林檎時計。

イトコがやっている劇団がやってた、ずっとずっと前に見た
芝居「林檎時計」をこのごろよく思い出す。

最初、見たとき、すごくよかったと思ったけど
意味がわからなくてイトコに意味を聞いたという、
なんとも間抜けな思い出があるけど・・・。

すっごく簡単にいうと、
(でもすっごく昔に見たのでうろ覚え)ある博士みたいな
人が、タイムスリップできる装置も使って、
数人の人たちで永遠に繰り返される謎解きの物語装置みたいな
ものをつくったというストーリー。

登場人物は、何度も何度も同じストーリを繰り返させられて
いるので「なんだか前にもこんなことがあったような・・・」
とか思いながら、その装置の謎を解こうとする。
解けると、また謎解きの物語が最初から始まる仕掛けになってる。

最近、この芝居って、まるで人生そのもののような気がして
すごくよくできていたよなあと感心するのだった。

少なくとも私の人生は、潜在意識のパターンのくりかえしの
ような気がしてならない。
心理学的には 布置 っていうのかな。
布置、多すぎる。
ずっとずっと無限ループにいたいのかなー。

人生でほんの何回か、どこまで外側のループかわからない
けど、そのループに気がついたことがあって、
気がついた瞬間というのは、すごくよい感じなのだった。

クリストのアートはメソッド?

最近繰り返し思うこと。

一時期、なんでもかんでも、町の一部、橋とかを
白い布とかで覆っちゃうクリストが流行ったけど。
実は、私の故郷(?)は、クリストのパラソルに覆われたことがあり
私はそれを見なかったのだけれど(すでに上京していたため)
クリスト自身が「覆っていたものが取り去られた時の
気持ちを大事にしてほしい」みたいなことを言っていた、
と、かいま聞いた。

たとえば見慣れた橋が白い布でぐるぐる覆われていて
しばらく覆われていて、
でも、ある日とつぜんその白い布が取り去られて
もとにもどったとき、
それって、心のなかで起きる「気づき」の瞬間に似ていると思う。
または、いろんな影響を受けて見失ってしまった
本来の自分をとりもどしたとき、
という感じ。

これを、でっかい建造物でやると、
案外、それを見た人の心には「気づき」がおこりやすい
んじゃないかと思う。
心の中と外側に見えるものは連動するからね。

そんなことを考える。

「感化」について。

5年くらい前まで自分のある部分にはひじょうに無自覚で
そのころカウンセラーに
「もともと感受性がすごく強い」と言われた時も
「そう?」という感じだったけど

最近、仕事をしていて「あ、やっぱり感化されやすいのかも」
と実感するのは、取材テープなんかを聞いて
原稿を書いていると、詳しくない分野のことでも
なにを言っているかはわかる。というか、だんだん
わかってくる不思議さ、みたいなものを自覚。

自閉症の次男がかつて思うようにしゃべらなかったときも、
なにを言ってるかはひじょうによくわかった。
これは、たぶん、飼っている猫が言ってることがわかる、
というのと同じレベルだったと思う。

たとえば、ネット検索なんかも、
それまでうまいキーワードが見つからなかったのに
カウンセラーと話したとたんに、直接は疑問を話題にしてない
のに、バッチリ検索できるようになっていて
知りたかったことがわかる、ということは多い。

だから天才の側近とかだったらすごく面白く過ごせそうな気がする。
しかし、基本的には私は自家発電しないタイプだろうなぁ。

少し前に、仕事で出家されている方と二日続けてお会いした。
最初からちょっと「感化」を楽しみにしていたのだが
視界キラキラは当然のこととして
二日目に帰ろうとしたら、携帯電話が「圏外」だった。

あとから考えると電源入れなおせばよかったんだけど
ずっと、ずっと「圏外」のまま。
(すぐにドコモショップ行って直したけど)
みんな退勤ラッシュでがんがん携帯いじっているのに
私だけ圏外。って、まさに出家という感じだよなぁ〜
としみじみ。変な感化のされ方、もしくは偶然、
それはどっちでもいいことなんだけどさ。
ちょっと自分内でヒット。

金曜日の現実逃避♪

不動産広告の間取りを眺めるのが私の楽しみ。

かつて、とくにマンションの広告ツール一式を
よく仕事でやっていた経験から、私は少しだけ図面を読める。

まぁチラシには寸法数字とか、設備記号とかないし、
よくわからない部分も多少あるけれど
イメージはできるから、自分が住みたい家を探す気分で
あれこれ眺めて、家族を配置したりして楽しむ。

憧れの生活に空想上、勝手に入り込む。

現実には、本当に気に入る物件に出会うことはめったにない。
間取りもさることながら、立地条件が気に入らないことも多い。
詳しく知っている場所だと、余計にシビアに考えるし。
不動産は、すっごーく買う気がある人より
まぁそのうちに、ぐらいの人のほうがあっさり買っちゃったり
するものらしいけど、なんとなくわかる気がするなぁ。

というわけで、金曜はチラシがどっさりなので、
ちょっとうれしいのだった♪

田中ビネー。

次男くん、やっと発達検査のやりとりができた。

小学校の就学相談でも検査不能だった彼。

そのときも今回も検査は「田中ビネー」だったようだ。

で・・・
IQは100が標準。
75以下だと遅滞。
35以下が重度なのだそうだ。

だいぶ前には、別の算出方法だったと思うけど
「年齢の4分の1程度のあたりのことができていれば中度」と言われた。
つまり4分の1の年齢のことができないと重度、とも言いかえられる。

で、・・・今回、本人は私と離れて検査員とやってくれた
のだが、その数値なんと20と言われた。
ほー、そんな数値あるんだ・・・とびっくり。
私からの聞き取りによる数値も29。
堂々の重度域。

まぁしかし、中度だろうが重度だろうが、彼は彼であって
私より上手なゲーム操作を楽しむ日々なのだった。

カタルシスをもたらす人?

