中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

89爺ィの愉しむ料理(167)

 雨が降り続き鬱陶しいですね。

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 ブランチはいつもこんな感じですがリンゴが美味しくなくなってきて寂しいですね。

 ブランチのあとはコーヒを飲みながらお菓子類を食べています。

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 今夜も土佐煮ですが、前2回は豚肉を使いましたが今夜のは鰹節で煮ました。

 今日作った新じゃがいものポテトサラダは抜群においしかった。マヨネーズを少なくしたので新じゃがいもの味が際立ったようです。

随筆自伝(143)私を守ってくれたのはだれなのか

          《映画「シンドラーのリスト」を観て泣いた》

 母が亡くなった後、お世話になったかたがたにご挨拶にと帰国した際に、アカデミー賞7部門を受賞した映画「シンドラーのリスト」が日本で上映されていた。

 ポーランドを舞台にした映画だった。

ナチスドイツによって強制収容所に送られて殺されていくユダヤ人を一人でも多く救おうとした一人の実業家を描いたものだ。

彼によって救われたユダヤ人は千人に上ると言われている。

 主人公の彼が「もう少し金があれば、もっと多くのユダヤ人を救えたのに」と嘆くシーンがラスト近くにある。

そのシーンを見たとたんに、わたしは泣き出してしまった。映画館の中ではあったが、涙が止まらなかった。嗚咽というほどの泣き方になってしまった。

 わたしにも、もう少し資金力があれば、もっと多くの子供たちを救えたのにとずっと思い続けていたので、映画の主人公の嘆きが、わたしの思いと重なってしまったのだった。

 私の場合は、ユダヤ人のように命がかかった問題ではないが、行き場を失って戸惑う子供たちに高校進学の道を作ってやろうという信念から、資金もない身で高校をつくろうと必死で頑張ってきたのだった。 本当に、命がけで、懸命な努力と多くの人の支えで作った学校だった。

 帰国して、教師たちから聞くと、多くの生徒が退学処分されていると聞いた。生徒が問題を起こす。経営者は、自分をも守ろうとする。経営者は社会に恥をかきたくない。問題の生徒は退学してもらうということになるのだろう。

理念は変えないと約束したはずだが、新しい理事長には、彼なりの考えがあったのだろうと思う。

そういう話を聞いたあとで「シンドラーのリスト」を観たのだから、主人公に重ねて、たまらずに泣いてしまった。

 その翌年に、阪神淡路大震災によって廃校に追い込まれたのだから、人生って分からないものだと、つくづく思わずにはいられない。

 《娘家族が帰国してすぐに「阪神淡路大震災が」》

娘家族が我が家での、約一ヶ月の滞在を済ませて帰国した翌朝に「阪神淡路大震災」が発生したのだった。 娘は、

『ほんまに、天国から地獄って感じだわ。帰国して、のんびり眠っていたらド~ンという地震だものね。家から見るとあちこちで火災も見えるし、これまで見えていた建物も消えてしまっている。うちの家はおかげで大丈夫のようだけど』

 と、震災後しばらくして電話があった。

 世の中、なにが突然に起こるか分からないものだと、つくづく思った。恵美は震災離婚をしたが、後に素晴らしい亭主を得て幸せになった。

50歳を過ぎてから自力で大きなログハウスを建て、カフェレストランを営み、孫二人に恵まれた。これが掲載されて数日後には、恵美の長男の妻が孫を出産するころだ。わたしにとって三人目の曾孫になる。

妻の娘の清子は、マンションの床が抜けて一階までドスンと落ちたようだが、怪我はなかった。その後が大変だったようだが、よくしのいで今では孫二人を持っている。

大阪に住んでいた娘も、孫たちも無事で、淡路島にいた二人の娘たちの家も家族もみんな無事だったのが何よりだった。

 前にも書いたが、兵庫県への募金活動に走りまわったが、ごくわずかしか集まらなかった。当時は、豪州のテレビなどで詳しい報道もなく、あれほど酷い状態だったとわかったのは震災から2週間後あたりだったと思う。

震災の場合は事情が伝わってくるのが遅いから、これほどひどい地震だとは思わなかった人が多かったかもしれない。実情が分かってきたのは、一か月以上たってからだった。 私の募金活動が早すぎたのかもしれない。 実情がわかるにつれ、少ない募金額では申し訳なく、西豪州日本クラブからの募金は私が大きく上乗せして兵庫県に送った。

