今日も生きていこう

思慮深い(考えすぎな)早稲田大学文学部3年生の女が、「実践運動家でなければ哲学者になれないし、哲学者でなければ実践運動家にもなれない」という言葉を受けて、実践の一つとして試みるブログです。

助けて

つらい。

 

自殺はしてはいけない。

 

でも、生きていくには何かをしていなければならない。

 

活字も読めない。

頭に入っていかない。

 

文章も書けない。

 

こんな、薄っぺらい文章しか書けない。

 

私がつらいなんて、誰も聞きたくないよ。

どうでもいいもの。

 

有益な…言葉………

 

 

ああ、やばい。やばい。

めちゃくちゃ、死にたいぜ、、でも痛いのいやだよなあ。

 

文章が書けない。

文章から離れるべき?

幸せ…に生きるとは……わからない。

 

不幸の再生産。不幸の再生産。

 

夜ですね

皆さま、生きてますか。

私は生きています。

 

狂人という定義とは何でしょうね?

私は狂人として生きられないならば果樹か何かになりたいです、枇杷の木なんて、いいですね。

 

田村隆一さんの、「帰途」という詩を知っていますか。

とても良い詩です。

 

言葉なんか 覚えるんじゃなかった

 

ね、そう思うよ、毎日。

 

最近はバタイユ『エロティシズム』を精読していますね。

依ると、エロティシズムとは、死に至るまで生を讃えることなんだそうな。

 

からだも伴わないと、身にならないからね、全部を見つめないと、私も。

 

あと梶井基次郎檸檬」すごく良いね。

女子高校生と呼ばれていた頃初めて読んだのだけど、当時はさっぱり意味がわからず困惑したのよね。なぜこの作品がこんなにも推されているのか…!?さっぱりわからんよ…と。檸檬をデパートに置き去りにして何が楽しいねん???と、ただただわからなかった。

うん、私もその時とは変わったんだね、感動してしまった、苦しくて清潔で。

「カーン」っていう擬態語がクライマックスでそ知らぬ顔で使われているのは、ちょっと愉快でしたね、いい意味で。一種のカタルシスを感じた気がしました。

 

あとは谷崎潤一郎も読んだ。

良いけど、『卍』はちょっと、男性から見た女性像という入れ物を取り払うことはできなかったのねと、いや、男性からみた女性の姿を書くことも批判はしないです、けれど、安易な部分もあるよなあと思ってしまった。

 

伊豆の踊り子』も読んだ。

情景がすごく、頭に浮かぶ、私は知らないことが多すぎるなと、改めて感じたけれど(植物の名前や、建物の構造の名称、そういう名称を知らずに生きることができてしまう世の中よ…なんとまあ画一してしまって、本当に心は暗くなる、情緒を失ってしまうのかな私たち、これからの私たちも)。

 

 

色々あったのだけど、今後は文学にとどまらずに学んでいく。

特に、美学(美術)、あと建築。

 

これは学ばなければならない。

 

やっぱり、総合的な知を身につける努力をしなければならないし、したいんだわさ、

 

それがなんとまあ、難しいことになってしまった今の世の中よ。

細分化に次ぐ細分化。なんでこんなに専門ばっかりつくってしまったかねえ……

まあ仕方ないのだけれどもさ、そうだとしてもこんなに細分化してたら希望(若き)を失って死んでしまう人増えますよ。もう何から手をつけてええんかわかんねえよって言ってね。あかんです。

 

あとね、沈黙。

沈黙がないがしろにされすぎているね、今。

特にソーシャルネットワークサービスとやらのおかげでね。

時代との折衝を常にはかりながら、知を深める努力をしなければならないのはわかっているけれど、時としてウンザリしてしまうね。

 

 

さて、

 

私は沈黙を好むしおそらくしばらくの間は選ぶ。

 

 

あなたは何を選択しますか?

 

生きている間に。

 

より、充実した問いを立てられるようになるために。

 

 

もうこんな夜も更けてしまいましたね。

いい夢をみてください、私も、みなさんも。

 

 

文体を壊すんだ!!!!!!

