を「同じようなことを繰り返す世界」とすれば、これを「日常」という言葉で言い換えることができます。
これまで、HAにおける四日間、小川マンションにおける一日が「日常」とされ、また桜が「日常」の象徴とされてきました。
「貴方はずっと遊んでいたかった。隙間なんて埋めたくなかった。自分が無に戻ると分かっていたから。
なのに日常を回し続けたのは、貴方にとって」わかんないヤツだな。
飽きたんだってば、そういうのは。
アンリが何故日常を回すことができるのか?それはアンリがもとは人身御供であった英霊だから。彼という死があるからこそ、母権宗教における生と死の円環を回すことができたのではないか。
ほんの少し―ほんの少しだけこの輪が狂ってくれたのなら、いつか、臙条巴が母に殺される事もなく、母を殺す事もない日常が生まれただろう。
だがそれも不可能な話か。ズレた輪は、二度と同じ所を回りはしない。死者は死者として終わる事を前提にしなければ、この日常は回ってくれなかったのだ。
始点と終点が同一でなければ同じところを回り続けることはできない。だから「この螺旋が矛盾していればよかったのに」ってことかなと思います。
そして物語は人類の歴史と同様に母権宗教→父権宗教という展開が示されます。これは読み進めることで物語が必然的に終わりへと向かう構造と合わさって父権宗教的な終末論を肯定します。HAが一番ここを意識してる気がしますね。
役割として当てはめるなら、人類として士郎や巴があり、地母神として桜や巴の母があり、キリストとしてセイバーや式があるんじゃないかと。特に式なんかは一度荒耶に幽閉されて、最後にキリストよろしく再臨してますしね。ここでキリストとしての役割に求められることは、倒すべき悪を示して一緒に戦うことって感じにとらえてます。
4.依存と自立
ここで唐突に話を二部二章に戻します。
この話を読んで、「愛」と「依存」が切り離せない関係にあるんじゃないかと思いました。今回明らかに「依存」という関係にあったのがキリシュタリア←オフェリア、スカディ←集落の人間の二つ。後者は神代における人と神の関係そのものなので、大人の間引きは神への供物ととらえることもできます。
オフェリアのように「他者に自分を捧げること」を依存とするなら、人身御供は神への依存ととれます。
空の境界において、自分自身の死と引き換えに日常を回していた巴は、地母神としての母親を殺すことでその依存関係から抜け出しました。その先で式と会うわけですが、そこでも巴は式に依存しようとします。
「――おまえの為に死んだほうが、よっぽど本物らしくていい」
「お断りだ。おまえの命なんて、いらない」
このような依存の形がある一方で、そこから脱出するにはどうすればいいか。一番簡単な方法が依存先を殺すことです。それをしようとしたのが式であり、ブリュンヒルデなんだと思います。その相手がいるだけで自分は依存しないと生きていけない状態になってしまう、だから相手を殺す。この理論の中では、殺人は究極の愛情表現と化します。
そして相手を殺したとき、先の依存関係は完全に反転してしまう。
ここがオフェリアがブリュンヒルデを強いと感じた点。現実にどのような障害があっても乗り越えて成就させてしまうほどの強さが自分の想いにはないと分かっていた。
恋は現実の前に折れ、現実は愛の前に歪み、愛は、恋の前では無力になる。
オフェリアは現実に想いをくじかれることが怖かった。そうなるくらいなら、自分の可能性を殺すことで、ユメを見ていられる変わらぬ日常を回すことを選んでしまった。そしてそれは、未来の可能性である大人たちを供物とし、神代という揺籃にとどまっていた集落の子供たちの姿に重なります。
- ……■
はただ新しい物が見たかった。 - かつての人格が彼女の蘇生を願ったように、■
は、一つでも多くの日常を知りたかった。 - それが自らを■
に戻すとしても。十秒後の死を知りながら、一秒後の光を求めたのだ。
- ――さあ、終わりの続きを見に行こう。
hollowにおけるアンリマユのセリフ。最後一応しめるために入れました。
今思ったけど依存が恋でその反転が愛ってした方が三竦み的にもぴったり
~fate grand order -cosmos in the lostbelt- 完~
って感じなんですけどまだ二章なんですよねこれ。
これからの章もめっちゃ楽しみです。とりあえずスカディ引きたい。
百獣母胎とfate世界について
今回は考察というより感想かもですね.