     《私の記念碑でもある神戸暁星学園が消滅することに》

 神戸暁星学園は、須磨校舎が類焼で全焼し、兵庫校舎がやや傾いて、校舎としての使用禁止命令が下った。

 三年生は卒業日が近いために、特例のレポート補修が認められることになり、新規募集は中止して残るは在校の二年生の扱いだけとなった。 

公立の夜間高校の校舎を借りての授業を続けて全員を卒業させて廃校となった。もちろんこれらの震災後の対応は、すべて私から引き継いだ理事長以下が対応してくださった。

この大震災が発生したために学校は廃校のやむなきに到り、わたしが受け取れるはずだった十年間、毎月の報酬を頂ける契約も反古となった。

わたしとしても収入が絶たれてしまったのは、予想外の事であり大きなショックであった。 万一経営的に赤字になっても新理事長と副理事長から給与分の支払いは行うという契約であったが、大震災を受けての廃校となってしまっては、契約の履行を求めるわけにもいかない。

ドラマ「舟を編む」をみての感想

 本屋大賞1位になってベストセラーとなり、映画化もされたものですが、NHKBSで10回に亘り放送されたドラマはとても良かった。

 本で読んだり映画で見るよりドラマが最も良いものに仕上がっていたという感じがしました。

 原作を忠実に描きながら新型コロナウイルスの流行を取り込んで描いたのも良かったと言えるでしょう。

 こういうドラマをもっと多くの人たちが観ると良いのになと思いますが、案外視聴率が悪いのかも。

地上波での゙再放送を願っています。

 私は40歳代の頃、辞書をトイレに置いて、調べるのではなく、何気なくページを開いて、そこに出ている項目を読んでいました。辞書は読み物としてでも面白いものなのですが、高齢になると解説文の部分の文字が小さくて読み辛い。

 解説文を読んでこそ面白いのに、解説文が読めない大きさの文字の辞書しか売っていません。

 見出しだけが大きな文字では意味がないのにね。

そこが問題です。

89爺ィの愉しむ料理(166)

 夕食に毎日タケノコ料理では飽きるだろと思って残っている筍をきれいに洗って冷水を入れ替えて保存して有る。

 早く使った方が良い食材からメニューを考える。昨夜に冷凍庫から冷蔵庫に移しておいた胸肉を使った料理にしようといくつかのメニューを考えながら、早めに下処理をしながらまだ悩んでいたが、

薄く削いで醤油、砂糖、みりん、酒を入れ揉み込んで冷蔵庫へ戻しておいた。

 午後5時過ぎに電気釜をスイッチオン。

新玉ねぎ2個を薄切り、ピーマン1個を千切り、人参5センチを千切りにする。

 した準備した胸肉に片栗粉をまぶして両面を丁寧に焼き、野菜を加えて炒めて、合わせておいた調味料を加えて仕上げる。

「胸肉と新玉ねぎの甘酢掛け」の出来上がり。
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妻が大変気に入ってくれたようです。酢豚みたいと言っていました。

 もう一品は。300グラムもある大きな絹ごし豆腐がメインです。 カニカマを炒め菊菜を入れ、豆腐を入れて炒めたあとに卵2個を入れて仕上げました。麺つゆを使って味付け。

 胸肉、豆腐、卵で今夜は蛋白質一杯の料理にしました。

 同じマンショに住むMさんが「いちご狩りに行ってきて、色んな種類の入ったお土産用のを買ってきました」と持ってきてくださいました。

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 すごく大きなものから普通サイズまで。デザートに半分だけ頂きました。あとはブランチにいただきます。

随筆自伝(142)私を守ってくれたのはだれなのか

         《星が見えすぎて汚い》

 娘の家族が来た時に、恵美と子供三人と一緒にパースから海岸沿いに南に二時間ほど車で走ったあたりのバンバリー市近くの海に近い一軒家を借りて、ドライブしたことがあった。

 夜になって、近くの海まで出かけようかと、玄関を出た時に娘たちが悲鳴を上げるので何事かと思ったらドアの前にカンガルーがいたのだった。

この辺りでは珍しくない光景だそうだが、玄関の前にまでカンガルーが姿をあらわすとは思ってもいなかった。さすが田舎だなーと思った。 パースのような大都会では、玄関の前にカンガルーが来ることなんてありえない。 カンガルーはヒトを襲う動物じゃないので安全だけれど、人になつく動物でもない。 

砂浜まで行って空を見上げた時に恵美の言った言葉をいまも鮮明に記憶している。

『空って汚いね』 と言ったのだった。 いったい何を言っているのかと思ったほどだ。

なるほど星がたくさん見えすぎてというより多すぎて星座が分からないほどに空が真っ白に見えるほどに星で満ちていた。 子供のころ淡路島で育ったが、昔の淡路島でもこれほど星が多くて真っ白になるほどの夜空を見たことはない。

 パースの場合は、工場と言えるようなものはなく、それらしき感じがするのは発電所だけだったし発電所は郊外にあるのだからパースの町の空は汚れてはいない。しかし、街の灯りが明るすぎて大きな星座しか見えない。

