(自称)日本で初めて博士課程後期の試験で補欠になった
先日, 多摩美術大学大学院美術研究科博士後期課程の試験を受けた.
その結果,補欠第二位という結果になった.
日本で初めて博士課程後期の試験で補欠になった人間ではなかろうか.*1
補欠とは, 辞退者が出た場合繰り上がりで合格になるというものである.
人生最大の難関を迎えた気分になった……
今回の結果について
今回,大学側が公表している情報はこちらになっている.
受験者数が18人,合格者が5人ということである.
倍率が3倍を超えていることに驚きを隠せなかった.数学科の博士後期課程は定員割れであることが多い.
補欠の結果がいつわかるかについては,以下のように書いてあった.
2月15日以降3月31日に辞退者が出た場合,電話で連絡させていただきます.
つまり,3月31日を過ぎるまで自分が合格か不合格か決まらない.
3月31日まで不合格かもしれないし合格かもしれない.シュレディンガーの猫状態だ.
これがかなり尾を引いて私の精神に影響しているのである…
補欠の悪影響
補欠ということはもちろん落ちている場合も考えられるわけで、2月に入ってから就活を始めた.
所属がないまま26歳の人間が渡り歩いて行けるほど社会は甘くない.
まえからフリーランスとして働いているので,中途採用で職をさがしていることについては何も悪くないが,毎回「もし多摩美術大学大学院に合格した場合,辞退させていただきます」と書いている.
つまり辞退することが前提の就活である.
こんな就活が成功すると思うだろうか.
私は不安でしかない.
補欠のメリットがあるのか?
また,博士後期課程の試験で補欠を作るメリットわからない.
不合格はまだわかる.自分が求められている人材ではなかったということだから.
補欠ということは,合格にすこし満たされていないが求められている人材であるということだ.
少なくとも私はそう思っている.
それに博士後期課程の試験を論文博士で受けている時点で,研究をしたいという意欲はあることはわかっていると思うし,何より落ちはしたが学振の書類*2も書いている.
それなのに補欠にするということがわからない……
なぜ定員を増やすということが行われないのか??補欠にするメリットは??定員の人数がそんなに厳しいのだろうか??
2017年度までは定員が7名いたが,2018年度から5名に定員が減っている.
つまり,7名まで今まで受け入れていたこともあったのにも関わらず今回合格者は5名なのである.
それでなぜ補欠を作る必要があるのか??理由を明示してほしい.
また博士後期課程を受験できるのは若くても24才以降である.
24才といえば一般的には働いている方の人数が多く,成人であるため所属がないと困ることが多い.
それ
にも関わらず, なぜ人によっては3月31日まで結果がわからないのか?理解に死ぬほど苦しんでいる……
まとめ
研究をしたいと節に思っており,やりたいテーマも決まっている.
それなのにも関わらずなぜ今まで博士後期課程でおこなわれてこなかった「補欠」ということを行ったのか.
多摩美術大学には二度とこういうことを行って欲しいとは思わない……
追記(5月17日)
博士課程後期の結果だが,3月31日までに結果がこなかったので,不合格になった.
1ヶ月過ぎてやっと立ち直ってきた.
こんな夜に
毎年この時期は日本全体が浮かれているが私にとってはただの年末であり,修論作成の真っ最中である.
よく修論提出直前には色々起きるから気をつけろと言われる.
バックアップを取れとか,なんならgitに投げておけとか…
例に漏れず,私もデバイスが壊れてしまった.普段使っているiPad ProのApple Pencilが壊れたのである…
この感情をどうにも消化できないため話をさせてほしい.
まずははじめに
今回壊れたApple Pencilは第2世代である.
壊れたと言ったが 具体的には反応しなくなった.
iPad Pro側がペアリングにすら反応しないのである.
このようなことが起きた時はヘルプに従うに限る.私は敬虔なAppleユーザなのだ.
とはいえヘルプも大抵は,『はじめに再起動してください』 と言ってくる.
敬虔な私はヘルプに従いiPad Proを再起動し,右側面のマグネットにつけた.
しかし,これでも反応がない.Bluetoothをオフにしてから再起動,Apple Pencilをつけたまま再起動など何回が試したがダメだった.
ここでApple Pencilの再起動を行おうと思ったが,無理なのだ…
そして最悪の事態が
大体のことをしても反応がないままだったので,Appleサポートに連絡をした.
