「まあ、いいかー」
お父さんもつらくって、○○ちゃんといっしょくらい泣いてるよ。
泣けるたびに○○ちゃんの「まあ、いいかー」を思い出してるんだ。
辛いことがあったとき、「まあ、いいかー」って言うの、
お父さん、すごくあれいいなあ、と思っていたんだよ。
「まあ、いいかー」って前向きになって、○○ちゃんの明るい笑顔がいいなあって
思っていたんだよ。
本当はね、お父さんは、○○ちゃんが辛いのが一番つらい。
いまどうしているかなあと、胸がぎゅうと締め付けられるようになることがあるんよ。
あんな強い子が、、、。
一番(私のことを)心配してるんだよ。
(出身地)の空を見に帰っておいでよ。
きっとすっきりするよ。
お正月におもちを食べにくるんでもいいから。
秋晴れのこの空のように、○○ちゃんの顔が笑顔に戻りますように。
「まあ、いいかー」って、すごいいい言葉だと思うんだよ。
『私、まあいいかーなんて言ってたっけ?なんさいのとき?』
うん、記憶の中では、ここにいたとき、高校生までのときは言っていたよ。
そんな記憶があるなあ。
『覚えてないよ』
「まあ、いいかー」って、言える、なんちゅうかなあ、ゆとりを周りに感じられんのやろう。言うてもいいって思えんところにおるんやろう。
『・・・(泣)』
そんな悲しいところ、もう、まあ、いいかーって。。。
お父さん、ずっと○○ちゃんの味方やよ。
かえっておいで。
まあ、いいかーって、全部わすれて、全部わすれて、、帰るのもいいなと
こころからはじめておもった。
怒鳴られると
何をしても、何をしゃべっても、どう反応しても、すべてだめだ。
下を向いて、ひたすら収まるのを待つ。
ただひたすら、こわい。
ぴりぴりとした薄い頭痛のような感覚が頭から、首、肩、肩甲骨、ひじにかけての皮膚ではじまり、急激に強張る。
本当は、離婚の時のために、詳細な会話の記録などがあったほうが良いのに、ついさっき10分前に怒鳴られたその言葉を思い出せない。
あるのは、強烈な肩こりと恐怖だけ。
閉められた扉の向こう側に気配を感じるだけで、心の底から恐ろしく感じる。
こわい。
夜になると、町は暗くなる。
ひとりで入れるようなお店もない。
何か飲みたいわけでも、食べたいわけでもない。
この家をとびだしたところで行く場所なんかない。
ただ時間がたって、
平日の朝がきて、
彼が家を出ていくことが生きていく希望。
平和がほしい。
安寧がほしい。
友だちに言われた言葉が胸に突き刺さる。
結婚生活はいろんなことがある。
でも○○がいま不幸せなのなら、それは悲しい。
私はいま、しあわせでは、ない。
早起きした朝の冷たくて澄んだ空気が心地よく感じる今は、
まだ生きている意味があるのかなと、なんとなく決めていたが、
身体も心も、その状態を脳みそで自覚したときは、もう手遅れの状態なのかもしれなかった。
こわい。
この連休は、旦那と顔を合わさないために、一日ずつ交代で子供たちといっしょに過ごす日、とそうでない日を作ることにした。
先週は、2日ともわたしが子供たちと過ごした。
というか、大抵そうだ。
昔は疲れ切っていて、休みくらい、少し休みたいと、一人で過ごす時間が欲しいとか思っていたが、こどもたちも言ってることを理解できる年齢になり、いっしょに遊べることも増えてきたことや、幼稚園に行っている間わたしの一人時間が確保できることなどから、土日に休みたい願望はとても薄くなっていった。
だから、別に子供と過ごす日とそうでない日を必ずしも交互にする必要はない。
それに。
旦那は、子供への怒り方がこわい。
口を出さないのが暗黙のルールだけど、これは、間接的にこどもを見捨てていることには、旦那がこわいから、言えないという子供が犠牲になるパターンを強いていないか、そういう思いが頭を過ぎる。
閉じられた世界のなかで、何が正しいのかわからないままで、恐怖だけが胸を抉る。
何が正しいのか、わからないじゃないか。
その正論とともに我が身を殻に閉じ込める。
かみさま、私にエネルギーをください。
私はこの世界を幸せに感じて生きていくことができるでしょうか。
さっさと食え。さっさと食べろ。
こどもに発する声の質ではないことを彼は気が付いてはいないのだろうか。
その声色で、外の世界の誰かに、また会うことのある人に、知り合いの知り合いに、
怒鳴る自分を、想像してみて?