我が家の真上にはいつもオリオン座が美しく輝いていたが、バンバリーのように星が多すぎては星座も探すことが出来ない。 澄みわたった空の星が多すぎて美しいと言えないなんて。

         《私の母の死と遺骨と遺影》

話は一年半ほどさかのぼるが、1993年10月に京都近郊の長岡天神近くに住んでいた母が亡くなった。82歳だった。 

母の信仰上の理由で葬儀は行われず、近しい親族だけが集まったが、わたしは急に帰国できず、娘が代理として言ってくれていろいろと手伝ってくれたので助かった。

翌年に帰国して、母が生前にお世話になったと思われる人たちにご挨拶に行った。

 18歳で母と再会し、19歳で離れた経緯はこれまでに詳しく書いてきました。19歳以降、わたしが40歳ごろまでは年に一度会う程度であり、母からは選挙のはがきが来る程度だった。40歳を超えてからは、年に4度は顔を見せに行っていた。母も、日本舞踊の弟子が多く、宗教上でも地域の婦人部長などをしていて、かなり多忙だったようであり、のんびりと話す機会はなかった。

 豪州へ移住する前にあったとき、母がこんなことを言った。

『死んだら、どうなるのだろう、どこへ行くのだろう』と。

 これまで信仰に熱心だった母が、そんなことで悩んでいたことを初めて知った。自信満々に見えた母だったが、やはり死後の世界には不安があったのだろうと思う。死というものは、間際にならないと、死ぬことの辛さも分からないものだと思う。

  母の遺影と遺骨をパースに持ち帰り、書斎に11年間置いてまいにち対面していた。2005年に帰国する際には、遺骨の90%を美しいヒラリーの海のあちこちに撒いた。帰国後は、自宅近くの神戸を見渡せる大月大橋の上から、少しばかりを残して散骨した。

いまも手元に少しの遺骨を大事に持っていて、遺影も置いてある。わたしが死んだ母親よりも年上になったことから、母の遺影のなかに微笑みを感じるようになった。私と母は、生前は一緒に暮らした月日は短かったが、母が骨になってからの30年間を共に暮らしている。

いまの私には、信仰心は何もない。 信仰とは何かを知りすぎて、宗教を信じようという気持ちは起こらない。 しかし、人の霊魂だけは信じている。 宗教とは一切関係なく、信じている。多くの霊魂に守られているという言う実感のようなものを感じるからでもある。

 

TVでみる野球と甲子園でみる野球の違い

 もちろんの事だが89歳の私は野球はTVでしか見られないと諦めていました。 ところが先週木曜日に甲子園に阪神巨人戦観に行かないかと孫に誘われ尻尾を振ってついて行った。 延長戦をサヨナラで制して気持ちよかった。

 その翌日からの中日3連戦を連勝し連勝街道まっしぐらです。

 TVで野球観戦していて甲子園で観るのと何がちがうのかがよくわかりました。

 私の脳内で(阪神タイガースの歌)がずっと鳴り止まないのです。 甲子園に行ったときの巨大な音響が脳内にこびりついていて離れない。

 TV観戦ではアナウンサーと解説者の声だけが聞こえて場内の音響を抑えている。 その違いがあまりにも大きい。 野球そのものはTVの方が観やすいし、再現も見えるからよくわかる。

 甲子園では、はるか遠いところで野球をしている感がある。しかし応援団を含めたフアンの熱烈な音声が球場内を支配している雰囲気はさすがに現場にいる感じがする。

 野球を見ていないときまで「六甲おろし」が頭を支配していて甲子園にいるようだ。

高齢夫婦の日々のあれこれ(34)

 やっと黄砂もなくなってきて急に暖かくなりましたね。

 理学療法士さんが見習いの方を連れてきて、次回の予定は雨のようだから散歩にいきましょうと妻を連れ出して下さった。妻はカーデイガンを着ていたので暑かったようです。

 朝から大谷のホームランニュースを知ってなんとなく気分が良い。やはりホームランと云うのは特別なオーラがあるものですね。

 私は、足の爪10本の手入れをしましたが、これが重労働なのです。ですから月に1回もしない。

腰が痛くなり、呼吸が苦しくなり(肺塞栓症ですから)手入れが終わったときはベッドに倒れ込むほど。

 足指の手入れがこれほど辛いなんて若い頃には思ったこともありません。

 高齢になって伸びてほしくないものが二つあります。足の爪と眉毛です。どうして伸びるのでしょうね。

 家の中のホコリも、どうして発生するのかと思うほどにありますね。

 掃除機、拭き掃除のたびに妻はぼやいています。