支離滅裂でもいいんだ!!!!それも意図の一つ。

 

最後にささやかな不安

月経が遅れている、不安…

避妊具つけたけどね、漏れていたとは考えたくないね、こんなことで不安になりたくないですよね!

 

ああ…おそらく大丈夫だと思うんですけど、、、

ではまた、生理が来ることを祈って(苦笑)

 

 

 

 

 

 

これからも

今日は妹の体育祭に行った。

妹は高校三年生で、地元の共学の高校に通っている。

制服も可愛くて、青春がしたいのならここ!というような高校だ。

 

手作りの可愛い衣装を着て(男の子も女の子も)、みんなで声を合わせて踊っていた。

みんな可愛かったな〜、男の子も女の子も。

私は女子高に通っていて、今までは私には女子高が向いていたなって常々思っていて共学の高校に対するアコガレのようなものはなかったけれど、今日体育祭で高校生のキラキラしている姿を見て、やっかみとかではなく純粋に、「キラキラしているっていいな」と感じた。

 

きっと、私は共学の高校に通っても「青春」のようなものからはできるだけ遠ざかって過ごしただろうなとは思うけれどね。

あとは、女子高に通っていたからこそ今の私があるんだな、って、やっぱりまあ、思う。

 

異性の目がない、ということは、予想以上に個人の人格を育て(てしまう)るのよね。

 

 

今は父親は仕事、母親は飲み会、妹は打ち上げ。

家には私一人だ。

オムライスを作って、ビールを飲んで、録画していた『家ついて行っていいですか⁉︎』を見た。

『家ついて行っていいですか⁉︎』は私の一番好きな番組だ。テレビはあまり好きではないのだけれど、『家ついて行っていいですか⁉︎』とNHKの『ドキュメント72時間』は好きで毎回録画している。

テレビは、与えられたものをぼーっと見ている、というか、受け身な姿勢になってしまうツールなのであまり好きではない。本当に、私は意固地な人間なのかもなと、思う(笑)

 

その点、本は良い。読むことを選択しているのはいつでも、他ならぬ私自身。

 

それで今は、ご飯も食べ終わって、いい気持ちでテラスの簡易椅子に座っている。そしてタバコをくゆらせる。ウィンストンホワイトの3ミリ。いろいろ試した結果、ウィンストンホワイトの3ミリが私に一番合っていることがわかった。

 

涼しくなったものね。

9月。

時はどんどん経過してしまう。

 

誰もいないので、テラスで短パンとパンツを脱いで、放尿した。気持ちいい。

 

 

昨日、真夜中に田口ランディさんの『モザイク』を読んだ。良かった。

そして同時に、エッセイ『根を持つこと、翼を持つこと』も拾い読みした。

 

最近は、強がって(?)偉大なる(世間ではそう認識されている)作家の本ばかり読むことを自分に課していた。

トォマス・マンやら、ジャン・ジュネやら、三島由紀夫やら、大岡昇平やら…

もちろん、その人たちの作品も、好きである。

けれども、やはり自分を律して読まなければ小説の中に入っていけないことが大半なので(偉大な作家というものは、頭が良いようだ)、少し疲れてしまったのもまた事実。

 

そこで、図書館で偶然手に取った田口ランディさんの本を借りてきたわけだ。

あと、田辺聖子さんの本も。

 

 

それで感じたこととして、何も肩をいからせて、常に身体に力を入れて文学に向き合うことを自分に強制する必要はないな、と。

 

読んでてすごく伝わるのだが、田口ランディさんのエッセイからは、書くことが楽しい!という気持ちがほんのり届いてくる。それだけでもなんだか私も嬉しくなる。

私は、自分の生活態度を、世に言う「文豪」の人たちに合わせようとして必死だった。

だから、世界のあらゆること、政治や経済や哲学や歴史や地理…を自分の中に取り込もうと、この1年間必死だった。だけど、知らなければならないことが次から次へと出てきて、私は息も絶え絶えになっていたのだと思う。