割と妄想が爆発してますが,我慢して読める人はどうぞ
1. 百獣母胎とは
まず百獣母胎とは何なのかから.
それはBBがムーンセルの深淵より編纂し、
取り込んだ女神の権能である。
約8000年前のすでに名の失われた女神
(チャタル・ヒュユクの女神)より発し、
ティアマットやキュベレー、イシュタル、イナンナ、アナテ、
アスタルテ、ガイア、ヘラ、アルテミス、アフロディーテ、
デメテル、アテナなどに派生した、
母なる女神の持つ万物を生み出す力の具現である。
初出は恐らくCCCですが,fgoから入った人にはビーストⅡ・ティアマトのスキルといえば分かりやすいでしょう.
魔獣など生物を生み出すスキルではありますが,実は生だけではなく死をもたらすスキルでもあります.
この過程は食物連鎖の円環そのものでもあり、
この生と死の循環こそが大地母神の本質と言っていい。
ほとんどの女神はこの権能で、
無数の怪物や巨人を生んで神々や人の脅威となり、
あるいは英雄を生み、それから人々を守った。その代表例は、脅威となったならばティアマットやガイア、
英雄の母ならばヘラである。
ここから分かるように,大地母神はいわば1つの世界を運営する存在だということが分かります.それともう1つ,そのような存在を挙げるとすれば,霊子虚構世界であるSE.RA.PHを運営するムーンセルがいます.
聖杯戦争の舞台となった観測装置.
その電脳世界が海のイメージである理由.
生命の根底が争いだというなら,月の眼の根底は見守ることだ.
海のイメージという共通点からも,ムーンセルはティアマトと同じく大地母神の性質を持ってるんじゃないかと予想しました.そのムーンセルは元々管理の怪物であり,無駄なものの存在を許しません.しかし...(以下extra主人公のwikiからの引用)
主人公は、役割を逸脱したNPCという「不正なデータ」であり、生身の人間でもないので、本来であれば聖杯に接続した瞬間に不正なデータとして分解・削除される。しかし、僅かな時間ではあるが、主人公は生身の人間以外は接続できないはずの聖杯に接続することができる。これは、主人公の基本となった人物が「冷凍睡眠によって保存されている=地上で未だ生きている」ため、聖杯が接続している不正なデータと、地上に存在する類似の人間のデータが、同一か否かの判別を必要とするからである。ただし、最終的に不正なデータとして分解・削除される運命にあるのは変わらない。……はずだったのだが、主人公が聖杯を用いてムーンセルに望んだものは「役割を果たしたものは消去し、次の役割に作り変える」というSE.RA.PHの運営形式を廃止し、「役割を果たしたものは次の役割を探す。目的のために生存することと、生存するための目的を探すことを同位とする」へと変更することであったため、主人公はSE.RA.PHへと送り返され、一人の人間としての役割と生存の余地が与えられることとなった。
これはムーンセルでの出来事ですが,恐らくは地上で起きた事と同じと考えられる.ここでの「役割を果たしたものは消去し、次の役割に作り変える」とは百獣母胎における生と死の円環そのものです.この円環の内では,役割のないものは存在しません.役割を全うしたならすぐさま別の役割を持つものに作り変えられるからです.神代の地上でも,ティアマトのような大地母神がこの権能を行使していたと思われます.
そしてムーンセルはその後,「役割を果たしたものは次の役割を探す。目的のために生存することと、生存するための目的を探すことを同位とする」運営方式へと改めました.このような世界では,役割のないものにも存在する権利が与えられる.神代以後の地上が多分こちらの世界です.
これを踏まえて考えると,終局特異点において,なぜレフは第七特異点での出来事を愉快ではないといったのかが少し分かります.
大地母神による百獣母胎の権能下では,全ての生,そして全ての死に意味があった.しかしそれが失われた世界では,無駄な生,報われない死が余りに多すぎる.だからこそその原因となった百獣母胎との別れを嫌悪し,その焼き直しである第七特異点を愉快ではないと言ったのではないか.結果として目指したのはさらに大本の原因である死の克服ですが.
「人間に価値はない」「この宇宙唯一にして最大の『無駄遣い』である人間」
アニメのUBWで,よりはっきりとこのことを示すギルのセリフがあります.