ふと、読みたくなって

『身体が「ノー」と言うとき』
ガボール・マテ著 日本教文社

という本を読んでいる。

医者が書いた本で、大雑把に内容をいうと
「長年の感情の抑圧が限界点を超えたとき、
がんなどの難病として身体に現れる」というもの。

前半部でけっこうALS(諸説あるらしいけれど、
ホーキング博士はALSとしてこの本で扱われている)
という不治の病について展開されていて、
かなり心理学的な内容なのでふむふむと読み進めていたのですが。

ちょうどそんな折にかつて同じ会社にいた方が、
近年ALSを発症したという事実をかいま聞いた。

その方、この本にあるように「ひじょうに感じのいい方」で
知的障害のある奥様と長年連れ添ったのではないかと思われる。
その奥様が亡くなってから、発病したらしい。

感情的な抑圧というのは、たぶん多かれ少なかれ
誰にでもあるんだろうけれど、その家族のやり方が
世代を超えて歪み続けていくとちょっと問題で、
似たような病気をその家系にもたらしたりする・・・というこの本の
論旨は、自分のことを考えてもうなづける気がする。
まぁこの本に関しては、もう少しデータ性が欲しいけど。

ともあれ、抑圧した感情のポイントとなるのは「怒り」だと思う。
子供は、本能的に親が望んでいなければ「怒り」を抑圧する。
育ててもらえない事態につながるから、危機感をもつのだろう。

で、抑圧した怒りを自分から出せない場合、
他者にそれを投影してある種のカタルシスとする方法もあるだろう。
抑圧の多い人は概して自分と他人の境界線もあいまいであるから。

で、ちょっと思ったのは私は自閉症児を育てはじめてから
抑圧された感情に気づくことになった。
私は子供がいなくなったら、なにか病気になるのだろうか
それとも、抑圧された感情を受け入れながら生きていけば
そうはならないんだろうか。
私という一人の人間を誰よりも支えているのは
もしかしたら次男かもしれない、
そんなことを考えた。

印象に残った言われよう&見られよう。

その1:私はえらいのか?
はじめていった美容室で、たまたまその店の店長に
デジタルパーマをかけてもらっていて、いろいろ話した。
仕事の話になり、家でライターしてます、といったあとで
「電話がかかってくるとすぐに仕事しなくちゃいけなくなって
忙しくなっちゃって・・・」と口走ると
「そんな上から目線!?」と驚かれた。
私としてはそのような驚かれ方にびっくり。
「お仕事いただけてありがたいです」とはもちろん思うけど
美容室でそんなこと言わなくてもいいと思うし。

まぁ、美容室は、客をただ待つだけだから、かな?

その2:バイキン扱いか。
少し前にデパート内CD前で待ち合わせた浪速の商人との
仕事の行く末がどうなったか、途中で1週間近く連絡が
途絶えたので気になっていたが、子供が次々インフルエンザに
かかったのでこちらから連絡するのを控えていた。

すると、とうとう切羽詰まったタイミングで電話があり
「よかったら明日打ち合わせできないか」と聞かれる。
「実は・・・子どもが次々とインフルエンザに」とそこまで言ったら
「あ、来なくていいです。メールで十分ですから」と
笑えるけど割と本気モード。
私は大丈夫なんですけどね・・・。

その3:珍獣を見るような目?
体験ができないまま、せっかくやる気になったのだからと
カラーセラピーの講座に申し込んだ。
そのスクールの入り口に、手彫りの仏像が置いてあり
ちょっと前にはチラシにのっていた仏像彫りの講座が
やっぱりどうしても気になる私。
「もうその講座はないんですか?」と聞くと、「お調べしますね」と
ファイルを受付の人が見てくれて、小人数で存続しているとのこと。
とくに期間がないのでいつからでもいいらしいのだ。

なんだ、そうだったのか・・・
説明する受付の女の人はそれまでとあきらかに違う目で私を見ていた。
少なくとも「ふーん」「へえー」という感じがありありと
伝わってくる。珍しそう。
その講座の小人数ぶりからいっても、かなりニッチなのだろう。

カラーセラピーとちがって、仏像彫り講座は、受講するのに
勇気がいるなぁ。
だって彫る力、ないかもしれないし、けっこう工作系不器用だし・・・
私見てるだけでいいです」なんて言えないだろうし。
じゃあなんで受けたいと思うかというと
「ほんとに木の中に仏像がいて彫ってもらえるのを
待っているのか知りたくて」
いや、これはどこまで本気で思っているか自分でもわからないけど
そう言ったら、あの受付の人はどんな目で私を見るだろう。

なんてことを思った。