怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

異文化交流をしたいなら西成へ

世間の人々が大阪と聞いて真っ先に思いつくのが、通天閣やえびす橋横のグリコの看板だろう。大手マスコミ(テレビ、雑誌、新聞、ラジオなど)が大阪のイメージ像としてこれらの観光スポットを大々的に報道したことにより、人々の頭の中にはすっかりこれらのイメージが定着してしまった。

地図を見ると、通天閣のある新今宮と戎橋のある心斎橋はさほど距離が離れていない。歩いても30分で着く距離にある。そのため、効率的にミナミの観光スポットを周ろうと考えて難波や新今宮周辺に宿を取る外国人観光客は大勢いる。しかし、難波や日本橋周辺はホテルの宿泊料金が高いので、易々とこの辺に寝床を確保することはできない。そこで難波や日本橋以外で宿を取るのにふさわしい場所はないかと考えて行きつくのが西成区の釜ヶ崎周辺である。西成区と言えば、ホームレスや生活保護受給者が数多く生息する地域で有名である。大阪に住んでいない人であっても、メディアの情報によりこの街の名を少しばかり耳にしたことのある人も多いはずだ。その西成区は、天王寺や新今宮の近隣に位置し、ミナミの主要観光スポットにすぐに赴くことができる。また、先ほど述べたように、ここ西成区はホームレスや生活保護受給者が中心に生活するエリアなため、格安のゲストハウスや簡易宿泊所が数多く存在する。こうしたこともあってこの地に宿を取る外国人観光客も多い。昔はホームレスの街としてしか知られておらず、少しディープなイメージがあってよそ者が容易に近づくことはできなかったが、InstagramやYouTubeなどの情報媒体により必ずしもそうした負の側面だけではなく、プラスの側面も露わになって、あいりん地区を利用するメリットもあることが判明した。それでバックパックで旅をする外国人などがこぞってこの地に訪れて、ミナミ散策を楽しんでいるのだ。

そうしたホームレスや外国人観光客とは違ってこの地を生活の拠点とするタイプの人達がいる。それはアジアから来た出稼ぎ労働者である。萩之茶屋商店街や今池本通り商店街を歩いていると、日本人とは顔つきの異なる妖艶で、スラッとした体型のアジア人女性をよく見かける。彼女たちの姿を凝視すると、彼女らは中国人や東南アジア人で、母国から出稼ぎとしてこの地域に遥々やってくるのだ。彼女たちは片言の日本語でコミュニケーションを取るものの、意思の疎通を問題なく取ることができるので、お客さんとも普通に会話が成立する。他愛のない世間話や出稼ぎに来た理由などについて話をしていれば、話は花火のように盛り上がり、時間を忘れて気づいたら話を楽しんでいたなんてこともある。基本的に彼女たちはお客様をもてなす立場としてここで働いているので、お客さんの話をしっかりと聞いてくれるし、自分の方からお客さんに話を振ったりもする。お客さんとの会話を大切にすることをモットーに働いているので、会話に苦手意識を感じている人や女性と接することに不慣れた人であっても、コミュニケーションを取る練習としては悪くない場所である。こうしてみたように、ホームレスに外国人観光客、出稼ぎ労働者などのバラエティ豊かな顔ぶれが一同に集結するのがこの西成区である。この多様な顔ぶれが集まる地域で生活をしていれば、世界にはいろいろな人間が存在することを知ることができ、視野も広がっていく。

異文化交流をするために海外に旅に出る人やサークルに通ったりする人も中にはいるが、この西成区での何気ない生活こそ、異文化交流としてふさわしい場所なのである。昼間から何もせずに酒の飲んだり、煙草をふかしたりして自堕落な生活を送っている人や、経済的な問題を抱えて国外から遥々この地まで訪れて仕事に精を出す人や、日本のグルメや観光スポットを満喫するために、清貧さを極めたバックパッカーなどの姿を見ると、きっと何か感じるものがあるだろうと思う。

放浪と老化

自分は放浪癖のある人間である。どこか一か所に腰を据えて長く生活するのが苦手で、ところ構わずフラフラとあてもなく彷徨い歩くことを好む。自分のことを知っている人が誰もいない空間で生活することは、自分の心にひどい安堵感と高揚感をもたらしてくれる。逆に自分のことを知っている人たちで構成された世界に身を置くとなれば、強い恐怖感と焦燥感を味わう。