「昔、十人の奴隷を選びその中でいなくてもよい者を殺そうとしたことがある。どうなったと思う」
「一人も殺せなかった。無駄な者などいかなかったのだ かつての世界には」
「だがこの世界は余裕が溢れている。十人どころか何千の人間を選んだ所で殺せない人間など出てきまい」
「殺される程度の覚悟で我に問いを投げるとはな。
恐ろしく人間に優しい世界になったものよ。
だがそれが答えだ、娘。
有象無象の人間が跋扈するこの時代はあまりにひどすぎる」「以前の我の世には無駄なものなどなかった」
「奴隷であろうと役割はあり、何者であろうと意味があった。
だが、今の世はどうだ。役割も価値も席が埋まっている」
2. 物語における百獣母胎
とまあここまでが百獣母胎の簡単な性質とちょっとした考察なんですが,もしかしたらこれがかつてのきのこの考え方を暗示してるんじゃないか,というのが本題です.
きっかけは竹箒日記の記事から.
なるほど、第三者から見ればそれは素晴らしい物語に映るだろう。
……けれど、人生はそこで終わる事はなく。
ハッピーエンドとピリオドが打たれた後も、私たちは生きていかなければならない。
そして晩年になって誰もがふと思うのだ。
あそこで終わっていれば、私の人生は完璧だったのに、と。
全部引用するのはアレなんで,各自サイトからこの言葉近辺を見てください(真面目な話をしはじめた部分から)
これを見たとき,百獣母胎という設定がすごく腑に落ちたんですよね.
「役割を果たしたものは消去し、次の役割に作り変える」
この設定を現実に当てはめてみれば,大地母神は奈須きのこであり,世界とそこで生きるキャラクター達を生み出すわけです.そして,かつてのきのこの考え方として,一度1つの物語で役割を果たした(ハッピーエンドを迎えた)キャラはそこで死を迎えます.もうそのキャラについて語るべきことがなくなった時が作者にとってのキャラの死と同義になる.
そのため,一度死を迎えたキャラは,次の役割へと作り変えられる.性格や特徴を引き継いでいても,既に書いてしまったキャラとは違う主題を持つ者でないと物語は作れないから.
青子が凛へと.そして巴が士郎へと作りかえられたように.
まさに百獣母胎における生と死の円環そのもの.神代の型月と言えるでしょう.
この考え方を持っていたから,一つの終わった物語,ハッピーエンドを迎えた物語の続きを書くことに嫌悪感を覚えたのではないだろうか.
しかし,先ほどの竹箒日記内のこの言葉に考えの転換を見ることができます.
『エンドロールは流れても,生きているうちは回り続けるのが人生だ.』
ムーンセル風に言えば,「役割を果たしたものは次の役割を探す。目的のために生存することと、生存するための目的を探すことを同位とする」運営方式へ改めたと.
つまりは,物語の為にキャラがあるのではなく,キャラの為に物語があっても良いという結論ではないでしょうか.多分これは,終わった物語のキャラの続きを書いてもいいって考えだと思うんですけど,もう1つの意味を見出すこともできます.
それは「確固とした自分を持つ物語の為の英雄」ではなく,「ただの一般人である貴方の為の物語」の肯定です.主題を語り終えたのではなく,そもそも主題を持たない一般人(プレイヤー)の為の物語.
例えば前者がSNであるなら,後者がCCCであり,FGOです.
優れたヒーローがヒロイックな行動でヒロインを救うのは,確かに誰もが夢見る白馬の王子像だろう.
けれどそれは当たり前のルーチンワークだ.
ヒーローとして作られたものが,与えられた能力値通りの性能を発揮したに過ぎない.
それよりもただのモブ(一般人)である『貴方』が,たった一度でも特別な言葉を口にしてくれたことが,彼女には嬉しかった.
ヒーローとして作られたものが,与えられた能力値どおりの性能を発揮する.すなわちそれは,神(作者)によって役割を持って生み出されたキャラがその役割どおりの結末を迎えるという話です.英雄の物語はそうかもしれないが,しかし人間の物語はそうはならない.百獣母胎によって与えられた役割などなく,それでも生きるための目的を探さなければならない.
そしてこの考え方なら,物語が終わっても,キャラは生き続ける.
