キャッチセールスの話

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東京に出てきた頃は東京の駅 の各所でキャッチセールスが 横行していて、いも娘のわたしは標的であった。

 

騙されている、丸め込もうと している、というのは分かっていてもNO ✋ と言えない日本人代表のわたしは長々と話 を聞いてしまうことがしばしば。 声をかけられて反応する、道 端で立ち止まってしまえばも う相手の思うツボ。主導権を 握られ相手のペースにハマる と事務所に連行。そうなれば 諦めてちゃんと断れなかった 自分を悔むしかない。

 

〝せっ かくの休日にショッピングで も″と街に繰り出したのに2、3 時間拘束される。そして最後 までイニシアチブを握られた ままならカモになってしまうしかないのだ。

物販ローンを 組んで10万円~20万円程度の 美容グッツを買ってあげたことも2、3度あったっけ。

 

上手い営業トークに負けたと見えるだろうが、毎回同じ説 明を繰り返す担当者の話しを 聞きながら考えていると「これを言えばおちる」マニュアルがあってそこで落ちてあげ ないとここまでついて来てお茶も出してもらって部屋も一 部屋2、3時間占領して買わなかったら後でこの人が怒られるだろうなーとか考え始めると生活に余裕があったわけではないが多少貯蓄があった学生のわたしはこれくらいなら 貯めた貯金捨ててもいいか思考に侵されて騙されてあげた。

 

あれもマインドコントロールテクニックなのだろうか。「騙されてあげた」「社会経 験!」と自分に言い聞かせて るが結局買わせたのは向こうであちらは「してやったり」 なだけなんだけど。

 

もちろんクーリングオフも利用できた が担当者が同じだとわたしの性格的に利用しづらい。

 

こんなこともあった。1度エス テの営業で相手のペースにハマってしまい事務所に行ってしまった時、担当に現れたお 姉さんの肌がとても汚く少し太めの方だったことがある。

 

年齢も多少いってらっしゃった印象で当時のわたしから見たらお姉さんというより風貌 もおばさんだった。営業トー クは上手く若い女の子の心を騙す(おっと、掴む、です ね。)のが上手い方なんだろうな、と話を聞きながら感じていたがさすがにその時は強 い心で帰らせて頂く。

 

ノリの悪いわたしに帰り際はとても冷たかったし「今ケア しとかないと将来後悔します よ」とまで言われたが説得力のなさに言い返しそうになる のをグッとこらえて帰ったの を覚えている。

 

その時代はいろいろなキャッチセールスが横行していたと思うがわたしが良くカモにさ れたのは美容系だった。よっぽどの容姿だったのかと思う と今更ながら恥ずかしい。

 

だが、一度新宿駅で怖い思い をする。 歩いているといつものように 声をかけられた。黒いスーツ のシュッとした男性だった記憶がある。無視して歩き続けるがしつこいため「急いでいてすいません。」というと手 を掴まれ引き寄せられて「嘘を掴まれ引き寄せられて「嘘つくんじゃねーよ。」と言われた。

 

その時はなんとか逃げ切った が、あれはそのままどこかの事務所へ連れていかれてたな ら高額な絵画や壺などを買わ されていたような気がして、 思い出した今でもゾッとす る。

 

キャッチセールスで使ってし まったお金の別の使い道について考えてしまうこともある が、全く役に立たないわけで もない美容機器やエステに引っかかっていただけ可愛いも のだと思う事にできる思い出だ。

 

最近では夜に池袋の駅で友人を待っているとAVのスカウト にあった。友人を待っていると声をかけてきた男性に答えると「お金に困ったら電話し て!」と名刺を渡された。

 

今の時代はいろいろマニアック ものがあると聞くがわたしをいくつだと思っているのだろうか。そしてお金に困ってい そうな風貌に見えたことも悲しい。

 

東京に住んで10年以上 になるがいも娘感が抜けないのはもはや素質でどうすることもできないのだろう。

 

総合して言えることはやはり、 東京で生き抜くためには強い 意志と心が必要である。

自分自身をしっかりもって意思表 示をしていかなければ負けてしまう。

他人への優しさなんて街中には転がっていないのだから。

まだまだ断り下手なわたしであるがあの頃より回避方法を心得た。

やはり経験は物を言う。

赤羽駅~郷愁と追想とノスタルジー

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駅というと、電車の駅を想像する人がほとんどだろう。
私の場合、住んでいる場所が電車の駅から離れているので
バスを使うことが多く、最寄り駅はバス停ともいえる。

