いつかのバルスの日まで

言いたいだけです。

カラオケでオールした

昨日、カラオケでオールした。

内定者との懇親会から二次会、そして三次会としてのカラオケ。

一個上の先輩だけどイジりやすくてたまにタメ口で喋っちゃう女先輩Aは、カラオケ時点で相当ハイになっていた。

酒乱である。酔うと人の身体をやたら触るタイプの酒乱である。

胸板を撫でられたが全然興奮しないし、「全然興奮しない」と言ってからは定期的に肩パンしてきた。割とマジでイラっとするなどしていた。
ちなみにA先輩は芸能人で言うと誰に似てるかという質問には僕なら「こけし」と回答する。

カラオケには一個下の後輩女子Yもいた。滅多に三次会なんか来ないのに来た。しかも歌わない。一曲も歌わない。合いの手も入れない。柚子サワーを静かに飲み、先輩方の歌に聴きいっていた(多分)。

帰り道、住んでるのが隣駅というのもあってA先輩と一緒に帰った。

A先輩は2回ぐらい始発電車で吐きそうになってヒヤヒヤした。おかげで寝過ごさずに帰れた。

歩いてる途中急に腕を組んできて「ごめん、ちょっとだけ」と言った。
3秒ぐらいで離れ、「ありがとう、飲み過ぎて気持ち悪くて」と言った。

こういう時おれは疑り深い銀行員みたいな顔になる。そしてそれは多分、多少なり動揺しているのを感じ取って、いや、もっと論理的に冷静に物事を判断しよう、be coolとか思ってそうなるんだろうと分析している。

そうやって、いくつもの機会を逃してきた。仮にちょっと気になってる子だとしてもひとまずは銀行員になる。
何がbe coolだファック。

今回は別に逃しても何ともない奴だし、相手にも全然そのつもりはなかっただろうけど、そういうある種の行動パターンはとっても損だなと思った。

あとこけしでも触れ合う機会を大量に生じさせればそれなりに心を動かすことは可能だと思った。
たとえ不快な肩パンが混じっていたとしても。

後輩Yはそういう意味では何もコミットしてこないタイプなのに、なんでカラオケ来たんだろう? 

愚かな先輩方を遠目で眺めるのも悪くないかな、と思いたったのだろうか。

もし、カラオケに行ったメンバー(8人くらい)の誰かと仲良くなろうという思いがあったのだとしたら、あまりその思いを汲んであげられなかったな。

 

 

寂しさと消費

文化祭の後、パーティの後、旅行から帰ってきた後にこみ上げる、言い知れぬ寂しさみたいなのは、そのままじっくりと味わい、思い出に酔うのがいい。

何かで埋め合わせしようとすると、たいてい失敗する。

僕の場合、映画を見ようとか、動画を見ようとか、買い物しようとか、何かを(無駄に)消費することでその埋め合わせをしようと目論むけど、やっぱりそれは無駄でしかない。

お金や時間がいつのまにか無くなっているのは、こういう衝動的で非生産的な消費のせいだとやっと認識できてきた。

まぁそういう行動のおかげでそれなりに満足するのは確かだけど、コスパが悪すぎる。

ほんとは多分ちょっと散歩するとか、軽く運動するとか、コーヒーを飲むとか、タバコを吸うとかで十分なんだよなきっと。

こうやって言語化するのもスッキリしていい。

 

旅行帰りにバッティングセンターへ行く道中にて。

理由やドラマがないと動けない病

タイトルの通り。
今までの経験をよくよく振り返ってみると、何かを決断するときって理由やドラマがあってこそ…じゃないんだよな。
だいたいは時間切れ、体のいい言葉で言えば、必要に迫られたから決めてきたことであって、明確な理由があったわけじゃないし、そこにドラマみたいな衝撃的な出会いがあったわけでもない。
もちろん、何かを決めるときには理由が必要で、これがこうだからこうです、と言うことはできる。大人になって、その精度は増している。
ドラマチックな展開に一度も出くわしてこなかったか?と問われれば、ノーだ。
素晴らしい出会いや経験、もう死んでもいいや!って思える瞬間もあった。
でも、そこに連続性はない。物語じゃない。現象があっただけだ。
本当にそうだ。現象があるだけ。

みんなに動けと言われて動いてる。
そのまま寝てていいよ、と言われたら、きっと最もらしい理由や感情を拵えて、寝てるかもしれない。

理由やドラマは後からついてくる。
後から勝手に構築される。

だから動き出すのに理由が必要なんじゃない。
必要なのは現象。

やる気を出すには、まずやってしまうことって結構言われてるけど、それは、多分全くもってその通りで。
でも突き詰めれば、やる気だって、お腹痛いとかそういうものと一緒で、生理的なものなんじゃないかな。
目標に対してやる気があるんじゃなくて、たまたま目標に対して行っている行動に、やる気っていう生理的な感情が付随したってことなんじゃないかな。

話を戻す。
理由やドラマがなければ動けない病は、当たり前でバカだ。
理由やドラマは現象に対する後付けで、それが行動を規定するんじゃない。

だから、理由やドラマで動こうとすると必ず失敗する。

じゃあ何が行動を規定するのかは、まぁ巷でいっぱい言われてるから割愛する。

問題は、ふとした瞬間に本当にお粗末なイメージと理由で動こうとして動けないときが多々あるということ。

筋トレしよう!
健康にいいから。カッコいいから。

これだけで本気で動こうとしてる。
これだけしか考えてないのに、できないと自分には計画性がないとか、そこまで筋トレに対して思いがあるわけでもないとか、くだらない思考とか感情とかが生まれる。

当たり前だ。

自然と身体が筋トレしちゃう。
っていうのが筋トレしてる人の本心だろう。でも本人に筋トレする理由を聞いたら、ちゃんとした答えが返ってくる。それを鵜呑みにして、だから僕はできる、あるいはできないと判断するのは愚かだ。

そういう判断の仕方は病気だ。

日本語が下手すぎるけどまぁいいや。