しかもそのような勉強は、一朝一夕に身につくものでは決してないから、私は1年間歩んできた道筋を見てそのちっぽけさに悔しくなり、そしてこれから学ぶために歩まねばならない道を見てその途方もない長さにため息をついた。

 

自分が、何よりも感情だったり、直感を大切にしていることが、なぜか後ろめたくて、それだけではない自分になろうとしてもがいていた。

 

けれど、最近もう少し、リラックスして人生を生きていってもいいのかな?と感じ始めていて、まさにそんな最中に、田口ランディさんのエッセイを読んだ。

 

文学賞をとらなければいけない、

誰もが絶賛する小説を書いて自らを証明しなければならない、

 

そういう考えにとらわれていた私。

 

 

だけれどそれは、やっぱり違う!

少なくとも私にとっては、違うなって、思った。

 

 

ささやかながら、書くことで、物事をちょっとでも冷静に考えることができる、誰かの気持ちをちょっとでも楽にすることができる、

そういうことを、していきたいなって、思った。

同時に、自分のためでもあるとは思うけれど。

 

 

あとは、前からいいなあって思っていた本屋さん(かもめブックスというところ)が、なんと!求人を出していて(併設されたカフェのバリスタではあるけれど)、そこで働きたいなとすごくすごく思っている。

 

しかし、週3〜5日働ける人という募集要項で、私は大学の授業もあるので行けても週4、できれば週3にしてもらいたいと思っている。

しかも、エスプレッソマシンでコーヒーを入れたことのある人という条件があるが、私は知人の家で知人がコーヒーをマシンで入れるのを見ていたことしかない…(しかもその光景をすっかり忘れていて何も覚えていない)。

熱意はあるけれど、不安しかない。

 

また、ゆくゆくはメインのメンバーとしてお店を一緒に作っていってもらいたいと考えています、と書いてあって、私自身も卒業後にそこで働くことを考えてはいるけれど、100パーセント絶対に働きますとはどうしてもまだ、言い切れない。

 

さらに、今現在働いているとある展望台の職場で仲の良い人が、その人の知り合いの作曲家がつくる歌の歌い手さんとして私を誘ってくれている。

そういう、いわば、ミーハーなお誘いに惹かれている自分もいる。

かもめブックスで働きたら、時間的な余裕の問題でその活動はできないだろう。

 

 

でも…かもめブックスで働きたいなあ。

本当にそう思ってしまう。

先行きは不安だけど。

 

 

なんだろう、やっぱり、縁なのかな。

 

縁があるところに行くしかないかな。

 

 

うう、とりあえず、工夫して履歴書書いて、かもめブックスに送ろう。

それがどうなるか、時間が経ってみないとわからない、縁があるかもしれないしないかもしれない。

今は私の気持ちに私は従って、履歴書をかこう。

 

 

また、雨が降ってきましたね。

 

それでは。

 

 

カミュ『転落』

カミュの作品で、『転落』というものがあります。

 

正義感に溢れた人望のある弁護士であった主人公が、「社会的」にタイトル通り転落する。すなわち、弁護士としての名声や、それに付随していた何もかも、弁護士としての「彼」に備わっていた人間としての性質も含めて全てを、失ってしまう。なぜなら「転落」以前の彼は、彼の生活は、どのような自分であることが自分にとって快いのかを知っていること、それを意識してか無意識のうちでか、彼自身にもどちらなのか明確にはわからないまま、"そうあるべき自分の姿"を実践することの上に立っていたから。

"そうあるべき自分の姿"であったはずの理想の自分が、いつのまにか彼を越えて、一人歩きをしていく。そして、彼の心の中から決して捨て去ることのできなかった何かが、そのような"あるべき自分"に耐えられなくなり、最終的に「転落」する。

そんな、今となっては場末のバーの常連でしかない彼が、そこに偶然やってきたお客さん(それは私たち読者であるかもしれない)に、独白するとうスタイルで小説は進行して行く。

 

