11/12 セシル・テイラー+田中泯@京都コンサートホール

 京都賞を非クラシックの音楽家として初めて受賞したセシル・テイラーの記念公演。セシル・テイラーのコンサートはもちろん初めて。田中泯は2回目(前回は素夢子 古茶家でカン・テーファンとのデュオ)。京都コンサートホールは2階のパイプオルガンが配された大ホールではなく、3階の小ホールが会場。もちろん満員。

 

 まず、細川周平による挨拶があり、個人的なセシル・テイラー体験を交えながら、受賞者の芸術的業績を語る。こうしたセレモニーでは司会者が受賞者の経歴に無知・無理解であることもしばしばで、開演前から客席しらけさせてしまうことも少なくない。しかし、10分程度ではあるが、簡潔で敬意に満ちた紹介は、セシル・テイラーの音楽を知るものにとっても、知らないものにとっても、過不足なく優れたものだった。

 

 そして開演。木漏れ日を思わせる照明の下、中央にピアノが配され、セシルが下手、田中が上手に立つ。セシルは太極拳の師範のような白い衣装、対照的に田中は黒い衣装。

 セシルがゆったりと、スローモーションのような緩慢なテンポでダンスをはじめる。ピアノは弾かない。あれ、と思う。だが、ゆったりと、ゆったりと、中央のピアノの方に近づいていく。田中の方も動き始め、こちらもゆったりとピアノの方に近づく。田中の方が先にピアノに到達し、今度はピアノから離れ、元の場所に戻り始める。能?あるいは超絶スローモーションの「だるまさんがころんだ」・・・?

 そして、今度はセシルがピアノに到達する。ピアノに置いてある譜面とおぼしき紙を取り上げる。が、ピアノは弾かない・・・。紙を見つめながら何かを叫び始める・・・。詩の朗読?だが私にはなにを言っているのか聞き取れない・・・。そして、一通り朗読が終わった後、おもむろにピアノの前に座り、弾きはじめる・・・。ピアノを弾き始めるまでに、40分以上経過している・・・。

 ピアノの奏法について専門的に知らないが、明らかにタッチがか弱く、演奏速度もおぼつかないようだ。そして15分程田中のダンスにあわせて演奏し、徐々に照明が落ちていき・・・二人とも退場。

 

 まあ、84歳なのだし、もう体力も限界だろうし、それでも京都に来てくれたのだし、良かったではないか・・・まあ、ダンスは体力がない中でパフォーマンスをする方便かな・・・後半はあるといっても終演予定時間まであと20分もないんじゃないの、時間ないけどなにするの・・・?とぼんやり休憩中に考える。

 

 15分ほど休憩を挟んで後半が開演。下手から二人が現れ、前半とはうってかわり、てきぱくとした足取りでセシルはピアノに、田中は上手につく。田中が踊り始め、セシルがピアノを弾きはじめる・・・。そのピアノの感じはなんというか、あの感じ、なのだ。あの、60年代、70年代の録音で感じられるような、フレーズの下から次々と新しいフレーズが間断なくわき上がってくる、あの感じなのである・・・。前半の頼りない印象は嘘だったのか?だが、セシルは時折田中方に目をやりつつ、手の平、甲、肘を使いながら、強靱なタッチで、しかも優美に弾き続ける・・・。気がつけば終演予定時間を40分程オーバーしていた。

 

 後半を見た目で思い返すと、前半も衰えた芸術家のはぐらかし以上ものがあったのだろうと了解される。コンセプトとしては、前半が静、後半が動だったのだろうし、総合芸術家としての自分をみてほしいという、セシルの思いもあったのだろう。しかし、前半で行われたものがなになのか、私にははっきりと言語化できないのだが・・・。そして、後半の演奏にはただただ打ちのめされる・・・。ただ、時間感覚の振幅をセシルは感じてほしかったのかも・・・とは思う。極限まで引き延ばされたダンスの時間感覚から、ピアノの微細を極めた打鍵の時間感覚まで。

 

