RE 昆虫が地中深くに眠るという 定跡を掘るそれを探しに
将棋はコマの動かし方しか分かりません。
ぼんさんが駒落ちで対局して下さって、ボコボコにされたことがあります。
下手なりに勝負の面白さを体験できたから、手を抜かないでくれたことに感謝しています。
いや、やる気はあるんです。更新、追いつきたいんです。ある程度のクオリティを犠牲に、やるべきことがあると思いませんか?ヾ(・ω・`)
ファンとしては無理はしないで欲しい。でも、この作品、クオリティ落ちていないと思います。
地中深くに、定跡を探すこと。将棋の世界は深くて、宇宙を見ることと似ている気がします。定跡を探すこと、短歌を詠むこと。続けていくなかで、新たな発見もあると思うし、歩いた分だけ前進していますよね。
公開ファンレターブログを、なかなか続けられない私が言うのは、恥ずかしいけれど。
それでも。
RE ふと覚めて床で寝ていたことを知る 手からこぼれる一筋の砂
「一筋の砂」には、時間や若さや、様々なものが含まれそうです。
がくんと5cmくらい落ちる夢を見ることがあります。作品から、そんな夢を思い出しました。
ふと気がついて、何かが流れ出していくことを感じることは、夢の中で目が覚めることと似て、「気づく」ことが二重になっていますね。
私の手から、何がこぼれているだろうと思わされることでした。
RE めぐり来る季節はどれも美しい 偏に花という花ならば
ぼんさんのblogの文章部分で、着想の経緯が紹介されています。
過ごしにくい季節もあるし、美しくない時もあるけれど、花は確かに景色に潤いを与えてくれます。
短歌からイメージを膨らませて貰うと、実際の物理的な花だけでなく、巡りくる季節のそれぞれに、美しさを抱ける時、そこに私は「花」を見ているのかもしれないです。
RE 天体が集まる視野の中央へ 黒々とした砂をパラパラ
もうすぐ800本ですね。すごいな。
ぼんさんの視点は物理法則や時間から自由で、素敵です。
星空と砂を結びつけることは出来るけど、この感受性に惹かれます。
星は無数にあって、見えないくらい遠い距離もあるでしょう。
見えている星だけではないから、「黒々とした砂」に無自覚だったと思わされたことでした。
RE 待っている人がいることその人とよく似た人を好きになるまで
短歌まったく読めていません。文化・教養・心の余裕、だいじ。
やはり自分は、ぼんさんの作品のファンなんだなあと思わされました。
小説一冊、映画一本くらい、心の栄養になる感じがします。
短歌の解釈は自由だと思います。
好きな人や、好きだった人が心に居る状態だと、見間違いというか、「似た人」に遭遇する格率が上がらないですか?
猫と暮らすと、カバンとか他のものを猫と見間違えるように。
それでは、また。
RE 人柄をあらわすように友だちはバランスボールに乗るのがうまい
人柄をあらわすように友だちはバランスボールに乗るのがうまい
— 岩倉曰 (@wakuwakuiwaku) November 19, 2019
岩倉さんのお友達は、スライムナイトとお人柄が似てるのかもしれない。
違う。
作品で語られていないけれど、そう詠む背景には、比較があるはず。
かといって、例えば「なんだよ、あいつら全部持ってる」って視点なら、私は作品をしんどく感じると思う。
重くしないで軽やかにできるのは、視点もそうだけど、自虐とユーモアの配分が絶妙なのでしょう。
これ、ご友人やスライムナイトに作品を見せると、「人柄じゃなくて体幹」って返される気もします。そして、その方向への広がりも含めて、この作品の味かなあって。
RE 美しくほほ笑ましい一瞬を今その中を歩いている((〃゚ Д゚ )) / 美しく微笑ましい一瞬を((〃゚ Д゚ )) 私は今歩いている
感性と理性って衝突することもありますよね。感じたまま切り取るって難しいし。
僕らは照れることだってあるし。
センサーがいくら高感度でも、切り取る力が足りないことだってあるし。
逆に、切り取る力は高くても、気づけ無ければ始まらないし。
だから、一つの作品が生まれるには、いくつも乗り越える要素があります。
友人として、ファンとして、拍手したい。