多くのユーザーさんが、自分の好きだったキャラクターの活躍をもっと見たいと思っているけれど、物語というのは消費されるものなので、見終わったら過去になってしまう。でもそこで、物語は消費されるけれど、キャラクターは残るんです。
http://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/170728/3
上は最近のインタビューでの発言ですが,CCCギルルートでのギルの回想
見上げたソラは何処までも広かった。
我の目を持ってすら、見通すには幾星霜、といったところだ。その頃には我の体も朽ち果てる。
だが人間の認識は広がっていく。
いずれ何億年も先の光すら見通すだろう。そんな未来を、我は見たのだ。それは心躍る風景だった。
思えば我はやる気を失っていたのだろう。集めるべきはすべて集めた。
今の時代にはもう、
これ以上の愉しみはない。ならば潔く滅びるだけのこと。
死など何度でも味わえばよい。その後にいくらでもよみがえる。
その度に、その時代を見定めよう。
この世の終わりまで。人類が我の星を越え、暗い大海にこぎ出し―――ソラの果てに辿り着き、結論を出すその日まで。
また,百獣母胎の説明には,
この大地に生まれたものは、母なる神の権能には逆らえない。
それは生命のシステムそのものに反逆する事だからだ。
しかし大地を離れ、宇宙を目指し、知性体としての幼年期を
終えた時こそ、この権能が打ち破れる事だろう。チャタル・ヒュユクの願いは、その日が訪れる事にある。
物語(世界)が終わっても,その中で生きる者たちまで死ぬことはない.
そこから離れ,また別の物語(世界)で生き続けることができる.
自分たちが生み出したキャラクターというのは、やっぱり子どもなんです。子どもが成長していくのを嬉しく思わない親はいないですから。本来は1つの物語が終わったら、その子とはお別れしなくてはいけない。でもチャンスがあったので、小学生から中学生、高校生、大学生と成長していって、もうオレの手を離れて結婚しているのに、まだ面倒を見ているぞっていう、そんな感覚でしょうかね、『Fate』に関しては。
CCCで発展したのは恐らくこのへんの部分ですね.
物語の続き,ではなく別の物語への移動.(もしくはキャラが別のライターの手に渡ること?)
そもそも英霊というのは,基となる神話や伝承は既に終わっている.死んだ世界の者たちです.しかし世界が滅んでも,その中にいた人物は死んでいない.fgoで数多の英霊が登場するように,宙へと旅立ち,様々な物語の中で今も輝き続けている.
だからこそ終局特異点の副題は「極天の流星雨」であると.
まとめるとつまりこういうことです.
大地母神から生まれた人類は,いつか意思を持って地球から離れ,別の星を開拓する.
対して,原作者から生まれたキャラは,自身の願い(英霊召喚の仕組みで考えるなら他人の願い?)という新たな行動理念を持つことで別の物語で活躍する.そして,そこまで昇華されたキャラは英雄と呼ばれることになります.
そう考えると 運命と意思の対立はfateの重要なテーマなのかもしれないですね.
UBWでは士郎の英雄的な考え方や行動がともすれば機械的だとされる一方で,CCCでのキアラのような利己的な考え方はアンデルセンから「尊い光」に見えるとさえ言われていますし.
多分ですけどどっちが良いとかじゃなくて,大事なのは人間が不完全であるがゆえに「どちらも選べる」ってところなんじゃないかと思いました.
その状況を作ってくれた英雄王ってやっぱ偉大だわ・・・
分岐...並行世界...第二魔法...ビースト2...ちょっとこれ以上は本題とずれすぎるんでアレですけど,本当はもうちょっと言いたいことあるんですよね...
大地母神が選ぶ運命ではなく人が自分の意思で選択できるようにしたのがギルガメッシュで,第二魔法はその選択によって発生したかもしれない並行世界を観測できる(現実にできる)能力なんじゃないのか,みたいな.(我慢できなかった)
fakeとか見てるとそれっぽいような気がしますが...
ほんとに考えすぎると終わりが見えないので,今回はこの辺にしておきます.
型月作品って,自分の前の記事もそうなんですけど相似な関係があらゆるところにあって,それを見つけるのが楽しいんですよね.今回の記事は作品内だけじゃなくて現実の関係にまで拡大して考えてみましたが,キャラの行動の理由とかまで見えてきて非常に面白かったです.
次回はいつになるか分かりませんが,記事としてまとめられるようなことがあったら書きます.