何故か赤穂城にいる

自分はただ色々な場所で多彩な景色を見てみたいという願望があるのではなく、他人と円滑に交流することができないからこうしたライフスタイルを愛好しているだけに過ぎないのではないかというのが最近の考え。この辺のことはまだうまく言語化できていなかったが、ただ単に他人と愛着関係や信頼関係を持てないから、放浪という行動パターンを取ることで問題解決を図っていたのかもしれない。それを自分は旅が好きだとか色んな景色を見たいとかいう風に自分に都合よく理屈をつけて自分で自分の行動パターンに納得していただけのことである。

あまりに人間と向き合わないと一人の人間として成熟していかない。社会の中で生きていくには他人とコミュニケーションを取る必要があり、どんなことであっても人間との関わりが出てくる。そこである程度コミュニケーションを取らないと、人間として深みも出ないし、成熟しない。自分は一人でいる時間が長く、他人とほとんどといってよいほど向き合ってこなかったため、人生経験が非常に乏しい。そうしたことからやはり他人とある程度関わりを持って、経験を積む必要があるのかなと思ったりなんだり。


フラフラしてたら相生にある万葉の岬に行き着いた。

バイクは脱力感を味わえる乗り物だ

バイクの良さは、普段、頭の中を支配している雑多な考え事から解放されて、無力感に浸ることができることと、全身が風を受けることで魂が吸い取られるような脱力感を味わえることにある、というようなことを国道250号線を経由して兵庫方面から岡山方面に向かってバイクを走らせている時に考えていた。直接、風を浴びることのできる乗り物としては、一輪車や三輪車、自転車、バイクなどがあるが、一輪車や三輪車はスピードも遅く、お子ちゃまの乗る乗り物であるから論外である。それに対して自転車はバイクと比べてスピードもそんなに出ないのでそこまで脱力感を味わえる乗り物ではない。そう考えると、やはりその願望を満たしてくれるのがバイクという乗り物で、脱力感のみならず爽快感も味わえる優れた乗り物である。


腹ごしらえ。たまたま一休みしたエリアに美味しそうなタイ料理屋があったので、ついつい店内に足を踏み入れてみることに。

加古川市にある山岡家でまたまた食事を摂る

シンプルなビジュアルのラーメン

大阪から姫路辺りまでは4時間もあればつくのではないかと高を括っていたが、そんなはずもなく、余裕で6時間を過ぎてしまった。(途中で何度も休憩しながら、のんびりとしたペースで走行していたこともその主たる要因だとは思うが・・・)

本当は岡山県の備前市まで足を延ばすつもりだったけど、備前まで行くと深夜の3時を優に回りそうで、自身の体力や眠気のことを心配して今姫路市内で眠りをつくことに。

無職になれば何でも好きなことができるわけではないという話

普段、仕事に追われていると、やりたいことをやる時間がない。色々とやりたいことはあるのだけど、時間がないからそれができない。あーあ、仕事さえ辞めれば時間が山のようにできるから自分のやりたいことに最大限に時間を使えるのに、とヒトは屡々考える。

しかし、本当に時間がないことが問題なのだろうか。時間がない中でもスケジュール管理やタスク管理をうまく行うことで、やりたいことに時間を費やす時間を捻出している人もいる。

現代人の多くは、どこかの会社に所属して会社員として働いている。会社員は会社に所属し、雇用契約によって定められているスケジュールに沿って行動する。就業時間や休憩時間、シフト、上司からの指示などが自分を縛り付け、ガチガチに拘束する。要するに外的要因の強大な力によって自分の行動がコントロールされており、それに自分を合わせていくしかない。それはすなわち外的要因が与えた何らかの基準に沿って行動していれば、自分の頭で物事を考えなくて済むということでもある。なので、会社が自分に与えたルール以外の範囲で、好きなように時間を費やしていく。