電話の方が便利なので毎回電話にするのだが,いつも丁寧に対応してくれる.*1
電話 での対応だったためシリアルナンバーを提示する時がきたのだが,これが最悪だった.
なんと,前世代のApple Pencilと違い,表面にシリアルナンバーがないのである.
ではどこにあるかというと…
ここである
読めるわけがない.それもそのはず,確認方法は「iPhoneのカメラで拡大してみてください」とのことだから.
思わず「この仕様はクソですね〜」と言葉が漏れた.*2
全然見えずiPhoneのピントはずれまくるし,本当に厳しかった.
最終的に丁寧な対応により交換という方法に落ち着いた.
しかしこの労力と当分ただの重いただの板になってしまったiPad Proの侘しさにめっきり疲れ果ててしまった……
最後に
ここまで起きたことをつらつらと書いてきたが,事態がおさまった後にふとこの流れはまずいのではないかと感じた.
すなわち,あまりにもスマート化したために最低限必要な機能が失われてしまっているのではないか?ということである.
ここでの最低限必要な機能とは,シリアルコードがすぐに見れる機能と,Apple Pencil単体で再起動させることができる機能である.
これらの機能がないと消費者側で問題が特定ができない.
事実,私も未だにiPad Proのマグネットの検出が反応しないせいなのでは?という疑念がぬけていないのである.
まあ,Apple Pencilをもう一本買って実験してみる,というブルジョアな解決策がありはするのだが……
ということに悶々としてしまっている今日なのである.
この問題についてはまた後日ふれたい.
こんな夜に論文が読めないなんて…
仕事を始めて思ったこと
もっと書くのを頑張ってみようと思っていたが,なかなか本当に筆不精のようで,やっと筆をとった.最近は引っ越しをしてやっと生活が安定できたと思う.
標題の件に入るのだが,私は26になってやっと働き始めた.しかも社員とかではなく個人事業主で.働き始めが個人事業主だと色々と課題が浮きぼりになる.特にプロジェクトモデルを形成するなどたくさんある(が述べるのが面倒なので割愛する)
特に最近考えていることがある.それは働いて出てくる仕事は何種類かあるということ.ざっくりと,
- 仕事に伴う事務を行うプロセス
- 仕事のために学ぶというプロセス
- 仕事を行うプロセス
の3種類ぐらいに分かれると思っている.上の二つについて話したい.
仕事に伴う事務を行うプロセス
特にこれきつい.私は個人事業主の確定申告の書類と家計簿を分けているのだが,レシートの管理がかなり大変だ.
また,契約書の作成や,請求書,領収書の作成までかなり多岐にわたる.この仕事だけでも1日が終わることもままあるためこれはしんどい……
仕事のために学ぶというプロセス
普通,会社員になったら教育係がついたり,最初の研修期間が存在しプログラムの勉強や仕事に関する資料集めについてなどを学ぶと思う.
しかし,私は初めて仕事を行うわけでそんなものはなく,自力での取得を求められる.また,その仕事に関する勉強を行なった場合,どこまでを業務にするのか非常に難しい.
結局
ここの最小化ができるか,マニュアル化できるかどうかが一番最初の関門になるなあと感じる.この最小化は一度会社員をやっていると行いやすいと思う.実際のプロセスの流れは会社の流れなので.
最小化できるように頑張ろう.
今後はやってることでも書いていきます.
最近していること
お久しぶりです.
最近ブログを書いていなさすぎて何をやっているのか纏めたくなったので筆を取りました.
リハビリで近況報告をしながら最近やっている事の記事を少しずつ書いていきたいとおもいます.
引っ越しました
つくば市に住んでいましたが,東京に引っ越しました.理由は家の近くのスーパーがことごとく潰れてしまったのと,つくば市というものが私の体に合わなかったからです.
週に3回も東京に出ると体力と気力も両方削がれてしまい,これは良くないと思い引っ越しました.
仕事を始めました
今年の6月から個人事業主として,お仕事を始めました.やっていることはデザイン,環境開発や数学を教えるといったことをしています.まあいわゆる何でも屋です.
それで今まで勉強してこなかったハードの部分であったり,個人的に興味のあるオートマトンやソケット通信,IoTを勉強してます.面白いですね.ぼちぼち生きています.
