こんにちわ、rekikakkunです。
現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。
今回は武蔵松山城を探訪致します。
ここは是非とも行きたかった所です。
だって下の写真見てもかっこいいので。😀
14.武蔵松山城(国指定史跡)
1)武蔵松山城の立地
武蔵松山城は下のグーグルマップ⑦の位置です。
(以後松山城と記します)
この場所は埼玉県のちょうど中央の位置で、
比企地方とも呼ばれます。
比企能員(ひきよしかず)の本拠地です。
援助を続けたとされる比企尼(ひきのあま)の
猶子となって比企氏を相続しました。
頼朝からすると第一の恩を授けてくれたのが比企氏
と言えますので、能員は頼朝の長男頼家の乳母父、
妻は乳母、娘は妻妾となり、北条家に次ぐ血縁を得て
超有力御家人となりました。
うっ、どんどん話が逸れていきますね~😓
まあ、その比企氏の本拠地は、戦国時代に
関東の騒乱、攻防の中心の位置でもあり、
個性豊かな城や館が多く存在してる様です。
その中で規模、築城技術、保存状態等が良好な
が「比企城館跡群」として、2008年に
国指定史跡になりました。
2)松山城の歴史
①築城
諸説ある様ですが、室町時代の領主である
上田氏の築城とされています。
信濃(長野県)上田荘の領主となったことから
上田氏を名乗りました。
信濃の上田荘という事は・・・、
そう😃、名前の通り、あの真田昌幸が築城した
有名な上田城、そのすぐ東側の神科台地一帯
だそうです。
また毛利元就の遠い親戚ですかね?
ここまではなんとかついていけました。😓
②戦国時代
戦国時代に入り、扇谷上杉氏に仕えていた
山内上杉氏に対する前線基地だったようです。
ちょっとやばい雰囲気が・・・
扇谷、山内、古河とかがややこしくて😓
扇谷上杉家の本拠地となりました。
その後両上杉家は和睦し、強敵となった後北条家
への備え、前線基地となります。
しかし1545年川越合戦で上杉朝定が戦死し、
扇谷上杉家は滅亡。
戦国スター3人衆(信長、秀吉、家康の前の元祖
戦国3人衆と言ってよいのではないかと・・・)
に攻略される等、攻防争奪の最前線の城として
活躍したそうです。
伝令犬を使って松山城へ素早く援軍に駆け付けた
という、太田資正(三楽斎)も絡んできますよね~。
もう沢山あって分からないので、
さらっと締めます。すいません(__)
③小田原防衛戦
小田原防衛戦当時、松山城主は上田朝直の子、
憲定でしたが、彼は小田原城に在陣したので、
残った家臣2,300名程で籠城しました。
真田昌幸達の北方軍に包囲され、
1590年5月22日頃落城しました。
そして1601年廃城となりました。
上田氏は小田原城落城後、
没落してしまったとの事です。
3)松山城の縄張
松山城は下の写真の様に、市野川がぶつかって
蛇行した丘陵に築かれており、周囲は湿地帯だった
と伝わる要害の地です。
城域となる丘陵は、下の縄張図で見ても、青色が掘、
黄色が曲輪で、等高線部はへこんで堀の一部と言えるので、
堀が城面積の約50%を占める珍しい構造だそうです。
これを見ると全ての曲輪間が、大きな堀で遮られて、
土橋だらけな感じですね~。
この縄張図を片手に探訪しました。
さて、松山城へ行きましょう。
4.松山城探訪
実はこの日は埼玉探訪初日で、暗いうちに静岡を出て、
駐車場は隣にある吉見百穴(よしみひゃくあな)
に停めさせて頂きました。
吉見百穴で昼飯と期待してたのですが無かったので、
車で探し回ってやっと王将を見つけました。
(土の城は昼飯に困る、あるあるですね~)
だからなんだという訳ではありませんが、
腹ごしらえを済ませて、いざ出発です。👍
城への入口が近いのは本丸側(市野川側)ですが、
やはりお城なので、登城順で進みたいので、
松山城と百穴の間の車道を登って、城の北東側
へ回り込んでから入城したいと思います。
この城入口からの探訪経路は、赤線で縄張図に追記します。
ちゃんと順番に高くなってるんですね~
城を出て、来た道を戻ります。
今回ほぼメイン道しか行っていないので
城全体の半分も見ていないと思います。
写真は単調ですいません。
それだけ土の城の遺構が多いということですね~。
次回は築城者が分からないのに山城の教科書
と人気が高く、是非行ってみたかった
杉山城探訪(比企城館跡群の一つ)です。
以上で終わります。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_