一方、無職の場合、そうした強い外的要因の力は働かない。無職の生活には雇用契約もなければ上司や同僚もいない。なので、自分の好きなように時間を使うことができる。好きなように時間を費やすことができるということは、裏を返せば、時間を良い方にも悪い方にも使うことができるということ。例えば、会社員として働かずに無職の状態でいるとする。無職は時間が膨大に余っているので、好きなように時間が使えると考えられがちだが、自制心や自律心、スケジュール管理能力がなければ、その時間を有効に使うことはできない。ただただ膨大な時間を使えなくなった油のように消費していくだけである。たまには仕事をやめて無職になれば、自分のやりたいことが全てできる、自分のやりたいことに時間を費やせると言う意見もでるが、それは前で述べたような能力を持っている場合に限られる。こうした能力に乏しければ、時間を有効に使えずに灰のごとく浪費していくだけである。だから、無職になれば好きなことができて生活が充実するとは言えない。むしろ自分の生活や行動をうまくコントロールすることができなければ、生活がダメになる。

結局のところ、やりたいことができるかどうかは働いているかどうかが問題なのではなく、自分をコントロールする力があるかどうかにかかっているのである。

働いているからやりたいことができないというわけではないのである。

初チェーン調整

初めてバイクのチェーン調整を行いました。想像通り、自分にとっては難しい作業ばかりで、終始頭の中がちんぷんかんぷん状態でした。作業を行うことはできても、作業の理屈を理解しているわけではないから、当然うまくいきません。今回のチェーン調整も弛み具合がしっかり適正値になっているのかどうかも怪しいです。一応適正値に調整こそしましたが、ナットで固定した後にどうなっているのかは分かりません。もしかしたら適正値から大幅にズレて調整されているかもしれません。その証拠にバイクを走行していて停止するときに、微かに響き渡るほどの鈍い音がチェーンの内側からします。やはりチェーン調整がうまくいっていないのでしょうか。バイクの知識もないうえに、物事の構造を理解する力にも乏しいので何がどうなっているのか全く分からん。

怒り 

正直なところ何を伝えたい映画なのかよくわからなかった。人はだれしも様々な思いを抱えながら生きていて、なるべくそれを表に出さないように努めている。それが大人な対応なのだけど、時には何かに縋りたくなる時がある。そうしたときに自分のことを理解してくれる存在というのはかけがえのないものであり、良き精神的柱でもある。自分に理解者などいないと思っていても、自分の心の支えになってくれる人は案外いるものである。

それから自分にとって都合の良いように生きていたいという人間の利己的な面を綺麗に描きとっているところが、人間の存在の本質によく差し迫れている。自分を正当化するために、自己中心的な物の見方をしてしまって物事を推し進めようとするのが人間であり、そこが人間の持つ弱さや醜さでもあるのだが、そうした欠点とうまく付き合っていくことで、日々の生活を何とかやりくりしているというのが人間という存在でもある。

白線流し―誰かを思い遣ること

自分はこれまでの人生で他人と激しくぶつかったことがあるか。他人と真正面からコミュニケーションを取ったことがあるかというようなことを鋭く突き付けつけてきたドラマ。

ここに出てくる登場人物は皆、他人と密にコミュニケーションを取っている。学生という時期のせいもあるのだろうが、損得勘定を抜きにして、ひとりひとりの人間と激しく向かい合っている。

人間は独りでは生きてはいけないし、また、独りで生きられるほど強くもない。それに人生は楽しいことばかりではなくて、辛いことや苦しいことがたくさんある。そうしたときに周りの人々の存在が自分の心の支えとなる。一人では持ちこたえることができなくても、他人と感情を分かち合うことで人は壊れてしまわなくて済むことだってある。だから、人は他人を求め、他人と自ら積極的にコミュニケーションを取ろうとするのだろう。なんだか彼らを見ていると、自分の人間としての未熟さが浮き彫りになる。彼らと比較して明らかに自分は人間として成熟していない。彼らよりもずっと歳が上であるというのに。

視聴後の感想としては、視聴者の立場としては心が動かされるけど、自分が彼らの立場に置き換えて、本作の一当事者の立場になるとすれば、やはり彼らのような振る舞いはできないことだけは確信した。それが本作を通しての感想である。

※普段の生活において、対面コミュニケーションでは感情があまり湧き出てこないけど、ドラマやマンガ、小説だと心が動かされるのはなぜだろう。
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