やはり,久しぶりに文章を書いているせいかあまり文章が書けませんね.少しずつ書けることが増えるように頑張ります.
特に情報系の話を少しずつ書いていければと思います.
「(real) time と study tables」 の感想
こんにちは.
今回は先日見に行った三ノ輪のspace dikeで展示されてた「(real)timeと study table」についての感想をまとめてみようかなあと思います.展示内容にがっつり触れます.先日行った立ち話で言った疑問点をあげつつ,気になった点をつらつらと書くことになるかなあと思います.
展示について
さすがに何もないとアレなので,展示の紹介などを.
「(real)timeと study tables」という関真奈美さんとtadahiさんのグループ「study tables」が「(real)time」ということについて,検証,考察をしている展示です.
この後ネタバレというか,がっつり内容に触れます.
まず,study tablesは日常語としてのリアルタイムを提示する.(wikiなどを参照しながら)その後,彼らが提示する(real)timeとの感覚的な違いを形式化しようとして『視点 + 時空(n+1)=(real)time』という仮説(?)を立てて,検証を行なっていくわけなんですが.(あくまで主観です,私がそう思っただけなのでもしかしたら違うかもしれません.)
テキストはこれです.
まずここで何個か疑問点が出ました.
- この式の物理量,つまり単位は何になるのか.
- nは0から始まるのか,1からを想定しているのか?*1
- 視点と時空は分離されてるが,視点は時空の一部になっていることもあるのでは?また,視点の持つ時空は(real)timeに依存しないのか?
- これは(real)timeを定義している式なのか,ただの等式なのか.
という点が浮かび上がってきました.実は最終日に行った立ち話で疑問については聞かせていただいたのですが,後で詳しく説明します.
展示の話に戻ります.検証Aから検証Eという実験,考察を提示しているのですが.
ここでは特に,
- iPhoneが二つあり,ジャンケンをしてる動画を流しています.一方だけ,少し短めに切ることで,掛け声が合わなくなったり,ジャンケンの勝ち負けがずれるというもの.
- ドアの開け閉めとその際に流れる音のズレをだんだん大きくしていく動画.
- スローターハウス5と現実の時系列の対応.
について見ていくことにします.これを見て前に提示されていた『視点 + 時空(n+1)=(real)time』を当てて見てみると次のような疑問点が出てきました.
- 視点と言っているものが検証によって異なっているが,それは意図していたのか?
- 時間の対応関係が検証によって異なっているがそれはいいのか?
です.
それに対する私個人の見解と疑問に対する解消を話していきたいと思います.
疑問の解消
疑問の解消に行く前に,『視点 + 時空(n+1)=(real)time』を提示された時に,このような図が提示されていました.
私はこの解釈ではなくて,別の解釈を考えました.次の図です.(図が汚いのは許してください)
つまり,時空Aに対して,時空Bが視点という写像によって一対一に対応することによって,(real)timeという認識が生まれるのではないのだろうかという解釈です.もっと正確にいうと,視点によって一種の同型がなされた時に(real)timeと認識するのではないのかということです.一対一に対応というのが重要です.数学的にいうと全単射なのですが,右側からも左側からも一個のものに対して一個のものが対応しているということだと思っててください.
このような解釈で彼らの行っていた検証を見てみると次のように見ることができるなあと思います.
こうなります.これによって,同型が取れていれば一種の(real)timeが生まれ,視線による写像の違いも明確に分けることができると感じました.1と2では視線は観客で,3では作家というのが明らかにわかります.これによって,検証における疑問がある程度解消されました.
次に『視点 + 時空(n+1)=(real)time』についての疑問点ですが,これも『時空の同型を認知した時に(real)timeと感じる』-(*)という考えで見てみます.すると,nは0から始めた時は自明な時空Aから時空Aへの写像になるので,考察しやすくなるのではと感じました.
また,式ではなく,(*)的な手法でみることにより,物理量をきにしなくてよくなり,定義としての役割も出ています.(詳しくお話が聞きたいようでしたら,私に連絡いただければと思います.)
このような手法でもう一度(real)timeについて考えたいなあと思いました.勝手な妄想ですが,クリプキモデル的に考えてみるのも面白いのかなあと感じました.