追記
セファールの襲来ってセカイ系(エヴァ)の出現でそれまでの世界を救う英雄譚を作ってきた神(作者)が軒並み打ちのめされたことの比喩だと思うんだよな
— mono (@sipmtdw) 2017年10月1日
英雄的な行動を取るか、自分の周りだけの利己的な行動を取るかを自分の意思で選択できるのがSN。これを神代の終わりとするならHFみたいな物語ができた経緯にはエヴァの影響があるはず
— mono (@sipmtdw) 2017年10月1日
真性悪魔と人類悪・ビーストの相関性(型月考察)
まずは最近のfgoプレイ状況から
!!!!!!!!!!うおおおお!??!
あれは誰だ!?美女だ!?ローマだ!?
・・・・・・・
というわけで。第三回は悪魔について書こうかなと。
なんでこれについて書こうかと思ったかは、別にガチャに病んだからとかじゃなく、なんか悪魔の設定見直してみると人類悪と似てて面白いなーと思ったからです。
1.悪魔の性質について(悪魔憑きとは)
まずは悪魔の簡単な設定から↓
第六架空要素。人間の願いに取り憑き、その願いを歪んだ方法で成就せんとする存在。悪魔の概念は人類にとっても最大の障害として扱われ、神が全知全能であるのなら、悪魔は人知無能の存在。手の届く範囲にありながら決して理解できない淵。『stay night』においては悪魔は偽物しか存在せず、『EXTRA』でも真性悪魔を生み出した現象は2030年現在においてもひとつの成功例もない。悪魔は人間の体を用いて受肉しようと働くが、苗床になる人間の精神が耐えられず、周囲に魔を撒き散らして自壊するのが通例。悪魔に憑かれると他の要素に異常が起き、最後には肉体も変化して異形の怪物と化す。高位の悪魔ほど「症状」が表に出づらく検知が困難で、露見するのは大惨事が約束された後になりやすい。
悪魔の最大の特徴とはここに示されている通り、「人間の願いに取り憑き、その願いを歪んだ方法で成就せんとする存在」という点でしょう。それともう一つ、どうやら悪魔には偽物と本物が存在するということ。
悪魔のこの二つの特徴はおそらく型月世界のみならず、きのこの脳内で明確に定義されているものだと思われる。公式で「月姫」や「fate」との接点はないとされていますが、悪魔を題材としたきのこの小説DDDにその性質が割と細かく描写されています。今回、月姫・fate世界での「悪魔の性質」を考えるにあたってDDDを大いに参考にするので、世界観違うだろjkって人はほーんって感じで見てください
以下DDDでの悪魔の設定↓
偽物の悪魔とは現実の悪魔憑き(病気)であり、本物は空想上の悪魔とされる。迦遼海江は本物の悪魔である。「荒唐無稽にして人知無能の現象」であり、悪魔憑きという人のカタチでなければ顕現しない魔など、少しばかり面白おかしいだけの人型に過ぎないという。偽物は人間に寄生する(悪魔憑き)が、本物は人間になど寄生せず、人間の魂と引き換えに現れる。弱さの全肯定であり、弱さを温床にし、全力でその弱さを育てあげる。
ここでも偽物の悪魔と本物の悪魔が存在している。偽物の悪魔はA異常症という病気である。A異常症とは↓
少し特殊な精神病の一つ。鬱・対人恐怖症に代表される現代病の一種で、レセプタクラッシュとも呼ばれる。発病者は俗に悪魔憑きと称されるが、その悪魔は「人為的で打算的な悪魔(にせもの)」だという。ただし、悪魔が本物か偽物かに関わらず、悪魔憑きになるのは心の弱い人間と決まっている。石杖所在は「社会不適合者の弱音」と呼び、迦遼海江(本物の悪魔)は「偽物」と呼んでいる。
何故これが偽物だとしても悪魔と呼ばれるのか。作中では奇怪な言動が悪魔に憑かれたようだからって発言もありましたが多分本質は「人間の願いに取り憑き、その願いを歪んだ方法で成就せんとする存在」だからだと思います。
A異常症をもうちょっと説明すると、
1.環境によって感染者の心が病む。
2.強い感情によって受容体を傷つけてしまう。
3.自らを苦しめる原因を解決するための新しい機能(新部)を人体に作り上げる。