こどもは、逆らわないよ。
逃げれないよ。
嫌いにならないよ。
それは、ずるいよ。
私は、あなたの、そういうところが大嫌いです。
結婚したけれど、いまは正直心の底から軽蔑しています。
大企業で働いていても、学歴が高くても、ギャンブルをしなくても、
生まれた家の家族と仲が良くても、友達がたくさんいても。
こどもが好きだと言った。
こどもが大切だと言った。
でも、あなたは、そういう人間じゃない。実際にそうじゃないじゃないか。
そういう人間になりたかっただろうし、
そういう人間であると外の人間に知らしめたかっただけで、
あなたはそういう人間じゃなかった。
あなたがこわい。
過去に何度か、私に暴力をふるった。
そのことも、結局向き合わずに、暴力ではないと、処理をした。
いままでも、きっと、ぜんぶそうだったんだろうね。
過呼吸になって動けなくなった私に死ねと言った。
はやく死ねよと罵った。
私はどこにも逃げる場所がなかった。
わたしは思う。
いまも扉の向こうで私を攻め立てている彼を、
きっと彼は、自分ではないことにするのだろう。
私は自分の価値を最大限使ってしまっていて、
もう自分は残りかすだと思っているところがあって、
それは他人の誰かにとっての事実ではあるけれど、
じぶんがその考えになることはないはずなのに、
囚われて身動きがとれない。
だって誰も老人なんかになりたくない。
私は日々感じる予想以上の老化が私を不安にさせる。
結婚は、その将来の不安を取り除く精神安定剤だったから。
死ぬことを、老人に、美しくない弱者になっていくことを、
忘れて生きるための、宗教だったから。
うっすい希望だったなあ。
信じるものを失くした私は、日々恐怖しか感じない。
生きたい、わくわくする、なんて思えない。
ただただ寿命が残っている生物だ。
美しくもない、新しくもない、この命の使い道がわからない。
途中で死ぬ気はないのに、生きる勇気も希望もない。
とにかくほおっておくと、悲観的に考える私の脳みそ。
身体も肩がガチガチだよ。口角も下がっているよ。
眉間にふかーいしわが刻まれているよ。
はきだそう。
やる気が起きない
やる気が起きない。
やらなければいけないことも、やりたいことも。
結婚生活は、相変わらず、終わってて、旦那とは口も聞かないし、なるべく別の空間にいることが暗黙の了解になっている。
存在を感じるとリラックス出来ないし、別の部屋にいたって、緊張してくる。
こわいし、つらい。
別れたほうが良い。
離れたほうが良い。
こどもの生育に良くない。
わかっている。わかっている。でもこわい。失いたくない。何を?
この社会で生きていくために、なるべく傷つかずに生きるためのカードが。
私は人生に何を得ようとしてきたのだろうか。
まずは、何が必要なのかもわからなかった。
どういう仕組みなのか、ルールなのか、知らなかった。
気が付いた時には、大分出遅れていた。
人並みに生きられるカードをまずは手に入れないと、
普通の人生さえ生きれない。
それなりのお金、それなりの名刺、それなりの友人、それなりの家族。
それなりの過去。
それでやっとそれなり。
誰が決めたルールなのかわからないが、大体のひとがこのルールを守っていて、
それぞれ苦しいぐらい謙虚に生きている。
なんでだろうな。
でも、このルールを守っている人と友達になるためには、
自分もこのルールを守るか、守っているふりをしないといけない。
ひとは、すぐ不安になる生き物だ。
すぐ、さみしくなる。
だから、ルールを守りますと発表し、守らないやつを排除する。
大体みんな苦しい。
資本主義は経済だけじゃない。
幸福もいつのまにかそうだ。
愛や平和、将来の保証などの安心感、寿命、欲望をみたすもの。
すべて一部に集約されていることを知っていますか?
ほどんどのひとは気が付いている。
だから、せめて1.0を目指すんだ。
ひとひとりが当たり前に受けとるはずの幸福量を目指す。
1.0は目指さないととれないものになった。
持たざる者にとって。
金はもっているところ集まる。
人もたくさんいるところに集まる。
愛も、幸福も、同じだ。
情報をつなげたのは誰のため?