最後に
全体的に疑問点ばかりについてしか触れてませんでしたが,展示全体の目的はとても面白く,興味を持ちました.美術と学術一般の展示の違いを強く感じましたね,とても参考になりました.展示も面白かったので次の展示も見に行きたいです.(回し者じゃないです)
それでは.
私は他人の『わからない』がわからない
こんにちは.お久しぶりです.
最近めっきり書かなくなってしまった… というのも実は下書きは結構書いてるのですが,先に進まなかったり,公開しなかったりなどがあります.
なんでかと言いますと,書いてると,前提知識はどこまで仮定すればいいんだろう?ということに悩むのです.基本的に書くことは私が書きたいことを書いてるのですが,どうせなら誰に向けて書いてるかをはっきりして書く方が文章のまとまりがあるなと思います.*1そこで書いてはいるものの,う〜んとなってしまっているのです.
これは実は文にとどまらず,作品説明でも同じ問題が起きます.どういう問題かと言いますと「今,目の前に立っている人は何を知ってて何を知らないのか?」がわからないんです.(そろそろ本筋になってきた)実は数学のゼミをしているとこういう問題はあまり起きないのです.*2
なぜ,作品説明をするときに相手の『わからない』がわからないで,数学のゼミでは相手の『わからない』がわかるのか?みたいなことを考えてある程度の結論がでたのでぶらりと書いていこうと思います.(私が言ってるわからないにはカギカッコをつけませんが,私以外の人が言っている『わからない』にはカギカッコをつけます.)
『わからない』には二種類ある
数学のゼミを知らない人の向けにまずは数学のゼミのお話をしましょうか.数学科のゼミは数学書を読んでその内容を発表するというのが一般的なゼミになります.(研究はまた別です.)ここでいう「本を読む」というのは普段新聞を読むかのように読むのではなく,証明で省かれているところや,筆者の証明の方針の理解などを含みます.その読んだ後,読んだところをまとめた内容を発表するというものです.
ここまではゼミのお話でしたが,本筋に戻りましょう.
発表した人は読んだ内容を全部『分かってる』ときもありますし,『分かってない』ときもあります.実は聞いてる方は発表者が『分かってる』か『分かってない』かが割とわかるのです.(『分かってない』ことは悪いことじゃないです.)なんでゼミの発表を聞いて『わからない』ことがわかるのか?なんで作品説明の時に相手がいう『わからない』がわからないのか?結論をいうと,『わからない』には能動的なものと受動的なものの二種類があるということが分かったのです.それぞれの説明をしていきたいと思います.
- 能動的な『わからない』
これは,『わからない』について自分が『わかる』範囲内で話をしてもらって,何が『わからない』かを伝えてもらうというものです.『わからない』と言われた時に,まずは『わからない』と言った方がそれに対して話すというものです.
- 受動的な『わからない』
これは,『わからない』と言ったら,『わからない』と言われた方が先に話すということです.
とまあ,指向性が違うのです.なのでわからないんだなあということがわかりました.これから言えるのは,相手がどういう指向性で『わからない』をいっているを私は知ることが大事だなあと感じました.
終わりに
『わからない』ことは悪いことじゃないので,『わからない』と言える人になりたいなあと思います.あとは少しずつ文章を書いて行きます.(雑談が増えるかもしれないけれど)
それでは良い休日をば.