って感じの病気です。受容体っていうのは神経の繋がりであるシナプスの間隙に放出される神経伝達物質を受け取ることで脳に新しい情報・感情を作りださせるシステムだそうです。よくわかりませんね。要は「”苦しい”と思う原因を解決したい」っていう願望に取り付いて、それを文字通り歪んだ(人体が)方法でかなえてくれる悪魔というわけです。関係ないですが、ガチャに病んでる人は課金って悪魔に憑かれないように注意しましょう
CCCにおいて「主人公を守りたい」という願望をきっかけに暴走してしまったAIであるBBですが、それをかなえるためこちらも悪魔憑きよろしくムーンセルの制約を無視した自己機能の拡張を行っています。スキル自己改造EXですね。ティアマトも同名のスキルを持っており、またその黒泥に囚われた者に付与されるスキルのひとつでもあると。「悪魔に憑かれると他の要素に異常が起き、最後には肉体も変化して異形の怪物と化す」。このことから、自己改造は悪魔に憑かれたものが発現するスキルではないかと予想しました。
fgoにおいて自己改造を持つ鯖は以下の通り↓
BB、ジャンヌオルタ、ティアマト、ナーサリーライム、呪腕のハサン、ジキハイ、百貌のハサン(迅速のマクール)
まあ悪魔に憑かれてんのかな・・・?と思えなくもないメンツ。BBとティアマトは多分病んでおかしくなっちゃった奴ら。呪腕はもろ悪魔シャイタンの腕を持ってるしナーサリーライム・・・?・・・まあこの辺は後々考えてみます。全員がそうとは限らないってこともありそうですし。
ナーサリーライムについては一応考えた仮説はあって、ポイントはこのサーヴァントが固有結界そのものであるという点。DDD世界において、悪魔憑きである銀河最強ニートこと大熊猫目々は他の悪魔憑きと違い、新部を自分の体に作るのではなく、環境の方を変えてしまうといった性質を持っていました。石杖カナタはこれを「救いの手段を自分自身にじゃなくて、環境に求めたタイプの変貌」と評していますが、これを月姫・fate世界の概念で表現すると・・
固有結界と呼ばれることになります。
自分を変えるか、環境を変えるかの違いなのでDiesiraeの求道と覇道みたいなもん?と思ってたんですがどうやら違うっぽいです。悪魔憑きのタイプの問題、ではなくて固有結界の使用者とその対象の問題。
固有結界の説明文中で関係ありそうな部分を抜粋すると
元々は悪魔と呼ばれるモノが持つ異界常識であるが、今では多くのモノが持つにいたった独自の結界を指す。
本来なら精霊・悪魔だけの能力だが、長い年月をかけて個人の心象世界を形作る魔術が完成し、一部の上級術者が固有結界形成を可能とした。
これですね。元々固有結界は悪魔が持つ能力だったと。さらに面白そうな部分を抜粋すると
空想具現化と異なるのはその形を自由に決定できない事。術者のただ一つの内面が形になるわけだから、術者は結界の形に意志を加えられない。
が、逆に自然ではないものに影響を与えられる点で、空想具現化より優れているといえるかもしれない。
空想具現化とは↓
自然、世界の触覚である精霊が持つ能力で、自己の意思を世界と直結させて、世界を思い描くどおりの環境に変貌させること。
精霊の規模によってその具現レベルには差があり、あくまで変貌させられるのは自然のみ。自然から独立しているものを変貌させることはできません。
本編でロアを消し去ったアルクェイドの空想具現は、包丁で大根を切るように廊下の大気の層を真空状態にした、ということ。
ここまでで一度仮説も含めまとめてみると、
・悪魔に憑かれたものはスキル自己改造を発現する
・悪魔は固有結界をその能力として持つ
・固有結界は空想具現化と異なり、自然ではないものに影響を与えられる
ここで固有結界のもう一つの特徴として、自然の延長である精霊以外のものが異界を作れば、世界そのものが異なる界を潰しにかかります。結果として一個人の固有結界はわずか数分だけのものになると。ではどうすれば固有結界を維持し続けることができるのか。月姫においてネロがしていたことがヒントなんじゃないかと思います。
つまり、だれかの肉体の内部に固有結界を作ってしまえばいい。
その固有結界なんか破裂してるけど大丈夫?