子供のころ、バス停からバスに乗って冒険したいと思ったのは、赤羽駅だった。なにしろ、バスに乗って終点が赤羽駅だったので、迷うこともなく、当時小学生だった私も友達に誘われてよく赤羽駅に行っていた。

 

当時の赤羽駅は、今のように高架になっておらず、踏み切りは開かずの踏み切りと言われて、おそろしく渋滞していた。東口に店舗が集中しており、バスから降りると東口に買い物に行っていたことを思い出す。今は西口のほうが大きな商業施設が建設されてお洒落な雰囲気が漂っている。

 

当時の東口は古さと新しさが入り混じった不思議な場所だった。昼間から酔っ払いがほろ酔い気分で歩いていて、私たち子供が大きな声で話していると、後ろから大きな声で怒鳴られたものだ。道を何人かで並んで歩いていても怒られた。

 

あのころは、怖いおじさんやおばさんがたくさんいて、実の親よりも世間の常識を教えてくれた。親から放置気味で常識を知らず、ありがとうやごめんなさいが言えなかった私も、こうして世間の常識を学ぶことができたのだ。

 

ただ、昔を知っている父親からは、『赤羽は昔、赤線って言われていて、売春婦がたくさんいた・・・赤羽駅の少し先の浮間のあたりの荒川には追いはぎが出ていた・・・あのあたりはとにかく物騒だった』という悪い噂しか聞いたことがなかった。今では若者の住みたい街に選ばれる赤羽も、遥か昔はいろいろな歴史があるようだ。

 

最近、赤羽に行ってみたが、駅も町並みも変わっていて当時の面影はほとんどなかったが、東口の繁華街には古いお店がまだまだ残っていた。私の母親よりも年上であろう女性が切り盛りしているお店も多く、高齢者にも優しい街だなと思った。若者と高齢者が仲良く住める街、赤羽は、今でも訪れると甘酸っぱい記憶がよみがえり、しばしノスタルジーにひたれる唯一の街である。

新宿駅の標識が苦手な話

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「こ#$%ト*#$%’で(‘&%$#」

なにを言っているのかよくわからないが、子どもらしくあるべきだと思った私は、「はい!」と言ったら、大きなスクリーンの前に連れていかれたことがある。

今思い出して見ると、ゲームのイベントだったようで、スクリーンを前に大きなステージが作られ、一番端にあるPlaystationのコントローラーを握らされた。

握らされたタイミングで母が現れ、すぐに私の腕を掴んでステージから下ろし、逃げるようにしてステージを後にした。

 

18年前。

私がまだ11歳の頃である。新宿駅で、道に迷っていた。

矢印に沿って歩いてもたどり着けない目的地。そそくさに歩きぬける、特徴のない見た目をした人々。屋台のような、でも、食べ物を売っている様子がないお店。ー携帯電話をタダで配っているようだったー

ビックカメラに行こうという父の提案で、それが何かはわからないが、数年ぶりの両親とのお出かけにワクワクして、ついて行った時のことだった。

当時は埼玉県に住んでいたため、埼京線新宿駅へ。何口店なのか記憶に定かでないが、ビックカメラに向かうべく、家族みんなで、目的の出口が書いてある駅内表示を目印に歩いた。

しかし、一向に着くはずもなく、言葉がうまくわからず聞くこともできない私たち3人は、同じところを何度も通りすぎることとなった。ーわからない人には冗談と思われるかもしれないが、新宿駅は標識通り歩いても辿り着けないのだー

多すぎる標識、多すぎる自動販売機がダメ押しとなった。

気がついたら私は一人でよくわからないところに座り込み、床を歩く人々の靴を見ていた。

今思い出すと、床には、「立ち止まらずお進みください」と書かれていたようだった。

親を見つけられないと家に帰れず、死んでしまうため、腰を上げてウロウロし始めた。

泣くなんてとんでもない。一人でいるというだけのことに、泣く余地などないからだ。

叫ぶなんてとんでもない。どんなお願いをしたらこの無機質な世界で救いがあるのかわからないからだ。

膝小僧から少し痛みを感じた頃、爽やかな男の人がよくわからないことを言いながら声をかけてきた

その声で子どものふりができた私は、無事、母に腕を引っ張られることとなったのだった。

今でも新宿駅の標識をまっすぐ見ることができないし、見てもよくわからない。

しかし、どこを指しているのかよくわからない標識を見ていると、当時のことだけは鮮明に思い返すことができるのだ。