最近のアレコレ
おはようございます。このブログは私がネットに残しておきたいことと箸休め的なもので構成されているのですが、最近箸休めな記事ばかりで申し訳ないなという気持ちの中、今日も箸休めな記事を書かせて頂きます。(数学の記事を真面目に書いてる途中なので…)
最近はなにをやってるかということとか書いていこうかなと思います。
Openframeworksを始めました。
見出しの通り、oFはじめました。自分のやりたいことに対して、私の持ってる技術があまりにも足りなかったので始めました。それなりにはプログラムの知識を持ってますし、数学基礎論で鍛えられたメタ思考は役に立ってるなと感じてます。実際まえに新しくプログラムの勉強始めた時よりも理解が早いなあと感じました。ただここでもまえにつまずいた問題が2つ来ました。
1つ目
昨今、プログラムの本やパソコンの本が溢れかえっておりますが、今までそれらの本をよんでいつも思うのが、なんで定義と性質を分けて書いてくれないんだと思うのです…(あくまでわたしの個人的な感想であり、そういったものを求めてる人は少ないかもです)と言いますか、どの本もパソコンのハードの前提知識やソフトウェアの前提知識を仮定してるのですが、むしろわたしが知りたいのはその仮定している知識の話だったりします。セルフコンテインドな本だったり、そこの知識がわからない時にこの本を参照するといいと書かれている本が少ないなと感じました。最近解決策が見えてきて「Write Great Code」を読めばいいのではという感じなりました。中身を軽く見た感じですが、良さそうな本でした。ただ、高い…
2つ目
中途半端な説明のブログが多いことです。
と言いますか、正確に言えば同じようなブログが多いのでどれを参考に書けばいいかわからないという問題です。自分が参考にしたい記事を探そうと思っても、この記事にはどこで動かすのか書いてない。この記事はOSが違う。そもそもこのブログ書いてる人わたしよりも知ってないじゃん…… などなど。そういう場合いいブログが後の方にいってるので、ああ淘汰されないかなあとラディカルな思想が生まれるのでした。(私もなるべくいいブログを書くことを努めたいですね)
そんなこんなですが、まあなんとかやれているので頑張って覚えたいです。こちらでも書いたcodeなどをつぶやけたらと思います。
よくよく考えたらそんなことしかしてなかった…笑
というわけでなんか少ないアレコレでしたが、箸休めになったのでうれしいです。
そろそろちゃんとしたブログを書きましょうかね。
それでは駄文失礼しました。
書を読みながら、街にもでよう。
タイトルは某山修司の某タイトルを意識してますが、ピュアにそう感じてます。
なぜこんなタイトルにしたかと言うと、先日大学の芸術学部の現代アートのアーティストでもある先生とお話をさせていただきました。
その時に言われたことをまとめたいなぁと思い、こんなタイトルになりました。
一連の流れとともに.
先生にアポイントを取ってみた
私が通っている大学は実は国立の総合大学で芸術学部もあるというとても稀有な大学です。(確かうちしかないはず…私立だともう少しありますが、まず総合大学で芸術学部がある大学は日本では少ないです)
今年の4月にその大学院に入学したのですが、芸術に興味があるので授業を受けたいなと思いました。実は大学院の授業はどこの研究科の授業も受けることが可能なのです!(指導教官の許可が必要)なので芸術専攻の授業も取ってみました。そして、どうせ取るなら今考えてることを先生に聞いてみたいと思い切ってアポイントメントを取ったのです!(安直な発想ですが、割と誰もやらない)
そしたら、先生がお時間を作ってくださってお会いできることになりました。(二日後にお会いすることに)
先生との談話
先生と会話をする前に私が作った作品を何個か見せてみました。全部の作品を見てもらうのに10秒もかかりませんでした。そして一言。
「これを見て、私はあなたをプロのアーティストどころかアマチュアにも達してるとは思えない」と言われました。
いやー、私的な文章になりますが、この瞬間かなり悔しかったです、本当に悔しかったです。(大事なことなので2回言いました)
そして先生にいろんなことを言われました。
- 圧倒的にインプットが少なすぎる
私には芸術の知識そのものがまだまだ全然たりません。実際芸術の真面目な勉強を始めたのは年が明けてからです。また、様々な作品に触れてこなかったこともあり、身銭を切ってでもたくさん作品を見ろ!と言われました。まさにその通りなのでぐうの音も出ませんでした…
- アウトプットの質の低さ
これは前から私も思っていたことです。作品として世に出すなら、それはクオリティを上げて出すべきだ。洗練されてなくては伝えたいことも伝えられない。というようなお話をされました。これはたくさんの展示を見て、アウトプットを学ぶことをするべきという前と同じ点になります。そして、展示や講評を重ねることですね。展示はともかく定期的な講評はされたいんですが…という悲しい状況です。