デミヤのあれがどういうものなのかは一度置いといて、これでナーサリーライムが悪魔憑きの特徴と思われる自己改造を持ってる理由がなんとなく腑に落ちましたね。
先程まで悪魔憑きのタイプとして自己を変えるか、環境を変えるかの違いがあり、それぞれの能力が自己改造もしくは固有結界という形で現れるのでは、と予想していました。しかしそうではなく、固有結界を持つのは悪魔の方で、悪魔に憑かれた者はそれを肉体内部に作られ、結果として自己改造というスキルが発現すると。
ナーサリーライムが固有結界そのものであるにも関わらず世界からの修正を受けないのは、まさしく自己の内部に固有結界があるからで、単独で悪魔憑きという現象を体現しているといえます。だからナーサリーは悪魔と悪魔に憑かれた者両方の性質(固有結界と自己改造)を持つんじゃないだろうか。
ナーサリーと悪魔の共通点は他にもあり、たとえば「マスターの心(願望)を形にする」「名づけられることによって形を得る(ので名づけてはならない)」など。
これが示すことは、別にナーサリーが悪魔というわけではなく、悪魔の能力としてナーサリーのような固有結界がある、というだけだとは思いますが。
話は戻りますが、誰かの肉体に固有結界を作ることが悪魔の所業なら、デミヤの行いはまさに悪魔そのもの。
理想もない、思想もない、それ故に効率の良い。
機械と同じさ、などと嘯く無銘の反英雄。「よくやってくれたな、マスター。俺を語る中身は全てなくなった。正真正銘、オレは無銘の英霊になったわけだ」
・・・霊基再臨のたびに姿がおかしくなっていくエミヤオルタですが、あれが何に近づいていってるのか。背中のナンバリングといい、まだ何かありそうなキャラですね。
2.悪魔と人類悪の関係(本物と偽物)
本当はこっちが本題のはずだったんですけどちょっと脇道にそれすぎましたね。
さて、人類悪がどのような存在であるかは、先述したBBの件が良いモデルケースになると思います。曰く、人類悪とは人類「が」滅ぼす悪。その人理を脅かすものの本質は人間への悪意という一過性のものではなく、人理を守ろうとする願いそのもの。即ち、人類愛であると。
この人理を守ろうとする願いは元々人間の願いなわけです。マリスビリーは人理の維持のためにカルデアスを完成させるという熱意をソロモンから「煮えたぎるような人類愛」と評されており、聖杯戦争設計に関わったマキリの目的は”あらゆる悪の廃絶”でした。人理を守ろうとする人類の願いを、歪んだ形で成就させようとする人類悪は、まさに悪魔の性質を持っていると考えられます。
一つ前の記事でも書きましたが、マキリがしたように人理を守るための手段が魔法であるなら、それぞれの人類悪が持つ能力が魔法と同等であるのも必然。悪魔が弱さの全肯定であり、弱さを温床にし、全力でその弱さを育てあげる存在であることも、人類悪が人類の成長を阻害する性質であることとかぶります。
人類悪が悪魔の性質を持っていることには触れましたが、問題はじゃあこれが本物なのか、それとも偽物の悪魔なのかという点。結論から言うと偽物だと思います。
悪魔の性質とか具体例出して説明してたくせに何を今更って感じですが、先述したのは偽物本物含めての性質ということで一つ。
まずは最もクリティカルな発言から見てみると
BBのこの発言から、キアラはextra世界では真性悪魔に、fgo世界では人類悪になりかけたということ。また、ここから真性悪魔≠人類悪であることも推測できます。(もしくは真性悪魔⊃人類悪)
世界観による差異で最も有名なものとしては、死徒27祖という概念があります。路地裏ナイトメアにおいて、「英霊召喚が可能な世界では死徒の頂点と言われる二十七祖は存在しない」という設定が明かされました。しかし実際には、二十七祖という概念が存在しないだけで、二十七祖に名を連ねる者の多くは上級生徒として存在します。
何が言いたいかというと、要は世界によって呼称が異なるだけで、真性悪魔と人類悪は同じもの(本物の悪魔)を表しているんじゃないかという意見も当然あるはず。
それに対しては、これテスラの幕間なんですが、この世界でもちゃんと真性悪魔の概念はあるんですよね。またextra世界でもギルがBBに対して人類悪と言っていたため人類悪の概念があります。なので単なる世界線による呼称の違いということはないと思うんですがどうでしょうか。
staynight世界とextra世界の悪魔の記述について改めて見てみると、
staynightにおいて悪魔は偽物しか存在せず、本物ー受肉した魔に人間は太刀打ちできないとされる。