「転落」以前の主人公も、社会的に成功していること、人あたりが良く常識的な正義感溢れる自分であること、そのほか皆が羨むような自らに備わった美徳……など、そういうものを虚しいと思ってしまう自分をおそらく、心の奥底では知っていた。

 

彼は今、昔存在していた自分自身のことを、遠くから見て、自分のことではないかのように、あざ笑っているように思う。

しかしその、どこか投げやりな姿勢に、私は切なさと人間に対する深い洞察と優しさを見る。

 

心から優しい人間だから、自らが心の底では違うと思っていた生き方を、しかし世間的の人々からの賞賛の視線を集める自分自身の姿を、最終的に許せなかったのかもしれない。

 

私はカミュの『転落』を読んで泣いた。

 

 

「人生が好き」

この男の、思わずポロリと出てしまった、目をそらしたくなってしまうような丸裸の本心。消せなかった思い。

ここを読んだ時、心に衝撃が走って、目眩がした。そして、泣いた。

しばらくこのセリフがページから浮き出て見えた。

人生が好き。

ああ、私もそうだ。

 

 

カミュは自殺を否定していた。

カミュ自身も自殺はしなかった。

 

過去に生きていた私が自殺しなかった理由も、生きることを選択した理由も、「人生が好き」ということと深く繋がっているんだ、そう確信した。

 

 

私も人生が好きだよ。

人間も好きだ。

だから、

 

だから、

人間の手で地球を終わらせてしまうことを少しでも避けられれば。

わけのわからない不幸を、なくせたら。

 

 

自分ができることはなんだろう。

文学に、どういう形で関わっていこう。

人と本を繋げたい。

 

 

 

 

 

 

好きな小説

好きな小説をもとに、考えてみるか…

 

でもとにかく言えることは、私は、自分の意思で生きていきたいということ。

誰かの不幸の上に立つ幸せはできるだけ避けたいということ。

死にたいと思っている誰かに、あとちょっとだけ生きてみようかなって、思わせることができるような人生を歩みたいということ。

 

 

☆好きな小説(存命の方)

吉田修一「さよなら渓谷」

 

絲山秋子「ばかもの」「海の仙人」

 

山田詠美「ひざますまいて足をお舐め」

               「姫君」  「ジェントルマン」

 

平野啓一郎「決壊」

 

村山由佳「ダブル・ファンタジー」

 

多和田葉子「文字移植」

 

 

うーむ…

また今度、一作一作紹介でもしようかな。

 

 

わからない。人生…生き延びてきた人生……

 

縛られて?いるの?無意識に?

安全地帯か

 

浅草ロック座

先週の土曜日、初めて浅草ロック座に行きました。

 

本当に心の底から感動しました。

 

特に、灘ジュンさんと南まゆさんが素敵でした。

灘ジュンさんが引退ということで、ファンの方々が花束を渡していたのですが、それを見て泣きそうになってしまいました。

 

踊り子さんたちに本当に憧れました。

 

お客さんの作り出す優しいというか、あたたかい空気にも感動しました。

踊り子さんたちも、お客さんのことをすごく大事に思っていることがわかりました。

 

 

私もあの舞台に立ちたいと思いました。

その気持ちが離れなくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。

 

ストリップは、言葉のない芸術です。

肉体と美と魂の芸術だと感じました。

あとは、人生そのものを見た気がしました。

本当に素晴らしかった。

 

良くも悪くも言葉にこだわってきた、言葉に苦しめられて同時に生かされてきたわたしという人間が、ストリップに心を奪われたということは何を意味するのか。

 

私は、

 

どうしたらいいのかわからない。

 

自分がわからない。

 

 

 

本当は世間を気にしないで生きていきたい。踊り子、さらにはAV女優に憧れているけれど、なってはいけないのだろうか?

 

家族を悲しませるのだろうか?

 

プライドを持って、プロになるというのでも、家族は悲しむだろうか?

 

 

わからない。

 

小説も頭に入らない。

 

生きるために、私は。

私は…