 セシル・テイラーが非常に黒人意識の強い人だということを、初めて知った。あの世代の黒人芸術家なら、当然ともいえるのだけれど。音楽の黒人性をブルースやファンクに見いだしてしまうようなクリシェからすれば、セシルの音楽はそうした紋切型からはもっとも遠い。そのセシルが音楽で表現したかった黒人性とは何なのか?そうした問いも将来ぼんやりと思い出すのかもしれない。何にせよ、解けない謎に満ちたコンサート。すばらしい。

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アキサキラ

アキサキラ

 

 

はてなダイアリー

はてなのブログサービスだと、「はてなダイアリー」と「はてなブログ」とが共存しているのだが、昔からやっている人は皆「はてなダイアリー」なので疎外感。

はてなブログ」だと、キーワードから辿ってくることもできないみたいだし。

なんとかしてください。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』

 ボルヘスとの共作で知られる作家の1940年発表作。

 犯罪によって無人島に逃れた男の前に現れる謎の美女とその顛末。二つの太陽、二つの月、潮が満ち水没する島、丘の上の博物館、モレルの作り上げた機械。
 
 読みながら、デフォー『ロビンソン・クルーソー』(無人島での独我論的世界)、サルトル『嘔吐』(孤独な男による手記)、ファウルズ『コレクター』(美女への一方的な思慕)、カフカ『城』(自己を超越した理解不能なシステム)といった作品を想起。クエイ兄弟による映画化『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』があるらしいが未見である。
 
 「モレルの発明」=「ホログラム」なのだが、「ホログラムもの」はアニメなどを通じて経験的に知っている(大友克洋『メモリーズ』など)ので、主人公の前に現れる人物がホログラムであることも途中で予測できてしまう。発表当時だとこの舞台装置は意外だったのだろうか?
 
 自らを撮影し、オーヴァーダビングしてホログラムの中にその像を閉じこめて男は死ぬ。女と永遠に一体化するために。
 
 一人称の独白は必然的に「信用できない語り手」問題を内在するけれど、この作品も結局主人公の男の書いていることが、どこまで本当かはわからない。確かなのは女への愛だけ。
 
 「だがもしかしたら、われわれは愛する人が幽霊として存在することを、いつもこころのうちで願っていたのではないだろうか?」
 
 
 
 
  いつも思うけど日記体小説って、先に進むにつれどんどん日記っぽくなくなるね。こんな日記を書く奴はいない。
 
モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

 

 

9/8 phew+高橋悠治@磔磔

phew高橋悠治、なんて心躍る組み合わせだろう。

 

事前に一部発表されていたブレヒトの歌曲を中心とする演目からすると、「水牛楽団」の延長のようなものになるのかなと思いながら会場へ(水牛楽団の音源は以下のURLで聴くことができる。http://nicoviewer.net/sm7302297)。

 

一曲目は意外にもマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」。ジャンヌ・モローのドスがきいた低い声で歌われるこの曲、phewが歌うとどうなるのか…と思いきやさほど違和感がない。phewの生家は『インディア・ソング』の舞台、あのコロニアル建築のようなブルジョワ家庭だったのでは…と勝手に想像したりもする。

 

二曲目はブレヒト「自殺について」。この曲以降ブレヒトの歌曲が中心。原詩のまま歌うので曲を聴いているうちに日本語で詩の内容を追えるわけではない。しかし時折はさまれる日本語の曲(高橋悠治の曲?)と併せると、民衆の生活と抵抗をうたったものであろうことが了解される。

 

phewはエフェクトのかけ方が異なる3本のマイクを使い分けながら歌唱。高橋悠治はグランドピアノと足ふみオルガンとを曲によって使い分け。

 

印象に残ったのは、ドアーズの「ジ・エンド」。ジム・モリソンの激情的な叫びではなく、phewならではの醒めた、特異な抑揚の付いた歌声で歌われる。

 

phewのコンサートはbig picture@京都精華大学、five finger discountレコハツ@心斎橋クアトロ、phew+山本精一磔磔に次ぎ4回目。

高橋悠治のコンサートは高橋悠治+富山妙子@京都精華大学に次ぎ2回目。

 

それにしてもそのたびごとに特異な体験をさせてくれる人たちである。録音音源熱烈希望!

 

 

高橋悠治の風貌からいつもニホンザルを連想します。