それによって、金と同じく、奪うものと奪われるものが生まれている。
わかっているのに、そこだけ、見ないふりをしても堂々と善人ぶってOKのルール。
いったん奪われる側に立つと、掃除機のように色んなものを吸い取られ、
デフレのように、加速していく。
1.0の無風を維持しないと、0.9、0.8と奪われる曲線は次第にきついカーブになって、自力では立っていられないほどに。
もちろん、奪う側のカーブもそうだ。
もういらないって思っても勝手にどんどん集まってくる数値が存在している。
ある数値から登ること自体がエスカレーターのようになる場所がある。
私は1.0を失くして、せめて風を防ぐために、1.0がある風を装って、攻撃を避けている。わたしの数値はいくつだろう。
それを1.0にするのが、その作業がとてもしんどくて、1.5とかもうないのかなとか、考えたくなくて、しんどい。やる気が起きない。
モラハラエピソード1
モラハラエピソードは沢山ある。7年も結婚生活を続けているので、色々沢山ある。
でも、普段は努めて忘れるようにしている。
そんなのまともに抱えていたら、発狂するか心の病気になるか。
いや、正確には、過度の緊張による肩コリにはじまって、自律神経の乱れ、眩暈、ブラックアウト、過呼吸、原因不明のアレルギー的症状、生理周期の乱れやPMSの悪化、狭心症など、身体には影響が、かなり、出ているし、精神的に不安定になることが多くなっているから、発狂とまではいかないにしても、健康状態を確保できているとは言い難い。
書いてみると、ああ、中々なところまできているなと実感。。。
いまの自分の状況を客観的に見るためにも、つらいけれど、少しずつモラハラ夫のエピソードを書くことにする。
2018年10月
話しかけると、それだけで「死ね」「出てけ」「死ねよ」「はよ出てけよ」「しゃべりかけるな」「寄生すんな」と怒鳴られ、止まらなくなる。家具や備品などを蹴り、大きな音を立て、威嚇か脅迫。いまにも殴り掛かってきそう。実際殴り掛かってくるが、寸でのところで拳をとめ、目をひん剥き、そのまま足元にある何でも(家具や棚や傘立てや椅子やあれこれその時によって違う)を蹴り飛ばす。
こどもが見ていても関係なく暴言、怒鳴るのは、やめられないようだし、こどものために自制するという考え自体彼の中に全くないのがわかる。私がやめてと言ったり、こどもが見ていることに気が付くと、「何がやめてだ!!ふざけんな!!(ドーン!バーン!と何かを蹴る)うわあ!!ママが暴力ふるってるんだよ!!あ、痛ああっ!!」といきなり床に転がって、のたうち回ったりする。そして暴言はつづく。。。
はっきり言ってき〇がいです。
一番辛く腹正しく何とも言えない強烈に嫌な気持ちになるのは、
全く違うのに、ありえないのに、私のことを「暴力ふるった」「虐待した」と私に言ってくること。本当にぞくっとして、叫びたくなるくらい、嫌な気持ちになります。
冤罪の人のくやしいやるせない許せない気持ちがめちゃわかります。
夫は、モラハラの人は、外面がすごくいい。
だからこその傷つけ方なんだと思う。こんな傷つけ方普通の人は思いつきません。世界にモラルはあるけれど、彼にはモラルがない。
これがうちのモラルハラスメントです。
そして、モラルハラスメントの恐ろしさは家のなかに留まらないのが恐ろしいところなのです。私がほんとうのことを、夫の実態を声高に叫んだところで、世間は夫の味方をする可能性がある、いや、高い。夫は恐ろしく外面が良いので、そして社会的立場があるので(要はそれなりの学歴や職歴)、夫の発言のほうの信用力が高いということ。信用力の確保のために、外堀を埋めることも彼ら(モラハラども)は忘れません。
夫のことを人として最低だと、指輪を外す決心をしたのは、共通の友人から「妻がこどもをいつも怒鳴っている」等の虐待まがいの育児をしているとの印象付け、外堀固めをしていると聞かされた時です。そう、夫は何年か前「男の離婚術、弁護士が教える勝つための離婚戦略」という本を買っていました。虐待まがいのことをしているのは夫、あなたですよ。子どもの前で妻を怒鳴る、罵る、家具を蹴る投げる、大きな音を立てて脅す。それは虐待に近いんじゃあないだろうか。少なからずこどもに影響があるんじゃあないのか。それに、子どもにも直接怒鳴っていますよ。怒鳴りすぎて、自分でも自覚できなくなっているのか、第三者に見られなければなかったことに出来ると思っているのか。モラルとは一体。。。