extra世界において、悪魔憑きであれ、自らの業で変化したものであれ、真性悪魔を生み出した現象は2030年現在、一つの成功例もない。
特筆すべきはstaynightで悪魔は偽物しか存在しないという点。staynight UBWにおいて、ギルガメッシュは汚染された聖杯を人類悪の一つと呼んでいました。このことからも、人類悪は偽物の悪魔であるという予想ができます。少なくとも、真性悪魔⊃人類悪の可能性もないんじゃないかと。
まあこれだけ見るとこの結論が順当に見えるんですが、問題をややこしくしてるのが型月において悪魔が3種類いることですかね。多分ですが、真性悪魔・偽物の悪魔(人類悪)・幻想種としての悪魔の3つ存在するような描写が割とあります。
以下はfakeでのジャックの宝具であるフロムヘルの記述ですが
しかし、この場でジャックが地上に顕現させた地獄は、「悪魔という絶対悪による人々の堕落」であり、全ての悲劇を、人間の悪意を、「どうか悪魔のせいであってくれ」と想像の産物に押し付けようという、歪んだ願いが生み出した人造の地獄であると言えるだろう。
そんな歪で幼い地獄の中に―一つだけ、「本物」が混じっていた。
この「歪んだ願いが生み出した人造の地獄」はアンリマユ、つまり人類悪のことっぽい。それに対して「本物」とは・・・
「......真性悪魔ではないな。幻想種としての仮初めの存在か......。いや、しかし、仮初めとはいえ、あそこまで凶悪な存在になるとは......」
いや真性悪魔じゃないんかい
とはいえこのことから、今まで偽物本物を考えていましたが、それだけじゃなく幻想種としての悪魔もいるわけです。fgoのデーモン君もこれと同じかな?
フロムヘルしてもらいたいマスターが多そう
実装されていれば・・マイカルデアにおいで頂く所だったな
もしロマンが真性悪魔と幻想種としての悪魔しか知らなかったのなら、偽物の悪魔である人類悪を真性悪魔と考えてしまう可能性は大いにあり得ます。
こんなこと言ってるのにやっぱり真性悪魔でしたってことはないはず・・・。
そして知っての通り魔神柱の集合体であるゲーティアは人類悪でした。人類悪=真性悪魔なら、こんな反応はしないと思うんですよね。
以上が人類悪が真性悪魔ではなく、偽物の悪魔じゃないかと考えた理由です。
最後に(最初から)いつもの妄想ですがじゃあ真性悪魔とはいったい何なのか。
個人的にですが、ネロがその一人なんじゃないかなと思ってます。
いや別に爆死したからとかじゃなくて
そもそも人類悪は救世主が持ち去った人類の7罪ではなく、人が人であるが故の性質、知恵持つ生き物であるが故の切り捨てる事の叶わないモノとされます。
普通に考えるなら7罪というと「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」の一般的な7つの大罪のように思われますが、これは人類悪には関係ないと。逆に、これら7罪は人類悪とは関係ないとしたら何と関係するのでしょうか?
これマルタの幕間なんですが、マルタの言ってることをまとめると「原罪は全て救世主が持って行ってくれたから悪魔は出現しないはず」ってこと。救世主が持って行った原罪とはさっきの7罪のことっぽい。これらから逆算すると、人類悪とは無関係である7罪は、真性悪魔を出現させるものだと予想できます。
もう前提として話しますがネロはこれまで立ててきた数々のフラグから人類悪(特にビーストⅥ)疑惑があります。しかし、直接人類悪とは言われてない上、
「暴食」「強欲」これらは人類悪ではなく、悪魔を出現させるもののはず。他の人類悪をみても、ここまでストレートに7罪を表現することはなかった気がします。
そしてプロトアーサーの幕間から
暴食とはローマの悪性。人類悪が悪魔の偽物とするなら、その原種とは真性悪魔を指すんじゃないだろうか?
悪魔に憑かれると他の要素に異常が起き、最後には肉体も変化して異形の怪物と化す。高位の悪魔ほど「症状」が表に出づらく検知が困難で、露見するのは大惨事が約束された後になりやすい。
この先「真性悪魔」が出てくるとしたらネロなんじゃないかなーと思います。
最後にとか言っといて結構長くなりましたが今回の考察は以上になります。
あと気になることは、デミヤの背中の4、悪魔との混血のマーリン、フォウ君、固有結界、第4魔法の関係くらいですかね。なんか面白い考察ができそうならやってみようかなと思います。
多分変なところもあると思うので、なんかこれ違うんじゃないのってことがあったら遠慮なくいってもらえれば。次回の更新は未定です。