- 道は険しい
「プロを目指していこうと思ったら、今大体プロの現代アートで活躍してるのは100人いて、その中でトップは10人しかいない。そこに今から目指すなんて無謀すぎる」と言われました。当たり前といえば当たり前なのですが…でも歳のせいで諦めることはできません。
- 二足の草鞋では無理
これは私も思っていたことなのですが、今後数学をやるのか?芸術をやるのか?を選ばないといけません.博士課程後期にどちらかに進もうと思ったらどちらかの研究はできないぐらい厳しいです。なので今後どうするかを決めないといけないですね。「指導教官に相談してみるといいよ」と言われましたが、絶対無理だ…
まとめ
そんなこんながありましたが、先生と私の生き方や物に対する考え方はとても共通してました。人生は死ぬまでの暇つぶしとか、本は買って読まないとなど。また、数学の研究をしてる人が芸術に興味をもってくれることはとても嬉しいと言われました。私はなんというか、この方はちゃんと私を評価してくださったのがとても嬉しかった反面やはり悔しかった…
そのあと先生と「もし一年後何かできたらまたおいで。その時もし三秒見てられたら君はアーティストになれると思うよ」と言われたので、私は「三秒と言わずに三分見てもらいます」という売り言葉に買い言葉的な感じで来年に勝負するという話がついて終わりました。
そんなことがありまして、私は書を読みたいし、街にも出かけたいと思うのでした。
いろんなものを見て考えてアウトプットしたいのです。
それでは失礼しました。
アートと写真を分けてる理由
こんにちは。
これを書いてるときはとても良い天気でまさにはっぴいえんどです。
先に言っておきたいのですが、これは私の解釈であり、私による定義わけです。なので、皆様に押し付ける気はありません。もし何かおっしゃいたいことがありましたらそこを踏まえた上で言っていただけると幸いです。また、細かい誤謬がままあるかもしれませんが、大まかな流れは間違っていないと思いますので、細かい間違いがありましたら、言っていただだけると幸いです。
はじめに
と、前置きで大分クッションを置いたのは他でもなく今回の話題がある種地雷であるからと先に言っておこうと思います。
最近、知人に聞かれた一言からこれは書きたいなぁと思ったので書かせていただきます。
ちなみに言われた一言は『ただ撮ったのはアートにならんの?』でした。
まず、みなさんに聞きたいのですが、アートって何ですか?
これを聞かれたら、多分写真とか彫刻とか絵画とか…って言うかも知れませんね。
この答えにお答えする前にまずは現代アートの歴史を軽くお伝えしようと思います。
現代アートについて
印象派と呼ばれる絵画があるころ、完全な抽象派を目指そうという流れがありました。
それを目指そうと思ったのがカンディンスキーとマレービッチです。
カンディンスキーは芸術科学、特に数学的視点と美術における視点を行き交うことで、科学的に絵画とはを研究し、完全な抽象画を書こうとしてました。
ここから現代アートの種が植えられました。
そのあとダダイズムやシュールレアリズムというモダニズムが終わり、ネオダダやミニマリズム、アースアートといったポストモダンが来ます。*1
さて、ここで印象派と呼ばれるモダニズム前の絵画とポストモダンの作品との違いとはなんでしょうか?
それは作品の持つ役割の違いであり、「作品の自律性」と「自分の思想を媒介するためのもの」という違いです。
作品の自律性とは、作品そのものの価値観が揺るがないことを指します。
つまり、綺麗な絵画は誰が見ても綺麗だし、おどろおどろしい作品はおどろおどろしいものという印象を持ちます。実際、作者は「美しいものを作りたい」という気持ちで作っていたと思います。それがモダニズム以前の芸術作品の主な目的になっています。しかし、モダニズムを過ぎてポストモダンでは「自分の思想を媒介するためのもの」となります。有名な例として、ブルースナウマンの『coffee』などがあります。 *2つまり、作品単体の綺麗さではなく、作品を通して伝えたいことを伝える手段になっていっていきました。今ではリレーショナルアート、コンセプチュアルアート、キュレーショナルアートがメインになっています。もちろんこれらも基本的には作品は「自分の思想を媒介するためのもの」になっています。
そして分けてる理由
ここまで、今のアートの話をしました。ここから私がアートと写真を分けてる理由を。
一言で言うと目的と手段の違いです。