モラル・ハラスメント、 社会の制裁がない場所では簡単にモラルを失ってしまう人が確かに存在する。いや、程度の差こそあれ、多くの人が家の中と外のダブルスタンダートのモラルを持っていると思う。しかし、家庭内であっても守らなければならない最低限のモラルがあると思う。家族とは一番近い他人なのだから。家庭とは一番身近な社会なのだから。
自分の夫がモラハラ人間であったことは、悲劇だった。自分がモラハラ被害にあうまで、言いすぎでしょう、そんな人いないでしょうと思っていた。実際モラハラにあうと信じがたい辛さを感じた。
私はモラハラ夫により、不幸になってたまるものか、とも思う。
負けない。絶対幸せになるんだ、と自分を奮い立たせる。
一方で、心身が不安定になり、全てから逃げたくなることもある。
カードゲームで、カス札ばかりで、勝利をしないといけない状況が頭に浮かぶ。
相手は役がある札をたくさん持っている。
この状況で勝たなければ、終わりになる、というのは、
もはやゲームではなくてただのただのリンチ、ただの脅迫。
終わりをハッピーエンドにすることなどできないが、悲惨な結末を無視することだってできるとおもう。このブログとともに立ち直りたいと思っている。
今年の目標「自分を大切にする」
パソコンを触っていたら、今年の目標が変換履歴?入力履歴?で表示された。
ああ、そういえば、と思った。
「自分を大切にする」って簡単なようでいて、難しい。
特にモラハラ被害者の体質の人には。。。
ふとすると、自ら自分を傷つける苦労する、そんな道を選んでしまう。
「自分を大切にする」って多くの人が無意識に出来ている、むしろしてしまうことだと思う。でも、私が思うに、モラハラ被害者体質の人は違う。自分が傷つく、わかっていても他人の思惑に乗ってしまう、合わせてしまう、他人の人生の脇役(しかも汚れ役)に自ら名乗り出て、他人の人生のために生きてしまう。
たぶん、根底には、嫌われたくない困らせたくないっていう恐怖に近いものがあるのだろう。そして、この気持ちはよく「悪人」に利用されると思う。
周りが善人だらけなら問題は起きない。
でも、そんなことは、環境に恵まれている極一部を除き、なかなかないものだ。
モラハラを受けている方、気が付いたら友達や同僚に利用されていた、ネタにされていたなんてことないでしょうか。サンドバックにされたことないでしょうか。私はあります。
モラハラ被害者体質の人は、自分を大切にすることが、「自然には」できない。
意識してないと出来ないし、一回意識しても、すぐ忘れるし(笑)
あ、だから、泣く場面を避けられなかったのかと、今気が付いたくらいだ。
「自分を大切にする」強く意識しないと。
ブログ開始。
私は今、非常に傷ついている。
夫の酷いモラルハラスメントによって。
精神的に不安定になることも増えてきた。
ものすごい不安感、さみしさみたいなものが襲ってきて、それを解消しようと誰かに電話したくなることがある。
身近に心を許せる友達や家族がいない環境だから猶更。
電話しても、ほとんどの場合、切るとまた不安感に襲われる。
かといって、常に不安な状態かというとそうでもない。
前向きに頑張ろうと思えたり、小さなしあわせを感じたり、
感じようと、嫌なことを頭の中から追い出すことに成功する日や時間がある。
しかし、将来を不安に思ったり、現状を悲観的に考えたり、人生を悔んだりすることが増えてきて、前向きになれる時間が短くなってきたように思う。
友だちを失くさないためにも、別に吐き出すところが必要だと思った。
10年以上前、日記を5年くらい続けていて、そのときそれは感情の安定にとても役立った。そのときはノートだった。気持ちを吐き出すのにも良かったし、考えをまとめるのにも良かった。
だから、また日記に頼ろうと思う。
ノートの日記の時は誰にも見られたくないと思ったけれど、
匿名性のあるブログでなら、誰かに見てもらいたいと思った。
いつか、この日々が笑い話になりますように、と願いを込めて。