つまり、アートは目的は「自分の思想や言いたいことを媒介するためのもの」であり、手段として様々なものを選びます。しかし、写真の場合、目的はあくまで写真を作ることであり、手段が限られます。それが悪いというわけでなく、分類的に違うものは分けて話したいというものです。目的が「自分が綺麗だと思うものを撮りたい」、「言い表せない感情を写したい」ということもあると思います。しかし、それはあくまで最終的に作品にするのが写真の範囲内でしかないのであれば、それはあくまで写真でしかないということです。写真はスペシャリストでアートはジェネラリストという違いがあるのです。また、アーティストが写真を作品で用いるとき、写真を使うことに意味があり、作品としてその写真であることに意味がないことはままあります。(先ほどのブルースナウマンの『coffee』がそうです。)
何度も言いますが、写真が悪いとは思いません。私はいい写真が好きですし、写真集もよく買います。ただ、性質の違うものをまとめてアートと言うことがなんと言いますか、気持ち悪いなということです。ここでは写真でしか話を進めていませんが、彫刻や絵画でも同じです。
また、作品についても分類わけがあります。排泄物と思考物です。
排泄物とは何も考えないで、ただ作りたい、ただやりたいという衝動の元作る作品のことです。思考物とは、こういうのを作りたいとなった時にどうすればいいか?を煮詰めてつくる作品のことです。私はどちらの作品も好きですがどのような目的があってそれを作ったか?を自分の中で問う場合、これらを明確に区別して考えたいと思ってます。作品として提示するときに、この二つでは提示の仕方が変わりますし、見る側としても私は考える上で気にしています。ただ撮っただけの写真でもいい写真がありますし、考えて作った写真でもいい写真はあります。ただこの二つを自分の中で昇華させようと思った時に見方が微妙に違う、そういうことです。
最後に
長々と書いてしましましたが、大体書きたいことは書けたなあと思います。余談といいますか。最近自分がやりたいことは写真がやりたいのではなく、作品が作りたいのだなあとはっきりしたのです。なので最近はあくまで写真は私の中で手段の一つでしかないです。ただ、シャッターをただ切りたいという衝動に駆られた時のみ写真として写真を撮るということを行っています。こう言う違いが自分の中で明確にできてきました。なのでこう言うことを考えたくなるのかなあと…笑
またまた余談ですが、自分で自分のことをmathgrapherと名付けたのですが、割と面白いなあと最近気づいたので、いい名前をつけたなあと自画自賛してます笑
そういうわけで私が思うアートと写真を分ける理由でした。
長文失礼しました。
参考文献 "芸術"が終わった後の"アート" 松井みどり
マネタイズについて。
最近はなんとなく筆が乗る時が多いのでちょくちょく書かせていただきます。
タイトルのマネタイズという言葉ですが、英語で書くと、manetizeになります。お金、つまりmoneyに変えること、正確に言えば何かコンテンツを使ってお金を作ることを指してます。普段やってることといえば、勉強と研究という私が反対とは言わないにしても、お金をかせぐこととは無縁な私がなぜこんなことを考えているかと言いますと。
ついぞ先週、自分がやってることを人に話す機会があったので話させていただいたのですが。その時に言われたのが『今の状態から詳細にマネタイズする方法考えてる?』と言われたからでございます。実際、私も今自分がやってることがお金に変わればいいなあと思うのですが、やってることはやりたいことであって、お金になることではありません。売れるものを考えるというのは、作りたいものを作るとは別の力が必要になります。そうなった時に私は真面目にマネタイズができるのか…というか、マネタイズが学べるのか…みたいなことをたくさん考えています。
例えば、クラウドファンディングとかできないかなあとか、アドバタイジングが上手い人とタッグを組みたいなあとか、いろんなことに悩んでおります…笑
まあ常に人がやりたいことと世間のニーズが合うことなんてなかなかないわけでして。そしてお金が潤沢にあるなんてこともなかなかないわけです。そんな中どうやって稼ぐかというのは大事だなあと思うのです。
そろそろ大学も始まりますし、色々解決したらいいなあと思います。
いつでもパトロンになってくださる方は募集しておりますゆえに笑
それでは駄文失礼しました。
追記
ちょっと気分が変わったので、追記を。
昨日の自分は他人です。
上にこう書きましたが、バイトとかすればいいのではないの?とか言われるかもしれません。私もそうだと思います。実際売ることが目的でないならそんな感じになると思います。ただ、なんというかすごく贅沢なんですが、今考えてる、研究してる時間っていうのは机に向かってる時だけじゃなくて、ぼーっとしてる時や散歩してる時間も含まれます。それが削れるとしんどいんです。だから、できればバイトとかを入れないで考える時間に割きたいんです。という、大変我儘なことを考えております。
けど、真面目にかんがえてます。
終わり。